第一章 人生を取り戻す
B級作品として、お楽しみください。
第一話 諦めることを、諦めた日。
『いいか、漣。お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ!』
三日前に上司から投げつけられた、何の意味もない言葉。
『お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ!』
嫌な上司と全く同じ台詞をアニメの嫌味なキャラが叫んだ瞬間、不意にスマホの画面が落ちた。
「……んだよ」
針を刺すような胃の痛みが感覚を空けながら襲ってきて、思わず目を瞑る。そこで眠ればいいものを、腹の痛みが治まると、意味もなく天井を見上げてしまう。暗い部屋、ベッドの上で、明るい画面を見続けたせいだろうか。何もない天井に、四角い光の残像が浮かんでいた。
それをぼんやりと見つめながら、考える。
俺の人生は、このままでいいのだろうか、と。
ブオオオオン――冷蔵庫の作動音が、やけに煩わしい。
スマホを眺めていたせいだろう。全く眠くない。睡眠を犠牲にしてまで、見るほどの価値はないと分かっていて、動画を見てしまう。明日に響くから、止めた方がいいなんて、常識的に考えれば当然だ。けれど、見てしまう。
明日が……来ないでほしいから。
「……はぁ」
明日のことを考えると憂鬱だ。
今日と同じことを繰り返す。
それだけなのに、今日よりも嫌な日になることがあるのだから。
朝は何も食べない。ギリギリまで、眠っていたいから。起きたら、急いで最低限の支度を済ませる。鏡の前には、短髪に無精髭の冴えない男が立っていた。顔はげっそりコケて、隈がひどい疲れきった30歳の自分が映る。顔色は悪いし、体調も数年ほどよくはない。それでも、病院にはいかなかった。そこまでじゃないから。
家を出て、早歩きで人の臭いが敷き詰められた満員電車へ。ウっと嗚咽してしまうほどの体臭、誰が原因か分からない甘ったるい香水、いい匂いを通り越してキツすぎる衣服、電車のかび臭いエアコン。
パーソナルスペースがない中、臭いまで地獄の箱に揺られて会社に向かう。会社に向かうだけで、精神をゴリゴリと削られる。
会社に向かっても、いいことは何もない。年下の先輩や、年上の後輩に囲まれながら、上司に怒られないために仕事をする。パソコンを開いて、空しいキーボード音を響かせるだけ。大人になっても、人に怒られるというのは胃が痛い。
怒られてたとしても、心の中では反省なんて一ミリもしていない。それでも、申し訳ない顔を作って平謝りだ。この時、心臓が締め付けられて、顔に血が上る。さすがに涙はでないが、代わりに腹の底が物凄く熱い。
休憩時間は、短い。おにぎりとカップ麺を流し込む。味は、よく分からない。ただ、腹に入れるだけの食事だから。休憩中、ストレス緩和のために毒であるタバコを吸う。理不尽に怒られた時には、吸う本数が増える。喉に流れる熱い煙が、腹の底の怒りを鎮めてくれる。これだから、タバコは止められない。
パソコンの前に座り続けて、キーボードを打ち続けて、画面と睨めっこ。
定時。
当たり前に帰れるわけがない、空想妄想の退社時間。
遅刻はしてはいけないのに、定時に帰ると白い目で見られる。本来、定時できっかり帰る方が仕事ができるアピールになるはずだ。けれど、残業をしているほうが仕事が出来る人間と思われてしまう。そして、昇給に響く。本当に、クソな空気読みだと思う。
会社の評価は、仕事ができるかどうかではない。上司のご機嫌取りをいかに上手にこなせたか。これに尽きる。学校では習わないコミュニケーションがものを言う世界なのだ。
時間を奪われる代わりに僅かな給料アップのための残業が終わり、退勤。暗くなったパソコンのディスプレイに自分が映る。生きているのか、死んでいるのか分からない顔をしている。コケて隈の酷い顔が、さらに醜くなっていた。
ようやく会社から解放されたというのに、まったく顔が生き生きしていない。
それもそのはず。
帰りは第二の帰宅ラッシュだ。またしても、パーソナルスペースなき臭い地獄に襲われる。金曜日の夜なんて、地獄も地獄。アルコールの口臭と、料理の油の臭い。これだけならまだいいが、誰かが胃から戻した汚物もある。空腹の胃には、あまりにもキツイ臭い。
どうにか最低最悪の満員電車を乗り越えたら、次はスーパーへ。安くなった弁当、もしくはカップ麺を籠に入れる。酒は二本。なるべく安い物を取る。夜遅い時間、同じ社畜であるスーパーの店員さんを見て、心臓がギュッと握られる痛みが襲った。似たような人を見ると、なぜだか息が苦しくなる。
ようやく家に帰って、疲れ切った体で飯を食べて酒を流し込む。スーパーの弁当は、安い代わりに美味しくはない。パサパサで味の薄い肉、酸味が効きすぎる漬物、温めたはずなのに固い米。味は……まあ、食べられればいいやって感じだ。
味がよく分からないのは、食べながら一緒に見ている動画のせいか。それとも、酒か、あるいはタバコか。まあ、どうでもいいのだ。味わって食べる物でもないから。
シャワーを浴びて、洗わずに干してあるだけのバスタオルで体を拭く。生乾きと体臭の混ざった臭いがするバスタオル。さすがに、洗濯を回す。洗濯機のうるさい音をかき消す様に、くだらない動画の音を上げて、鼻で笑う自分の声が聞こえる。
ゴミみたいな部屋で、ゴミみたいな人生を過ごしている自分。
キッチンにいないはずなのに、生ごみのような微かな鼻を突く臭いがする。数日分のアルコール缶や、弁当のゴミが散乱してるせいだろう。分かっているが、片づけられる気力はない。あとはまあ、自分を慰めたあとのゴミのせいか。
電気を消してベッドに入り、知人からの連絡すらないスマホを眺める。自分を慰めるか、寝落ちするか、眠くなるまで動画を見るため。寝つきは昔から良くないから。
こんなはずではなかった……俺の人生。どこで転んでしまったのか、どこで道を間違えたのか、どこで人生の歯車が狂ってしまったのか。
自分のことのはずなのに、自分には関係ないと、まるで他人事のように思ってしまう。
「……はぁ」
今日は……寝つきが良くないし、眠気もない。疲れているはずなのに。
そのせいだろう。余計なことが頭によぎるのだ。
「……消えたい」
死にたいわけじゃない。死ぬのは怖いからだ。転職すら恐怖を感じるというのに、死ぬことなんて考えられない。ただ、死んだら楽なんだろうなと考えることも、多々ある。
親しかったはずの友が、自殺を選んだ過去もあるせいだろう。正直、その勇気があるのが羨ましくも思った。昔は、どうしてと思ってたけど、人より先に絶望を知ってしまったのだろう。
羨ましいと思う反面、それは駄目だと考える。
その道を選んでしまったあとの、結末を知っているから。
だから、消えたいのだ。
自分の存在だけが、ふと消える。
それを強く望む。
誰にも迷惑を掛けずに、誰に悲しまれるわけでもなく、消えてしまいたい。ため息が震えて出た。喉の奥が突っかかり、何かが込み上げてくる。両目の上に腕を乗せた。気のせいだと思い込んで、腕の下の目もギュッと強く瞑る。
そんなことをしても、意味はない。
今は一人だ。涙を流すくらい、許してくれるだろう。
……今、病気で心臓が突然痛くなって、気付かぬうちに死んでしまったら、それが一番いいとは思う。でも、そうはならない。こういう俺みたいなクズ人間は、しぶとく無駄に長生きするんだ。
どん底に落ちた時、こういう無駄な事を考える毎日だ。いや、どん底じゃなくても、ふと考えてしまうか。
これが、今の日常なんだろう。
こんな極端な人間だけじゃないにしても、やりたくないことを嫌々仕方なく生きている人が大半だろう。大半の大人が、生きるために仕方なく仕事をしているはずだ。
その大半の中に、俺がいる。そのことに、何も思わなかったわけじゃない。もちろん、俺の人生はこんなもんじゃないと心では思ってた。
でも、思ってただけだ。
人生を、自分を変えたいなんて、何度も飽き飽きするほど思ってきた。そのたびに、自己成長動画を見てモチベーションを上げる。上げるだけ上げて、頭の中の妄想で終わらせる。行動はしなかった。
なぜ?
