case2# Higher than Higher -1/10
ふわり、闇の底から浮かび上がったかのようだった。灯された明かりのもと、シアターBの座席で百々は、静かに息を吐き出してゆく。吸い直して、満面の笑みで隣の席へ振り返った。
「すっごかったねー。あたし興奮しちゃった。やっぱり大自然は偉大だよ。ね、ねっ」
腰かけていた田所はそこで、どうにかあくびを噛み殺した顔つきで目を瞬かせている。
「おま、こんな時間なのにほんと元気な」
「だって、すごかったじゃん」
時刻は確かに深夜零時。今しがた終えたのは、営業終了後が恒例の、次回新作の「試写」だった。例の件の罪滅ぼしか、水谷はこの業務に初めて百々を呼んでいた。
「ペンギンって泳ぐと早いんだね。それからキリンっ。あんなに可愛い顔してるのにさ、ものすごい迫力でケンカするんだからびっくりしちゃった。こう首と首をぶつけてバチンバチンって……」
真似て百々は左右の腕を交差させる。陸、海、空と長期ロケで撮りためた大迫力の映像を再現すると、えいやの勢いで叩き合わせた。だが期待していた田所の反応こそ薄い。
「……ってさぁ、お前、ちゃんと見てたの?」
百々へとアゴを突き出す。
「仕事で見てんだろ。フィルムの傷と音声のチェック、できてんのかってコト」
メモを掲げた。そこには幾つか不備内容が書き込まれている。百々も慌てて手元へ目を落とすがメモ自体がみつからない。ようやく座席の隙間から拾い上げたはいいものの、まったくもって白紙だった。盗み見た田所もガックリ肩を落とす。
「あのな」
「ま、最初だから仕方ないでしょ」
などと背後から投げたのは水谷だ。
「今度からはちゃんと頼みますよ、百々君」
百々の背もたれを軽く叩いて座席を抜け出す。
「じゃ田所君、映写室まで来てね」
「あ、はいっ」
田所が勢いよく立ち上がっていた。水谷は残して先にシアターを後にしてゆく。
「着替えたら通用口で待ってろよ。俺、駅まで送るからさ」
見送った田所が、百々へと投げていた。
「え、大丈夫だけど」
「なわけないだろ。この辺、ビジネス街だから今の時間は人通りないし、さっきニュースで台風の進路が変わってコッチ来てるって」
確かに未明にも直撃すると、朝から巷は大騒ぎしている。だが駅までは徒歩で十分余り。駅周辺は繁華街で、二十四時間開いている店もいくつかある。だが言い残した田所は防音扉へ肩を押し当て、百々を残すと隙間からロビーへ抜け出していた。
「ちょ、ちょっとタドコロっ」
追いかけ出たロビーはもう非常灯だけが青く灯る閉館モードだ。滲ませた床は水面のように伸び、正面扉の窓からは予報とおりの荒れ模様がのぞいている。
「大丈夫だよ。今なら終電にも間に合うからさ。待ってるうちに逃した方が大変だもん」
「そのときは後ろに積んでやるし」
ラストまで詰めることが多い田所は普段からバイクで通勤していた。
「それはちょっと大袈裟かな」
百々は口をすぼめる。
「そうか?」
「ん、ありがとう」
微笑んで返せば渋々と言った具合だった。田所は引き下がる。そこでカウンターは見え、百々はシアターA前のロビー、その壁面にある鉄扉へ、なぜならそこからバックヤードへ入るのが更衣室に一番近いからだ、田所は事務所奥の映写室へと道を分けた。
「じゃあ気を付けてな」
「もち。おつ」
「田所くーん」
聞えて声の方へ目を向けると、事務所の鉄扉から水谷は顔をのぞいている。百々は頭をさげ、水谷もまた「お疲れ様」と手を振った。と、そこで水谷は何やら思い出した様子だ。
「そうそう、そろそろ例のハナシ、ね」
などと伏せ字が示すところは、差し当たってのアレだろう。ならば返す百々から容赦はなくなる。
「何の、コトでしょうかっ」
そう、いつものアルバイトにいつもの仲間がいたとして、百々が変わらぬ日々を送っているのかといえば、それは少し違っていたのだった。
いわゆる「ポン菓子製造機暴発事件」が原因もろとも世間から忘れ去られるまでおよそ十日。田所がその話を百々へ持ちかけなくなったのは、さらにそこから三日後となり、その日から二週間ほどが経った事件からひと月後の今日。
事件直後はセクションCT入職に必要なID作成のため、生体データはもとより各種誓約書に契約書へのサイン等々、百々はこまごました手続きをこなしていた。しかし終われば呼び出されることはなく、身分証明書と、職員が所持するGPS内蔵のゴツい専用端末を渡され、こうして「待機」の日々を送っている。必ず所持するように言い渡されたそれらは、いつも持ち歩くトートバッグの中だ。否応なく目に入るたび百々を不吉な気持ちにさせていた。
今日も更衣室で目に留まる。何事もないならそれで御の字だ。私服に着替え、百々は置き傘を手に通用口へ向かった。ドアを開くなり吹き込んできた風に首をすくめる。
「もしかして電車、止まった?」
駅は『20世紀CINEMA』前を「ハモ公園」の方角へ進んで信号を二つ渡り、「ハモ公園」とは逆方向へ折れたところだ。
目指して風に逆らいともかく歩く。誰とすれ違うこともなく、一つ目の信号を越えた。さほど離れていない二つ目を目指し、人気のない街を踏ん張り歩く。
と、気付くことができたのは、進めば互いがぶつかる位置を取っていたからだろう。風音に混じり足音は、背から近づいていた。まさか、と過るのはついさっきの会話のせいだ。居心地の悪さに百々は歩調を早める。すぐさま相手もピッチを上げたなら、脳内で悲鳴こそ上がっていた。たまらず百々は駆け出す。振り切られまいと繰り出す足へ相手もムチを入れていた。そこからの加速はそら恐ろしい慣れにまみれると、がぜん百々との距離を詰めにかかる。
「わわわ。わわわっ」
そうして辿り着いた二つ目の信号は赤だ。
どちらへ行くべきか。躊躇する間に追いつかれる。
「おい」
肩を掴む手は大きい。だから教わっていたのはゴツい端末のアラート送信で、百々は咄嗟にトートバッグの中へ手を突っ込んだ。間に合わないなら振り向きざま、力いっぱいバッグを振り上げる。
「痴漢っ。強盗っ。テロリストぉっ」
滅多打つリズムは、オリジナリティーあふれる三段論法。
「違うッ」
「違うわけ、なーいっ」
ようやく触れた端末のアラートボタンを力いっぱい押し込んだ。
「だから落ち着けッ」
知った音は間近から、やがてピピピと聞こえてくる。それが端末の呼び出し音だったとして、百々の手元からではないのは妙だった。
「俺だ。……そうだ。間違いだ。今、ドドといる」
「へ?」
聞こえてようやく、百々は叩きつけていた手を止める。振りかざしたバッグの影からそうっとのぞき込んでいた。なるほど、そこには食らった不名誉の応酬によるものか、むっとした顔のセクションCT職員、レフ・アーベンが立っている。
「迎えにきただけだ。今から現場へ向かう」




