第16話:狂信という名の逃避
魔界から逃げ戻ったアリステアを待っていたのは、静まり返った王宮と、突き刺さるような冷たい視線だった。
彼は自室に閉じこもり、鏡に映る自身の姿を直視しては、狂ったように拳を叩きつけた。
「違う、これは私ではない……。あいつだ、あの悪魔が私を呪ったのだ!」
鏡の中には、右顔面をどす黒い痣に覆われ、湿った藁のような髪を振り乱した怪物がいた。
香水の匂いさえ突き抜けて漂う死臭。
かつての輝きを失った王子の姿は、彼自身の自尊心をズタズタに切り裂いていた。
だが、彼はその原因が自分自身の内側にある毒だと認めることができなかった。
彼にとって、リリアーナは自分を完璧に保つための無機質な部品だった。
部品が壊れ、持ち主を裏切るなどあってはならない。
アリステアの歪んだ思考は、瞬く間に「物語」を作り上げた。
悪魔ゼパルがリリアーナを洗脳し、私の聖なる魔力を盗ませた。
彼女は今、あそこで悪魔に脅され、無理やり愛を演じさせられているのだ。
そうだ。彼女を助け出さなければならない。
彼女を連れ戻し、再び私の浄化装置として働かせれば、この呪いは解け、私は再び太陽の王子に戻れる。
アリステアは即座に、王室騎士団を招集した。
広間に集まった騎士たちは、王太子の変わり果てた姿と、その体から放たれる禍々しい魔圧に言葉を失い、顔を顰めていた。
だが、アリステアは構わず、狂気に満ちた瞳で彼らを見下ろした。
「騎士諸君、我らが聖女リリアーナが悪魔に奪われた! 彼女は隣国で非道な洗脳を受けている。これは我が王国の誇りをかけた救出作戦だ。今すぐ魔界へ軍を進め、あの悪魔から彼女を奪還せよ!」
騎士団長が、当惑を隠せずに一歩前に出た。
「殿下、魔界への独断での侵攻はあまりに危険です。まずは外交を……」
「黙れ! これは王命だ! 逆らう者は逆賊と見なし、その場で処刑する!」
アリステアの叫びとともに、制御を失った黒い魔力が広間に渦巻いた。
騎士たちは恐怖に身を竦め、膝を折るしかなかった。
彼らは知っていた。
王太子が救おうとしているのは聖女などではなく、自分自身の保身に過ぎないことを。
だが、狂った権力者の命令は、絶対的な重みを持って彼らを死地へと駆り立てる。
アリステアは、遠く北の空、悪魔の城がそびえる方角を睨みつけた。
彼の脳裏には、再び自分に跪き、痛みに耐えながら毒を吸い取るリリアーナの姿だけが浮かんでいた。
彼女の意思など、彼の「救出劇」には必要なかった。
ただ、自分が再び光り輝くための道具さえ戻ってくればいい。
狂信という名の逃避。
アリステアは自らの破滅を救済と信じ込み、取り返しのつかない進軍のラッパを鳴らした。