どうせ、変わらないと心のどこかで思ってたから。
今、頑張ったところで、何の意味もない。だったら、このままでいいと思った。頑張ってもまた、後ろ指を差されて終わりだろうと思ったから。
馬鹿にされるのは怖いし、嫌だ。周りから指を差されて、結局何の成果もでなかったらと考えるだけで、心の足がすくんで動けない。だったら、このままでいいと。
在り来たりで、退屈で、窮屈で、不満を抱えたまま生きていた方がいいって。
多くの不平等と不満を抱えても、不安ではない。
最低限の生活の保障があるから。
「それで……本当に、いいのかよ……」
良くない。良くないに決まってる。
けれど、なぜ、30歳になって今さら、こんなことを考え始めたのか。
そうだ。
きっかけは、親戚が二年間で二人亡くなったことだ。亡くなった親戚は、40歳と65歳。まだ、誰も死なないと思っていた。
けど、死んだ。
あとは、実家のペットも去年亡くなった。茶色い毛並みのカフェオ。一人暮らしをしてから、そこまで実家に帰れていなかったが、やはりペットが亡くなるというのは、精神的にきつかった。
その時、思ったんだ。
人もペットも、突然死ぬこともあるって。
親戚の原因は、事故と病気。ペットのカフェオは寿命だろう。どうしようもないことだ。でも、それは、誰にだって起こることのはず。なのに、人は、自分だけは大丈夫という顔をする。
そんなはずはないのに。
人生には、不幸も、幸福も、不平等にやってくる。
人は、いつ死ぬか分からない。
それを強く感じさせる出来事だった。
死について、考えすぎたせいか。
このままでいいのだろうかと、強く思った。
「よくない……よな」
ここで、行動できなければ、きっと一生変わることはない。
後悔は、先に立ってはくれない。
なら、後悔しない道を見極めて、進むしかないのだ。
見上げていた天井からスマホを手に取り、落ちた動画を再生する。
【探索者】の広告動画。
『君も、探索者になろう』
分不相応な夢だった。俺にはできないと、一度は諦めた夢。でも、諦めきれずに、動画を見続けて、心のどこかで尾を引いているのは丸わかりだ。
未練たらたら。ダサい、あまりにもダサい。
夢を諦めて、格好もつけられないなら。
夢を諦めることを、諦めよう。
人生を取り戻すのであれば、今が最後のチャンスなのかもしれない。
30歳、人生の節目、転換期。
このままでは駄目だと、心が訴える。
挑戦しても無駄になるだけだと、理性が冷たく囁く。周囲には馬鹿にされ、失敗すれば自尊心が、全てが壊れるぞ。そんな脅しを掛けてくる。
人の目を気にして、挑戦せずに諦めて、人生悟った気になって、達観して、自分で自分を傷つける。
「……なんかもう……疲れたな」
――諦めることを諦めた時、人生は大きく変わるだろうか。
ベッドから起き上がり、手を天井に掲げて、体をぐっと伸ばす。
もう一度、心に従って、挑戦してみよう。
自分を、好きになるために。
人生を……取り戻すために。
「もう一度……やってみるか」
検索バーに、スマホで文字を打ち込む。会社 退職方法。
上司に話をするために、連絡もしておく準備をする。
手が震えた。辞めるというだけで、吐き気もするし、心臓が痛いほど鼓動している。
でも、心臓の痛みが、このたった一言で人生を大きく変えられると予感させた。
深夜、2時21分。
通勤時間に退職する旨を伝えるため、上司へ【お話があります】と書き込んだメッセージ。
予約送信のボタンをタップする。
心臓がドクドクして、さらに目が冴えてしまった。
「はは……やっちまったな」
なぜだろう。
不思議と笑みが零れた。
一ヶ月後、会社を退職した。
第二話 目標を決めるということの必要性
会社を辞めてから一ヶ月が過ぎた。
「……またか」
ベッドに入り寝ようとして寝付けない。ここ最近は無かったことだが、またしても蘇る。
なぜ、こうなっているのか。
原因を探る。
まずは、退職してから生活を一変するべく行動を振り返った。
第一に、引っ越し。ダンジョンに徒歩で行ける距離。家賃が安い1DKの部屋。ダンジョンが近くにある賃貸は極めて安い。相場は5,6万。以前、ダンジョンからモンスターが地上に現れる事件が起きた。そのせいもあって、ダンジョン周辺の賃貸は安い。
とはいえ、引っ越し代はかなり痛手だ。生活を改めるために、不要なものは業者に頼んだし、新たに家具家電を買ったせいもあって、貯金がだいぶ減った。それでも、10年間分の貯金はまだ残ってる。半年は、働かなくても問題ないだろう。
資金としては、かなり不安だ。けれど、新しい家と、家具の新品の匂い。これだけでも、自分を変えるための第一歩を踏み出せた気がする。
拠点の問題は、クリアした。
次に行動したのは、生活習慣。社畜生活でなまった体をほぐしつつ鍛え、傷ついた心を癒す。そのための、時間を取った。
朝は、ストレッチと筋トレ。それが、終わればランニング。引っ越してすぐ、ダンジョンには行けない。社畜時代の体では、死にに行くようなものだから。体力、肉体作りのための運動だ。
その成果もあり、全身の筋肉痛が、信じられないくらい痛い。朝起き上がるのが、怠すぎる。ただ起きるのに腰が震えて、立ち上がってもどこかしらがプルプルと情けなく揺れる。それでも、ストレッチや、筋トレ、ランニングは欠かさない。自分を守るための、最低限の肉体は必要だから。
食事も改善した。スーパーや、コンビニ弁当を買わずに自炊。とはいえ、金が心許ない。業務用スーパーで冷凍の鶏むね肉を、食べる日々だ。野菜も、申し訳程度には取る。食べないよりはましだろう。
目に見える変化は、今のところない。元々太りにくい体質もあってか、デブではない。むしろ痩せ気味だ。ああ、でも、顔色は少し良くなったかな。一ヶ月程度の成果は、そんなもんだ。
ただ、大きく変化したこともある。主に酒。毎日二缶飲んでいた酒を断った。酒を断つこと自体は、意外と簡単だ。もともと酒はそこまで好きじゃなかったから。これは、止められると確信していた。
問題はタバコだ。吸う本数は、かなり減った。半分は減ってる。それでも、タバコだけは断てなかった。情けない話だが、どうにも喉を通る熱い煙が恋しくなってしまう。
覚悟を決めたとはいえ、所詮は俺という人間だ。そう簡単に何かを変えられる訳ではないと思い知らされた。情けないと思う反面、そう簡単にはいかないなと、納得できる部分もある。
10年間。不満があるくせに、そこから抜け出そうとしなかったのだから。当然と言えば当然だろう。ここら辺は、徐々に改善していけたらいいと思う。少しずつ、生活習慣が安定しているのだから、きっとできるはずだ。
朝から昼は意外とやることがあるから、ここだけ切り取れば、いささか充実した毎日。
ただ、それ以外の空いた時間が窮屈で居心地が悪いのだ。
だから、時間を潰すために、日記を書くことにした。自分だけが見るための、ジャーナリングだ。頭の中にあるモヤモヤ、悩み、今日すべきことを頭に思い浮かんだ順にとにかく書いた。手を動かし、紙に文字を書く。これだけでも、心がスッと軽くなる。今まで無駄に見ていた自己成長の動画が役に立った瞬間だ。
何もしない時間を潰すために始めたジャーナリング。
そこに書いた目標を読み返す。
周囲の顔色を窺う自分からの脱却。とにかく好きに生きる。ダンジョンで生活出来るようにしたい。探索者の仲間。気兼ねない友人。心から好きになれる恋人の存在。冷蔵庫の空しい音ではなく、誰かの寝息が聞こえる居場所。自分以外の匂い。コンビニ飯ではなく、手作りの飯。
返事のない部屋から、『ただいま』『おかえり』が聞こえる家。
