第6話
連日の支店経営や新規の空路の立ち上げに奔走しすぎた結果、ついにフィリアは疲労のあまり高熱を出して倒れ込んでしまった。
普段の彼女からは想像もつかないほど青白い顔でうなされるフィリアの枕元に、世界に君臨する竜王がどっかりと座り込んでいる。国の政務を放り出してつきっきりで看病をしているものの、なにぶんスケールの大きすぎる竜王である。高価すぎる霊薬を出してみたり、意味もなく部屋を宝石だらけにしてみたりと、肝心の看病の仕方が全くわかっておらず、ただただオロオロと眉を下げていた。
「フィリア……しっかりしろ。私の愛が足りないのか、それともこの宮殿の空気が合わないのか……」
ふと、竜王はベッドの端に置かれたフィリアの小さな手を取り、寂しげに、そして酷く人間臭い弱音をこぼした。
「……君がいつも、宿代と馬車代は現実よと笑っていた人間界の日常を、私は力任せに壊してしまったのだろうか。君は本当は、あの日々が恋しいのか……」
それは、誇り高い竜王が初めて見せた、愛する者を失うかもしれないという剥き出しの孤独と後悔だった。
朦朧とする意識のなかでその呟きを聞いたフィリアは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。いつもなら経費と効率が……と口を開くはずの唇が、わずかに緩む。
「……まったく。世界を統べる竜王様が、そんな情けない顔しないでよ」
掠れた声でそう呟くと、フィリアはふらつく体を起こし、枕元にある自分のエプロンのポケットからゴソゴソと何かを取り出した。それは、人間界の小さな商会にいた頃から肌身離さず使っていた、ボタンのすり減ったボロボロの計算機と、小さく折られたボロボロのメモ用紙だった。
彼女はそれを、竜王の大きく温かい手のひらにそっと乗せた。
「私の日常は……確かに、あの時はあそこで完結してたわ。でもね」
うっすらと頬を赤らめながら、フィリアはツンとした、しかしどこか照れくさそうな笑みを浮かべる。
「……でも、まあ。あなたがそこまで私のことで悩んで寂しがるなら、私の心の特別枠に……あなたを登録してあげてもいいわよ。もちろん、利息はたっぷり払ってもらうけどね」
竜王の大きな目が驚愕に見開かれ、次の瞬間、まるで宝物を扱うように愛おしそうにその計算機を包み込み、満面の笑みを咲かせた。
「ああ……!世界のどんな財宝よりも、その言葉が嬉しいぞ、フィリア!」
それから数日後。
「この魔素材の仕入れ値が高すぎるわ!」
バーンズ商会竜都支店の裏庭では、完全復活したフィリアが相変わらず威勢よく声を張り上げていた。
「あら、フィリア様。最近なんだか、お肌のツヤが一段と綺麗ですわね。竜王様との仲も、いよいよ順調ってわけです?」
容認派の姫たちがクスクスと笑いながら冷やかす。
「べ、別にそういうわけじゃないから!」
フィリアは真っ赤になって計算機を激しく叩き直す。その微笑ましいやり取りを、宮殿の窓からじっと眺めていたのは、書類を抱える執政官だった。
彼は深く息を吐き出すと、これまでは手放せなかった胃薬の瓶を取り出し……そして、満足そうにそれをそっと引き出しの奥へとしまい込んだ。
(……これで、竜王様の精神も安定し、宮殿の権力闘争も一掃され、商売のほうも順風満帆と)
執政官は眼鏡を押し上げ、遠い空を見上げながら、心から清々しい表情で呟いた。
「これぞ、もっとも美しく、完璧な規定通りの日常ですね」
白亜の回廊を抜ける風の音が、遠くで静かに新しい時代の到来を告げていた。




