09 アドリア海5(次の航海へ)
―ユリウス暦一〇七七年八月八日、日没後。ヴェネツィア湾の海上。
リード島の南、ヴェネツィア湾からヴェネタ潟へと続く海上を、周囲の暗闇に紛れてヴェネツィア本島に向けて静かに進む一艘の小型ボートがあった。
オールも無く進むそれは、上陸用としてタケルが頻繁に使う電動ボートである。CFRP(炭素繊維強化プラスチック)で出来たそれは『シンタ』で発電される有り余った電力を、搭載したバッテリーに蓄えてモーターを駆動することで運用される。敢えて塗装を施していないのでCFRPの地色である真っ黒な船体であり、船外機を付けた小型漁船の様な外観をしている。
そのボートの上で使者のアレッサンドロがタケルに愚痴を吐いていた。
「私はしがない渉外担当の下っ端で家格も身分も使者なんて務まらないって言ったんですよ。それがあのクソ上司はもう決まった事だとか吐かして無理矢理に押し込んでですね、そりゃあ庶民に比べたら良い給料を貰ってます。でもね私は普段から給料分以上の仕事はしてる自負はあるんです。それなのにこんな仕打ちをされるなんて。それに同僚の彼奴らも遠巻きにして。少しは助けてくれても良いのに……」
先程からアレッサンドロはずっとこの調子で愚痴を吐いている。タケルは前世(?)の経験から共感が出来るところはあるものの、微妙な顔で黙って相槌を打つのみ。護衛として付いて来たクマサブロウは船尾側で丸くなって知らんぷりである。
『シンタ』に置き去りにされたアレッサンドロ。タケル達は彼が落ち着くのを待ち、日が暮れてから夜陰に乗じてボートに乗せてヴェネツィア本島まで送る事にしたのだ。
その待つ間、生物であるアレッサンドロは腹が空くだろうとクマサブロウが海に潜って獲って来た何匹かの鯛と思しき魚をルイが捌いて熱を通したトマトとズッキーニを添えて、酸味のあるソースをかけてカルパッチョ風にした物を振る舞った。
どうぞとばかりに笑顔―威嚇にしか見えないが―のルイから目の前に差し出されたそれを、アレッサンドロは一口目こそ恐る恐ると、しかし一度口に入れると美味い美味いと手掴みで貪り食い、瞬く間に全部平らげてしまった。少しだけでも味見をしたかったタケル達はがっくりと肩を落とした。ルイだけは調理で味見をしていたので満足気ではあったが。(クマレンジャーもサンゴリランもタケルに準じた味覚感知機能を備ている)
尚、調味料は在庫にあったシトロンの搾り汁と、タケルが合成したグルタミン酸(旨味調味料)それに海水から取り出した塩である。味○素は偉大である。
ブチブチと愚痴るアレッサンドロに辟易としているとヴェネツィア本島に灯る僅かな灯りが見えてきた。
「そろそろ着きますよ」
「ああ、本当に帰れるのですね」
アレッサンドロは感極まって涙ぐんだ。その彼を見てタケルは冷めた思考をしていた。
アレッサンドロが置き去りにされたのは、『シンタ』を留めておく為の時間稼ぎではないのかと考えていたのだ。勿論アレッサンドロ本人にその事を知らせないで、だ。
思うに非常に稚拙な策である。もしもタケル達がアレッサンドロを害する様な事があれば攻めて来るつもりででもあったのだろうか。
タケルとしてはアレッサンドロ個人に含む所は何も無い。それどころか未知の存在に一人乗り込んで来た彼の勇気と、失言は有ったがなんとか交渉しようとした粘り強さと責任感は好ましい性質だとタケルは思っている。ただ愚痴っぽさは少し頂けないが。
そのアレッサンドロにタケルはお土産を渡してあった。彼が(主にクマサブロウとイマヌエルのせいで)失神する程の恐怖を味わい、いざ交渉を進めていたら時間稼ぎの囮として置き去りにされて絶望を味わった。それを不憫に思ったからだ。
