さようなら異世界
ここからは戒めだ。
1
わたしは道を歩いていた。
この日はたぶんふつうの日だったと思う。というのも昨日も普通の日で、そのおとといも普通の日、去年も十年前も普通の日だったからである。
しかしその考えは間違っていた。
突如目の前の空間にひびが入り、「あっ」などと思う間もなく穴が開き、その向こうから巨大な手が伸び、わたしを引き込んでしまった。
あ、ところでわたしは男です。よろしく。
2
目が覚めると部屋の中。ただの部屋ではない。めちゃくちゃに本がある部屋の中である。
壁際……と思われるところには本棚がぎっしり。本棚の中には本がぎっしり。ついでに床にも本がぎっしり。色も厚さも大きさもとりどりの本がそこにはあった。
しかしそこはあんまり重要な部分ではないだろう。どちらかと言うと、わたしの目の前にいるこの人こそが重要かもしれない。
少女だった。
その恰好についてはまあ諸説あるだろうが、しかしわたしに言わせればそれは一般的な魔法使いの格好であった。
「あ、失敗した」開口一番彼女はかく言った。目の前でこう言われること、あんまり気分の良いものではない。
わたしのその気持ちが表情に見て取れたのか、彼女は慌てて「あーごめんごめん」と言った。
わたしは彼女に説明を要求する。ここはどこなのか、わたしの身になにが起こったのか、と。その返答は早急になされた。
「えーっと、ファミリア……使い魔を召喚しようとしたんだけど、なんか手順を間違ったみたいで……」
……なるほど。
「おかしいなぁ、ちゃんとやったはずなのに」彼女は手元の本を顔に近づけた。「あっ。三番を飛ばしてた」気まずそうに本をおろす。頭をかく。「……えー、ごめんなさい」
失敗とはだれにでもあるものだ。わたしもよく失敗する。今朝も目玉焼きと手を焦がしかけた。そう言って少女を慰めた。
あ、少女と言っても、べつにわたしとそこまで年齢が離れていそうというわけでもなくて、そんなわたしは十八歳なのだけど。
「……そう、ありがとう」少し元気を取り戻したようで(もともと元気だったのかは知らないが)少女は少し笑った。
それを見てこちらも少し安心したところで、「ところで」と、話を切り出す。「元の場所に帰してもらったりなんてことは……」
彼女、わたしの言葉を聞き顔を曇らす。え、なんで?
「ごめんなさい。それはできないの」え、なんで?
「使い魔を呼び出そうとしてた、って言ったでしょ。……使い魔が元の世界に勝手に帰ったら困るじゃない。だからこの呪文には呼び出された者を強くこちらの世界に縛り付ける力があるの」……えー。
「……でも手順を間違った、って言いましたよね? それならその縛り付ける力とやらの効力も十分に発揮されていないんじゃあ……」
「そこは手順の「二番」だから。ちゃんとやっちゃった」うつむきながら彼女は言う。「……どうしよう」
それはわたしも聞きたい。
3
わたしはしばらく粘った。こんなに本があるのなら、ひとつくらいわたしが元の世界へ帰るための方法が記されているものだってあったっておかしくない。そう主張し、全ての本の内容を改めてくれるよう依頼した。しかし断られた。
「どうして?」とわたしが訊くと、もう全部読んでいるし、その中にそういう方法が記されているものはなかったとのこと。「マジで?」わたしは適当に一冊選び、最初のページを開くとそこには牛っぽい絵が描かれていたため、そのことは彼女に隠して、「この本の最初のページには何が書かれているでしょうか」と意地悪にも訊いてみた。
「マルヅノホノオウシ」と彼女は即答。「マルヅノホノオ」……なのかどうかはわからないが、「ウシ」なのは確かだったから、どうやら本当にすべての本を読んで、その上で手がないと言っているらしい。じゃあ仕方ないか。……しかたないか。
4
わたしはこの世界で生きていくことを決意した。「覚悟を決めるのが早すぎるのではないか?」と言う者がいるかもしれない。しかしわたしは決意したのだ。決意したって言ったら決意したのだ。
元の世界に残してきた家族のことが頭をよぎらなかったわけではない。むしろよぎりまくった。よぎるどころかずっととどまっていた。だから日が落ちて夜になり「泊まっていって」と彼女に言われすすめられた部屋にあったベッドの中に入り目を閉じしばらくしたら涙があふれて止まらなくなったのだ。声を殺していたつもりだったが、間抜けなことにわたしは虫を殺すのと同様、声を殺すのが昔から大の苦手であったことをそのとき忘れていた。だからきっとその声は案外大きく、だから彼女に部屋の戸を叩かせ「だいじょうぶ?」などと心配をかけさせたのだろう。
