case1# SHAKE HANDS -1/9
駅から徒歩十五分。
オフィス街の一角に、使い込まれた木製の扉はあった。レトロなカフェにも思えたが、掲げたプレートにはこう刻まれている。
『20世紀CINEMA』
そうっと押し開け、静かに足を踏み入れる。フロアは一目で見渡せるほどしかなく、人影は劇場スタッフさえいない。ワックスを吸い込み過ぎた床板だけが飴色に鈍く光ると、奥へと誘うポスターが壁にずらりと貼られていた。
中から投げかけられるスタアたちの眼差しはどこかはかなげだ。くぐり抜けて真正面のチケットカウンターへ向かう。
本当はこんなことをしている場合ではないはずだった。なにしろ卒業間際でありながら、進路というものが決まっていない。つまるところこれは切羽詰まった現実からの逃避で、このさいだ、名画から人生のヒントを得たっていいじゃないか。確かにそう考えてもいた。
スクリーンはこのカウンターを越えた向こう側にあるらしい。中央にカウンターをおいて通路は左右に分かれると、塞いでポスターの貼り付けられたイーゼルは立てかけられていた。右側だ。最後に受けた面接の帰り、駅前で見たそれはイーゼルに貼られている。
「あ、お待たせしています」
思いがけず大きな音がしてカウンターの向こう、通路の間に据えられた鉄扉が開いていた。マスタード色のブレザーを着込んだ劇場スタッフは姿を現すと、視線を追いかけた後、投げかける。
「ご鑑賞はそちらの作品でよろしいですか?」
果たして二時間は経ち、イーゼルに貼られた同じポスターを眺めてみたが、いまだ滲んで瞬きばかりを繰り返していた。
とにかく良かった。
怒涛の感動に説明などおぼつかず、その一撃は暴力に等しかった。だが食らった気分は爽快で、つもりつもった閉塞感を間違いなく吹き飛ばしている。もはや逃避だろうと、足を運んだ自身の軟弱さを讃えずにはおれなかった。そうして得たのは明日の活力、蘇った根拠なき自信。高く突き抜けた青空に、圧倒的QOLの向上……。
と、両の拳を握り締めたその時、背を人は過ってゆく。共に鑑賞した観客だ。そう、これだけの名作にもかかわらずたった一人の相方だった。その相方は平然とした面持ちで今、劇場を後にしようとしている。あまりのギャップに注意は奪われていた。見送るほどに現実は舞戻り、抱いた感動も冷めてゆく。
ワケがない。むしろどうして、なぜは膨らみ、責めるなどと感情的にさえなれないほど違いにカルチャーショックを覚えたなら、どうすればこの良さを伝えることができたのか。いや、たった一人の相方のみならず、この作品に気づくことなく過ごす数え切れない人たちへ。
視界へ光が差し込んだのはその時だった。窓は路面側に並んだきりと遠いのだから不信に思い振り返る。光源はシアターへと続く壁にあった。「アルバイト募集」のポスターは神々しいまでの光に包まれ、優しく[百々未来|ドドミライ]を見つめていた。
かくしてマスタード色の制服を羽織り百々はカウンターの内側に立つ。ふう、と吐いた息で二台の発券レジ、その傍らに置かれた劇場内モニターを確認した。画面の下半分に写る空席はいつものことだから気にしない。大事なのは残る上半分で、アップになったブロンド女優の襟元、「かまわず逃げて」と打ち出された字幕を読む。つまり、と目をやったのは腕時計だ。そこで針は上映終了十分前を指していた。
さて、ここ『20世紀CINEMA』はカウンターの右に六十席のシアターAを、左に九十五席のシアターBを持つ映画館である。だがアルバイトを含め従業員は十三人のみ。専属の映写係を含めても終日運営は四、五人でこなすというコンパクトな映画館だった。おかげで売店、発券、清掃、案内業務が重なる観客の入れ替え時ともなれば、劇場規模からは想像ができないほど忙しい。しかも迫る次の入れ替えは時差五分での両シアター同時入れ替えときていた。身構えずにはおれず、百々はまた小さく息を吐く。
