あなたと、春を
「え……ええ…………?」
シアはゆっくりと視線を落とし、床をじっと見つめた。話の内容を理解しなくては、と思うのに、頭が真っ白になってうまく考えられない。衝撃的すぎるにもほどがある。だって、そんな、まさか。待って。
混乱し、下を向いて黙り込んだシアに、フィルディードがそっと語りかける。
「再会してからも、シアが僕に様々なものを与えてくれました。共に摂る食事がおいしいということも、喜びの実感も、失敗したと焦る気持ちも、驚くことも。すべてシアが、僕に与えてくれる」
——それを与えたのが再会後のシアだと言うのなら、と、シアは下を向いたまま、口をきゅっと結んだ。初めて一緒に朝食を食べたときの、フィルディードの言葉の重さに今気付く。『今は、本当に楽しい』と笑ったあの日を思い出す。目を丸くして驚く顔を、不思議そうに目を瞬く表情を——視界が滲む。目が、溶けそうなほど熱い。
「シアを通して知るラーティアの世界は、温かくて、とても優しい。僕の幸せは——」
そこまで言ってから、フィルディードは頭を振った。
「出ていくよう言われれば、別の家を探します。視界に入るなと言われればそうします。だから、どうか……」
近くにいることを許してほしい、と。かすれた声で、息をそっと吐くような儚さで、フィルディードは彼の世界にそう願った。
シアはまだ、聞かされたことをうまく飲み込めずにいる。フィルディードにとって自分が何なのか理解しきれていない。けれど、と、目をぎゅっとつむって、シアは苦しさを吐き出すように言葉をこぼした。
「いいのかな、わたし、いいかなあ……」
「シアに許されないことは何一つありません。障害があれば、僕がすべて排します」
フィルディードが、あまりにも大真面目にそう言い切るから。シアの口から、こらえていた願いがあふれ出した。
「わた、私、本当はフィルディードさんにお願いしたいことがたくさんあって」
「はい」
「春になったら、丘の下にきれいな花が咲くんです。それから、私豆が上手に作れなくて、いつも虫食いだらけで、だから今年も植えてなくて」
「はい」
あふれる想いはそのまま言葉になって、シアの口からすべり出た。フィルディードはうつむいて話し続けるシアを切なく見つめながら、相槌を打つ。
「燻製が作れるくらい魚を釣りたくて、夏に、子どもたちに混ざってマナ石を探すのも、きっと楽しいと思うんです」
ちゃんと伝わるように話さなくちゃ、と頭の隅で思うのに、言葉は心のままあふれ続ける。これから先一緒にしたいことが、次から次へと続いていく。フィルディードは目を見開き、息を詰めてシアの言葉に聞き入った。
「橙甘蔓は大きいからひとりじゃ食べ切れないし、トロ茸をひとりで食べるのはきっと味気ないし、胡桃だって、フィルディードさん指で割っちゃうから、すごく助かるんです」
言葉はせきを切ったように止まらなくて、シアは涙ぐんだ声で話し続ける。フィルディードは、シアの言葉を一言も聞き漏らさないように、真剣に耳を傾ける。まさか、と思おうとしても、否応なく高まっていく期待に声を詰まらせて、フィルディードはもう一度「はい」と細く相槌を打った。
「冬は寒くて寂しいし、薪割りもしてほしいし、あ、藍色のセーターは、私が編んだものなんです。フィルディードさんのためにセーターを編めたらいいなって思って、私……」
シアはくしゃくしゃな顔を上げて、フィルディードを見つめる。切なる思いが重なるように、ふたりの視線が絡み合う。
「私、『恩返し』じゃなくずっとフィルディードさんと一緒にいたい…………」
「シア……ッ」
——それは、フィルディードが世界に自身の存在を受け入れられた瞬間。フィルディードはシアの両手に額を押し当て、か細く震える声で願いを口にする。
「シア、シア……どうか、昔のように、僕を呼んで欲しい……」
「……ッ、フィーくん!」
切なく響く声に、シアはたまらず腕を引き、頭からフィルディードの胸に飛び込んだ。思い切り勢いをつけたのに、フィルディードは揺らぎもせずにシアを受け止める。そっと腕を回したフィルディードの背中は強張っていて、胸元にくっつけた額から、どくどくと激しい鼓動が伝わってきた。
額に感じる鼓動に励まされて、内緒話を打ち明けるようにシアが「あのね、私、フィーくんが好きなんだよ」とささやくと、フィルディードは「好きが何か分からなくなるくらい、あなたがすべてなんです、シア」とくぐもった声を絞り出した。シアは温かな涙を一粒零し、ふふ、と笑う。しばらく黙って、互いの温もりを分かち合う。心が満たされていく。幸せはここにあるのだと、互いの鼓動が教えてくれた。
「……フィーくんは、抱きしめ返してくれないの?」
フィルディードはずっと腕を中途半端に伸ばしていて、シアは背中がさみしいと甘くねだる。フィルディードは背中を一層強張らせた。
「その、動悸が激しすぎて、力加減を間違ってしまいそうなんです……っ」
鼓動はこんなにも激しくなるんですね……? と、フィルディードは熱い吐息を漏らすように呟いた。シアは、力加減を間違えられたら比喩ではなく潰れてしまうな、と一瞬冷静に考えて、思わず笑い出した。ばくんばくんと聞こえてくる鼓動が愛しくて、隙間がなくなるほどぎゅっと耳を押し当てる。
「じゃあ、その分私がぎゅうって抱きしめますね」
シアは力いっぱいフィルディードを抱きしめて、くすくすと笑い続ける。
共に過ごす春が、もうすぐそこまで近付いていた——
【第一部 完】








