最終章 彼は今日も、ダンジョンに潜り続ける。
最終章 彼は今日も、ダンジョンに潜り続ける。
第三十一話 隣
「……ッ!」
心臓が吹き飛んだかと思った。
目の前には、バスローブのはだけた律葉さんがいる。なぜ、どうしてと記憶を辿ろうとしても、二人で酒を飲んでいる場面で途切れていた。
やってはない、な……。あー、焦った。酔った勢いでやるのはダメだろ。つうか、自分のせいで人が死んだってのに、そんなことをするなんて終わってる。
酔いつぶれた俺を、彼女はホテルまで連れてきてくれたんだろう。
「……はぁ、頭痛い」
ガンガン、人の頭の中を叩きやがって。頭痛なんてクソ喰らえだ。
「いや……それは俺の方か」
酒を飲んで、タバコを吸って、たらふく食って。終いには酔いつぶれる……欲に溺れた愚かな自分が忌々しい。自分の顔面をぶん殴りたい気分だが、さすがに止めた。
「……気持ちよさそうに眠ってら」
不思議な人だとは思っていたけど、大胆で危なっかしい人に変わったな。いや、いい人でもあるのか。俺を見捨てずに、ホテルまで連れてきてくれたんだから。
「……いや、ここラブホじゃん」
こんな派手な装飾のホテルがあってたまるか。なんでラブホって、部屋がこんなにも凝ってるのかね。今の心情とは、かけ離れ過ぎてる。
「んん……」
ああ、くそ……心臓が煩い。隣からの甘い香りで、頭がおかしくなりそうだ。
……ん?
「……いや、臭い」
最悪の体臭と口臭なんだが……よくもまあ、こんな臭い奴の隣で寝れたもんだ。
「気持ちよさそうに寝やがって」
まったく、こっちの身にもなって……いや、違うか。こっちの身になってくれたからこそ、傍にいてくれたんだろうな。考えすぎな気もするけど、そうだと嬉しいという感情が湧き出てしまう。
「……シャワー浴びるか」
はあ、ガラスの風呂場じゃなくてよかったよ。
◆◆◆◆
――ザアアア。
「……」
シャワーで少しくらい気が晴れるかと思ったけど、ダメだな。汚れた体を洗い落すように、この感情も洗い流せればよかったんだが。そんなこと、できるわけないよな。
「はぁ」
一人でいると、頭の中に浮かぶのは一番星のことばかり。彼らを探索協会まで送り届ける道中で気を失って、酒の飲み過ぎで記憶を失って。
そもそも……一番星も失った。
失ったものばかり考えても意味はない。そんなこと、誰に言われなくても分かってる。それでも、どうしても思い出してしまうのだ。
多少は強くなれたと思っていた。ラットマン、思い出の遺骸、蜜熊。ソロだから一人で相手にしてきた分、それなりに格力はついた。佐伯さんの指導もこなして、それなりに褒められもしたのに、結局はこのありさまだ。
『ダンジョンに入るのに、強さは必須。最低限なんてない。いくらやっても足りないくらいですよ』
『後悔するのはいつだって自分です。そういう時、責任感が強い人ほど自分を傷つけるものですから。備えあれば患いなしというわけです』
まったくもってその通りだ。
助けたい思いとは裏腹に、逃げたい気持ちの方が先行した。あの化け物と目が合って、結局動けず硬直しただけ。
気が付けば走っていたけど、もう少しだけ早く出られれば、誰か助かっていたかもしれないのに。その後悔は、重たく冷たい空気を纏って足元からすり寄ってきているよう。
『漣さん!』
シャワー音の奥底から、彼らが俺の名前を呼ぶ声がする。幻聴なのは分かっているけど、ミルとカフェオの一件もあってか、幻聴だけではない気もしてしまう。
いや、思い出の遺骸の時とは違うよな。
思い出の遺骸の魔石が手元にある状況と、彼らの遺品である何の力もないドッグタグ。魔力を含むものと、含まないもの。思い出を具現化するモンスターではなく、実際にいた人間。
何もかもが違うじゃないか。
「……」
血の感触、彼らの死体の冷たさを、体はまだ覚えている。出血多量のはずだったのに、やけに死体は重く感じた。ずっしりと残っている彼らの重さが簡単に消えるわけがない。
「うっ……」
思い出した途端、これだ。
胃から逆流してくる液体が鼻を刺激した。
情けない。
裸のまま、便器に一直線なんて。
「……しんどい」
また、頭を洗い直さないと……。
足が重いな。
もう一度、シャワーの前に立つ。
「……ひでぇ顔」
鏡に映った顔が、今にも死にそうなほど血の気が引いている。死んだ魚の目というよりも、昔の生気の消えた社畜時代の自分に戻ってしまったかのようだ。
「え……」
でも、体は違っていた。
盾の影響で左腕だけ筋肉が肥大化していたはずなのに、右腕も左腕と同じくらい太い。肉体が数日で変わることなんてありえない。それだけじゃない。体がやけに大きくなっている。太ったとかそういうわけじゃない。
何年も培ってきたかのような洗練された肉体だ。
一つ考えられる可能性はある。
「化け物を倒したから」
格力に差があればあるほど、倒した経験値は大きい。これは、ゲームのRPGと同じ原理だ。強い敵を倒せば、経験値が多く入る。
ゲームと違う点といえば、格力アップだろう。
飯塚君から格力のことを聞いたとき、自分でも調べた。
格力が上がれば、肉体も変化するそうだ。徐々に筋肉がついていた様に見えていたのは、ダンジョンで鍛えていたのもあるだろうが、きっと知らぬ間に格力が上がっていたのも大きな要因だろう。
そして、考えられる可能性がもう一つ。
天能が生えたということ。
天能に応じた肉体に変化した可能性だ。天能は、願望を力に変えると言われている。天能最適に使うために肉体を変化させる。そうすることで、天能の力を十分に発揮させるためだ。
肉体の変化から考えても、天能が生えたと確信できる。
「……クソ」
八人がかりでダメージを与えて、化け物をボロボロにして、あと少しのところで犬堂君が吹き飛んだ。その直後、ようやく足が動いた。
誰か一人を救うために飛び出したのに、結局は誰も救えないまま最後には俺が止めを刺した。
「横取り……探索者が最もやってはいけない行為の一つ」
漁夫の利で得た力かよ……。
――ドン!
「最低だ」
壁に頭を打ち付けたはずなのに、まったく痛みを感じない。
馬鹿な行為で、肉体が確実に変化している証明となってしまった。
◆◆◆◆
「……」
シャワーを出てからすぐ、タバコに逃げた。ストレス発散には、あまりにも都合が良すぎる。こんなことしても何も変わらない。いや、むしろ、探索者としては終わっているのかもしれないな。
「……ダンジョン、潜れんのかよ」
こんな精神状態でダンジョンに潜っても、無駄死にする気がする。
肉体が変わっても、精神が追いついていない。
「心の成長が追いないのに格力が上がったら……どうなるんだろうな」
肉体に振り回されて心がすり減るのか、他己評価と自己評価に悩まされるのだろうか、それともシンプルに鬱になるのか。分からないことばかりだ。
「分かりたくもないか……」
言ってしまえば、奪った力だ。
本来なら、与えられなかった力。
そのことが、とても酷く醜く感じる。
「分かろうとするのはいいことだと、私は思うがね」
「……律葉さん」
いつ起きていたのか分からなかった。というか、足音すら聞こえなかったな。思考の海に沈み過ぎていたようだ。
「やあ、堅志君。おはよう」
「お、おはよう」
くっ……寝起きという概念はないのか、この人。なんつう、色気だ。バスローブってこんなにも攻撃力の高い衣服だったのか。
ああ、またこの香りだ。花の蜜のような甘くて優しい香り。どうしてこんなにも、心が落ち着いてしまうのだろうか。いや、心臓は煩いはずなんだけど。
「おや、顔が赤いようだが?」
ちょ、近いっす……ああ、クソ。昨日散々いらんことを喋って、あまつさえ記憶がないから余計に心が痒い。恥ずかしすぎて消えたくなる。
「お、女慣れしてないんだ……悪かったな」
初心なわけでもない癖に、口から勝手に言葉が!