お土産として選ばれたのは『トマト』と『ズッキーニ』の原種の種苗である。選んだ理由は「イタリアならパスタとチーズとトマトとズッキーニじゃね? チーズとパスタは自前であるだろうから、ヨーロッパにはまだ無いトマトとズッキーニにしよう」と言う多分に偏ったタケルの考えたからだった。トマトとズッキーニの原種の種苗はルイの仕事のお陰で『シンタ』船内の在庫には余裕がある。
種は別として生育途中の若い苗は未来では『ウォードの箱』と呼ばれたテラリウムの元になった植物運搬ケース(ガラスの代わりにアクリル樹脂を使用)に入れて、栽培の手引と食用にする時の注意事項を添付した。
因みにトマトとズッキーニどちらも南北アメリカ原産で、史実でヨーロッパに伝わるのは十五世紀以降である。またトマトが商品作物として品種改良の末に一般に広がるのは十九世紀になってからである。(それ以前十七世紀までは有毒植物と思われていた。実際にトマトの未熟な実や葉や茎にはトマチンというアルカロイドが含まれていて、多量に摂取した事による食中毒が時々発生している。ただ中世で起きた中毒の原因の多くは主に貴族が日常的に使用していた錫鉛合金製の食器からトマトの強い酸味によって鉛が溶け出した事による鉛中毒が原因であろうと言われている。また同じナス科のベラドンナに似ていたのも有毒植物と思われた一因ではとされている)
そしてタケルがアレッサンドロに振る舞ったカルパッチョもどきの元ネタは近世現代の創作料理である説が有力であるのだが、十五世紀〜一六世紀のヴェネツィアの画家ヴィットーレ・カルパッチョの好物が起源とする説もある。ウォードの箱に至っては十九世紀の発明品だ。考え無しに先取りし過ぎである。
タケルは軽い気持ちでアレッサンドロにはお土産を手柄として活かして欲しいものであると考えていた。
―ユリウス暦一〇七七年八月八日、日没後。ヴェネツィア湾海上。核融合動力船『シンタ』
ヴェネツィア本島の人気の無い場所へアレッサンドロを送り届けたタケル達は、上陸はせずに『シンタ』へ帰還していた。アレッサンドロに持たせたお土産は一人で運べる様な物では無かったが、まあそれは彼になんとか頑張って貰おう。
「このまま黒海方面に行こうと思う」
戻ったタケルは唐突に方針を示す。
「(なんすか。いきなり)」
「ホップなんだが、この辺りだと種が抜かれた乾燥させた毬花しか手に入らないんだよ! 栽培して増やすには雄株と雌株が要るんだけど、どうやら産地はドイツとか、黒海方面の北の方らしいんだ」
世間話のついでにアレッサンドロから聞き出した情報である。流石渉外担当、ヴェネツィアで交易される品には明るかった。乾燥させたホップの毬花は主に薬として扱われているらしい。
「がうがうぁう(諦めてなかったんだ)」
「キンキンに冷やしたビールが呑みたいんだよ!」
「うほっうほぉうほほ?(飲食不要で酔わない身体なのにですか?)」
「それはそれ、これはこれ! 染み付いた企業戦士の魂が求める命の飲み物ぉ! それがビィイイルゥっだっ!」
アルトゥルのツッコミにタケルがキレ気味に返した。
いや、確かに仕事の上がりで居酒屋での一杯とか、風呂上がりの火照った身体で飲む一杯なんかは五臓六腑に染み渡る美味さだけど。有給を取った平日の昼間に飲むとその背徳感と優越感で得も言われぬ味わいだし。(個人の感想です)しかし、半ギレするほど熱弁を振るわんでも良いと思う。まあ特に暑い夏の日に一気に飲む最初の一杯は格別なのは認めるが。あ、自分は○サヒの○ーパードライよりも○ビス派です。ジョッキでグビグビッといくなら○リンのラガーも良いですなぁ。
「うほうほぅ、うっほっうほ(薬用にも使われる植物、アマゾンでも色々と集めたが興味深い)」
「ルイは乗り気か。一緒に行く?」
顎に手を当てて、うむうむと頷くルイをタケルが誘うが、イマヌエルから待ったがかかる。
