第10話:悪魔公爵領への帰還
屋根裏部屋から続く腐り落ちた階段を下り、リリアーナはゼパルのエスコートを受けて庭園へと出た。
かつては公爵家の誇りだった薔薇の庭は、いまや黒く変色し、死んだ魚のような異臭を放っている。
ゼパルが虚空に向かって細い指を振ると、闇が凝縮し、漆黒の魔力で編み上げられた巨大な馬車が姿を現した。
それは夜そのものを形にしたような、不気味でありながらも息を呑むほどに荘厳な造形だった。
「さあ、帰ろう。リリアーナ。お前のための、真の居場所へ」
ゼパルの誘いに、リリアーナは花が綻ぶような笑みを返した。
「はい、ゼパル様。この場所は少し、空気が澱みすぎていて息が詰まりますわ」
彼女は一度も、背後の屋敷を振り返らなかった。
そこでは、かつて自分を虐げた実の父と兄が、泥を啜りながら地を這い、行かないでくれと無様な絶叫を上げている。
だが、その声はリリアーナの耳には届かない。
彼女にとって彼らは、庭の隅に積み上げられた腐敗した堆肥と何ら変わらない存在だった。
ゼパルがリリアーナの腰を抱き、優雅に馬車へとエスコートする。
リリアーナが車内へ足を踏み入れると、ゼパルはポケットから小さな銀の包みを取り出した。
「口直しだ。魔界で最も甘い花の雫を煮詰めた焼き菓子だよ」
「まあ、嬉しい。いただきますわ」
リリアーナは楽しげに包みを開き、黄金色に輝く菓子を口に運んだ。
舌の上でとろける甘美な味に、彼女の紫水晶の瞳が幸福そうに細められる。
一方で、馬車の扉が閉まる音と同時に、アドラー家には「真の絶望」が降り注いだ。
リリアーナが五年間、アリステアから吸い取り続けてきた猛毒の「残り香」。
彼女という浄化装置がいなくなったことで、その淀んだ毒素が行き場を失い、屋敷の土壌と公爵たちの血肉へと深く食い込んでいく。
それは病を呼び、不運を呼び、精神をじわじわと焼き切る悪霊のような残り香だった。
公爵は、自分の肌が鱗のように剥がれ落ちていくのを見ながら、喉を掻きむしった。
なぜ。
なぜ、あんな「ゴミ」だと思っていた娘がいなくなっただけで、世界がこれほどまでに崩壊していくのか。
彼はその理由を理解することも、リリアーナに謝罪することも、もはや許されない。
彼女はすでに、彼らとの一切の関わりを脳内から抹消し、悪魔の腕の中で夢のような幸福へと旅立ってしまったのだ。
「そういえば、私を雨の中に追い出したあの金髪の方……お名前は何でしたっけ? まあ、どうでもよろしいですわね。ゼパル様のお菓子の邪魔になりますわ」
「いい子だ、リリアーナ。お前はただ、私だけを見て、私の与える甘いものだけを食べていればいい」
ゼパルは馬車の窓の外、小さくなっていく公爵邸の惨状を、獲物を仕留めた捕食者の視線で一瞥した。
彼の魔力の糧となる「公爵たちの絶望」は、これから数十年かけてじっくりと熟成されていくことだろう。
馬車は夜の闇を裂き、人間界の境界を超えて魔界へと滑り出していく。
こうして、リリアーナのアドラー家における地獄は、彼女自身の記憶とともに完全に消滅した。
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