水面
藤虎に案内されたのは二階の奥座敷だった。何でも、営業中の休息用に使用している部屋だそうで部屋の隅に積まれた座布団ぐらいしか物が無い。
そんな部屋の中で白猫は横に倒れた状態で汗を流していた。
「暑い」
一言、嘆く。すると、先程から部屋をぐるぐると泳いでいた金魚が心配そうな表情で寄って来た。
「猫さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫に見えるのか?」
唸るような声で言う。
部屋は暑い。直接、陽が当たる訳では無いと言うのに外と繋がる襖も窓も全てを閉じ切った部屋は蒸し暑い。毛を纏う白猫の体感温度はそれはもう大変な事になっている。
「せめて、窓だけでも開けていってくれりゃあいいものを藤虎め……」
こうなったのは藤虎のせいだ。「出て来るな」と言い残して白猫と金魚を部屋に押し込めてさっさと仕事に戻った奴の大雑把が原因だ。
兎に角、自分で窓を開けようと思ったが、残念な事に鍵が掛かっていて無理だった。牙も爪もあるが猫にだって出来ない事はある。
白猫は低く唸りながら寝返りをうつ。身体が当たっていなかった畳は心成しか涼しいと感じる。
「なぁ、お前は暑くないのか?」
チラリと汗一つかいていない金魚に視線を向けて問う。金魚の首が何処かはよく分からないが金魚は首を傾げるように身体を捻った。
「暑いというのが私にはよく分からないです。普段から太陽の近くで暮らしているので寧ろここは過ごしやすいです」
「羨ましい」
心底そう思う。毛は冬には温かいが夏は暑いだけだ。
早く夜になれと白猫は願う。夜になればこの暑さも多少はマシになるし、何よりもこの部屋から出られる。しかし、障子張りの窓から差し込む光は明るく、時間は有り余っている。
暇に尽きる。故に白猫はふと思った事を口にする。
「そういやぁ、空魚は空でどんな生活をしてるんだ?」
「どんな、ですか?」
「あぁ、例えば寝床とか食うものとか」
「私は雲の中を寝床にしてましたよ。身を隠せますし、陽が高い時は群れを成して風の流れるままに泳いでました」
「雲が寝床ねぇ。身を隠す必要があるって事はお前は何かの例えば自分よりも大きな空魚の餌なのか?」
「うーん。それとは少し違いますね。空魚は同族を食べません。地上に居た頃は同族も人すらも食べてしまう獰猛な方が居たようですけど、空に上がったその瞬間から私達の餌は雨雲です。なので、より上質な雨雲を求めて移動してるんです。隠れる必要があるのは寝てる間に寝ぼけて地上に落ちてしまう事があるからですよ」
何だ、それ。
「つまり、お前らは生きるために他者の命を必要としないということなんだな」
「その通りです」
何だ、それ。ふざけるな。
至極当然だと頷いた金魚に対して白猫は苛立ちを覚えた。これが空魚という生き物の在り方ならば理解不能だ。
生きる為に他者を喰らう。それは虫も猫も人も皆、同じ。だから、狩りに全力を注ぐし、時には命を尊ぶ事がある。
――どうか、猫さん。私を食べて下さいませんか?
(気持ち悪い)
「お前さ、俺に喰われる意味が本当に理解出来てんのか?」
「はい?」
問うておきながら金魚の不思議そうな表情に白猫はハッとする。何を言っているのだ、自分は。暑さで思考が疎かになっている。
「いや、すまん。今のは何でもない」
起き上がった白猫は直ぐに先程の問いを撤回した。そんな白猫に金魚は何かを言おうとしたが、ちょうどその時に此方に向かって廊下を踏む足音が聴こえた白猫の耳がピンと立ち、出入り口の方へ白猫が鋭い視線を向けた。
「誰か来る。おい、金魚。俺の下に隠れろ」
「は、はい」
言われるがまま、金魚は白猫の腹下に隠れる。
誰が来るか分からない。障子が開く。警戒態勢で白猫は身構えるが、それは杞憂に終わる。
顔を覗かせたのは水の入った器が乗った漆の盆を持った藤虎の女だった。
女は白猫の姿を認めると微笑み、部屋に入るなり、部屋に籠った熱気に眉を寄せた。
「何、この部屋暑いわね。旦那様ったら窓くらい開けてあげればいいのに。めんどくさがりなんだから。ほんとに仕方のない人」
女は盆を一先ず畳に置くと直ぐに窓辺に向かう。それを見守る白猫は動かない。ただ、藤虎の大雑把を仕方のない人で終わらせるなと思いつつ、ぴったりと閉じられていた窓の鍵を外す女を見守る。
ガラリと音を立てて窓が開いた。
僅かな風が白猫を撫でる。汗の滲んだ身体には身に沁みて涼しさを感じる。
「白猫ちゃん」
目を閉じてようやく得た涼しさを堪能していた白猫は女に呼ばれて視線を向けた。女は一指し指を上へ向けていた。『上を見ろ』という意味か。
(何だ?)
