第十七話「グレート・バジェット・ゲーム」
1日後 1909年4月13日 フランス帝国 帝都パリ 帝国政府首相官邸
首相官邸の来賓室にて、スーツを着こなした男たちが、ひとつの机を取り囲むように座っていた。全員が同じ新聞見つめる。やがて一人の男が立ち上がり、怒声とともにその紙束を机に叩きつけた。
「何だこの新聞は……!」
「フランソワ首相!落ち着いてください!」
「落ち着けるものか!ロランの奴……!端から交渉するつもりなどないってか……」
フランス帝国首相——フランソワ・ガブリエルは側近の制止に目もくれずに怒声を上げた。その原因は新聞の見出しにあった。
『軍事費、大戦下にも関わらず増額せず。帝国軍機能不全か。』——新聞の大見出しにはそう書かれていた。書いてある内容も、デマではなく、つい最近帝国政府内で承認された予算案そのものであった。
「19億フランですら足りないと言うのか……大蔵大臣、流石にこれ以上の増額は……」
首相は視線を大蔵大臣と合わせる。眼鏡を掛けたその男は、何も言わずに頭を横に振った。
「クソッ……!何が交渉だ……!支配下の戦争省宣伝部に帝国予算をリークしやがった……」
毒づく首相に、また別の側近が声を掛ける。
「首相、ひとまずは官邸前のデモ隊をどうにかせねばなりません。」
新聞の見出しを見て感化された国民デモ隊総勢五千人、その要求は『軍事費の割合を増やせ』という、なんとも前代未聞な要求であった。政府や内閣の存在を否定するような内容でないからこそ、対応に手間取っていた。
「民がついてこなければ国は立ち行かない……悔しいが、ここは奴の要求に従う他ない……」
途端、先ほど頭を振った、メの男が立ち上がる。
「首相!流石にこれ以上は……!他の省の予算もあります!それに今から議会の決定を覆すのは……」
「大蔵大臣、言いたいことは分かるが、今奴らの機嫌を損ねるようなことをしてクーデターにでもなったら、この国は不安定化してしまう。大戦が始まった今、我々に内輪揉めをしている暇はないのだ……」
その時、はたまた別の男が声を上げる。
「流石にこれ以上は見過ごせません!本来他の省と同等の扱いにあった軍務省が、先の戦争の勝利による国民世論の後押しを利用して、我々政府と同等の権力規模を獲得し、挙げ句には政府そのものを脅している!我々は真剣に軍部の抑え込みを画策しなければならない段階に来たのです!」
力説するその男は、内務大臣——つまりは国内の治安維持を管轄する省の長であった。
首相は内務大臣と目を合わせると、力なく答えた。
「シャール内務大臣、しかし今は大戦中だ。この国が生き残るためには、今は軍部に頼る他ない……」
「軍部の中にも、今の政府を蔑ろにする在り方に疑問を呈する勢力がいます。奴らを利用しましょう。」
首相の声に多少の活力が戻る。
「その勢力とは……」
内務大臣は静かに答えた。
「フランス帝国軍部、合理改革派——通称、”ガルニエ派”です。」
その後、帝国政府は帝国議会へ、本来の予算書から軍事費の割合を大きく増やした改定予算案を提出した。3日後、4月16日に開かれた、改定予算案の是非を話し合う議会は、政府ひいてはロラン総参謀本部長の暴挙に紛糾したものの、結果的に改定予算案は可決された。
これにより正式に軍事費は、19億フランから22億5500万フランへ増額された。
*
帝国議会による改定予算案可決から2日後 1909年4月18日 フランス帝国 帝都パリ 総参謀本部 来賓用客室101号室
「本当に一週間で軍事費を覆しおったか……」
ガルニエは部屋に備え付けられた姿見の前で、服装を正しながらつぶやいた。ボーモンも、一部の新聞を手に、彼の背後に立っていた。
「ロランの吹き込みを受けた戦争省宣伝部員によるものでしょう……国民感情を揺さぶるとは、とんでもない奴だ……」
