番外編一話:テニスの月~11のアーティファクトをなんとかかんとか世界中から集めてドS少女に会いに行く~
ボツになった話のボツになった一話です。はっ、入れ子。
カーテンの隙間から日が射し込み、こんこんと眠る彼の顔を照らす。その右頬には新鮮なあざが光り、ゆうべの暴力沙汰を示唆していた。寝返り。埃が舞う。光が無数のそれを捉えた。舞い落ちる、舞い落ちる……まるで雪のよう。ところで、いまの季節は春である。まどろみを誘う陽気が、朝靄を伴って地表にただよい始める。とはいえ、そろそろ彼も起きる時間だ。
ぱちりと、ふたつのまなこが開く。無意識下の寝返りにより、彼の目は太陽による焼却をまぬがれた。しばらくじっとして、まだ夢に引きずられている意識の手綱をとろうと試みる。……ぱしっ。よし、成功。そしてベッドから起き上がる。
意識の手綱は捕まえたが、肉体はまだ夢を見ているようだ。彼は四苦八苦して部屋を横切らなければならない。メッキの剥げかかったドアノブを握り、まわす。その動作さえ難関。うう、と彼。うめき声は多少なりとも役に立った。扉が開く。洗面台を目指す冒険の幕開け、が、もう閉幕。というのも、彼の部屋から洗面所までは数歩の距離しかない。
鏡を見る。そこには若干むくれた自身の顔が映り込んでいて、また若干驚愕している表情も映り込んでいた。驚きの理由は、あざ、しかし、あざがあったことに、ではない。鏡像の左頬に確認できたあざは、ほとんど完膚と見分けがつかなかった。鏡のなかの彼は不思議そうな顔をする。いまにも次のようなセリフを語り出しそうだ……あれえっ。薄いなあ。ふつうならもっとすみれ色で、ところどころ黒ずんで、自分でもまともに見られないくらい痛そうなのに。
テニスちゃん、どうしたんだろう?
唐突に開扉の音がとどろく。もちろん彼はおどろかない。同居人のしわざだと知っているからだ。間髪入れず、ふあぁぁああ、特大のあくびの声。これはあながち彼の主観でもない。その証拠に、他の家には毎朝集う鳥たちが、この家にだけはまるで現れない。鳥にだって学習の力は備わっている。いわんや彼をや? すでに指は耳のなか。
「よおーう、シャンズン」間延びしたリズムの挨拶。
「おはよう」彼も返す。「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」
「ロスフって呼べよ」ロイヤル・ストレート・フラッシュはげんなりする。このやり取りが……
「いいじゃんか」シャンズンは笑う。「目覚めのときくらい」
ちょうど五千回目だったから。
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「今日のあざは薄いんだな」銀のナイフでオレトロの果実を切り刻みながらロスフが言う。
「そう、そうなんだよ」シャンズンはテーブルの木目を指でなぞっている。複雑な軌道だ。「昨日はあんまり強くなかったみたい」
(銀と一言で言ったって、産出地により様々な効果の違いがある。火山のほうで採れる銀には多少なりとも火の性質があるし、沼地で採掘されたそれにはしばしば毒気が付与されている。で、このロスフのナイフはどこの銀で作られているのかというと、<聖地>で採取されたものだ。言うまでもなく、呪いや毒を打ち消す性質を最初から秘めている。つまりキッチンにはうってつけ)
「いつもならもっと、こう、極彩色だよな……」口を動かしていても、ロスフの技巧に淀みはない。おとなしく丸かったオレトロは、もはやオレトロではなくなっている。彫り込まれ刈り取られ、古代の彫刻を思わせる造形へと昇華。ほら、魂すら感じられて……
「ほらよ」白磁の皿に乗せられて登場。観客の名はシャンズン。「今日はアブソ風に仕上げてみた」
「いつものことながら」シャンズンはほおーっとため息をつく。ロスフと暮らし始めて何年も経つが、声の大きさと手先の器用さは相も変わらず。「朝食にするにはもったいない出来栄え」
「光栄でございます……ぎゃはは!」うやうやしく一礼したかと思うと、死者すら目を覚ますような大声で笑い出す。ますます鳥は遠ざかる。うわさによると、彼の導入を真剣に検討している農家が少なくないそうだ……
フォークの先端がオレトロの彫刻をえぐる。果汁したたるかけらを運び、噛みしめるとあふれ出る。爽やかな酸味が舌を打つ。この村の果樹園の結実は、シャンズンに変わらない幸福をもたらす。彼は毎朝こう思うのだ――あー、これから先の何千もの朝、いつだってこんな楽しみと共にありたい……
