『世界』
途端に、まるで霧が晴れたかのようにフィルディードは様々なことを理解した。シアに聞かされた神話の意味、身に宿る力が何なのか、そして、自身にとってシアが何にあたるのかを。
《 君は今、その子を『世界』に据えたね 》
フィルディードは眠るシアを見つめる。初めて認識した自己の感情は、愛おしさと、胸が張り裂けそうなほどの切なさ。フィルディードは繊細な壊れ物に触れるかのように、シアの頬をそっと撫でた。
「……あなたは創造神だ」
《 そうだよ、フィルディード。私の力を宿してしまった、私の愛し子》
ラーティアは憐れみのこもった声でフィルディードを呼ぶ。かわいい子にとんだ苦難を背負わせてしまったというラーティアの悲しみは、フィルディードに正確に伝わる。フィルディードは繋がりを通じて理解した。ラーティアの置かれた状況と、ラーティアの世界が瀕している危機を。
《 私が君の世界を守るから、どうか君が、私の世界を救ってくれないかい? 》
「それで、シアを守れるなら」
フィルディードは頷いて天を見上げた。フィルディードは、シアを取り巻く環境ごとシアを守ることだけを重要視している。シアはフィルディードの決定的な弱点となったのだ。シアがヨミの手に堕ちれば、フィルディードもまたヨミに堕ちるほどの。
《 今から私は、この村周辺を私の聖域とする 》
フィルディードの同意を得て、ラーティアは説明を始めた。聖域化の効果により、この村の存在は聖域外の人々の記憶から薄れる。きっかけを与えれば思い出すことが可能だが、すぐにぼんやりと霞がかって意識に上らなくなる。そして不可侵。聖域の住人による導きがなければ、足を踏み入れることが不可能となる。住人の定義は一定期間の居住だ。それから、魔物発生の低減。完全に無にすることは出来ないが、周辺の魔物はフィルディードが屠り尽くした直後だ。聖域を維持し続ければ、今後百年ほど魔物は発生しないとラーティアはフィルディードに話して聞かせる。そして何よりも重要な——ヨミの断絶。黒きマナは、聖域に近付くことすら叶わない。
《 君と私が繋がった今なら、聖域を作ることができる。でもね、今後私は聖域の維持に力を割くことになる。ヨミを抑える力が弱まってしまうんだ。ヨミは今までと比較にならないほど、地上に災いをもたらすだろう 》
それでも、と問うたラーティアに、フィルディードはただ頷いた。ラーティアとフィルディードは、早急に必要事項を確認し合っていく——
「先生」
意思の宿った瞳、しっかりとした足取りで姿を現したフィルディードに、ダンは目を瞬いた。今朝診察したときは、相変わらず意識が弱い状態だったのに、と。
「どうしたんだい?」
何にせよ、状態が好転したならば喜ばしいことだ。ダンは柔らかく微笑んで、フィルディードに問いかけた。
「僕は今からここを出て、この世界を救い空の亀裂を閉じなくてはいけなくなった」
「ええ…………」
ダンはぽかんと口を開けてフィルディードを見つめ、それから頭を抱え込んで俯いた。いきなり何を言い出すんだ。予想外にも程がある。——だが、とダンは大きく息を吐いて顔を上げた。
「いや、あのね……うん。君の身体の特殊性を、僕は重々承知しているよ。君は魔法を受け付けない。魔法攻撃が効かないってことだ。それからね、君には針が刺さらなかった。あのね、僕が使う針が人体に刺さらないなんてことはないんだよ。……つまり、君の肉体を傷付けることはおよそ不可能だ、ということだ」
でもねえ……とダンは深いため息をつく。目の前に立つ少年をまじまじと見つめて。
「いくらなんでも幼すぎる。成人まで、でなければせめて数年、ここで成長を待つことはできないのかい?」
「それでは間に合わない。まず、近いうちに小人族の郷が滅びる」