そう零すボーモンの手に握られた新聞の見出しには、『軍部の軍事費増額か、軍備増強デモ大成功』と大きく書かれていた。ガルニエが口を開く。
「国民に銃口を向けるような奴は、売国奴同然だ。帝国政府首相が狂気的な人物でないことを知っていての行動だろうな。」
「ガルニエ、そろそろ時間だ。」
ガルニエは、ボーモンの声を聞いて左腕の腕時計に視線を落とすと、少し振り返り、その視線をボーモンへ向ける。
「分かっておる。行くぞ。」
*
客室から出たガルニエとボーモンは、歩くうちに会議室のドア前まで迫った。
ドアノブに手を伸ばすガルニエの背中に向けて、ボーモンは心配そうな声で訊いた。
「モローくん、大丈夫ですかね……」
ガルニエはボーモンの声を聞いて手を止めると、振り返りもせず、静かに返した。
「彼ならきっと大丈夫だ。スイスでの任務を全うしてくれるはずだ。」
そう言うと手を動かし、扉を開け放った。
*
「それではこれより、予算会議を発議する。」
ロランは一週間前と同様に、会議の始まりを宣言した。
「では逐次、要求予算の用途を述べるように。ではまず植民地防衛——」
「ちょっと待った!」
瞬間、テオドール大西洋艦隊司令官が立ち上がり、割って入った。
「ロラン総参謀本部長殿!異議申し立てを行いたいです!」
立ち上がったテオドールは、ロランの目を真っ直ぐ見て許可を求める。ロランはテオドールの突然の行動に驚きつつも、短く返した。
「あ、あぁ、許可しよ——」
「感謝申し上げます、閣下!」
一呼吸置くと、テオドールはその視線を今度は自分の兄——マルタン地中海艦隊司令官に向け、口を開いた。
「マルタン地中海艦隊司令官殿、この予算案について、説明願いたい!10億フランとは、法外にも程があるぞ!」
テオドールが言い切ると、会場がどよめいた。ロランを含め、ほとんどの出席者が、配られた資料を勢いよく捲り、該当するページを血眼で探している。ガルニエでさえ、そのぶっ飛んだ要求に耳を疑い、資料を捲っている。
ロランが帝国政府との”交渉”の末に、軍事費を22億5500万フランまで増額したというのに、その約半分をひとつの戦域に割け——マルタンは予算案を通して暗にそう示していた。
「何のための予算なんだ!」
「保全主義者が予算などおこがましいぞ!」
「他の省課の予算も考えろ!」
「お前のための予算などではないのだぞ!」
部屋中から非難が飛び交う。マルタンはただ一人、物怖じせず堂々としていた。
やがて非難の声が一段落すると、マルタンは立ち上がった。
「地中海艦隊司令官としましては、提出した予算案10億フランのうち、弩級戦艦2隻の建造費1億2500万フラン、新型巡洋艦である”巡洋戦艦”4隻の建造費2億5000万フラン、装甲巡洋艦6隻の建造費1億4000万フラン、駆逐艦20隻の建造費——」
「もうよい、黙れ。」
マルタンが予算案の内訳を話していたところで、呆れたロランが制止する……が、マルタンは止まらなかった。
「……これらの予算案の理由といたしましては、地中海における絶対的防衛圏を堅持すべく、大英帝国を筆頭に、イタリア王国、プロイセン王国、ロシア帝国の海軍と拮抗できる数を揃えるためであり、そのために十分な数の艦船を——」
「もうよいと言っておるのだ!マルタン地中海艦隊司令官!口を慎め!」
ロランが止めてもなお説明を続けるマルタンに対し、ロランは机を叩いて怒鳴りつける。マルタンはようやく口を閉じた。
「認められませぬか。」
「当たり前だ。お前だけの予算ではないのだ。」
すかさずマルタンは問い返した。
「では、何フランなら予算を割いてもらえるのでしょうか?」
「そ、それは……」