一人では生きていけないとわかる目標だ。でも、それを欲していることが分かっただけでもいい兆候だろう。前の自分は、こんなことすら書けないほど、心が死んでいたから。
そのほかにも、やってみたことがある。身支度を整えたあとに、ミラーワーク。鏡の間に立ち、自分に肯定的な自己暗示を掛ける。『俺ならできる』『俺は探索者』とにかく繰り返す。一人だから、こういうのも恥ずかしくなくやれる。
あとは、ダンジョンの勉強だ。正直、30歳から探索者をする人間は少ない。初めてダンジョンに潜って、天能という人知を超えた力を手に入れられたなら、話は別だろう。ただ、俺には天能がなかった。だから、本当に何もない。
だから、学ぶ。ダンジョンで最低限の収支を得る方法や、ダンジョンに出てくるモンスター、採取できる素材、ダンジョンアイテムの換金額。この時間は、好きだ。ゲームの攻略本を読んでるときのわくわく感があるから。命を懸けるための行動とはいえ、心が湧き立つのは、悪くない。
一ヶ月、どうにか誤魔化しながらダンジョンの準備を進めている。
けれど、夜が問題だ。強いて言えば、寝る直前。
稼ぎが断たれた恐怖は、間違いなく自分の心を蝕んでいった。有休があるとはいえ、会社を辞めてから一ヶ月ちかく経つ。有休も、間もなく終わる。つまり、本当に稼ぎがないのだ。有休も、期待できるほどの金額ではないだろう。
一ヶ月間、生活習慣、肉体作りをしただけに過ぎない。
必要なはずの禁煙も、未だにできていない。心の弱さは、ダンジョンでは致命的だと、どの配信者も、どのサイトでも必ず言われてるし、書かれている。だとしたら、禁煙は意地でもすべきだ。
でも、無理だった。
心の弱さがあると分かっている。だから、なんだというのか。できないと分かったなら、割り切ればいい。変化できないことなんて、とっくの昔に受け入れているのだから。
諦めることを諦めたのだから、前に進むだけ。
一ヶ月間、そう言い聞かせ続けた。
生活習慣、肉体は少しずつ変化している。
でも、それだけだ。
現状に変わりはない。
なにせ、今の自分は、探索者を目指すだけのニートなのだ。志が高いのは結構だが、働いていないのだから、金は減る一方だ。
この考えが起きたのは、税金用紙が送られてきたことだろう。生きているだけで、息をするだけで金がかかる。その金は、容赦なく自分を追い詰めてきた。
三ヶ月後。生活習慣を改め、肉体と精神を鍛えてダンジョンへ潜る予定だった。全てを整えてから、慎重に挑むべき。年齢を考えれば、そうするのがベストだろう。無理をすれば、大怪我をして金が尽きるのだから。
けれど、果たして本当にそれでいいのだろうか。
またしても、自分に問いかける自分がいる。
毎晩襲ってくる不安に、止めの一撃だった税金。考えないようにしていた不安は、風呂のお湯をため過ぎて溢れ出るように、大雨の影響による土砂崩れのように、自分に襲ってくる。
結局のところ、トレーニングという停滞だけでは、この不安が聞こえることはないのだ。
三ヶ月もの間、この不安と戦い抜くことはできるだろうか。
きっと、無理だ。むしろ、このままの方が、死ぬ危険がある。金があるうちに、少しでも金を稼ぐべきなのではないか。普通に稼ぐわけではなく、ダンジョンで。
今日、税金の金額を見て、買いに行ったダンジョン道具一式。採取のための大きなリュック、モンスターを倒すための両口ハンマー。お前は今、なんのためにここにいるのか。そう問いかけてくるような、道具たち。
今を生きると、決めたはずだ。
なら、すぐにでも行動することが正解のはず。自分がしたいのは、探索者としての生活であって、強くなりたいわけではないのだから。満員電車に乗りたくない、社内の顔色を窺いたくない、自分が自分として生きられない場所にいたくない。夢を見ているわけではなく、自分という人間を確立したかった。
「……やるなら、今か」
情報を得て気付いたことだが、最低層の第一エリアでもソロでなら十分に生活していける。なら、行動しない理由はどこにあるのか。今のままでも、十二分にやっていけるはずだ。
探索者になりたいのは、夢を諦めたくないからじゃない。
最強になりたい、英雄になりたい、何者かになりたいという願望を求めたわけじゃないんだ。
ただ、自分を好きになりたいだけ。
人生を、取り戻したいだけだ。
今の行動で、自分が好きになるだろうか。
ならない。
なら、どうするか。
明日、起きてすぐ、ダンジョンに向かえばいい。
「……はは、それだけだったのにな」
時間が掛かったものだ。
でも、それでいい。
俺という人間は、そういう人間だ。
「……うし」
やりたいことができた。
いや、そもそも明確な目標は得ていたはずだ。あとは、それを叶えるために、行動に移すだけ。
会社を辞めてから、色々と行動に移せたなら、きっと大丈夫だ。
ベッドから起き上がり、鏡の前に立つ。
「俺なら、できる」
「大丈夫、どうにかなる」
いつもの言葉を自分に伝える。
そして、新たに決めた言葉も告げた。
「俺は、明日から本当の探索者」
情けない自分とは……お別れだ。
「俺は、俺の人生を取り戻す」
鏡の前で、自分の顔を見つめながら、声に出す。
不思議と体は軽くなり、吐き気は消えた。
完全に覚悟が決まったのか、鏡の前に立っている自分が少しだけ輝いてみえる。
「……久しぶりに笑った気がする」
自然と口角が上がっていた。
心が沸き立ち、少しだけ興奮している。
金のためにダンジョンに潜るだけじゃない。
それ以外の大切な何かが、蘇った気分だ。
もう、大丈夫。
今なら、すぐに眠りにつけるだろうと思えた。
あとは、やるだけだ。
翌日、探索協会へと足を運んだ。
第三話 探索者とは
早朝、探索協会前。
ここに立つのは、12年ぶりだ。
「懐かしいな……」
白い外壁で建てられた頑丈な建物、探索協会。ビルというより、要塞のような見た目だ。テーマパークにありそうな小さな城と言われても、納得できる雰囲気。地図と望遠鏡の旗、剣と盾、杖が重なった旗が風になびいている。
ダンジョンに入るために併設された、探索者のためだけの施設。
ここを見るだけで、左腕の古傷がズキズキと痛む。心臓が鼓動するのも早い。なんなら、冷や汗が出てる。今からダンジョンに潜る探索者の顔じゃないんだろうな。
今でも思い出せる。探索者になろうと決意した12年前のあの日。
18歳にならないとダンジョンには入れない。ダンジョンができたのは、ちょうど30年前。国が管理し、自衛隊だけが入れる場所だった。モンスターがダンジョンから地上に溢れ出たあの日を境に。
ある程度、ダンジョン内にいるモンスターを駆除しなければ、ダンジョン内の魔物が外に出てくる。全てのダンジョンを回るには、自衛隊だけでは人手不足。
だからこそ、国は一般人の中からもダンジョンに潜る探索者を求めた。肉体がある程度成長し、心身ともに大人とみなされる18歳以上の男女。おかしなことに、高校卒業も必須だ。探索者を諦めた時の、ダンジョン以外の活動も考えられているそうだ。日本は少子高齢化が進んでいる。わざわざ子供を殺させるような真似をしたくなかったのだろう。
高校を卒業してすぐ、俺はダンジョンに潜った。結局、第一の試練を乗り越えることができずに、探索者になる夢を諦めたんだけどな。その時にできた傷は、戒めのために残している。
けれど、これから探索者として生活するなら、第一の試練を乗り越えなければならない。傷が痛み、冷や汗が出るのは、きっと第一の試練のせいだろう。なんなら、手足も震えてる。こんな状態で探索者になれるのかと言われれば、なるしかないと答えるしかない。
自ら道を断ったのだから、覚悟は決まっている。