「いや、可愛らしくていいじゃないか」
「さ、さいですか……」
くそ、いつもこの人に遊ばれてる気がする。顔が熱くて仕方がない。つうか、年下の女性から可愛いって……全く嬉しくないんだけど。
「ふうー」
彼女が吐いたタバコの臭いが、火を点けていたタバコを思い出させる。まずは、落ち着こう。根元付近まで燃えてしまったタバコを吸う。喉を通る熱が、肺に向かう煙が、体を侵すように心の乱れも消えていく。
「さて、今日は何をしようか」
「え」
「せっかくだし、これからデートにでもいかないか?」
「……あっつ!」
やばい、いきなりのこと過ぎて足に灰が落ちてたのに気付かなかった。
つうか、俺、パンイチじゃん……本当に、何してんだよ。
「喜んでもらえて何よりだ」
「え、あ、いや……はい」
「じゃあ、一度家に帰ろうか。準備ができたら、連絡する」
「りょ、了解」
予定が決まると、律葉さんはすぐに行動を始めた。
なぜ、こうなったのか分からない。
けれど、今は流れに身を寄せるほかないとも感じている。
ホテル代はもちろん、俺持ちだ。迷惑をかけたのだから当然だと言い張ったのだが、彼女は少しだけ不機嫌そうな顔を見せた。
なぜ彼女が不機嫌そうな顔をしたのか分からないまま、ホテルを後にする。
第三十二話 自己愛
案の定、というべきか。律葉さんの最寄り駅も、探索協会前だった。それと、家の方向もほぼ同じ。まあ、町中華屋で会うんだもんな。家がこの近辺なのも当然だ。
駅から五分程度離れた場所で、律葉さんと別れた。家賃が高く、比較的治安のいい場所に向かったので、かなり稼いでいるようだ。まあ、女性だし、一人暮らしのために安全な場所を選んだだけかもしれないが。
そんな無意味な妄想をしながら、家まで歩いた。
家に入ると、玄関には思い出の遺骸の魔石が出迎えてくれる。金に余裕ができてから、埃がつかないようプラスチックケースに入れた。招き猫の貯金箱に敷いてあるような座布団の上に、魔石が鎮座している。高級な宝石を買ったみたいだ。
まあ、高級であることには違いない。なにせ、百万もするのだから。
それに、市販で買うような石とは違い、ちゃんと効力もあった。
「……」
幻覚幻聴が聞こえければ、俺は気を失って化け物に殺されていたことだろう。こうして一人だけ無様に生きているのも、魔石のおかげだ。
けど、素直には喜べなかった。多くの犠牲を払いながら倒した狼の化け物は、本来であれば自分が倒せるようなモンスターではないからだ。
思い出の遺骸を見ていると、ミルとカフェオを思い出す。殺したのは魔物だ。それでも、姿はミルとカフェオだった。愛犬を殺してしまった罪悪感を忘れないようにするため。
要は、戒めだ。
だから、敢えて目立つ場所に置いた。
「……ああ、そうだ」
狼の化け物のドロップアイテムが手に入ったんだった。これも、この中に入れておこう。
自分が生きているのは、一番星のおかげだということを忘れてはならない。
これもまた、戒めだ。
「……牙は、入らないな」
仕方がないので、部屋に入って埃が被らないようにクローゼットに置いた。
「……洗い物したら、準備しよう」
いちいち言葉にしないと、行動できないなんて情けない。でも、それくらい全ての行動が億劫だ。何もしたくないと叫ぶ心を無理やり働かせる。
その後は、無心になって片づけをした。まあ、特に汚れているところがなかったから、そこまで時間はかからなかった。強いて言えば、水筒が自分の血で汚れていたくらいだろう。まあ、傷だらけだったから仕方がない。
思い出すだけで胃液が荒れる。さすがにこれは、使いたくない。
「ふう」
中身を捨ててから軽く洗って捨てることにした。あとは使っていないものばかりだな。
じゃあ、着替えるか。
「服……あったけな」
私服は数えるほどしか持っていない。まあ、無難な格好でいいだろう。つうか、無難な格好しかない。
「まだ全然余裕があるな」
先に駅前で待ってるか。
今は、家に一人でいないほうがいい。
タバコを吸えるカフェが一番だけど、減ったからないだろうな。
喫茶店があればいいんだけど、まあ探してみるか。
◆◆◆◆
「ふうー」
あったよ、昔ながらの喫茶店。カウンターにはマスターのおじいさん、大切に使われているであろう道具、珈琲と料理と紙煙草のヤニのニオイだ。
当たりだったな。行きつけの喫茶店にしたいくらいだ。いや、そうすればいいんだよな。部屋にこもっているだけじゃ、きっとまた馬鹿なことを考える。それか、何もしなくなるかの二択だろう。
「……うまい」
マスターの淹れる珈琲は美味かった。苦みの中に酸味があって、香りは甘い。思わず漏れた言葉に、マスターは無言のままだが、微笑んで小さく会釈した。少し遠いソファー席に座ったけど、どうやら聞こえてしまったようだ。
マスターは背筋がシャンと伸びていて、白髪をオールバックにしている。顔にしわがなければ、年配の人とは思えない。そのしわでさえも、イケオジに見えてしまう。元がイケメンだったんだろうな。
って、人間観察もほどほどにしろよ。
「……ふう」
本でも持ってくれば良かったな。電子じゃなくて紙媒体の。こういうところで読む本は、いつもより面白く読めそうだし。喫茶店を題材にした話しとか読んでれば、本の中の登場人物の一部になれた気分になるだろう。
気分転換には、ちょうどいいかもしれない。
ブブ――そんなことを考えていたら、スマホが振動する。律葉さんから連絡が来たのか、それとも公式のニュース速報や、スマホが勝手に教えてくれる時事ネタでも届いたのか。
[準備が終わったよ]
[堅志君は、家から出れそうかい?]