(シャンズンがこのように思うのも、オレトロの実にそもそも活力を与える効果が含まれているからだ。この世界には摂取者に特殊な効能を及ぼす果実や花や草が数え切れないほどたくさんある。錬金術師や薬師の仕事道具でもある。ところで、最も貴重なものとして囁かれているのは、死者を蘇らせるという果実である。が、その話を聞かせても大抵の者は、「死んだヤツにどうやってフルーツタルトを食わすんだよ」と一笑に付すのがお約束)
「あの子はどうかしたのか?」ロスフが尋ねる。「まあ、いつもどうかしている気もするが」
「うん、そうだね。ちょっと、ヘンだったかも」シャンズンは昨日の様子を思い出そうとする。……あの寂しげな顔。ときたまながら、それは何度か見かけたことがある……しかし、あれはいつになく……
なにか、彼女の気に障ることを自分はしたのだろうか? 心当たりがなにもないときだって、彼女の態度はつっけんどん。だから本当に落ち度があるのかないのか、判別することは非常に難しいのだ。
「……たぶん、わたしに原因があるわけじゃない」考え考え、シャンズンは言う。「でも、かなり気がかりなことをなにか抱えているのかも」
「ふぉう」ロスフは皮を剥ぎ、丸いままのオレトロにかじりつきながら聞いている。自分の食べる物について、彼が先ほど見せた技術を発揮することはない。「どうしてしょう思うのかね?」
「だってさあ」彼は右頬をフォークから離した指でさす。「こんなに薄いんだぜ?」
「それはたしかに異常事態だな」
「でしょ?」再び咀嚼と嚥下の作業場に戻りつつも、シャンズンは呟く。「薄い……あまりにも薄い……」
「傍から見ると、濃いほうが異常なんだがなあ」ロスフはにやつく。
「ふだん、どれだけ強く殴られているんだ、ってな」
また唐突に開扉の音。今度はシャンズンも驚いた。ロスフもそれにならう。「強盗カーテンの」取り落したオレトロの青い皮が床にうずくまる。どすどすと廊下を歩く音。こういう歩き方をする人物で、彼らが知っている者はひとりしかいない。早くもその金髪がリビングと接続された入り口(出口)から覗く。
「や、やあ」戸惑いつつも、習慣にのっとりシャンズンは言う。「おはよう、テニスちゃん」
月光のような髪の色。それが窓辺からの陽光を受けてきらめいていた。まるで月そのもののようだと、常日頃からシャンズンは思う。何本か、頬に叢雲のようにかかっている。
「いきなり、ごめんなさい」と言いつつも、声に謝罪の雰囲気はただよわず。「ねえ、シャンズン」
「な、なに?」心臓が拍動を強める。やっぱり、テニスは自分に怒っているのか。記憶の道筋をいくら辿っても、目ぼしい根拠は見つからない……それを言って通じる彼女でもないだろうけど……
「あ、あの……」おや? シャンズンは自分のあざを確認したときと同じ違和感を覚える。いつになくしおらしい態度じゃないか。あ、あの……。なあんて、まったく似つかわしくないセリフ。いつもなら、なにか都合の悪いことを指摘されると、張り手で返答してくれるような彼女なのに。
「どうしたの?」シャンズンは続きを促す。いまの彼女は、あの寂しげな表情を見せているときに似ている。会うたびにぶん殴られるのは困るが、いつもと違う顔をされるのはもっと困る。彼女の元気が取り戻されるなら、こんなからだ、いついくつだってくれてやろう。
「……夕方」長い沈黙ののち、テニスが呟いたのはそれだけ。「丘で……」いや、もうひとつあった。
すると退場。扉が開く音はしない。開けたままだったのであろう。
「変わったお嬢ちゃん」蚊帳の外のロスフは言った。
「でも」シャンズンは重要な点を指摘。「かわいいよ」
「そりゃそうだが」
夕方、丘で――丘はこの村じゃ固有名詞だ。それは外れにある物見の丘を示す。
「行くんだろ?」ロスフが訊く。
「おう、もちろん。いつもと変わりない」シャンズンは答える。「殴ると言われなくたって行くともさ」
さて夕方、シャンズンは玄関まで出てきてびっくりした。
「なんだよ」彼は叫ぶ。「ドアがなくなってるじゃんか」
あの音はドアの断末魔だったようだ。
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なだらかな斜面が頂上まで続く。道に敷き詰められた赤レンガ。色の微妙なグラデーション。いまは丘に遮られ、西日が目を刺しはしない。大きくも小さくもない丘。シャンズンの足取りは重くも軽くもない。彼女のほうが気は重いはずだと知っていたからだ。わたしがうろたえてちゃみっともない。