わたしはありったけの意志の力を動員し、精いっぱいの活力をねん出し、「だぁいっじょうぶでぇす!」などと元気あふれる大声を出した。が、かえってそれが空元気に過ぎないことを彼女に示してしまう結果に終わった。
わたしの心境を察したらしい彼女は一言静かに申し訳なさげに悲しげに「……ごめんなさい」と。それを聞いたわたし、彼女がこれ以上自分を責めることがないよう、もう弱音を吐かないと心に決めた。
この世界で生きていく決意がもう定まったというのは、そういうわけであった。
5
わたしは彼女に訊いた。わたしにもできる仕事はないか、と。あの涙の晩の翌朝のことである。
わたしを目を合わせないようにしていた彼女、それを聞いて驚いたようす。「……えっ、元の世界には……」
「あー、うん。いや、もちろんそうなんだけど。でもまぁ、せっかく異世界に来たんだからね、うん。そう、えー、やっぱり経験と言いますか、その、そういうものを体験しておくのも、ね、うん、悪くないんじゃないかな~って、ね、この頃思うわけですはい」自分でもヘタクソな説明だと思うが、彼女もそう思ったようである。
「……無理しないで。わたしが悪いんだから。ね、きっと元の世界に戻れる方法を見つけるから……それまではもちろんここにいて、仕事なんて考えなくていいから……」
……彼女の目になにか光ったように見えた。やはり自分を責めているようだ。ようし、ここはもう一つ、名演を披露しなければならないようだ。自分すらだます名演を。
「いやあ、わたし昔から魔法とか、そういうものにあこがれを持っていてですね。ええ。わたしの生まれた世界にもちょっとそういうものの片鱗みたいなものはあったのですけれど、うん。全然今では忘れられてしまって、わたしはそれをとっても残念に思っていて、ね? ぜひ本物の魔法を見たいなあ、怪物とかを見てみたいなあ、なんて夢昔から抱いていたのです。そりゃもう、クリスマスにサンタ……ああ、クリスマスっていうのは南極……めちゃくちゃ寒いところ……にある通販会社……『サンタ』って言うんですけど。で、それが世界中の子供にプレゼントを配る慈善イベントのことでしてね? わたしはそのサンタに『魔法の世界に行きたい』ってお願いしていたんです。ええ、はい。たぶんゼロ歳のときから。親もファンタジー好きでしたので……子供の権利を利用していたというわけですね。でもまあべつにわたしは怒りませんでしたよ。だってわたしもファンタジー好きですからね。ああ、えーっと、それでつまり、その、わたしの言いたいことは――」ここで言葉に詰まる。彼女は続きを待っているように見えた。ここが一番大事なところだ、それで、ええと……
「――わたしは大丈夫だから、そう自分を責めないでほしい、ってことですね。はい。わたし、あなたの笑顔のほうが見たいです。そう強く思います。はい。これだけはマジです。あ、べつに他のがウソってわけでもないんですけど……」尻すぼみなるわたしの声、というのも、見てしまったからである。なにを? わたしの目をはばからずうつむき泣く、彼女の涙である。
「あっ、あなたの言っていること、ほとんどわからなかったけど」あ、やっぱり?
「でも…………ありがとう」そう言って顔を上げた彼女の目に、もはや涙は見えなかった。あれ、わたしより立ち直り早いっすね。
「わたしの名前はリーシュア。あなたの名前は?」彼女が訊いてきた。
「えーっと、雛形一人と言います」未だに由来が分からない自分の名を名乗る。
「なんて呼んだら?」
「お好きなほうをどうぞ」
「よろしくね、チニン!」リーシュアはわたしの苗字名前の発音のアクセントの不具合を教えてくれた。でもまあいいか。
「何歳なの?」続けて、年齢確認。
「十八歳ですよ」今年の節分に豆をのどにつまらせたことを思い出しながら言った。
「わたしも十八歳なんだ」少し嬉しそうなリーシュアの声。
「同い年だね」そう言ってリーシュアは笑った。
そしてそのとき、非常に鈍いことに、今さらながらわたしは気づいたのだ。リーシュアは、彼女は――
――かわいい。