律葉さんからだった。
タバコの吸える喫茶店にいると伝えると、すぐに連絡が届く。
[素晴らしい]
[私も、一服させてもらうとしよう]
「……ふ」
変わった人だよな、本当に。俺みたいな中途半端な人を好ましく思うなんてさ。
……いや、若者の命を犠牲にして生き延びた人間なんかの方か。
ああ、また余計なことを考える。
こういうことを考えるたびに、俺は自分が大好きなんだなと思ってしまう。
昔、どこかで読んだ小説か漫画か、それともどこかで観たアニメか映画で、ネガティブになるのは自己愛が過ぎるらしい。自分が大好きすぎるのだそうだ。
いわゆる、ナルシストというやつ。
いや、まあ、当然と言えば当然だけど。他人より自分が大切なんて、当たり前だ。なのに、ナルシストだと世間は批判する。自分たちだって、自分が大好きで仕方がないくせに。
ああ、いや、今はいいんだ、そんなこと。
俺は今、自分がいかに可哀想かと思い込んでいる状態なのだろう。それか、高い理想のせいか。もっと、上手くできた、誰かを助けられる自分でいたかったのかもしれない。
要は、プライドだ。
全員を犠牲にした結果、自分だけがいい思いをしてることを許せないのだろう。なんというプライドの高さ、なんという傲慢な考え。才能ある若者たちより劣っているくせに、自分ならできると未だに信じ込んでいる。
馬鹿で阿呆で稚拙、無力な癖に考えは一丁前な自分自身。
たしかに、自己愛だろう。
今までの行いを振り返ってみてもそうだ。
思い出の遺骸を殺した時も、結局は自分の都合のいいように変換した。魔石から聞こえた声も、自分が自分のために生きるための思い込みだったに違いない。
なら、今もそうするべきなのにできないのは、相手が人だったから。自分より若くて才能がある人を見殺しにしたことが原因だ。
愛犬の姿をしたモンスターと人間。
どちらの命が重いかなんて決まってる。
「……いや」
分かってる。
すべて言い訳だ。
本当は、心のどこかで自分が生きてることにホッとしてるという事実。あれだけ消えてしまいたかったにも関わらず、いざ死ぬ場面が見えてくると……生きたいと願ってしまった。
あまりにも醜い。
ドロドロの汚い心が見えてしまって吐き気がする。自分自身が許せない。人とは違う道を生きて上手くいったことで、自分は優れていると勘違いしていた。それは、勘違いだと耳元で囁いてくる。
本当に、どこまでも愚かだ。
最終的に行き着くのは、あの時に死んでしまえばよかったという考えが頭から離れないこと。
まったく、本当にどうしようもない。
洗練されたはずの珈琲の色が、自分の醜い心と重なってしまう。
マスターの淹れた珈琲に対して、あまりにも失礼な事だ。
それでも、黒い感情は消えてくれない。
温かいコーヒーを飲んでいるはずなのに、指先が冷たい。背後に何かが憑いてしまったかのように肩が重いし、やけに体が重く感じた。
……この店の照明って、こんなに暗かったっけ。
――カランコロン。
ドアベルの音が、不快な感情を浄化するように耳に届いた。
下がっていた頭が、自然と上を向く。
そこには、銀髪ボブにピンクゴールドの眼鏡をかけ、ピアスを揺らす美女がいた。いつものカジュアルスタイルな格好とは違う。透け感のある白のゆったりとシャツ、中には肩の出ている服、大きめな灰色のジーンズ。
彼女が入ってきただけなのに、花の香りがする。
自分には見合わないほどの美女。
律葉さんが姿をみせた。
「やあ、お待たせ堅志君」
まるで恋人にしか見せないような笑顔を見せる彼女を見て、背筋を伸ばして頭を下げるだけで精一杯だった。
第三十三話 デート
「ご注文は?」
「アイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
なんか、急に喫茶店の温度が上がった気がした。薄暗く感じた照明も、普通に明るく感じる。そういえば、この喫茶店には日が差していた。空は雲ってもいないし、先ほどまで太陽が隠れていた気配もない。
どうして、あんなにも見える世界が暗くなっていたのだろう。
「待たせてしまったようだね」
「いや、全然。家にいるのが耐えられなかっただけだから」
「なるほど。なら、その行動力に感謝しないとだね。タバコが吸える喫茶店なんて、ここら辺じゃレアな店だよ」
「たしかに、それは違いない」
電子タバコは問題ないカフェもあるけど、紙煙草が許されてる店は少ないからな。
彼女は慣れた手つきでタバコに火を点ける。そういえば、今までタバコを吸っていなかった。いや、吸わないに越したことはないんだろうけど、今は吸っていたい。
「今日はとても暖かいね。出掛けるには、ちょうどいい気温だ」
「たしかに。そろそろ五月だしな」
「そうか。ゴールデンウィークだったね」
「世間はそうだな」
「たしかに、我々にはあまり関係のないことだったよ」
そう、このままダンジョンに潜っていればの話だ。
「アイスコーヒーでございます」
「ありがとうございます」
彼女は、店員さんに礼儀正しい。客商売をしているからか、表向きの顔というのがあるのだろう。町中華の看板娘とは仲がいいのか、砕けた口調になる。まあ、彼女の話し方は、砕けていても若干お堅い感じがするけど。
「ん、これは美味しいね」
「あ、ああ……そうだな。いい店を見つけられたよ」
「……違いない」
アイスコーヒーがよほどお気に召したのか、彼女はもう一口アイスコーヒーを口にする。アイスコーヒーを飲むだけで、色気がすごい。
服装のせいもあるだろうけど、末恐ろしい人だ。
「さて、今日は何をしようか。昨日の居酒屋といい、今日のホテルといい、奢られてばかりだからね。今回のデートは、全額私が支払うよ」
昨日のことは、全く覚えていない。金を出していたことに、心底ほっとしている。介抱されておいて、一円も支払わないというのは男として終わってる。
今日のデート代も、俺に気を遣って彼女が提案してくれただけに過ぎない。
こちらが払うべきだ。
「いや、出すよ」
「遠慮しておこう。奢られるだけというのは、性に合わないんだ」
そういわれてしまうと弱い。
彼女の場合、本心でそう告げているのだろう。本気だぞという圧を感じる。モンスター以外で、圧を感じる日が来るとは思わなかった。
「……分かった」
「助かるよ」
「いや、礼を言うのは俺の方だ。気を遣わせて、申し訳ない」
そういうと、律葉さんは眉間にしわを寄せた。気に食わない。顔がそう伝えてきた。
「君は、勘違いをしている」
彼女はそういうと、アイスコーヒーを回しだす。
「私は、興味がない男に金を払うことも、時間を与えることもしない。堅志君は、自分を下に見ている節がある。謙虚も度が過ぎれば、ひどく痛く見えるから気を付けたほうがいいね」
占い師を生業にしているからか、彼女の言葉は心に刺さるものがある。
それでも、嫌な気はしない。
彼女なりの言葉で例えるなら、興味がない男に助言はしないというやつだろう。
「……ぐうの音も出ないよ」
「ふふ、だろうね」
本当に楽しそうだ。
お互いに、遠慮もなにも必要ない関係だからだろうか。喫茶店で珈琲を飲みながらタバコを吸う時間が、なによりも愛しく思える。
「さて、今日の予定を決めようか」
「ああ」
喫茶店にいる時間に、行きたい場所の候補を考えておくべきだったなと思った。
常に一歩先をリードする彼女のほうが、頼りがいがある。なんというか、すべてにおいて負けている気がした。
自尊心が傷つくことはないことだけは、救いだ。
これ以上、惨めな思いはしたくない。
「私は、ここに行きたくてね」
結構遠いな。電車で二時間、バスで行く場所か。
まあ、でも、彼女が行きたい場所が、俺の行くべき場所だろう。
「じゃあ、そうしようか」
「よし、決まりだね」
相変わらず、彼女の行動は早い。アイスコーヒーはいつの間にか飲み切ってるし、タバコも吸い終えている。行動に迷いがない。律葉さんの時の流れだけ1.5倍速で流れているかのようだ。
「いや、ここはさすがに」
「今日のデートは、もう始まっているんだ」
スタスタと歩く彼女の姿は、キャリアウーマンそのものであった。
「ごちそうさまです」
「ふふ、どういたしまして」
何が面白いのか、目を細めて笑う。
「君は律儀でいいな」
「普通だろ」
「奢られて感謝する。そういう普通のことができない人は、世の中にたくさんいることを覚えておいた方がいい」
「はぁ」
たぶん、そういうことがあったんだろうな。
カランコロン――今の考えは忘れよう。
「じゃあ、行こうか」
「そっち駅じゃないぞ」
「ん、今日は車だよ」
アクセサリーの付いた車の鍵を持っていた。
「え」
「さあ、行こうか」
二十五歳、車を買えるほどの稼ぎ。家賃の高いマンション暮らしと思われる。女性にしては背が高く、プロポーションも凄い。満ち溢れる自信。
考えないようにしてたけど、やっぱり彼女の隣には相応しくないよな。
「どうしたのかな?」
「いや……なんというか、負けました」
「ふふ、私は意外と凄いんだよ。ほら、早く行こう」
「はい」
……駐車場とガソリン代は出さないと。
◆◆◆◆
「着いたよ」
数分歩いた先に、真っ赤な軽自動車が見えた。
「ッ」
少し熱かったはずの体が、一気に凍えるくらいに寒くなる気がした。
ただの色なだけなのに、赤を見るとフラッシュバックする。彼らが流した血が、ツナギから弾かれる様が。数分前の出来事のように思い出されてしまう。
「こっちの車だよ」
「あ、ああ」
彼女が差す方を見れば、シックな青い普通自動車。赤が目につかなくなれば、自然と心臓の音も落ち着いてきた。
念のためと思って持ってきたハンカチで顔を拭く。
律葉さんには、まだバレていないと信じるしかない。
「乗ってくれ」
ピピ――解除音が鳴る。
「ありがとう」
よし、もう大丈夫だ。声も震えてない。
そうだ。
違うことで、頭を満たそう。
そうすれば、思い出さなくて済む。
「あれ」
この人、さっきタバコ吸ってたよな?