「……やるしかない」
人生を取り戻すと誓ったんだ。もう、後戻りはしたくない。震える足を動かして、自動ドアではない頑丈な鉄の扉に触れる。酷く冷たい扉だ。まるで、弱者を拒むような視線をぶつけられているようだ。それでも、力を入れて扉を開けて、探索協会の入口を跨ぐ。
「よし」
まずは、受付に行かないとな。探索者になるための、証明書を申請しないと。朝早いというのに、探索協会の受付には、ずらりと並んだ綺麗な女性と、屈強な男性が立っている。受付には、仕切りができていた。12年前と比べると、大きく変わっている。
まるで、役所や、銀行だ。
「……ふぅ」
そんなことはいい。とりあえず、再登録だ。入り口近くの専用の機器で、必要事項を記入する。入力が終われば、一枚の用紙が出てきた。
――ピンポーン
受付から音が響いた。人が少ないためか、待つ必要はないようだ。電子番号の文字が浮かんでいる受付に向かう。椅子が置かれているので荷物を置いてから座る。対応してくれるのは眼鏡を掛けた綺麗な女性だ。
「ようこそ、探索協会へ。本日のご用件をお伺いいたします」
「探索者の再登録をお願いします」
用紙と要件を伝えると、受付嬢は営業スマイルを見せて紙を受け取った。
「再登録ですね。身分証はお持ちでしょうか」
「お願いします」
「ありがとうございます。確認いたしますので、少々お待ちください」
受付嬢は頭を下げてから、裏へと向かう。数分もすれば、すぐに戻ってきた。
「お待たせいたしました。前回のご登録から、10年以上ご利用がございませんでしたので、新たに申請させていただきます。お名前と、生年月日、住所、電話番号、ご実家の住所、緊急連絡先に、間違いはございませんでしょうか」
タブレットに記された内容に、目を通す。
漣 堅志
黎探1年 6月6日(30歳)男。
今の住所が更新され、実家の住所と緊急連絡先は変わらない。実家の記載があるのは、死亡判定された際に必要な情報だからだ。探索協会から連絡が行くのは、死亡判定された場合のみ。悲しい現実にならないようにしなければな。
「問題ないです」
「ありがとうございます。身分証はお返しいたします。それでは、腕輪型の探索デバイスと認識票のドッグタグに個人情報を登録いたしますので、少々お待ちください」
「はい」
探索デバイス、ドッグタグ。
探索者に必須の探索ライセンス。ここは、前と同じだな。まあ、動画でチェックしてたから、この辺は問題ない。
5分ほどして、受付嬢が探索デバイスとドッグタグを持って現れる。
「お待たせいたしました。こちらが、探索デバイスとドッグタグでございます」
目の前には、探索デバイスとドッグタグ。
【探索デバイス】――小型のスマートウォッチのような腕輪型のデバイス。以前は、かなり大きいものだったが、ブレスレットにも見える。戦闘の邪魔にならないよう、進化したんだろう。
【ドッグタグ】――こちらの見た目はシンプルだ。通常のドッグタグに、小さな宝石のような魔石が埋め込まれている。
「ランクはEランクです。まずは、探索デバイスとドッグタグについて簡潔に説明させていただきます」
要点をまとめると、ダンジョン探索するうえで必須の探索ライセンスだ。
【探索デバイス】――ダンジョンのゲートに入るための通行証、ダンジョンアイテムの換金、ランク上げに必須。ほかにも、ダンジョンマップに、ボイスレコーダーのような便利な用途があると説明を受けた。やはり、前とは変化している点が多い。
【ドッグタグ】――探索者の生存確認。魔道具の一種だ。生死の判断が可能。どこで死んでいるかの判定も可能だそうだ。そうならないように、頑張りたいところだ。
「続きまして、探索者と、ダンジョンについてです」
【探索者】――ダンジョンにおいて、探索者の行動は全て自己責任。ダンジョン内で死亡した場合、探索協会側で遺体を持ち帰ることはない。唯一の遺品は、ドッグタグのみ。探索デバイスは、協会側に返却される。
【ダンジョン】――モンスターが蔓延る迷宮。迷宮といっても、洞窟型ではない。大草原、砂漠、雪など、様々な環境がある。階層は【エリア】と呼ばれ、一階層を【第一エリア】という。エリアの中には【ゾーン】という場所がある。
【エリア】――エリアの中は、大きく四つの領域に分けられている。エリアの中で最も弱いモンスターが現れる前哨領域、前哨領域を抜けた先が中継領域、次のエリアに進む階段がある境界領域、未だ誰も足を踏み入れたことがない未踏領域だ。領域を進めば進むほど危険度が増す。要は、モンスターの数が増えたり、強くなったりなる。もちろん、エリアを下るのも同じだ。ひとつ前のエリアよりも、難易度は跳ね上がる。
【ゾーン】――領域を区切る役割を果たす区域をゾーンという。進入区画、中間区画、最深区画と、三つの区画に分けられる。エリアと同じく、進めば進むほど危険度が増す。モンスターの遭遇率が増えたり、数が増したりするのだ。そしてもう一つ、ゾーン以外でアイテム採取はできない。ダンジョン内で採取できる薬草や鉱石といった素材を、総称してアイテムという。
というのが、ダンジョンの基本構造。
俺が目指すべき道は、ゾーンにあるということだ。
「説明は以上となります、何かご質問はございますか?」
「いえ、大丈夫です」
かなりシビアな世界だ。遺体を持ち帰るだけでも、相当な労力がかかる。近い遠いに関わらず、死んだら死体はダンジョンに吸収されて終わる。ドッグタグは、三日ほどダンジョン内に残るが、それ以上経てば、遺品も何も残らない。本人に会うことも許されないのだ。
探索者とは、命を懸けた職業だと、改めて思い知らされた。
もろもろの説明が終わり、最後にタブレットが出てくる。
「それでは、こちらにサインをお願いいたします」
「はい」
すぐにサインする。
ペンを持っている手が震えているのが分かるが、受付嬢の顔は笑顔を張り付けたままだった。
「探索ライセンスを片方でも紛失した場合、探索協会に紛失届の提出をお願いいたします。探索者を引退する際は、探索デバイスとドッグタグの返却を必ずお願いいたします。ライセンスを紛失した場合や、引退時返却がない場合、どちらも罰金がございますので、ご注意ください」
「分かりました」
引退という言葉で、思わず肩がピクリと動いてしまった。少しばかり、顔も熱い。必要な説明なのだろうが、途中退場したせいで、過剰に反応してしまう。
「新規の方や、復帰する方に向けて、ダンジョン探索についての研修を行っております。もし、お時間がございましたら、研修を受けることを強くお勧めいたします」
『強く』が強調された。まあ、当然だろう。30歳で、ジャージ姿だもんな。無理な自覚はしてる分、受付嬢の言葉が強く感じた。背中から汗が流れる。恥ずかしさから来るものか、緊張しっぱなしだからか、どちらかは分からない。
とはいえ、一応オンラインである程度の受講は受けている。探索者関連の動画も見てきてはいるし、10年以上前とはいえ経験者だ。これ以上は、知識よりも実践する方が早いだろう。
今必要なのは経験と……覚悟だけだ。
「分かりました、ありがとうございます」
「……」
受けると言わずにお礼だけ伝える。受付嬢の顔から一瞬笑みが消えた気がした。気のせいだとは思いたい。自分が無茶していることが分かるから、そう見えるだけかもしれないし。深く考えることはやめた。
「探索デバイスに入場記録を登録済みとなっております。本日は、初回のため、必ず日帰りでご帰還ください。このままダンジョンに入るためのゲートに向かってもらって問題ございません。帰還記録は、換金所。換金がない場合は、受付で登録をお願いいたします。また、次回からは、受付で入場記録の登録をお願いいたします」