問い返されたロランは言葉に詰まる。ロランは陸軍系の人間であるがゆえ、海軍事情には明るくなく、こういうときの”相場”がわからなかったからだ。
その様子を見ていたテオドールは、ロランをカバーするべく、すかさず立ち上がり、声を張り上げた。
「4億だ。」
これに対し、兄であるマルタンも対抗する。
「到底容認できません。」
「そもそも、大英帝国の北海艦隊と海戦する我ら大西洋艦隊こそ莫大な予算を掛けて建造数を増やすべきなはず!それにも関わらずお前は、艦隊保全主義という敗北主義的な思想に傾倒し、使いもしない戦艦を建造し、いたずらに予算を食い潰している!」
その言葉に対し、マルタンの眉が少し動いたかとおもうと、マルタンもすかさず応戦した。
「ではテオドール大西洋艦隊司令官殿、お聞きしますが、我々が地中海における影響力を失ったらどのような事態が想定されているか、ご存知なのですか?」
「そもそも前提がありえないな!艦隊保全主義に走っているくせに海戦に負けるような司令官がどのような目に遭うか、言わなくてもお分かりでしょう?」
兄弟間の激しい口論に、さっきまでマルタンに野次を飛ばし非難していた将校たちは呆気にとられ、言葉を失っていた。マルタンは実の弟からの激しい口撃にも屈せず、語気強めに言い返す。
「地中海における制海権を失うこととは即ち今大戦におけるフランス帝国の敗戦を意味します。」
マルタンがきっぱり言い切ると、罵声を浴びせていたテオドールの口が止まった。
「……なんだと?」
突拍子のない発言に、テオドールは狼狽する。マルタンはすかさず追撃した。
「我々が地中海の制海権を完全に失った場合、高い確率で敵国からの強襲上陸がフランス南部と北アフリカに向けて行われるでしょう。アフリカ植民地に関しては、同地を指揮する植民地防衛軍の戦略により、兵站状況が改善しておりますゆえ、植民地同士の戦いならまず負けることはないでしょうが、上陸してくる敵軍まで対処する余力がないことは明らかであります。」
マルタンは一度深呼吸すると、再び口を動かす。
「一方の南フランスですが、南部作戦本部が指揮する第六軍は8日前に行われた緊急招集会議内で軍備の増強が認められ、その軍隊規模を三個軍から五個軍まで拡充したとはいえども、そのほとんどは仮想敵国であるイタリア王国国境に張り付いており、上陸してくる敵軍に兵力を割く余裕はあまりないように見受けられます。」
マルタンが用意してきた理論でテオドールを黙らせる間、ロランの表情はどんどん険しくなっていった。そんなことも露知らず、マルタンは声高々に締めくくった。
「つまり、地中海の制海権の消失は、今あるフランス帝国の有利を全て覆しかねない非常事態であり、それを防ぐべく地中海艦隊にこそ予算を割くべきだと言うのが私の主張です!」
誰も言葉を発しない。その場の誰もが呆然としていた。唯一、反論をへし折られたテオドールと、思う通りにいかないロランは、奥歯を噛み締め、怨嗟の表情を向けていた。
ロランは深呼吸し、気持ちを落ち着かせると、マルタンに向けて言った。
「君の意見はよく分かった。だとしてもだ。10億フランは流石に多すぎる。」
「であらば、何フランならよろしいのかと、申しているのです。」
今度のロランは、この問いに対し言葉が詰まることはなく、きっぱりと言い切った。
「6億フランでどうだ。」
「認められません。せめて8億は必要です。」
「では、8億5000万フランでどうだ。」
「……良いでしょう。それで妥協します。」
マルタンとロランの応酬を見届けた将校らは、8億5000万フランという巨額の予算案を認められずにいたものの、ロランが認めた以上は文句を言い出せず、正式に8億5000万フランで決定した。
帝国軍部に割り当てられた軍事費は、残り14億500万フラン。




