閑話 藤虎の嫁
野菜を刻む音が聞こえる。
(汁物に使う葱でも切ってるのかしら?)
奥座敷から戻った私はそう思いながら暖簾を潜った。台所で一人、料理に勤しむ藤虎は私に振り向きもせずに「戻ったか」と一言だけ言って手を休めない。予想通り、葱を刻み淡々と汁物を作っている。
いつもの光景だ。どうにも普段は遊び人だと言われる藤虎だが料理をしている時だけは真面目だ。
「どうだった?」
「やっぱり、可愛かったわ」
隣で皿を洗いながら、私は答えた。
赤い小さな金魚を思い出して私は微笑む。
遊女だった私は金魚を飼っていた事がある。それはそれは大切に丸い硝子の鉢に囲って毎日餌を与えて愛でた。本当の水中も知らずに飼い殺される金魚に私自身を重ねて悲観していた。
私はこの金魚のように外を知らずに遊郭の檻の中で死ぬのだ。そう思っていたのに三年前に金魚は空魚となり、私の前から突然に去った。
驚いた。憤った。同じだと思っていたものに置いて行かれた事実に悲しくなった。けれど、私も程なくして外に出た。藤虎が外に連れ出してくれたのだ。
「白猫ちゃん、とっても金魚を大切にしてるのね。最初、惚けてられちゃった」
「そりゃ、そうだろ。金魚はアイツの得物だ」
「得物……という事はあの金魚は私と同じなのね」
「?」
何の事だと包丁の手を休めて不思議そうに私を見据える藤虎。
「だって、私は貴方の得物だったでしょ、猫又さん?」
「あー……」
猫又さん、私だけに赦された藤虎の昔の呼び名。悪戯っぽく言えば、藤虎も私と出会ったばかりの頃の昔を思い出したのか珍しく照れた様子で頭を掻いた。そんな藤虎に私は愛おしさが込み上げる。
「私は幸せ者よ、ありがとう」
「それ言うの何回目だ。もう十分だぞ」
「あら、私は何回でも言いたいの。私が死ぬまで何千回と聞いてちょうだいな」
「…………」
「駄目?」
「勝手にしろ。全く、お前はほんとに良い女だよ。敵う気がしねぇ」
そう言って藤虎は休めていた手を再び動かす。
愛しい。心が温かい。しかし、何時までも浸ったまま動かない訳にはいかない。
徐々に出来上がっていく料理。私も出来上がった料理を運ぶ準備をしなければならない。私はそれぞれの料理に見合う皿を探しに食器棚を開ける。
藤虎が私を攫ったのは月の綺麗な夜だった。もう心を偽るのに疲れ果てて、涙さえも上手く流せなくなった壊れかけの私の手を無理矢理取って「嫁に来い」と会う度に聞いていた私には客の戯れ程度にしか思えなかった言葉を本気で言って外に連れ出してくれた。
私は幸せ者だ。本当に、藤虎に出会えて良かった。
「あの子達も幸せになれるといいわ」
どうかあの子達に幸が多くありますように。
二階に居る白猫と金魚の今後を願って私は呟いた。