【入場記録】――ダンジョンに入る際に、デバイスに記録する必要がある。これをしないと、ゲートにすら入れない。
ダンジョン内で事故にあって、探索者が帰ってこないことがある。そういう時、ドッグタグを通して、生存判定をするそうだ。そうなる前に、探索デバイスで助けを呼ぶこともできるが、大抵は間に合わないことが多い。
これからソロで挑む俺にとって、死亡判定は重要だ。こういう措置があるのは、大変助かる。生きてるか死んでるかくらいは、両親に届いてほしいからな。
「説明は以上となります。なにか、ご不明な点はございますでしょうか」
「大丈夫です」
「では、この場でドッグタグと探索デバイスの装着をお願いします」
言われた通り、探索ライセンスを装着する。
「はい、確認いたしました。次回以降は、探索ライセンスを装着した状態で受付にお越しください」
「分かりました。ありがとうございます」
「いえ。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
「ありがとうございます。いってきます」
受付嬢が頭を下げたので、釣られて頭を下げてから受付を出た。
「うし、行くか」
まずは、ロッカールームだ。
第四話 三十歳の現実
ロッカールームに入ってすぐ、適当な場所の扉に探索デバイスをかざす。ピピっと電子音が鳴ると、自動で扉が開く。これも特に変わりはない。防犯対策だ。無理にこじ開ければブザーが鳴る。探索に不要な物を置いておく。財布、スマホ、家の鍵。こんなもんだろう。
着替えは済んでる。いつもトレーニングに使う黒のジャージだ。第一エリアは、普通の衣服で問題ない。ロッカールームには人がいなかったから、恥ずかしさもなかった。
「行くか」
ロッカールームから歩いて数分の場所に、扉が見えてくる。ロッカールームから距離があるのは、ダンジョン内のモンスターが溢れ出た時の対策らしい。
ゲート前には、セキュリティ付きの扉。扉の前には、ここに触れてくださいと主張しているかのような灰色の機器が設置されている。探索デバイスをかざすと、ダンジョンに繋がるゲートの扉が開いた。扉の先には広い部屋。ゲートまで距離がある。ロッカールームに続く道と同じ理由だろう。
色々と、対策済みってわけだ。
「……はぁ」
ゲート前の広間には、他の探索者がちらほらといた。どうやら、探索者はここに集まるらしい。鉄や革の臭いが充満している。朝帰りなのか、それとも今からダンジョンに行くのかは不明だ。全員、しっかりとした装備を身に着けている。ゲームで見るような鎧や、ローブ。剣や盾、杖、弓を見ると、本物の探索者だなんて、という感想が浮かぶ。まあ、装備を整えるのは当たり前だ。怪我をしたら、探索者でいられなくなるんだから。
「……」
居心地が悪い。ジャージ姿のおっさんが、リュックを背負って一人でいるのだから。奇妙なものを見るような視線が刺さる。まあ、そこまで興味がないのか、すぐに視線を外したけど。顔が熱い。早くこの場から去りたい気持ちが影響してか、ゲートに進む速度が上がった。
「12年ぶりだ」
渦潮のような見た目をしたゲート。見ているだけで引き込まれそうだ。最初は、この中に入るにも少しだけ勇気が必要だった。息ができない海の中に入るんじゃないかって、想像するだけで身震いしたもんだ。
まあ、さすがに恐怖はない。足が震えているし、息が少し荒い気がするが、きっと気のせいだ。
さっさと入ろう。
「……うお」
ゲートに入った直後の特有の浮遊感。久しぶり過ぎて声が出てしまった……。誰にも聞かれていないことを祈ろう。
「……来たな、ダンジョン」
室内の光が一変して、太陽がないのに日差しが直撃する。視界いっぱいに映る自然。草が揺れ、花が咲き誇る。青い空と白い雲が、どこまでも続いている。とても美しい景色だ。鼻から空気を吸えば、草の青臭さと、花の香りが広がった。
なんとも不気味で美しい世界。久しぶりのダンジョン。第一エリアは基本的には大草原。ここも、相違ないな。過去に挑んだ地元のダンジョンと大差はない。都内のダンジョンでは、第一エリアから恐ろしく強いモンスターが出てくるらしいが、俺には関係ない。
「おお」
地面を歩く感触は、本物の大地そのもの。毎日コンクリートの道を歩いてばかりで、自然に触れてこなかった。久しぶりに、自然を堪能している気分だ。
「って」
こんなことしてる場合じゃない。まずは、モンスターを倒すところから。昔は、簡単に倒せたけど、今はどうかな。年齢も年齢だし、不安ではある。
「おっと」
武器を構えないとな。両口ハンマー、解体作業で使われるハンマー。昔もコイツを使って戦った。あの頃は金がなかったから、なるべく安くて、武器になりそうなものを選んだ。今と同じ、ジャージ姿で。
正直、近づいてくるモンスターを、倒せればいい。とはいえ、昔と違うのは、自身のポテンシャル。若かったあの頃ですら、多少苦戦して倒せたからな。うまく体が動いてくれることを祈る。
「さて、と」
武器を構えて、前方を注意しつつ後ろも振り返ることを忘れてはいけない。ダンジョンのモンスターはリポップする。つまり、蘇るのだ。すぐ後ろにリポップするなんてこともあるから、慎重に進む必要がある。
ここは大草原。見渡す限り草花しかない。モンスターが隠れていそうな岩や木もないから、わりとすぐに見つかるはずだ。
歩いて数十分。武器を構え続けるのは、意外と疲れる。久しぶりの激しい運動が、モンスター退治だ。緊張のせいもあるだろうけど、思ったよりも疲労が激しい。
「あ」
腕が重くなってきたところで見つけたのは……ラットマンだ。
【ラットマン】――ネズミのモンスター。体長1mの二本足で歩くネズミ。顔はネズミをさらに不細工にした感じで、体型だけ見れば、被り物した人間だ。ゴブリンのネズミ版と言えば分かりやすいか。体長1mもあるからか、異常に発達した出っ歯と、長い爪に注意が必要。あんなので噛まれたり、引っかかれたら、ひとたまりもないだろう。
「……相変わらず、キモイな」
モンスターの見た目は変わっていないようだ。絶妙に気持ち悪い。相手が気づいてないうちに、速攻で倒さないと。目が悪いのか、まだこっちに気付いてない。
ゆっくり、慎重に……よし、距離が短くなってきた。リュックを置いて、武器だけ構えて。
「っ!」
今!!
可能な限り全速力で走った。耳が大きく聴力がいいのか、すぐにバレてしまった。
「ぎゃ!」
どたどたと走りながら、こっちに向かってくる。なら、待ち構えて、応戦だ。
構えている両口ハンマーの柄をグッと力強く握りしめて……。
「う、うおおおおおおお!」
当たれ!!
「ぎゃぎゃ!!」
「うっそ!」
避けられた!
思いっきり振り抜いたせいで足がもつれた。地面にハンマーを振り下ろした衝撃で手がジンジンと痺れる。
「ぎゃあ!」
「うわ!」
やべ、こけた!
クソ、振り下ろしたせいで体のバランスが!!
「ぎゃ!!」
「いっ!!」
やばいやばいやばいやばい!!
舐めてた、モンスターと自分の年齢を舐めてた!!
「ぎゃあ!」
ドサッ!――クソ、馬乗りにされた!! 1mで、細いとはいえ、重たい! しかも、痛い!! 爪が食い込んでる……! 歯が近い! 腕が震えてる……クソクソクソ!
「クッソ……やろうがあああああ!」
ラットマンごと、体を無理やり動かせた!
火事場のクソ力ってやつか!!
「ぎゃあ!」
早く立て、早く立て、早く立て!!
無理やり起こした体で、倒れているラットマンを思いっきり蹴る!!
「ぎゃ!」
「うおおおおおおおお!」
当てるだけ、当てるだけ、当てる……だけ!!!