具体的な予測を示されて、ダンは真剣な顔つきでフィルディードを観察する。眼球の動き、呼吸、まばたきの回数、手の動き……嘘を、見つけられない。
「……君は、何か知っているんだね?」
「僕は今、創造神と繋がっている」
ダンは再び頭を抱え込んで俯いた。フィルディードが大気中のマナを食らい回復したことを思い出す。それを可能とするのは、マナに——世界に対して強制力を持つ存在。フィルディードの言葉を否定できず、うんうん唸るダンは、「先生」という呼びかけにのっそりと顔を上げる。
「僕は勝手に出ていくことができる。先生には止められない」
「ああ、もう!」
相談ではなく別れの挨拶だったのだと理解して、ダンは頭を掻きむしって叫んだ。大人としてついて行ってやりたいが、体の弱い妻と幼い娘がいる。何よりダンには、有事の際に自分自身の安全を確保する力がないのだ。……とにかくこのままでは何も持たないままフィルディードがここを出ていってしまう。今すぐにという勢いで。ダンは立ち上がって妻を呼んだ。
「ミア! ねえミア! 僕たちの旅道具ってどこにしまってたかな!?」
「ええ? なあに、どうしたの?」
驚いてミアが顔を出す。事情を聞いて、ミアはダンに「二階の物置き部屋の奥にあるわ」と伝え、自身は宝飾品の中から黄色くて小粒の宝石をかき集めた。
「いい? フィルくん。『両親が将来のために遺してくれた宝石です』と言って、必ず一粒ずつ売るのよ。少しはまあ買い叩かれるかもしれないけれど、怪しまれることはないわ」
将来誓いのピアスを作るために両親が用意してくれていたものだと言えば、子どもが持っていてもさほど怪しまれない。形見なのだと理解される。ミアはフィルディードに宝石の売り方を教えながら、宝石をじゃらりと入れた布袋をフィルディードの首にかけて服の中にしまい込む。ダンは背負い袋に旅の道具や薬、飲食物をフィルディードに説明しながら詰め込む。そして急いで机に向かい、「くそ、子どもだぞ、こんな小さな子どもに!」と憤りながら、何か書き始めた。
「良いかいフィル君。これは昔の旅の仲間に宛てた手紙だ。きっと君の力になってくれる。出し方を教えるから、覚えるんだよ」
大きな街まで行けばきっと連絡が取れるから、とダンはフィルディードに手紙を握らせる。連絡の取り方を教え、奥歯を噛み締めながらフィルディードの両肩を掴んだ。
「なあに……?」
慌ただしい空気にシアが起きてきて、寝ぼけ眼で顔を出す。旅装を整え今にも出ていきそうなフィルディードを見て、上擦った声を上げた。
「なんで!? なんでフィーくん、どこに行っちゃうの!?」
シアは地団駄を踏んで駄々をこね、行かないでと泣きわめいた。泣いて止めても無駄なことを知り、シアはしゃくり上げながら瓶詰めの飴を持ってくる。
「フィーくんおなかがすいてたおれてたんでしょう? たべてね、ちゃんと、たべてね」
大粒の涙を零しながら差し出される飴を受け取って、フィルディードはダンを見上げる。
「先生、僕はシアを守りたい。だから先生たちが、ここでシアを守っていてほしい」
ダンは泣き出しそうに顔を歪め、「約束するよ」と頷いた。フィルディードは、もう前も見えていないだろうと思うくらい泣き続けるシアにもう一度視線を送り、踵を返して歩き出した。
——十四年後、ここにまた帰ってくるまでの、長い旅路を行くために。
§
「……もちろん、先生と奥様にもたくさんのものをいただいたと重々理解しています。ですが、僕のすべてはシアから与えられて——」
シアはそこまで聞いて、フィルディードに両手を預けたままへなへなと床に座り込んだ。フィルディードはゆっくり手を下げながら、フィルディードを見上げぽかんと口を開くシアの前に片膝をつく。
「僕はただ、世界を守りたかった」