そうは言っても、どんな用事で呼び出されたのか、シャンズンは気になって仕方がない。うーん。どうしたんだろう。生理でも始まったのかな? んなわけないか今更……ほら、こんなキモい空想に遊ぶくらいには。
……春とはいえ、夕暮れの風は冷たい。草のにおい。丘の道でない部分はすべて青々とした草に覆われている。無風のときもそれはそよぐ。どんな力が働いているのか。わからないことがたくさんだ。シャンズンは改めてそう思う。
最後の角度を乗り越えたとたん、まばゆい光が飛び込む。わお、と目を細める。草も眼下の家々も、かけがえのないもののように輝いている。「するってぇとこの涙は」シャンズンは考えた。「なにも眩しさのせいばかりじゃないのか」丘にはよく登るんだけどなあ……燃え盛る太陽が地平に没し、月の時間が訪れようとしている。その最後の姿が放つ光を逆光として、一筋の影が立ちこちらを見つめていた。
テニスだ。
シャンズン、と彼女が呼ぶ。テニスちゃん、とシャンズンも言う。風が吹きすさぶなかでも、呼び合う声は散らされず互いの耳に届いた。いよいよ遮るものがなくなり、頂上はとても寒い。彼女はどれくらい前から待っていたのかと、シャンズンは思う。胸がずきんと痛んだ。彼女の側までそろそろと近寄る。右足を出し、次は左足……おぅ。歩行とは、こんなに難しい動作だったっけか? なんて考える領域に、緊張する自己を彼は発見する。おい、しっかりしろ! 喝を入れて足を動かす。そしてようやく、テニスの横に並んだ。
沈黙。シャンズンもテニスもなにも言わない。が、少なくともシャンズンにとっては言えなかったのだ……ちらちらと、横目で見る彼女の横顔。日に照らされてとても美しい。いやでも、普段からかわいいよな。じゃ、可憐さの二乗。それってなんつーの? 形容詞の不足に彼は頭を悩ませる。
「……きれい」
まったく予期せぬタイミングの、想定外の言葉。雷鳴のような効果をシャンズンにもたらした。事実、あやうく彼はぎょっとして、そのまま転げ落ちそうになる。
「なにしてるのよ」テニスは笑う。場の緊張が瞬く間に消え去る。ついでに先ほどの下賤な予想も消え去る。そうだ、と彼は思い出す。この笑顔! いつだってわたしが見たかったのは、まさに。
「や、や、ごめんごめん」彼は取り繕おうとして言う。「いきなり話すもんだから」
「あら、わたしのせいかしら?」普段の調子がにわかに復活。握りしめた拳に顕著。
「えっ。いやぅっ。そんなことは、まったく……」怯えて見せるシャンズン。しかし心境は穏やかだ。あー、やっぱり、そうしてもらえるのがいい……
「……きれいだと思うでしょ?」そう言うテニスの視線を、シャンズンはなぞる。
生まれ育った村の建物たちが、つぶさに見えた。元の色を失ってはいても、その動作は衰えず力強い風車。宝石に勝る果実を山ほども実らせる果樹園。鍛冶屋の煙突から、もくもくと煙が立ち昇っている。あの煙の色は目立つから、きっと雲にまじっても見分けられるだろう……
「ああ、ああ」シャンズンはしきりにうなずく。「そうだね。本当に、きれいだね」
「やっぱり」ため息をテニスがひとつ。その吐息が、シャンズンには見える気がした。「お別れするのは、名残惜しい……」
「えっ?」いま、彼女は、なんと?
「あ、」ためらう素振り。恥じらいか。まったく、昔から彼女は大人びていて……「あなたとも……」そう言ってますます頬を赤くする。日の色に勝る色合い。
たったいま言われた言葉を、シャンズンは上手く呑み込めない。だんだん、頭が熱くなっていく。風も冷却の役には立たない。戸惑いと嬉しさと気恥ずかしさが交錯し、複雑な文様を描き出す。解法の見つからぬ問のようで、彼にできることはひとつしかない。「どっ」出題者へ許される、たった一度の質問。「どういうこと?」
「……わたし、帰るの」静かに、穏やかに、しかし内容はどんな刑罰よりも冷酷な、そんな宣告の声。まだ、シャンズンには意味がわからない。きみの故郷はここじゃないか。それが表情に見てとれたのか、テニスは黙って次の動作へ移る。太陽に背を向けて、暗み始める西の空、その一点へ指をさす。シャンズンも振り向く。
「あそこにね」寂しそうに、ぽつりと呟く。
継ぎ目なく白から黄金へ変わろうとする月が、たったひとつ、空に浮かんでいた。




