第1話
薄暗い帳簿部屋の静寂を切り裂くのは、木製の計算機を弾く音だけだった。
「今月の利益率は……よし。仕入れのブレを考慮しても、来月の馬車代のツケを回収できれば十分に黒字ね」
窓の外では王都の夕暮れが路地を染始めているというのに、バーンズ商会のひとり娘にして実質的な次期当主であるフィリアは、煤けたランプの光の下で羊皮紙の山と向き合っていた。使い込まれてツルツルになった革の鞄が机の端に置かれ、計算機を叩く指先にはインクの染みがこびりついている。
髪は仕事中に一筋の乱れもないよう、お気に入りのリボンでキッチリと結い上げられていた。
「冒険者はロマンを語るけれど、宿代と馬車代は現実よ。愛と勇気じゃ小麦粉は買えないんだから……」
ぶつぶつとつぶやいた瞬間だった。
バリィィィンッ!!
突如、部屋の空気がガラス細工のようにひび割れた。
「なっ……!?」
驚いて顔を上げた次の瞬間、空間の裂け目から眩い光が溢れ出し、圧倒的な威圧感を放つ使者が部屋へと踏み込んできた。整えられた書類の束が突風に煽られて宙を舞い、計算機が危うく床に転がり落ちる。
「ひゃっ、ちょっと待って……!」
ドレスの裾を踏まないように身をかわしつつ、フィリアは光り輝く使者へと鋭い視線を向けた。商売人としてのプライドが、恐怖よりも先に声を尖らせる。
「勝手に人の店に入ってきて何よ。うちは今、一世一代の棚卸し中なの。泥棒なら金庫の場所は教えるけど、この忙しい時間に営業妨害するなら慰謝料を請求するわよ。そもそも、誘拐のつもりなら身代金の見積もりはもう出してあるの?うちの規模に見合った妥当な額にしなさいよ」
あまりの勢いと現実的な金銭要求に、神聖なる使者はわずかに動きを止めた。
「……人間の子よ。お前は、竜王様の運命の番にお選ばれになられた。今すぐ、竜都へ御足を進めていただく」
使者が厳かに告げたその言葉に、フィリアはこめかみを押さえた。
「は……?竜王様?……って、あの世界のてっぺんにいるトカゲの親分?ちょっと待って、私にそんな身分不相応なコネはないわよ。私の商売と平穏な日常を返してちょうだい」
王都の片隅の小さな商会で堅実に生きる少女の絶叫は、そのまま壮大すぎる非日常へと引きずり込まれていった。
気がつけば、そこは人間界の常識が通用しない空間だった。
天井ははるか高く、窓の外には雲海が広がっている。足元には王国の宮殿すら霞みそうな絨毯が敷き詰められ、部屋のあちこちには宝石や金細工が飾り立てられていた。
しかし、フィリアにとって、それは豪奢な宮殿ではなく究極のストレス空間でしかなかった。
「……これ、総額いくらするのよ……」
わずかに喉を鳴らしながら、フィリアは自身の全身を見下ろす。動きやすさを重視したコルセット付きドレスは脱がされ、代わりに着せられていたのは、動くたびに音が鳴る、商売の役には立ちそうもない代物だった。指には、国家予算すら吹き飛びそうな大粒の宝石がはめられている。
「返品不可?それとも現金化できる?あと、私の革鞄はどこよ。計算機は?私の商売道具を返しなさいよ、このトカゲの巣窟ぅぅっ!」
愛用の道具を奪われ、頭を抱えて床に崩れ落ちるフィリア。
その時、ガチャリと重厚な扉が開き、青い顔をした男が恐る恐る足を踏み入れてきた。竜都の文官であり、不運にも番の世話係を押し付けられた木っ端役人だった。
「あ、あの……ご無体な、ご機嫌いかがでしょうか、番様……」
男は冷や汗を流し、硬直した笑顔を張り付けながらおずおずと近づいてくる。その手には、ずっしりと重そうな規定書の束が抱えられていた。
「ねえ、聞いてる!?この指輪、今すぐ換金窓口に持っていったら幾らになるのよ。あと、この部屋の維持費は誰が払ってるわけ?無銭宿泊で訴えられるのはごめんなんだからね!」
「ひっ……!お、落ち着いてくださいませ。ええと、そちらの装飾品は竜王様の御意向により身につけていただくことが規定となっておりまして、勝手に外すことは」
「規定なんて私の知ったことじゃないわよ。私はバーンズ商会の次期当主であって、竜の愛玩動物じゃないの。って、聞いてるの、そこの青白い顔のあなた」
フィリアがまくし立てれば立てるほど、男の顔色は青から紫へと変色していく。世辞や社交辞令が苦手な彼は、冷や汗を拭うことも忘れて事務的な口調を死守した。
「ま、誠に申し訳ございません。私はただの番の世話係を押し付けられた、しがない木っ端役人にすぎず……。ですが、宮殿の装飾品を現金化することはルール上、一切認められておりません。お怒りはもっともですが、どうか規定の範囲内で……」
「規定ですのでって、あなたねえ……!」
両手を腰にあてて睨みつけるフィリアと、申し訳なさそうに視線を泳がせつつも規則を曲げる気のない男。
かみ合わない問答の最中、フィリアはふと、目の前の男の顔をじっと観察した。
お世辞も言えず、上役の理不尽な命令に逆らえず、ただただ青い顔をしながらも自分の仕事を全うしようと必死に耐えているその姿。
(この人、コミュ力はゼロね。でも、この顔の作りといい、理不尽に耐えてるトーンといい……実家の商会でいつも胃薬を飲んでた苦労性の番頭に、ものすごく似てない……?)
トゲトゲしかったフィリアの怒気が、奇妙な親近感によってスッと霧散していく。
静寂の訪れた空間に、遠く風の唸り声だけが白亜の回廊を抜けていく。