なんでこんなに澄んでいる匂いがするんだ。
「どうしたのかな?」
「あ、いや、なんでも。お、おじゃまします……」
「どうぞ」
最近の車って、すごいハイテクなんだな。なんつうか、これ本当に普通自動車なのだろうかと疑問が浮かぶ。いや、たぶんそうなんだけど。つうか、まさかのマニュアル車なのか。なんかD以外のギアがついているのだが。
「これってマニュアル?」
「オートマだよ。パドルシフトっていう機能が付いてるのさ。ギアを変えられるんだけど、そこまで多用することはないかな。見た目が可愛いと思ったんだけど、飛んだ性能付きだったよ」
「……なるほど」
どちらにしても、車を持ってる時点で凄いわ。税金にガソリン代、車検に保険、車代。車はとにかく金がかかるイメージしかなかった。
「シートベルトは、つけたかな?」
「もちろん」
「じゃあ、行こうか」
ピンクゴールドの眼鏡から、サングラスに切り替えた。わお、めちゃくちゃ似合うね、サングラス。どこかの芸能人かと思えるレベルだ。
「お、お願いします」
「ふふ、了解」
車はゆっくりと動き出す。
そうだよな、こんな狭い駐車場に綺麗に駐車してたんだもの。運転が上手いのは当然だ。
流れる景色を横目に、ドライブが始まった。社内では、彼女のお気に入りの曲が流れる。流行っているであろう歌が次々と流れ出す。
「ドライブなんて久しぶりだ」
「借りたいしなかったのかい?」
「してないよ。運転は好きでも嫌いでもないから。職場も日用品も、歩いて買いに行ける距離の場所を選んだしな」
「なるほど」
その頃は、車のことなんて頭になかったしな。
「私は、ニ十歳の時にね。ある程度は稼げていたから、流れで」
「はは、それは凄い」
「堅志君は、どうしていたんだい?」
「その頃には、普通に働いてたよ」
今さらながら、互いの過去に触れていく。過去に触れるということは、その人に興味があるということの表れだと思っている。
嬉しいと思う反面、こんなに幸せでいいのだろうかと苦しくなってしまう。
一番星を見殺しにしておいてなお、こんなことをしてる自分に嫌気が差す。
それでも、デートは始まってしまった。
なら、今だけは、誘ってくれた彼女に嫌な思いをさせないようにしよう。
これでいい。
――俺は、しあわせになってはいけないのだから。
第三十四話 ネモフィラが咲く場所で
高速道路を凄まじい勢いで走らせて、一時間半。県をまたいでやってきた。
「運転、ありがとう」
「いいんだ。私は運転が好きだからね。結局、飲み物まで買ってもらってしまったし」
「当たり前だ。それくらいさせてくれ」
「ふふ、分かったよ。じゃあ、行こうか」
「ああ」
車から降りると、そこには大きなドームが見える。
「探営あまつか植物園。始めてきたけれど、かなりの大きさだね」
「東京ドーム何個分だよ」
「たしか、50個分だったかな」
「かなり広いなー」
たしか、探索者が経営している植物園だ。トップの探索者が、色々な人に植物の素晴らしさを知ってほしいと考えた結果、巨大ドームの植物園ができたそう。
探索者か……自分もそのうちの一人ではあるのだが、まったくの別物のように感じる。
俺は、本当に探索者と名乗っていいのだろうか。
無駄なプライドがちらつく。
「じゃあ、行こうか」
「……えっと、この腕は?」
「恋人気分を味わおうではないか。身長差もちょうどいいし、構わないだろ?」
う、顔が近い……まだドームにすら入っていないのに、花の香りがする。
今さらながら、彼女の顔の良さには慣れない。眼鏡では隠しきれないし、むしろ際立っている。美人は三日で飽きると謳ったやつは、さぞイケメンだったのだろう。まあ、性格はクズだったに違いない。
「……役得なので、もちろんです」
「ふふ、面白いことを言う。では、行こう」
「はい」
思わずドキマギしてしまった……自分がいかに女慣れをしていないか痛感してしまう。
チケット代は、もぎ取られてしまったよ。車を出すなら話は別だと言い張ったのだが、口の上手い彼女に敵うわけがなかった。
「では、行こうか」
「はい」
ドームが開いた直後、緑の香りよりも花の香りが広がった。目の前に広がるのは、多種多様の黄色の花々。天井には一面の青空が広がっている。空は青いというのに、太陽がない。
それは、見たことがある景色だった。
ここ最近まで、潜っていた場所。
「まるで、ダンジョンだな」
「そうだね。第一エリアそのものだ」
「え」
隣から返ってきた答えに、思わず彼女の顔を見てしまう。
眼鏡と長いまつげから覗く青い瞳と目が合った。
「ああ、言ってなかったかな。本当に少しの間だけ、探索者だったんだよ」
「そう……だったのか」
知らない事実だった。まあ、お互いのことを知らないし、彼女も隠していたわけではないのだろう。
「といっても、すぐに辞めたけどね」
「え」
「生えた天能が、戦闘用ではなかったから」
「……そういうのもあるのか」
「そういうことさ。さて、時間は有限だ。早速行こうじゃないか」
「わ、ちょ」
律葉さんに引き連れられて、ドームの中を探索した。
黄色、オレンジ、白、紫等色の様々な種類の花が、通路に顔を向けてるように咲いている。地面に咲いている花だけではなく、藤の花が上から垂れてアーチを作っている場所まであった。色によっても異なる花が咲いており、香りも違う。といっても、何が違うかと言われれば、細かく伝えることはできない程度の違い。
分かることといえば、外にいると勘違いしてしまうくらいの風景だということ。花々が、人を歓迎しているように顔を向けているのが、なんとも幻想的だ。
花が懸命に咲いている様子は、本当に綺麗というほかなかった。
「っ」
けれど、どうしても綺麗と思えない花もある。いや、間違いなく綺麗であるのだが、赤い花だけは心が拒んでしまう。
脳裏に浮かぶのは、あの化け物の不快な声。彼らの熱の引いた体と、一切動かない青白い顔と、大きな傷跡。咽てしまうほどの濃厚な鉄と、強烈に鼻を刺激するシンナーの臭いが蘇る。
この場所にいてはいけない。
脳が警告をするように、体が震えて初めて、血の気が引いているような感覚に襲われる。
足元に力が入らないのに立っていられるのは、隣にいる彼女が支えていてくれるからだろう。
「やはり、赤を受け入れるのは難しいかな」
「……もしかして、話してました?」
そういうと、彼女は目じりを下げて唇を結んだ。常に微笑むような表情を見せる彼女から、笑顔が消えた。そのことに、過去の自分を忌まわしく思ってしまう。
「赤は情熱の色なんだけど、今の君には全く違うものに見えているのだろう」
「はは……情けないですよね」
言わなくていいことが口から出てしまう。今日は楽しんでもらいたかったのに、どうやら難しいようだ。
気づけば視線は地面を見ていた。赤を見なくていいように、現実を見せないように。視界がどんどんブレている。今はまだ、飲み込まれるな。今日だけは、強い自分でいたいという意味のないプライドを、それでも突き通したかったのに。
必死に耐えようとするも……無理だった。溢れ出てくるものは、止まりはしない。
「情けなくないさ」
彼女の励ましでさえ、今は拒みたくなる。
そんな俺に、彼女はハンカチで涙を拭ってくれた。
思わず顔を上げると、律葉さんの青い色の瞳と目が合う。