「この主人公、言われたまんまなんだよね」
小声で隣へ話しかけた。
「そうそう、主人公なら残ってギリでヒロインを助け出すもんだよな普通」
返したのは先輩アルバイト、[田所俊|タドコロトシ]だ。
「なのに言われた通り逃げ出して、罪悪感に舞い戻ったらドカン、のエンドロールだから俺、試写で見た時、唖然とした。さすが支配人チョイス」
言い切ると同時にカウンターから抜け出してゆく。前へ回り込むと順路を作り、フロアへチェーンポールを並べ始めた。目にした百々も「完膚なきまでの敗北 現代のロミオとジュリエット バッファロー」、「バッファロー」とはまさに今、二人が話題にした映画タイトルだ、が印字されたパンフレットをカウンターへ積み上げてゆく。
「だよね。前衛的っていうのかな」
「いやぁ、どうだろ」
「どちらにせよ、いかにもウチの上映作、って感じだけどね」
ちなみに田所の言う「試写」とは、配送されてきたフィルムに不備がないかを確かめる業務試写のことだ。近頃、田所はそこへ呼ばれるようになっていた。
そんな田所がポールチェーンを並べ終えた手をはたく。流す視線で百々へ背後を示してみせた
「なわりに、この動員」
確かに「バッファロー」が上映されているシアターA前のロビーには、四人だけが次の上映を待って長椅子に腰掛けていた。一人はサボタージュに違いない上映途中で帰ってしまいそうなサラリーマンで、もう一人はリュックを背負ったオタク風の中年男性。かと思えば髪型が個性的な人気俳優オオタジ似のお兄さんに、長い黒髪が清楚な女性だ。あと、どの作品を見に来たのか。路面側の窓際に、外を眺める大柄な男性が一人立っていた。
と「バッファロー」の主人公が、堂々スクリーンの中で肩を切り返してみせる。もう何度も見続けたお馴染みの動作は衝撃のクライマックスまであと数分であることを告げていた。
「でタドコロ、どっちのスクリーン、担当する?」
「俺、グッズ売るの遠慮するわ」
迷わず返され、百々は口をすぼめる。
「言うと思った」
「ここは先輩の権限で」
などとシアターBで上映されている長編アニメ映画「ぶっとびあかウサ! 猫耳大作戦」は、誰もが嫌がる関連グッズ販売もまた兼任する流れになっていた。これが大人気なうえ、電卓頼りの販売に神経を使うのである。
「はぁい。ならもうバッファロー、吹き飛ぶよ」
譲れば、カウンターの下からヘッドマイクを掴み上げる田所の動きこそ早い。
「サンキュ」
切り返す靴先で、転がるようにシアターAへ消えていった。
「どうです、あかウサ」
掛けられた声に百々は振り返る。鉄扉を押し開け支配人、水谷は、今日も紺のスーツで現れていた。
「あ、はい。もう半分くらい埋まっています。リピーターが多いみたいで」
片耳に水谷は、さっそく田所の使っていた発券レジの画面を弾く。座席の埋まり具合を確かめた横顔には、砂糖の入ったホットミルクとじんわり笑みが浮かび上がった。
「じゃ来週で終わりだけど、もう二週、のばしちゃおうか。グッズも在庫、もちそうだしね」
やおら振り返って背後へ投げる。鉄扉の奥の事務所から社員の橋田もまた出てくるところだった。
「え、できるんですか」
唐突な提案に橋田の眉も跳ね上がる。
「うん。次にフィルム回す予定の[五十芸|イソゲイ]さんなんだけれど、今やっているドキュメンタリーが当たってるって。上映をのばしたいらしいのよ」
それもまた働くことで知った仕組みだろう。特定の配給先を持たないことからオリジナルの編成で興行を行う『20世紀CINEMA』は、時に他館と共同でフィルムをレンタル、上映していた。ゆえに互いの都合が合えばこうした変更も稀ではなく、今回もまた、ということらしい。
「ああ、山本五十六の」
思い出した橋田が大きくうなずく。
「やっぱり五十つながりで何かご縁があるのかな」
ゴロの良さに水谷が笑った。
古い木戸はそんな視線の先でまた開く。小さな映画館へ活気はにわかに吹き込まれようとしていた。