「(いやいやいや、何を言ってんすか。うちらゴリラだとサブロウっちより目立つじゃないっすか。珍しさで)」
「うほぉっ!(私は一向に構わんっ!)」
常識を吐くイマヌエルとそれを跳ね返すルイ。カオスである。
「うほほうほっ、うほぉほうほ(それにしてもご主人、よくもまあ色々と知識を蓄えてましたな)」
「がうぁ(それな)」
アルトゥルの問い掛けにクマサブロウが同意する。
「……まだ十代の時に異世界転生とか異世界転移の小説にハマっていて、その時に色々と調べて妄想してはまた調べて妄想してはノートに書いてとかやってたんだよ……。大人になってその手の小説を読んだり興味が湧いた事は結構調べたりもしたけどな。そんでも忘れてたそれらをサルベージして貰ったから、まあ助かってはいるんだが。SI単位系の詳細を覚えてたのが一番の収穫だったなぁ。度量衡は大事」
若気の至り中二病。男子たる者、誰でも一度は通る道である。痛い設定の黒歴史ノート、誰でも持ってるよね?(個人の感想です)
取り敢えずそのお陰でタケルは転生・転移の定番ネタが使える訳だ。科学技術に関しては異星人から供与されたデータが猛威を振るっているのだが。
「がう、ごふぅがうぁ?(それで、黒海にまで足を伸ばして内陸まで行くの?)」
「ごほうほっ(私は賛成だな)」
「私らの足なら一日に千キロ行けるよな? 黒海に入って(未来の)オデーサ辺りに上陸したら(未来の)ウクライナから(未来の)ポーランドを抜けて(未来の)ハンブルク辺りまで行けば良いか」
「(それなら海から(未来の)英仏海峡を抜けて北海経由で行った方が良くないっすか? 陸上の移動距離も短いっすよ)」
タケルにイマヌエルが異を唱えた。しかしタケルはそれを拒否する。
「元々、有用植物の収集を目的に地中海の沿岸を巡っている訳だ。黒海周辺もその予定に入っていたから多少内陸に寄り道しても問題無し。あとエジプトに寄る前に(未来の)アルメニアとか(未来の)イラン・イラクにも行くぞ。あの辺にも色々と作物があったはず」
「(了解っす。片道千キロ以上の距離を多少って、余程ビールが飲みたいんっすね……)」
ちなみにオデーサから北海沿岸のドイツ・ハンブルクまでは陸路で片道二千キロメートル程の距離がある。
兎も角、今後の行動方針は決まった。夜明けまではまだ遠い未明の時間、夜の中を常温核融合動力船『シンタ』は、ゆっくりとアドリア海へと動き出した。
リード島では寝ずの番立てて巨船を見張っていたのだが、動き出した船をどうする事も出来ずに見送るしかなかったのだ。
―ユリウス暦一〇七七年八月九日、午前。ヴェネツィア。ドゥカーレ宮殿。謁見の間。
深夜に巨船が姿を消したと朝一番で報告を受けたドージェ、ドメニコ・セルヴォは落胆と共に怒りを露わにしていた。
使者を選出した責任者が、独断で非常に稚拙な策を弄していたからだ。それは使者を巨船に置き去りにして、巨船が見せているある種の甘さに付け込むと言う、本当に策とは言えない物だった。
責任者が言うには、どこか甘い対応をする巨船の事だから、交渉が上手く行かずとも使者を置き去りにする事で足止めが出来ると考えたとか。もし使者が海に放り出されたり殺されたら、それを理由に攻めれば良いのだと自信満々に語っていたらしい。
その為、使者に選ばれたのは渉外の部署でも下っ端で家格も低い家の出である失われても惜しくないだろうと思われたアレッサンドロだった。
「家柄だけの馬鹿者は要らんな」
ドメニコは一言呟くと、目の前で真っ青になって震える責任者を冷たく見下ろして、無言で連れて行けと顎で示した。
責任者は何か言い訳めいた事を喚きながら、衛士に引き摺られて退出させられた。
「しかし、アレッサンドロと言ったか。よく無事に戻って来てくれた」
隅に控えて気配を殺してしたアレッサンドロをドメニコはドージェとしての威厳を放ちながらも温和な眼差しと声色で労う。