「関わりのある人間が、目の前で亡くなったんだ。そうやすやすと、傷が癒えることはない。普通の精神でいられるのは……人間じゃないよ」
「……だな」
そう口に出すのが、精一杯だった。
けれど、少しだけ心が和らいだ。たしかに、それは人間じゃないのかもしれない。
自分が人間であると、自覚できたのはよかったと思えるほどに。
「すまないが、最後に付き合ってほしい場所がある」
「……もちろん。俺も、こんな終わり方はしたくない」
「よかったよ。じゃあ行こうか」
「ああ」
右腕に感じる熱が少しだけ強くなった。ふらついた足を律葉さんが支えてくれる。隣で誰かが支えてくれるのは、こんなにも胸が熱くなるものなんだな。
律葉さんが連れてきてくれたのは、一面に一種類の花が咲いた場所だった。眺めがいいようにか、丘のような場所まである。
「凄いな」
「ここを経営している探索者さんがネモフィラがお気に入りの花らしくてね。ここだけは、ネモフィラしか咲いていないんだ」
「綺麗だ」
「でしょ。じゃあ、丘の上に行こう」
「ああ」
丘の上から見えるネモフィラは、口では言い表せないほど美しいものだった。花びらがすべて、丘に向いて咲いてるからか、水色の絨毯が広がっている。
「せっかくだし、座りましょう」
「ああ……にしても、絶景だな」
「そうだね。花びらが丘を向いて咲いてるのも天能で調整しているみたいだから、よっぽどお気に入りの場所なのかもしれないね」
「……そうか」
天能なら納得がいく。地面から咲いているのだから、咲く向きだけはどうしもようできない。ただし、天能があるなら別だろう。天能で魔法が使える世界だ。意のままに植物を操る天能があってもおかしくはない。
「ネモフィラには【あなたを許す】という花言葉がある」
「あなたを許す?」
「そう……」
律葉さんが俺の方に頭を置いて、そっと口ずさむ。
「神話の由来からきているそうだよ。ネモフィロスという男が美しい妖精に恋をして、命と引き換えにして二人は結ばれる。けれど、その代償として男は息を引き取ってしまう。残された妖精は、冥界の門まで恋人を迎えに行くも、生きている彼女は中に入れなかった。彼女は、冥界の門で泣き崩れる。それを哀れんだ神様が、彼女をネモフィラに変えてしまう」
「……どこに、許すの要素が?」
それだと、神様が勝手に泣いている彼女を花に変えてしまっただけではないか。
「そうだね……愛する夫の命を奪った運命か、はたまた神か分からないけれど、妖精が夫を奪ったことを許したという解釈。もう一方は、冥界で泣き続ける精霊を神が一輪のネモフィラに変えたことで、心を救済したという解釈があるんだ」
「……妖精が許すか、妖精の心を救済したか」
だとしたら、今の俺は後者の解釈がいいと思う。ドロドロでグチャグチャになる直前の心を、救済してほしい。そう願わずにはいられないからだ。
「……私はね、堅志君」
そっと彼女の手が、俺の手を包み込んだ。
その手はとても温かい。自分の手が、ここまで冷たくなっていることなんて、気付きもしなかった。
彼女の手が、熱を与えてくれる。
手だけではなく、心まで温まるような優しい熱だ。
「君には、自分を許してあげてほしいと心から望んでいるよ」
「俺……自身」
「そうだよ。ダンジョンでの出来事は、すべて自己責任だ。なにせ、すべてが命懸けだからね。だから、君が必要以上に責任を感じることはないんだ」
そんなこと言われても……無理だ。
全員が戦っているところをただ眺めていただけの俺を……許せるはずなんてない。
「分かってはいるよ。こんな薄っぺらい言葉だけじゃ、君は自分を許しはしないってね」
「それは……」
「私の言葉なんかよりも、それが証明してくれるさ」
「それ……」
律葉さんが示したのは、俺の腕のデバイスだった。
「探索協会から、連絡が入ってるんじゃないかな?」
「連絡」
彼女に言われるがまま、支払い以外で使うことのなかった機能を使う。
「探索学園にはさ、一つのルールがあるんだ」
言葉を話すと同時に、彼女の手と、自分の手が絡み合う。
「私はすぐに探索学園を自主退学してしまったけれど、いくつかのルールは覚えている。デバイスの機能の一つ、音声登録だ。ダンジョンに潜る際は、必ず録音することがルールだったはず」
「これ……」
デバイスを起動してホログラムを展開する。律葉さんの言う通り、探索協会から連絡が入っていた。その中には、音声データが添付されている。
「デバイスは、探索協会から一方的な連絡が届く。探索者同士でのデバイスのやり取りはできないが、探索者を支えるのも、探索協会の仕事だからね」
「……聞いてもいいか?」
「ああ、聞いてみるといい」
震える手で、音声データを押す。
聞こえてきたのは、彼らの声だった。
ーーーーーーーーーーーーー
「生きて帰るぞ、絶対に!!」
「ああ、あの化け物から逃げられない。なら、やるしかねぇな!」
「漣さんに、出世払いしないとだもんね!!」
「うん!」
ーーーーーーーーーーーーー
恐らく、あの化け物と出会った時の音声だろう。遠くの方では、狼の化け物の雄叫びと、武器を構える金属音が聞こえる。
彼らの覚悟は声だけでも十分に伝わってきた。
『パーティーでは誰か一人が動けば、その【立ち向かう勇気】が全員に伝播していく』
きっと、どうしようもない状況の中でも、彼らには【立ち向かう勇気】があったのだろう。声だけなのに、それはとても眩しくて、聞いているだけで胸が張り裂けてしまうほど苦しい。
どんな絶望的な状況でも、彼らは戦う道を選んだ。
罪悪感で、心が蝕まれていく。
「俺は……」
「まだ、終わっていないよ」
これで終わりかと思ったが、まだ続きがあるようだった。
ーーーーーーーーーーーーー
「自分を、責め、ないで」
「……負け、ないで」
ーーーーーーーーーーーーー
「……ッ!」
あの時……安藤さんが最後に微笑む直前、何かを発していた。
その声は、本来なら届くはずのなかった声。
今まさに、化け物に殺されそうになっていたはずの安藤さんが、涙を流し息を切らしながらも、最後に残した言葉。
それは全て、俺に向けたための言葉だった。
「……俺の……ために……」
無理だった。
止めどなく溢れる涙を止める術を、俺は知らない。喉が焼けるように熱く、体が燃えているように熱を取り戻す。ドロドロで冷たく冷え切っていたはずの心に火が灯るよう。
安藤さんの気持ちに気付かないまま、自分を蔑ろにして責め続けることで、ようやく許されるものだと思っていた。
でも、違うのだと気付かされる。
これもまた、自己愛の一種だった。
要は、自己満足なだけなのだと。
俺が幸せになるなんて許されないと思っていたのは、俺しか望んでいないことだった。
本当に……どこまでも愚かな人間だ。
「俺は……」
「泣けるときには、泣いたほうがいい。君はまだ、人間なのだから」
「っ!」
彼女の優しさを、ようやく素直に受け入れらた気がした。
触れ合う部分から、じんわりと人の温もりを感じる。
今はただ、彼女の優しさに甘えることしかできなかった。
第三十五話 宣言
植物園で散々泣いた後、律葉さんの車まで戻ってきた。
辺りは、すでに日が沈んでいる。
「いやー、もらい泣きしてしまったよ」
「はは……お恥ずかしい限りで」
