case1# SHAKE HANDS -5/9
ただ中を爆走するワンボックスカーは左右、巧みと車両を追い抜いてゆく。その度に揺さぶられながら、しかしながらぶれることなくスポイトをつまんだタンクトップは薬液を百々の手へと垂らしていった。
「ハモ公園、目視」
運転席から声が上がる。
百々の手のひらにピリリと刺激もまた走った。
ややもすればまるでシールを剥がすようにだ。あれほど頑固とへばりついていた箱から手は次第に剥がれてゆく。やがて挙手よろしく高々と百々の手は振り上がっていた。
「取れたぁっ」
「うかれるのはまだ早いッ」
確かに剥がれたのは上から箱を押さえつけていた手で、乗せたもう一方がまだ残っている。つまるところ箱は今や誰もの前にむき出しとなり、表面で続くカウントダウンを読みかけた百々はひとたび全力で空を仰いでいた。
「東門へ回れ。奥が袋小路で人通りが少ない」
見守っていた男が運転席へと振り返る。
「そのつもりです」
「こっちの方が、がっちり張り付いてやがるな」
返した声と打って変わってタンクトップのそれは苦々しい。つられて百々はついぞチラリだ。チラリとだけ目を向けなおしていた。残り一分へ迫ろうとしている表示を目の当たりにする。
「東門、到着っ」
ワンボックスカーの停車は、いつ止まったのか分からないほどに静かなブレーキングだった。後に切られたエンジンに、車内は水を打ったような静けさで包まれる。
「フン、ちょうどで三分か。でかしたぞ、ストラヴィンスキー」
タンクトップの声がやたら百々の耳についてならない。
前で、箱の表示からも「分」がついに削げ落ちる。
着実に「50」もまた切っていった。
もう間に合わない。
状況は素人だろうと数さえ数えることができれば判断できるもので、だが介せぬ彼らは一人としてその場を離れようとしなかった。それは無謀で鈍で明らかに悲惨な結末の前触れだった。
「……もう」
震えていたが、予感したなら声はしっかり出せている。
「いいですっ」
叫ぶと同時に百々はテーブルから力いっぱい腕を引っぱり戻した。
「もう間に合いませんからっ」
「勝手に動くなッ」
タンクトップの張り上げた声に、運転席にいた男の細面へ瓶底眼鏡をかけた顔も振り返る。
「だってもう爆発しちゃいますっ」
巻き添えなど、なるべくなら出したくはない。大声を大声で押さえて返し百々は訴えた。
「いからあたしにかまわず逃げっ……!」
が、言いかけたとき感じたこの「違和感」こそなんなのか。とたん出どこは知れて、あの力の抜けた展開はまさにこの場と重なり鮮明と蘇ってくる。
「バッファロー」だ。
「無駄な時間をッ」
スキに男に腕を掴まれていた。
「いいぞ、レフ。こっちへ戻せ」
「わぁ、バカバカ。それじゃみんな死んじゃうってばっ」
映画ならエンドロールが上がって客も立ち去る。ナンセンスだ。命を懸けているというのに結果、ナンセンスが過ぎた。
「ああ無理ならとっと逃げるッ。心中するつもりはないッ」
「って、それはそれで、ハッキリ言い過ぎぃっ」
返したのは男で、彼はこうも続けて言う。
「仕掛けた相手こそ野放しにはできないからなッ」
揉み合えばワンボックスカーは揺れ、ただなかで百々は息をのんでいた。
「へ…」
目の前で、ぐるりひっくり返ったのは間違いなく世界だろう。果たしてコペルニクスかコロンブスの卵か。つまり逃げ出したのではなかったのだ、とアハ体験。解釈は反転する。証拠に「バッファロー」の主人公は愛する人に見切りをつけた非情の復讐鬼と、とたんスクリーンの中を遠ざかっていた。だというのに戻ったくだりは人間臭さを極め、エンターテイメント作品だと思えど都合よく助からない結末のリアリティーに度肝を抜かれる。比べてだった。無力と知って留まるヒーローの軟弱な、それでいて運よく助かるくだりはどうなのか。気づかずにいた己のお子様な思い込みが今さら恥ずかしくさえなってくる。ほどに「バッファロー」は王道がもたらす思考停止な展開を批判した大問題作で間違いなかった。
いったいどこから見つけてきたのか。よっ、さすが支配人。
手を打ちかけてその手のせいで我に返る。
「いーだだっ、いだだだっ」
アハ体験に沈黙した百々をいいことに、タイムロスを巻き返してタンクトップが薬液が染みこむのを待たず箱を剥ぎ取ろうとしていた。
「少しは黙れッ」
「黙れませぇんぅっ。いっ、たーいっ」
もう修羅場だ。箱も目と鼻の先で「30」を灯す。表示が「27」へ切り変わったその時だった。
「回収ッ」
箱がタンクトップの手の中、宙へ振り上げられる。なら今度こそと言うべきだろう。
「お待ちかねの液体窒素だぞ」
スプレー缶は取り出されていた。その形は蚊やゴキブリを退治するアレそっくりで、赤目を剥いた手でやんや、やんや、拍手喝采する百々の前、箱へ向かってタンクトップはトリガーを強く引く。
が、続く無音の解説こそぜひとも欲しい。
「カラ……、だ」
だのに箱はもう「10」を灯していた。
隠して男の手が箱を掴み上げる。天板下へ投げ込んだ。見てとった運転席の彼も喘ぐようにシートベルトを外している。
「ぼーっとするなッ」
一喝が百々の鼓膜をつんざいていた。反応する前に襟首を引っ掴まれた体がくの字に折れる。
開いたワンボックスカーのドアは三方が同時だった。
誰もがそこから一斉に身を躍らせる。
のちのカウントは三、二、一、がせいぜいで、ゼロと共に飛び込むように地面へ伏せた。その足先でワンボックスカーが跳ね上がる。思いがけず甲高い破裂音に伏せて塞いだはずの視界を揺さぶられ、追いかけ熱風が駆け抜けていった。あおられて百々の髪は巻き上がり、そこでようやく頭を抱えて百々は身を丸める。
「……っつ」
過ぎて訪れたのは無だった。
果てにカラだったあの缶が、工具に内装の数々が、やがてひとつ、またひとつ、と空から降りそそぐ。
「わう。何。あ、イタっ」
食らったおかげで五体に感覚は戻ったようなあんばいだ。止まっていたような息を吐きだしていた。いつからかその頭にあった男の手を押しのけゆっくり身を起こしてゆく。恐る恐る振り返ったそこにははすっかり黒焦げとなったワンボックスカーが、過剰な放熱後の急速冷却にシュウ、と煙を上げてか細い音を立てていた。傍らの木立も吹き飛ぶとすっかり丸坊主になっている。
目の当たりにしたならそれが自分でなくてよかった、とは思えやしなかった。むしろ自分のことのように感じて百々はただ目を見張る。
そしてこれもまた思考停止と刷り込まれた黄金法則か。この一大事に飛んで来る者は不思議と誰もいない。何が起きたのかと人が集まり始めたのは想像より、いやそれこそ眺め続けたテレビドラマより、ずいぶん後になってからのことだった。