白猫は上を見上げた。そして、目を瞠る。
視界に飛び込んで来たのは天井に映った揺らめく水面。それは開け放たれた窓から天井中に広がり、天井を覆っている。まるで、自分が水中から上を見上げているそんな現象に息を呑む。
「驚いた?」
水の入った器を白猫の目の前に置いた女は白猫の横に座った。飲んで良いのだろうか。視線を向ければ女はクスクスと笑う。
「この部屋はね、夕暮れ近くのまだ陽が茜に落ちきってない時にだけ川の水面が反射してこんな風になるの。綺麗でしょ。私と旦那様のお気に入りなの」
そう言って女は暫く天井を見上げていた。藤虎と違って女は気が利く。白猫はその間に差し出された水を少しずつ舌ですくって飲み干す。そうして、白猫の喉が潤って息を吐いたところで女は再び口を開いた。
「ねぇ、白猫ちゃん。話は旦那様から聞いているわ。金魚が居るんでしょ? 私にも会わせてくれない? 勿論、変な事はしないから」
「……にゃあ?」
藤虎め。
何の事かと白猫は惚けてみる。しかし、ジッと見つめて来る女の視線と腹下で金魚が暴れ出したものだから隠しきれない。
「ねぇ、お願い。白猫ちゃん」
「猫さん。私も見たいです。見せて!」
(好奇心旺盛な餓鬼か)
逃げ場が無い。くすぐったくて堪らない。ため息を吐いた白猫は渋々、金魚を解放した。
「わぁ、本当に金魚だわ。何年ぶりかしら」
勢いよく飛び出して来た金魚に女は嬉しそうな歓声を上げ、金魚はまじかに見た女に驚きつつも天井の光景を見た瞬間に此方も歓声を上げながら上へと泳ぐ。
元気なものだ。あっちへこっちへ。揺らめく水面に合わせて金魚が泳ぐ様子を白猫は呆れた眼差しで見つめる。
「不思議ね。子供の頃から夏には沢山の金魚を愛でて来て飽きるぐらいだったのに。こうして見ると可愛いものは可愛いのよね」
魚が空魚になったのは三年前。女は白猫が知らない金魚の本来の姿を知っていた。言葉の意味を考えるにおそらく女は金魚を飼っていたこともあるのだろう。
何を思っているのか。昔を懐かしむ女は優し気な眼差しを金魚に向けている。
「大海を知る自由を得られて本当に良かったわね、金魚ちゃん」
やがて、ポツリと漏らした言葉を白猫は聞き逃さなかった。微笑む女と目が合うが、女は特にそれ以上何かを言う事も無く立ち上がった。
「さてと、私は仕事に戻るわね、白猫ちゃん。閉店まであと数時。ゆっくりしてね」
空の器を拾い上げて女は部屋を後にする。
(何だったんだ?)
閉じられた襖。白猫は首を傾げたが、深く考える前に金魚が五月蠅く白猫を呼ぶ。
「猫さん、見て下さい! キラキラして動いてます!」
「あーはいはい。落ち着けって」
もう十分見ただろうに。白猫は適当に宥める。
金魚は宙に留まったまま動かない。ユラユラ揺れる尾ひれの先が唯一、金魚が空気ではないと証明している。
「きっと、水中から水面を見上げるってこんな感じなんでしょうね」
夢見る光景に思いを馳せて、金魚は息を吐く。
「綺麗」
静かに、その呟きは空気に消える。
白猫は眉を寄せた。
どうしてそこまで故郷に帰る事を望むのか。生まれてからただ一度もこの町から出た事が無い白猫には故郷に焦がれる気持ちが分からない。それどころか、敵が居ない空から降りて来る金魚の愚かさに呆れてばかり。
「猫さん、猫さん」
「わっと」
気付いたら目と鼻の先に居た金魚に驚いて白猫は半歩身体を後ろに下げた。白猫は不機嫌そうに眉を寄せた。
「驚かせるな。何だ」
「さっきの猫さんの問いですけど、私はちゃんと分かってますよ」
ピクリと白猫の髭が揺れた。金魚はにこやかに真っ直ぐと白猫を見据えて言葉を続ける。
「食べられること。それは命を差し出す事。私の命を猫さんに。私は猫さんのものです」
「あっそ」
(何も分かってないよ、お前は)
今更返された応えに白猫は投げやりに鼻を鳴らす。
喰われる者と喰う者。弱者と強者。生きるための命のやり取り。
――強者が弱者を食べるのは当たり前だろ。
(そうだな。それだけだ)
それが常識でこの世の理。
無垢な金魚だ。生まれたての赤子だって自分の非力さを命の儚さを知っている。だから、立ち上がるし、目を開けて、兄弟すら押しのけて自分が乳を吸おうとする。けれど、水神の加護を得てぬくぬくと平和を享受し続けた金魚は命の在り方を知らない。
知っていたら、決して地上に下りようと思わなかっただろう。『私を食べて下さい』なんてじぶんを軽んじる事をする筈が無い。
白猫は考える。ならば、目の前の金魚は一体何なのだろうかと。
命を持ちながら命を知らない。それは最早、無ではないのか。金魚を喰らう価値はないのではないか。
そこまで考えて白猫は「止めだ」と頭を振る。
何を無駄な事を考えているのだ。身体を持ち、言葉を話し、故郷に思いを馳せる。これだけで、命を持つ証明には十分だろう。これはきっと、白猫が知らない命の在り方なのだ。
白猫が金魚を喰らう。
まるで甘露のような。そんな在り方で出来た味を知る絶好の機会を白猫は得たのだ。
「本物の水中が私、楽しみで仕方ないです。あっ、良かったら猫さんも一緒にどうですか?」
「断る。俺は水が嫌いなんだ。お前だけで楽しめばいい。俺は別の楽しみがあるんだから」
深く考える必要は無い。答えは何時も単純だ。
真っ直ぐ白猫は金魚を見据える。
「まぁ精々、美味しく終われるようにしてくれ」
遺恨も悔いも欠片程の情すらも何一つ残さぬように。その無垢な命のままで新しい味を自分に教えてくれ。その為なら何でもしよう。
白猫は笑った。