地面に横たわるラットマンに向かって、両口ハンマーを振り下ろした。
グチャバギャ――肉と骨が潰れる衝撃が、両腕に届いてビリビリと痺れる。硬いものにぶつけた衝撃。鼓膜にまで届いた不快な音。ラットマンの顔面から青い血が流れて、鼻を突き抜けるようなツンとする化学薬品の刺激臭。まるで、シンナーをぶちまけたような臭いだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
空気を求めているように全身で呼吸をしてしまう。ふらつく足、体の痺れ、ただただ疲れたという感想だけが、脳内に埋め尽くされる。
「あ」
12年ぶりの戦闘。かなり緊張していたようだ。足に力が入らず、地面に尻がつく。足と手がブルブルと震えてる。緊張したまま全身の筋肉を使ったせいだろう。たった一回の戦闘で、これほどまで体力を消耗するなんて。
「……勝ったのに……なあ」
達成感はない。
あるのは、このままでは第一エリアで死ぬという危機感。
勢いだけでは、前に進めないという現実。
「……これは、考え直す必要があるな」
ラットマンの潰れた顔を見てしまう。絶妙に気持ち悪い顔が潰れて、余計に気味が悪い。
「うっ」
朝食べた鶏肉が逆流してきそうになるのを、どうにか堪えた。
ラットマンの死骸が、ダンジョンに吸い込まれていく。そのおかげで、嘔吐せずにすんだ。死骸の後に残ったのは、手のひらサイズのきらりと薄紫色に光る石。
「魔石か」
手を伸ばそうとして、手に痛みが走った。ラットマンの爪が食い込んだ手から、少なくない血が流れている。見ただけで痛みが酷くなった。アドレナリンが切れたのだろうな。
「はあ、散々だな」
手のひらサイズでも、魔石は金になる。こんな泥仕合でも、勝利は勝利だ。戦利品はリュックに入れたいが、少し先にポツリと置いてある。
「……リュックが遠いな」
立ち上がるのもしんどいのに。シンナーの臭いが、息を吸うたびに鼻を刺激する。ジャージにはラットマンの青い血が付いているせいだ。
震える足に喝を入れて、どうにか立ち上がる。前に前に足を進めて、片手には魔石、片手には両口ハンマー。ズキズキと痛む手を無視して、リュックまで足を運ぶ。一度の戦闘で、汗と冷や汗が交じり合い、転んだせいで土が付いた手。戦う前よりも、両口ハンマーがとにかく重たい。持つだけでしんどいな。
「えっと、塗り薬は……あった」
リュックの中に入れるのは、止めておこうと思った。血がリュックに付着するから。そんなことはあとでいいか。今は、傷を治さないと。
「……いっ」
ピリッとした痛みのあとに、すぐ痛みが引いた。薬草で作られた薄緑色の塗り薬。小さい傷なら即完治する優れ物。さすが、二万円するだけはある。まあ、第一の試練を乗り越えた探索者になれば半額で買えるらしいけどさ。
「そこがなあー」
とはいえ、一定ラインを乗り越えられるか不安だから買ってしまった。塗り薬を見ると、傷は回復するのに心臓がキュッと掴まれる。自信の無さの表れが、この市販の塗り薬だ。
まあ、買っといて正解だったけど、なんとも嫌気が差す話だよな。
「はあ……忘れよう」
リュックに魔石を入れてから、なんとなく空を見上げた。
雲がゆっくりと空を泳ぐように流れている。
生きてることを実感できた。
「……戻るか」
このままではいけない。
まだ時間はある。
探索協会で相談をしよう。
まずは、それからだ。
たった一回の戦闘で、自分がいかに無謀なことをしていたのか、理解できた。
大事になる前に気付けて良かったと、心から素直に思える。
武器と防具。
貯金からマシなものが買えるといいなー。
そんなことを思いながら、探索協会へと帰還した。
第五話 身の丈に合う装備を
「……はぁ」
ゲートで待機してた探索者たちにすんごい見られた。まあ、血の付いた手、シンナー臭いジャージ、疲れきった30歳だもんな。見られて当然だよ。馬鹿にするような声は聞こえなかったし、良しとしよう。
つうか、こんなに汚れるなら、着替え持ってくるんだったな。今度からそうしよう。その前に、トイレに行くか。手も洗いたいし。ああ、ロッカールームにも行かないとだ。
トイレを済ませつつ、血をどうにか落としてから、ロッカールームに向かい財布を取る。
財布だけ取って、あとは目的の場所へと向かう。
「ここか」
探索協会の一角に、装備店が併設されている。12年前よりも、品揃えもよさそうだ。ガラス越しに品質のよさそうな剣と鎧が飾られている。
こんなみすぼらしい恰好で入るのは申し訳ないが、致し方ない。
「すみません」
「いらっしゃいませ」
屈強な男の店員さんが姿を現した!
清潔感もあって笑顔が素敵なのだが、なんだろう。威圧感がすごい。筋肉がムキムキなせいだろう。なぜ、探索者ではなく、ここで働いているのか不思議なくらいだ。
「どのような装備を、お求めですか?」
「実は……」
もうここでは、正直に話した。
年齢が30歳で昔のようには動けないこと、それでも探索者を続けたいこと、両口ハンマーは扱えないこと、ジャージや運動靴以外の装備など、もろもろ相談した。あと、お金の不安も。
店員さんは、嫌な顔をせず『うんうん』と少し大げさに聞いている。まあ、接客ってそういうもんだし、仕方ないとは思う。さて、何かいい話を聞ければいいんだけど。
「そうですね……ではまず、服と靴からでよろしいでしょうか」
「あるんですか?」
「ええ、もちろん。こちらのタブレットに、身長と体重、足のサイズを入力していただけますか?」
「あ、はい」
タブレットを受け取って、入力する。
身長178cm、体重65kg、足のサイズは27.5cm、と。
「ありがとうございます。少々お待ちください」
そう言って、少しだけ待った後、店員さんが持ってきたのは黒いツナギと頑丈そうな靴だ。
「こちらのサイズで問題ないか、一度試着をお願いします」
「ありがとうございます」
さっそく着替える。
触り心地はとてもいい。外はサラサラとしているが、中は柔らかいな。着心地はとてもいいぞ。靴の方も履き心地はいいのに、頑丈そうだ。靴も普通の運動靴は、ダメなんだな。もう無茶をできない年齢ということだろう。
見た目は……痩せてる職人のおっさんって感じだな。まあ、ツナギだしな。
「いかがでしょうか」
声を掛けられたので、試着室から出る。
「あ、はい、いい感じです」
「良かったです。ツナギと探索靴は、吸汗速乾性に優れ、返り血や汚れも弾きます。物理耐性もありますので、第一エリアのモンスターであれば、服が破れることはないですよ」
「……なるほど。ちなみに、お値段って」
ぶっちゃけ、怖いのは値段だ。何が怖いって、そのまま破産することもあり得る。金がないとも伝えているが、相当な値段だろう。
「なんと、初心者価格でツナギ二着、探索靴を合わせて……」
「合わせて」
なんだ、めちゃくちゃ高いんか?
「10万円です」
「買います」
「ありがとうございます」
「着たままでも問題ないですか?」
「ええ、もちろん」
めっちゃ安い。驚くほど安かった。だから即決した。めちゃくちゃありがたい話ではあるが、なぜこんなに安いのかと少し不安になってしまう。
「驚きますよね」
それを悟ってくれたのか、店員さんが話しかけてくれた。
「まあ、そうですね」
「品質は保証しますよ。初心者の方は、基本的に探索学園に通ってますからね。学園の皆様は、学園から安全のために装備品を揃えてくれるので、学園に通わない初心者向けの装備は売れないんですよ」
「はー、なるほど」
安全マージンがきちんと取れた探索学園の存在は、もちろん知っている。とはいえ、年齢制限があるんだ。18歳以上28歳以下が対象。高校を卒業してすぐ、第一の試練を乗り越えられないと悟って、ダンジョンをすぐに諦めたから通うこともなかった。今から受けたい気持ちもあったが、年齢対象外だしな。
まあ、探索学園のおかげで、探索協会の装備品が安くなるのは助かる。
「それでも、一定数のお客様に向けて販売しているんです」
「ありがたいです」
「いえ、仕事ですから」
にっこりと営業スマイルで返された。まあ実際、あの格好では無理だと悟って、ここに来たしな。
「では、次は武器でしたね」