30歳男性、花と周りのお客と律葉さんに見られて号泣とか笑えない。つうか、これはもう立派な黒歴史である。思い出すだけで、顔が熱くなってしまう。
「憑き物が取れたようで何よりだよ」
聞き取った言葉と同時に、車の窓に映る自分の顔は吹っ切れた顔つきをしている気がした。あまり暗くて分からないが、心が軽くなった影響だろう。
「……律葉さんのおかげだ。本当に、ありがとう」
「受け取っておくとしよう」
「はは、そうしてくれ」
お互いに目を合わせて、しばらくの間、笑い合った。
隣で支えてくれた律葉さんのおかげで、立ち直るのが早かったように思う。目を覚ましてから、彼らの死を受け入れるのに三日か。なんだか、それ以上に長い時間を過ごしていた気もする。
嫌な時間というのは、本当に時間の進みを遅くさせるものだと実感した。
「さて、次の場所に行きたいんだが、いいだろうか?」
「もちろん」
「では、今度は飯をたらふく頂くとしよう」
「ああ、そういえば」
そういわれて、腹が空いている事に気づいた。背中とお腹がくっつきそうなほど、腹が空いている。ゴロゴロと音も立て始めた。たぶん、今は顔が赤くなっていることだろう。
「堅志君は、昨日から何も食べずに飲み物とタバコばかりだったぞ」
「え」
「ふふ、体もようやく生きたいと望み始めたようだな」
「……ああ、そうだな」
「よし、せっかくだ。焼肉でも食べに行こうじゃないか」
「おお、いいな。じゃんじゃん食べよう。ということで、運転お願いします」
「ああ、任せたまえ」
ハイテク車を運転する律葉さんの横顔は、やっぱり年下に見えないほど凛々しく美しかった。
◆◆◆◆
「宿も決まったことだし、今晩も飲み明かすとしよう」
「そうだな。乾杯」
「乾杯」
ゴン――重たいジョッキがぶつかり合う音が響いた。
微炭酸が泣き腫らした喉を刺激したからか、涙が出る。麦の香りが鼻に抜けて、なぜだかとても心地がいい。ビールは苦手だったはずなのに、今はとても美味しく感じた。
「はあ……生き返る」
「空きっ腹にビールと焼肉とは、胃はもちそうかい?」
「ああ、もちろんだ。探索者はそこまでやわじゃないよ」
「そうか」
律葉さんは、俺の言葉に頬が緩み、少しだけ声が弾んでいた気がした。
思わず見惚れてしまいそうになるのを、ぐっと堪える。
「に、にしても、いい匂いだ」
「そうだね。これほど食事が待ち遠しいと思ったのは、久しぶりだよ」
店中に漂う肉を焼く匂いが、胃を刺激する。律葉さんの言う通り、ほとんど三日間何も食べていないけど、問題ないだろう。そんなことを気にしていられるほど、今は余裕がない。
「お待たせしましたー。特上タンと、特上カルビ、特上ハラミでーす」
机の上に置かれた綺麗な肉。半個室の部屋で、人目を気にせず焼肉が食える。正直、生肉でも食べてしまいたいほど、腹が空いていた。
まずはタンから焼いていく。熱した網の上にタンを置くと、肉がジュっと焼ける音が響いた。音と香りが、さらに胃を刺激する。
ようやく焼かれたタンを、まずは律葉さんの皿の上に乗せて、それから自分のさらに乗せた。
食べる前に、次の肉を乗せて置く。
「じゃあ、いただきます」
「いただきます」
タンを口に運ぶ。
口の中でコリコリする食感と共に、肉汁が溢れ出る。さすが、一皿で2000円する肉だ。旨味が尋常ではない。分厚いのに柔らかく、肉の味が濃い。
これほど高い焼き肉屋は、生まれて初めてだ。肉を食べて、初めて涙が出たよ。
「うますぎる……」
「ふふ、気の知れた仲と食べる焼肉は最高だね」
おお、人と一緒に食べる焼き肉を楽しむなんて、余裕があるな。俺なんて、目の前の肉を味わうことで精一杯だった。これが大人の余裕というやつか。
「さあ、どんどん食べようじゃないか」
「おう!」
肉を焼いては食べて、他愛のない雑談で話しが弾む。少し前まで、ただの常連客同士だったはずの関係。不思議な縁で結ばれた出会い。
もし、彼女がいなかったらと思うと、ゾッとする。まだ上手く笑えていないかもしれないが、立ち直るきっかけをくれたのは、間違いなく律葉さんのおかげだ。
そのことに、今はひたすら感謝をするほかなかった。
「ふう……これだけ肉と酒だけを楽しんだのは久しぶりだ」
「ふふ、いい食べっぷりだったよ。見ていてとても気持ちがいい」
なんというか、背中がむずむずする。彼女なりに褒めているのだろうけど、年下に言われてしまうと、年上としてどうなんだとプライドが訴えかけているようだ。
まあ、今更な気がするけど、一応ツッコんでおこう。
「それって、後輩とかにいう台詞だな」
「たしかに。まあ、でも、探索者を始めたタイミングとしては、私は堅志君の先輩だね」
「それを言われると弱いけど、すぐに辞めたんだろ?」
「まあね。私も、探索者になりたいわけではなかったから、ちょうどよかった」
自ら目指していなかったのか。そういうパターンも珍しくないけど、彼女の過去を聞いてみたい気持ちが先行する。
「そうだったのか」
「ああ。親が探索者をしていたから、なし崩し的にね。まあ、でも、これでよかったんだ」
律葉さんの表情が暗くなり、浮かない顔を見せる。
思わず手が伸びそうになるのを抑えこんだ。この話題は、彼女の心の弱い部分に触れてしまう気がする。今の親しいだけの関係のまま、触れていいものではない気がした。
「今が幸せなら、きっと正解だったんだよ」
今の自分が思っていることを素直に伝えるだけで精一杯だった。
俺の言葉に対して、彼女は少しだけ目を見開いたあと、ここではないどこか遠くをぼんやりと眺める。
「堅志君は、成長が早いな」
「いや……遅かったくらいさ」
俺はいつも、人より一歩成長が遅い。
本当にギリギリのところで、ようやく気付いて動き出すんだから。
だが、俺の言葉に対して、彼女は首を横に振るう。
「私はそうは思わない。若い時に心身が育つことも成長というが、人は気付きを得ても成長できるものだからね。それを飲み込む速さもまた成長だと、私は思う。それには、年齢なんて関係ないさ」
ああ、まただ……思わず感極まって目頭が熱くなってしまう。
彼女はいつだって、俺に欲しい言葉をくれる。
今の彼女の言葉は、心へと一直線に響いてきた。
「やっぱり、律葉さんには敵わないな」
「私は、いい女だからな」
この圧倒的な自信が、酷く羨ましくもあり、尊敬できる。
「ああ、違いない」
素直に認めてしまうのは、彼女のことを受け入れているからだろうと確信した。
そして、この関係をこのままで終わらせたくないということも自覚する。
今日、彼女に伝えよう。
今思っていることのすべてを。
覚悟を決めたというのに、これからのことを考えると料理の味を楽しむことはできなかった。
◆◆◆◆
会計時、払う払わない騒動は店員さんに迷惑が掛かるので、俺がすぐに一括で出した。そのあと、払う払わない問題が発生したけど、どうにか押し切ることに成功。
「結局、支払いは任せてしまったな」
「当たり前だ。律葉さんのおかげで、俺は立ち直れたんだから。これくらいのお礼はさせてくれ」
「堅志君は、中々に融通が利かない男なんだね」
「俺にも一応、男としてのプライドがあるからさ……まあ、だいぶボロボロだろうけど」
人前がある場所で泣いたり、ボロボロの心を支えてもらったり、情けない姿をさらしてしまった。
穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。
「ふふ、そんなことないさ」
「ならよかったよ」
くすくすと笑い声が聞こえる。どうやら、何かツボにハマったらしい。律葉さんのツボはよく分からないけど、笑顔が見えるのは安心する。
「なあ、律葉さん」
「ん、どうしたんだい?」
「少しだけ、付き合ってくれないか」
今の気持ちを率直に伝えよう。これは、誰のためでもなく、自分のために。過去の自分を少しでも受け入れるため。
一歩でも、前に進みたい。
気持ちが伝わったのか、律葉さんは大きく頷いてくれた。
「ああ、もちろんだ。少し、食べ過ぎてしまったからね」
「飲み過ぎだとは言わないんだな」
「あれくらいなら、ちょろいもんさ」
「酒豪かよ」
「ザルかもしれないね」
「そりゃ凄い」
一歩前に出ようすると、彼女の方が数歩先に行き手を差し伸べてくる。
酒を飲んだからなのか、頬が少し赤い気がした。
「エスコートしてくれたまえ」
「もちろんです」
手を絡めるように繋ぐ。
どうして、彼女が俺を気に入ってるかは分からない。でも、深くは考えないことにした。深く考えるほど、俺には何もないし。けれど、彼女は自分で揃えることができる力を持っている。
疑問に思う必要はない。
彼女は、情に流される人間ではないのだから。人の相談を受ける仕事をする彼女が、情に流されることは決してない。
歩いている間、特に会話という会話はなかった。無言は少しばかり気まずいけれど、彼女はそうは思っていないのか、頬が上がっている気がする。
もうすぐ五月だが、海辺の風は酔いを醒ますくらいの冷たさを帯びていた。けれど、体はまだ熱い。握っている手の温もりが、寒さを忘れさせるほど温かいおかげだろう。
「海が近いホテルってのも、いいもんだ」
「そうだね。夜の波音も、心地がいい」
街灯が少ないせいか、海はやけに暗く見える。
その分、星空は輝いて見えた。
だから、よく分かる。
一番星が、これでもかというほど輝きを放って見えて、背中を押してくれているような気がした。
「俺……探索者を続けようと思う」
「それは、なぜ?」
「自分のために。きっと、ここで逃げたら、また過去の自分に戻ってしまう。惨めで、愚かで、人の嫌なところを見つけて嘲笑うような、自分に……それだけは、絶対に嫌だった」
あの頃の自分を大切にできるとは思えない。
それに……。
「バトンを繋ぐ側の人間が、バトンを受け取ってしまった」
本来の役目は、逆だったはずなのに。
それを無視して生きられるほど、俺は図太くない。
きっと、逃げた先で、どんどん苦しくなる。
いつか、息ができなくなって、そのまま自ら命を投げ出す気がした。
それだけは……絶対にダメだ。
「一番星のために、と言えればよかったんだけど……俺はそこまで大人じゃない。でも、彼らがいたからこそ、今の俺がいる。彼らに恥じない生き方をしたい。今考えているのは、それだけだ」
「そうか……やはり、堅志君は成長が早いと思うよ」
「そうだな。彼らに与えられたのかもしれない」
一番星が、今までにないほど輝いて見える。
彼らの想いを、勝手ながら背負わせてもらう。
そうすることで、自分にはない力を与えてもらえるような気がしたから。
「律葉さん」
「どうした、堅志君」
月明かりに照らされ、吸い込まれそうなほど美しい青色の瞳から決して目を離さないように告げる。
「俺は、律葉さんが好きだ。俺がDランクの探索者になったら、付き合ってくれないか」
「私は、今の堅志君も十分好ましく思っているよ……なぜ、いまではダメなんだい?」
ドストレートに放った感情が、綺麗に打ち返された心地よさ。
互いの想いが通じ合っている。
でも、今のままでは……。
「……すまない、これは俺の問題なんだ。今の自分では、律葉さんに見合っていないと思ってしまう。Eランクのままじゃ、自分を許せそうにない。自分勝手ですまないが、もう少しだけ待っていてくれないか」
「そうだな、君は意外と我儘のようだ」
ふっと目を逸らされてしまう。
心臓に杭を打ち込まれたような感覚に襲われるも、決して彼女の顔から視線をずらさない。
絡み合った手が、離れることはなかったから。
「だが、久しぶりに未来が待ち遠しいと思える……あまり待たせないでくれよ、堅志君」
「ああ、すぐに追いつくよ」
「頼むよ。私は、気が短い方なんだ」
「即断即決の間違いだろ」
「……そうだね」
彼女が、夜空を見上げる。
俺はもう一度、一番星を見つめた。
「どうか、見ていてくれ……俺は絶対に負けないから」
この行為に、意味はないのかもしれない。
それでも、彼女と一番星に宣言したことで、一歩だけ前に進めた気がする。
最終話 恵まれている
律葉さんに宣言した日から、二日後。
朝のランニングを終えて、家に帰ってきた。昨日も感じたことだが、体は軽いし、息切れはほとんど起こらない。随分と変わってしまったものだと思う。
とはいえ、普通に汗を掻くので、部屋に入ってすぐに汗を流す。
裸になって鏡の前に立つ。そこに映る自分の姿に思わず眉間にしわを寄せて頬を掻いてしまった。
「……そろそろ一週間経つのに、まだ慣れないな」
肉体だけじゃなく、身体能力も大幅に上昇している。これからダンジョンに潜るにあたり、佐伯さんの指導は間違いなく必要だと感じて、すぐに申し込みをした。
Dランクを目指すなら、今まで以上に武器の扱いには慣れたほうがいいしな。
「この体に合う武器か」
以前は左腕の筋肉だけが目に見えてついていたが、今はバランスがいい。鏡で見た時も、別人の体になってしまったかのよう。見た目は細くなっているが、中に筋肉が詰まっている感じがする。とはいえ、こればかりは動いてみないと分からない。
今日の指導は、装備選びも兼ねている。盾とガントレットは修理すらできない状態だったから捨ててしまったし、ツナギも新たに購入しないと。色々と、やるべきことが多い。
「……にしても、顔と体で違和感ありすぎだろ」
顔の変化は特になかった。くせ毛の髪を切ったから、少しだけ若返ったようにも見える。多少やつれてはいるが、そのうち治るだろう。瞳の色もこげ茶色のままだし、目は相変わらず垂れてるし、どこか冴えない。
どこにでもいる清潔感のある冴えない三十歳だ。
まあでも、筋肉がついているからか、それなりに頼れそうではある。
「……出るか」
風呂から出てすぐに、ツナギを着た。朝はまだ涼しくて助かる。ツナギのおかげで汗も吸収されるし、部屋着にしたいくらいだ。
書く瞑想と呼ばれるジャーナリング用のノートを開いて思い出す。
「そうだ……天能と格力も分かるんだったか」
それと、天能と格力の鑑定も受けてきた。これだけで20万も飛んだ。とはいえ、必要経費だ。この値で、目指すべき場所が分かるのだから、むしろ安い方だろう。
昨日、佐伯さんが直々に確認してくれたので、今日教えてもらえるそうだ。装備のこともそうだが、指導でも大変お世話になっている。佐伯さんには、足を向けて寝られないな。
「おっと、まずは書く瞑想だ」
ジャーナリングを済ませる。バーっと脳内に溜まっているゴミを排出している気分だ。これをやるだけで、不思議と頭が軽くなるから面白い。
とりあえず、ひたすら書いて書いて書き続けた。