「勿体ないお言葉、恐悦至極でございます」
持たされた土産は既に献上と見分が済んでおり、ドメニコの横に置かれている。それを横目で見ながらドメニコはアレッサンドロに問うた。
「巨船に去られてしまったのは惜しいが、このような土産を寄越すとはな。器もガラスの様で全く違う見事な物であるが、中の植物も珍しく有用な物との事だが?」
「は、巨船で試食致しましたが、今まで味わった事の無い物でした。『ズッキーニ』と『トマト』と申しておりましたが。それと『トマト』でございますが、見た目がベラドンナに似ているだけで毒はございません。酸味が強くはありますが食した私が平気である事が無毒の証拠になるかと」
「うむ、その様だな。手引書までわざわざ付けてくれたのだ、試しとして栽培をさせてみよう。それで巨船にはどの様な者達が乗っておったのだ?」
「はい。交渉の場に出て来た人間はオト・タチバナと名乗る少女一人でありました。彼女が言うには北方ヤヨイ王国の交易商人との事でしたが。その態度は少女のそれとは言い難く、まるで年配者と言葉を交わしているのかと錯覚しそうになりました。また彼の国は大西洋の遥か遠い北にあるそうで、彼女は新たな作物を探して各地を回っているそうです。他の人間は船内に隠れていたのかどうかは分かりませんが、その者以外に姿を見ておりません」
「ふむ、その話ぶりだと人間以外が居た様に聞こえるが、如何に?」
そう言われて、アレッサンドロはクマサブロウとイマヌエルに脅された(と思っている)記憶が甦り、顔色を悪くする。
そして、巨船『シンタ』に乗船してからの事を語るのだった。
―ユリウス暦一〇七七年八月九日、夕刻。ヴェネツィア。ドゥカーレ宮殿。ドージェの私室。
ドージェであるドメニコは執務を終えて私室で寛いでいた。手に持つ木製のゴブレットにはワインが入っている。
実は昨日までは錫合金の物を使っていたのだが、アレッサンドロが持ち帰った『トマト』の指南書に鉛の毒について繰り返し書かれていた事から半信半疑ながら変えていたのだ。
ワインをちびちびと舐めるように嗜みながらドメニコはアレッサンドロの話を思い出していた。
聞いた事の無い国名、ガラスの様で全く違う不思議な物で出来た箱、有用と思われる見た事の無い植物、理路整然と未知の知識が書かれた指南書に、それに使われている東方から伝わる紙とは全く違う手触りと薄さの紙の様な物、櫂を使わずに動く小舟、風が無くても走る木造ではない巨船、軍船を破壊した謎の攻撃、そして巨船に乗っていた巨大な熊と毛むくじゃらの巨人を従えたヴェネト語を流暢に話す黒髪の少女。
「……分からんな」
どこまで事実でどこまでブラフなのか。考えても分かるはずが無い。
「南か……」
ドメニコは、巨船が来たのは遥か北方からとの自己申告はブラフであろうと考えていた。実際には北方ヤヨイ王国などと言う名の国は存在せず、名乗った本人の名前もおそらくは偽名。北の海は氷に閉ざされていると言う話も聞く。
とすれば考えられるのは南。アフリカ沿いに西進し(未来の)ジブラルタル海峡を抜け、アフリカの西岸沿いを南下して行けば、或いは巨船の故郷である謎の国があるのかも知れない。(この当時は、まだ喜望峰を越える航路をヨーロッパ人は発見していない。ヘロドトスの『歴史』にはフェニキア人がアフリカ周航を行った事が記されてはいたが、信じられてはいなかった)
「儂の代では如何ともし難いか。今回、ヴェネツィアが抱える問題が詳らかになった事と、交易に有用な植物を得られただけでも良しとするしかあるまい」
ドメニコが思索を終えた時、日は既に落ちて夜の帳が下りて来ていた。
はてさて、タケル達が起こしたこの小さな漣は後の世にどの様な形の波を起こすのだろうか。
明日の更新はお休みします。