「あ、はい、お願いします」
「では、こちらへどうぞ」
この手の質問に慣れているのだろう。行動が早い。店員さんについていく。防具売り場から武器が置いてある場所まで付いていく。人間と同じサイズの大剣が置いてあるけど、あんなの振り回せる自信がない。誰が使うんだろうな。
「おすすめは、盾と短剣ですね」
「そうなんですね」
盾は納得できる。避けるより受ける方が動きが少ないってことだろう。まあ、耐えられるかどうかは別としてだが。剣を短剣にするのは意外だった。ゲームだと、ロングソードって感じの見た目だし。
「ええ、ゲームではよくある設定なので、疑問に思われる方も多いんですよ。ただ、片手で扱える剣を想像しているようですが、ゲームのようにはいきませんからね」
「なるほど」
「実際に持ってみると、分かると思いますよ」
そう言って、店員さんは近場にある盾とロングソードを持たせてくれた。盾は、思っていたより軽い。ただ……問題はロングソードだ。かなり重たい。
「たしかに……これは、きついですね」
持つだけで腕力と腕の力をかなり使う。片手でビュンビュン振り回せるかと言われたら……うん、無理だ。
こんな腰どころか、力も入ってない一撃でモンスターを殺せるとは思えない。一回しか戦ってないとはいえ、戦闘は連続する。疲れてなくても、数回の戦闘で武器を振り回せなくなりそうだ。
「ある程度、熟練の探索者であれば、こういった装備も可能です。ですが、初心者のうちは止めておいた方がいいでしょう」
「その通りです」
探索者ランクの高いパーティの戦闘動画を、何度か見たことがある。盾と剣を装備した人がいたが、あれは相当な熟練者のようだ。見ているだけの世界だったけど、本当に探索者になったと実感する。
「お客様は、ソロでの活動なので、武器は必須です。とはいえ、お話を聞いた限りでは、避けて攻撃するだけの武器では危険です。でしたらいっそのこと、盾で防ぎ、短剣で止めを刺す事がいいと思いますよ」
「そうですね……ただ、盾を使ったことはないので」
とても理にかなっているが、上手く盾を扱えるか不安だ。
「講習もありますので、よければぜひ」
「あ、ありがとうございます」
どこから出したか分からないチラシを受け取る……狙っていたかのようなタイミング。まさか、この後講習があるなんて。受けるべきだよな……絶対に。ほら、お兄さんの圧が凄いもの。あの丸太みたいな血管が浮き出た腕なんて見たら断れないよ。
「こ、これって、受けることは可能ですか?」
「ええ、もちろん」
「じゃ、じゃあ、お願いします」
「ありがとうございます」
とりあえず、講習も決まった。金のことは……いったん、家に帰ってから確認だ。
「では、盾と短剣を持ってきますので、少々お待ちください」
「お願いします」
割とすぐに店員さんが戻ってきた。たぶん、最初に話を聞いていた段階で、目星をつけていたのだろう。つまり、自分の武器になる短剣と盾ということだ。
「短剣はダガーです。全長50cmといったところですね。盾はヒーターシールド、縦70cm×横45cmです。どちらも、一緒に装備してみましょう」
「お願いします」
【ダガー】――鞘を固定するベルトを付ける。これだけでも、探索者っぽいな。
【ヒーターシールド】――手から腕全体に装備する感じだ。ベルトでしっかり腕を固定する必要があるらしい。腕が痺れるまでは、やりすぎと。ああ、ここを掴むのか。
「違和感はありますか?」
「そうですね……少し盾の摩擦が気になります」
正直な感想を伝えると、店員さんはにっこりと笑う。
「そうですね。盾に装備された革ベルトは、かなり摩擦を起こすと思います。今は、違和感ないかもしれませんが、汗でグリップ力が落ちますからね」
「なるほど」
「なので、ガントレットもおすすめですね」
「ガントレット?」
「手と手首を守るための頑丈な革手袋のようなものです」
むう……どんどん出費がかさむが仕方ない。先行投資というやつだ。まあ、それを渋って痛い目をみたから、もうそうなりたくない思いが強い。
「盾だけでなく、手汗で武器を握る力も弱まってしまう恐れがありますから」
「たしかに」
まあ、両口ハンマーは不向き過ぎた。とはいえ、これだけスラスラ言葉が出てくるなら、素直に従った方がいい。一応、金のことも伝えてるから、大丈夫なはず。
「じゃ、じゃあ、それもお願いします」
いかん、金額を考えただけで、声が上手く出せなかった。
「はい、もちろんです。ただ、念のため確認をお願いします」
「あ、はい」
ガントレットを装備した後、盾とダガーを振った。なるほど、ちゃんとこういう装備にも意味があるんだな。握った感触もいいし、摩擦も問題ないし、滑ることはなさそうだ。
「買います」
「ありがとうございます。ああ、そうだ。リュックも新調したほうがいいですよ」
「リュック?」
「はい、盾を持っていると、リュックを降ろすのも大変になりますから。付け外しが簡単なリュックです」
「じゃ、じゃあそれも、お願いします」
「ありがとうございます。装備はそのままで構いませんか?」
「はい、大丈夫です」
金額を見て、血の気が引いた。少し、眩暈もした気がする。半年は儲けずに暮らせる予定だったけど、一刻も早く稼がなければ。二ヶ月が限度だろう。借金は奨学金だけの人生だ。金は借りたくない。
……再来月の支払いが怖い。支払いが済むと、一枚の紙が出てくる。
「切れ味が落ちた、グリップ力が弱い、衝撃が強くなったなどもありましたら、定期的にメンテナンスも怠らず。武器の破損は、死へと直結いたします。メンテナンスも、いつでも受け付けておりますので」
ああ、サボるなってことですね……。圧がすごいです、圧が。
「わ、分かりました」
探索者、意外と日々の、金かかる……。
「それでは、また後程」
「は、はい……ありがとうございます」
「ありがとうございましたー」
何やら引っかかる言葉だったが、気にせず店を出た。
講習までに時間があるので、お昼ご飯を食べながら寛いだ。
後ほどという言葉を理解する機会は、すぐに訪れた。
どうやら、店員さんは、初心者講習の先生役としても活躍しているらしい。講習は三日間連続で行われた。筋肉痛がひどすぎて、碌に動けなかったため、二万円の塗り薬を使用。
装備や、講習代、その他もろもろで金が飛んだ。
大赤字ではあったが、身の丈に合う装備は手に入ったし、短剣と盾の扱いもみっちり教わった。
明日は再び、ダンジョンに潜らなければ。生活がかかってるんだ。講習も無料じゃないんだから、成果を上げないと。金が無駄にならないことだけを祈る。
なにせ……早く稼がないと、本当に生活がヤバいからな。
残り二ヶ月。
どうにか、金を稼がなければ。
第六話 再出発と再会
「来たな」
三日ぶりのダンジョン。
相変わらず、不気味なほど美しい景色だ。見渡す限りの草原と、鼻を満たす自然の香り。アスファルトではない大地。ダンジョンは何も変わらない。
変わったのは、自分自身。装備を整えた。盾と短剣。講習も受けた。三日とはいえ、体の動きは何となく覚えられたと思う。あとは、実戦あるのみ。
「行くか」
変わっていてくれと願いながら、ラットマンを探す。
数十分後、ラットマンを見つけた。前回は、あまりにも無様な戦い方をしてしまった相手。実戦はこれが初めてだ。
「ふう……」
心臓の鼓動が早い。若干、手が震えている。でも、それだけだ。吐き気も、眩暈もない。まあ、両口ハンマーに比べたら、安心感が違う。身を守る装備があるというだけで、心の持ち方が全く違うな。
「よし」
盾を構えて、短剣を握りしめる。
ガン、ガン――短剣の握りの下部、柄頭という場所で盾を叩く。音に気付いたラットマンが、不細工な顔で走ってくる。正直、馬乗りにされてから、あの顔を見ると鳥肌が立つ。盾があるなら、ぎりぎり冷静でいられる。
「ぎゃああ!」
「く」
ガンッ!――左腕に衝撃が走った。ラットマンの体重が乗った一撃は、軽くない。けれど、三日の講習のおかげで、体はぶれることなくラットマンを押しとどめることができた。
「うおおおお!」
「ぎゃあ!」
ラットマンを盾で押し返す。体勢が崩れたところを、盾を構えたまま一歩大きく前に出して……!