★
「うし、終わり……飯でも食うか」
朝ごはんを食べようとして、スマホのランプが点滅する。
【おはよう、堅志君。今日も、頑張ってくれ】
その一文を見るだけで、心が癒されてしまう。
たぶん、今、口角が上がっている気がする。
連絡をすぐに返してから、朝ごはんの用意をした。
飯を食べて、身支度を整えてから、探索者協会へと向かう。
◆◆◆◆
「佐伯さん、おはようございます」
「おはようございます、漣さん。それでは、さっそく訓練場に行きましょうか」
「はい」
流れるように、訓練場へ。
「マンツーマン指導ですから、気合が入りますよ」
「お、お願いします」
強くなりたいのはそうなのだが、どうしても顔が引きつる。
いつも通り、俺以外に指導を受ける人はいない。強くなるなら実戦でという人がほとんどだ。それに、安くないお金を払うよりも、実戦で強くなりながら金を儲けられるから、指導を受ける人は本当に稀のようだ。
大体の人間が探索学園の卒業生だから、俺みたいな素人の方が珍しいのだろう。
「着きましたね。では、さっそくストレッチから」
「あ、はい」
相変わらずの無機質な壁だ。訓練場は、特殊な壁で作られているらしい。全体的に濃い灰色の壁と床で作られている。訓練場は、魔法が付与されているらしく、壊れてもすぐ修復可能だ。
ここに入ると、吹き飛ばされて転がった記憶が蘇る。
なぜだろう、すでに体が痛むのは。
簡単なストレッチや体操を終えると、佐伯さんが話し出す。
「まずは、漣さんの格力と天能について、お伝えいたしますね」
「は、はい」
ゴクリ――思わず唾を飲み込んでしまった。歯が浮いている感じがするし、地面に立っているのがやっとなくらい力が入っていない気がする。
どんな天能が生えたかは、言ってしまえば運だ。昨日は、佐伯さんも俺には天能が生えていると言ってくれた。肉体の大きな変化は、天能による事象が多々あるからだ。
天能は、実際に鑑定しないと分からない。天能次第で、パーティーから脱退する話も出てしまうくらい、天能は重要だ。
正直、Dランクを目指すなら、実戦向きであってほしいと願うばかりである。
「格力は、第二エリア境界領域までの力は持ち合わせていますね」
「え……それって」
「言うなれば、Cランクに上がれる可能性があるということです」
「……Cランクに」
予想よりも遥かに格力が上がっていた。
それだけの相手を一番星は追い込んだということにも繋がる。彼らの強さは、探索学園でも群を抜いていたのだろう。
今は、彼らに追いつけるくらいの力を付けたいと思っている。だとすれば、Dランクではなく、Cランクまで目指せる可能性が出てきたのは僥倖だった。
「とはいえ、今のままでおすすめはしません。まずは、経験を積むところからです。分かりますね?」
「ええ、もちろんです」
特攻する気なんてない。着実に強くなって、彼らの背中を追い続ける。
これが、俺にできる唯一の贖罪なのだから。
「分かっているなら、問題ありません。私が、Cランクに上がれる可能性があると申したのは、それだけの天能が発現したということです。それをうまく扱えるかは、漣さん次第……今、天能の結果を渡しましたので、ご確認ください」
「は、はい」
デバイスを起動させて、ホログラムを展開する。
そこには、三つの名前が記されていた。
【盾使い】【本能】【収集】
「三つも……」
「天能が三つ同時に発現すること自体珍しいですが、前例がないわけではありません。それに、長い時間をかけて、結果的に天能を三つ獲得する探索者は多くいます。今まで積み重ねてきた努力の結晶が、天に認められた才能――すなわち、天能になることがあるからです。極めれば極めるほど、それは如実に発現する」
それはおそらく、盾と採取のことだろう。この三ヶ月間、それだけをやってきたから。けれど、たったの三ヶ月とも取れる。
ただ、本能は分からない。いや、漢字の意味は分かる。でも、どういった効果なのか、戦闘用のスキルとして役立つのかが疑問なところだ。
はっきり言って、できすぎなくらい。
「とはいえ、三ヶ月で発現したのは、格力差のあるモンスターを討伐したからでしょう」
「それも関係があるんですか?」
「もちろんです。格上との戦闘は大きな経験値となる。格力差が大きければ大きいほど、力への莫大な財産となります。死闘であればあるほど、天能が発現しやすくなる。漣さん、貴方は死闘の末勝ち残り、自らの手で天能を発現させたのです。そのことは、誇っていい」
きっと、佐伯さんは知っているのだろう。
最初から俺を育ててくれた人だ。いきなり格力が上がって、天能が生えたことを見ても驚かない。なんなら、心が軽くなるような言葉をくれる。
本当に、人間ができすぎて言葉がつまっちまう。
「……はい」
これまでの人生、何もかもが恵まれてなかったと思っていた。
でも、今は違う。
恵まれていると実感できる。一番星しかり、佐伯さんや、頼元さん、そして律葉さん。
たしかに、自分で掴んできたこともある。でも、一番実感しているのは、自分一人では決して得られなかったであろう、人との縁。欲しい時に、欲しい言葉をくれる人格者たちとの出会いだ。
俺もいつか、こうなれる日があればいいなと思うばかりだ。
「まずは、どれくらい盾を扱えるのか感じ取ってください。本能という天能の説明もします。もちろん、武器選びもお任せください」
「佐伯さん……ありがとうございます」
「いえ、職員として、探索者を支えるのが仕事ですから」
佐伯さんは、大きな手をこちらに差し出してくる。
差し出された手を掴んで、腹から声を出す。
「よろしくお願いします!!」
まずは、自分の事を知ろう。
何ができて、何ができないかを明確にしていく。
着実に、一歩ずつ……強くなろう。
目標は、Dランク昇格。
後悔をできる限り少なくするためにも。
必ず、やり遂げてみせる。
★
数ヶ月後、漣はDランクへと昇格。
その数日後、律葉と恋人の関係に。
彼の人生は大きく変わった。
というわけでもない。
朝のルーティン、探索者活動は何も変わらず。
ただ、帰る居場所はできた。
家に帰れば、恋人の律葉が微笑んで迎え入れてくれる。
彼にとっては、それだけで十分だった。
そして、恋人の律葉と、同棲して幸せに過ごしていた。
諦めることを諦めた彼は、自らやりたいことを突き進んだことで一つの幸せを手に入れた。
「堅志君」
「ん?」
「今、幸せかい?」
「ああ、幸せだよ」
律葉の質問に、すぐに答えることができるくらい、彼の生活は充実しているようだ。
人から見れば小さな幸せも、堅志にとっては十分すぎるほど。
その分、失ったものは多い。
それでも、彼はただ前を向く。
一番星の意思を引き継いで。
何者にも慣れなかった男、漣堅志。
彼は、ダンジョンに潜ったことで人生を取り戻していく。
これからも、酸いも甘いも知ることになるだろう。
それでもきっと、彼は可能な限りダンジョンに潜り続ける。
人生を取り戻すために。
その一心で。
「じゃあ、いってくるよ。律葉」
「いってらっしゃい、堅志君」
彼は今日も、ダンジョンに潜り続ける。
途中で筆が折れたけど、完結させてみたオナニー作品でした。
ここまで読んでくれた方へ、ありがとうございました。
心より、感謝申し上げます。