「刺す!!」
「ぎゃあ!」
短剣から腹の肉を刺す感触が伝わってくる。それと同時に、鼻を刺激する臭いがした。ラットマンの動きは、確実に鈍っている。
「うらあ!」
「ぎゃあ」
ガツン――盾を構えた体当たり。腹が痛いのか、ラットマンの動きが悪い。転んだ。なら、盾でラットマンを押しつぶす。『ぎゃあ、ぎゃあ』とくぐもった声が聞こえる。苦しそうだ。でも、関係ない。手足をばたつかせているが、10万円で買った初心者セットのツナギのおかげで、そこまでの痛みを感じない。
「うらあああ!!」
「ぎゃ、ぎゃ!!」
横から喉に向けるように、何度も短剣を刺した。動かなくなるまで、徹底的に。短剣は殺傷力が弱い分、十分に傷つける必要があった。
動かないことを確認してから、立ち上がる。辺りには、強烈な化学薬品の臭いがする青い血が流れているが、盾や服には一切ついてない。
「ふう……」
疲労はある。一度戦闘しただけで、腕が明らかに重いし、息が上がってるから連戦は無理だろう。でも、嫌な重さじゃないし、嫌な疲れではなかった。間違いなく、前回とは違い完全勝利したと言っていいだろう。
「……」
短剣を握る手が強くなった。喉から何かが込み上げてくる。盾と短剣。正直、これで上手くいかなければ、またあの生活に逆戻りだと思った。この三日間、疲れもあったのに寝れない日々が続いたのは、きっとそのせいだろう。
人にとっては、なんてことない一勝で、通過点だ。
それは、俺にとってもそのはずなのに。
「はあ……なんでだろうな」
運よくでもなく、接戦でもなく、辛勝でもない。
出会えば次も勝てるという自信。
「30歳からでも遅くなかったんだな」
無理だ無謀だと卑下していた過去の自分を、殴ってやれた気分だ。肩の力がスッと抜けて、なんだかいつもより胸が前に出ている気がした。
「あ、魔石」
ラットマンの死骸は、いつの間にか消えていた。そこに残るのは、前回と同じ薄紫色の魔石だ。盾を装備したまま、空いた手で新しいリュックの留め具を外し、魔石を放り込んだ。装備の購入と初心者講習でお世話になった男性職員――佐伯さんの言う通り、リュックを新調してよかった。
こういう小さい動作で、ストレスがないのはいい。魔石は、大事な換金アイテム。これから探索者として生活するうえで、絶対に持ち帰らないといけないものなのだから。
そう、探索者として。
「よし」
次だ……あと四体。
「今の俺なら……きっとできる」
あえて、言葉にした。そうしたほうがいい気がしたから。
わずかに見えた希望が、探索者としての生活はこれからだぞと、背中を押してくれた気がした。
「ぎゃあ!」
「ふう……」
それからというもの、特に苦戦することなく五体目も倒すことに成功した。
「傷は……ないな」
多少、腕がジンジンと痛むが、その程度ですんでいる。大きな傷はない。おそらく、打撲くらいはしてそうだが、その程度だ。
「五体目……終わったな」
ラットマンを五体倒した。魔石はリュックの中に六個入っている。そういえば、魔石を売るのを忘れていたことに気づく。まあ、でも、今は関係ないか。間違いなく、ラットマンを五体倒すことができた。達成感はあるが、今はそれ以上に緊張している。血の気がすでに引いている気がした。
「ふう……」
ダンジョンには、第一の試練と呼ばれる試練がある。これは、探索者として上を目指すのであれば、誰しもが乗り越えないといけない試練だ。これは、探索協会が出す昇格試験ではない。
――ダンジョンが探索者に与えてくる試練だ。
ダンジョン内のモンスターを五体倒すと出てくるモンスター。三体でもなく、四体でもない。五体倒すと、強制的に自分の目の前に現れるモンスターだ。
それを倒さない限り、ダンジョンに入る資格はない。日を跨げば、モンスターは五体倒せる。でも、それしか倒せない。毎日五体のラットマン。五体分のラットマンの換金額は、2500円だ。
たとえ30日間毎日五体のラットマンだけ狩っても、探索者としては生活できない。まだバイトする方が金を儲けられる。バイトなら、命を奪われることもない。探索者になれないだけで。
探索者として生活したいなら、絶対に乗り越えなければならない試練。
それが、第一の試練。
「……ふう」
あれは何もしなくても、時間が経てば現れるだろう。
それまで、少し休憩だ。
「ついに、か」
左腕の古傷をつい見てしまう。第一の試練のモンスターによってできた傷。
高校を卒業してすぐ、友人と一緒にダンジョンに潜った。親には内緒で。親は探索者という職業を嫌っていたから、探索学園にも入学させてもらえなかった。まあ、それで諦める程度の夢だったんだろうと、今になって思うけど。
まあ、それはいいんだ。それでも、専門学校に行きながらでも探索者になってやると思ってた。友人も俺と同じだ。違いといえば、友達はフリーターだったということ。彼の方が、本気だったんだ。
その差が、如実に出た。何としても探索者になりたい友と、親の言うことを聞いて専門学校に入った自分。覚悟の差だったのだろう。
俺は第一の試練を乗り越えられず、友人だけが乗り越えたのだ。あのとき、友人は怒っていた。【思い出の遺骸】を見て怒り、すぐに殺したんだ。
俺は、それが……少しだけ怖かったのかもしれない。
それ以降、連絡はまちまちで、今は連絡を取っていない。
夢を叶えた友人と、夢破れ大人しく社会の歯車になった自分。
あの頃、僅かでも勇気があれば、違う人生を歩めていたのだろうかと思う。
でも、後悔しても、過去は戻らない。
今やるべきことをやる。
そうすることでしか、人生を取り戻せないのだから。
「……来たな」
第一の試練が姿を現せば、すぐ分かる。背中を撫でられたような、気味の悪い感触が襲い掛かってくるから。振り向けば、黒い靄がそこにいる。気配はない。いつの間にかいるのだ。
盾を構える。いつでも、攻撃を防げるように。短剣もだ。
絶対に倒すという覚悟を持って。
これを乗り越えられないなら、探索者になれねぇ。
「分かってるんだけどな」
ああ、もうすでに吐きそうだ。 くそ、心臓が痛い……今からする自分の行為を考えただけで、涙が込み上げる。それでも、やるしかない。
「……来た」
黒い靄から足が出てくるのが見えた。
「……ああ、そうか」
黒い靄から現れたのは、二匹の愛犬。
柔らかい毛並みと先端の耳が白い小型犬ミルと、表情豊かなカフェオレ色の小型犬カフェオ。
「ワン、ワンワン!」
「キャン、キャン!」
……一体とは限らないのか。
「高校ぶりだな、ミル……カフェオも去年ぶりだ」
なあ、本当に……ダンジョンってのは、胸糞悪いところだよ。
これから、愛犬を二匹、殺さないといけないんだからさ。
「思い出の……遺骸」
――人の倫理を試す、クソモンスターだ。
第七話 人生を取り戻したいだけなのに……
「思い出の……遺骸」
【思い出の遺骸】――第一の試練であるモンスターの名称。探索者の記憶を読み取り、大切な思い出の形を取って現れる。俺の場合は、愛犬。もちろん、人によっては猫だったり鳥だったり、馬だったりする。亡くなったペットとして出てくることが多い。
生きてる場合もあるが、亡くなったペットも出てくることから、【思い出の遺骸】と呼ばれている。
ペットを飼ったことない人には、物が出てくるとも聞いた。まあ、要は、大切な物を殺して壊してでも先に行く覚悟があるのかを、ダンジョンは問うてくる。
――人の倫理を試す、クソモンスターであることに変わりはない。
「ああ……クソ」
短剣と盾を握りしめる力が強くなる。久しぶりに再会した分、感傷に浸ってしまう。歳も取ったせいで涙もろくなってるのもあるけどさ。
「やっぱ、きついな」
見た目は実家で飼っていた犬、そのものだ。白い毛玉みたいなポメラニアンのミルと、カフェオレ色したチワワのカフェオ。
「ワンワン!」
「キャン!」
俺を見てブンブン尻尾を振る姿も、鳴き声も。全部が全部……本物だ。
「はぁ……」
漏れた息が震えていた。偽物だと分かっていても、思い出が邪魔をする。元気に跳ね回る姿も、ご飯中に人の飯を強請ってくる上目遣いも、亡くなる前の顔も……全部が、蘇ってしまう。
【思い出の遺骸】は、強いわけじゃない。強さで言えば、正直ラットマンの方が強いだろう。腕を深いところまで噛まれたが、腕が取れることはなかったから。強さが厄介なのではなく、その見た目だ。
腕を噛みつかれているというのに、過去の俺はミルを殺せなかった。だって、それはミルだったから。ただ、無理だと悟った友人が、俺の手を引いて助けてくれた。
腕の古傷は、粗悪品の塗り薬を買ったせいで、残ったままだ。その傷が教えてくれる。今のままでは殺されるぞ、と。
「……昔の俺は、若かったということだ」
目の前にいる愛犬。昔は、本物の亡霊だと思っていた。
「ワンワーン!」
「きゃん!」
過去の俺は『そんな顔で、俺をみるな!』と、友人がいるにも関わらず大声で【思い出の遺骸】に喚き散らした。あの時は、ミルだけだったが、それでも亡き愛犬の姿をされるのはきつかった。
たとえ、偽物だと分かっていても。
「こいつらも、本物のミルとカフェオ、じゃないんだよな……」
「ワンワン!」
「キャン!」
友人は、分かっていたのだ。これが偽物だと。
だから怒っていたんだ。
今なら……分かる。
不思議と、手の震えは止まっていた。胸の奥が、どうしようもないほどモヤモヤして、血が顔に上ってくるのが分かる。
「……そうだ……お前らは偽物だ」
なぜなら、愛犬は、すでに死んでいるのだ。けど、12年前のあの頃は、そう思えなかった。死んだらもう会えないのに、会えたことで俺の心が救われてしまったから。
死んだらもう会えないなんてのは、そんなのは分かりきっていることだっていうのに。
でも、12年前の俺は重ねてしまった……本物のあの子たちと。
「ダメなんだ、こんなの」
人生30年、人の、愛犬の死を見た。
これは、奇跡じゃない……これは、侮辱。
死に対する……愛犬に対しての冒涜だ。
「そうだ……許しちゃいけないんだ」
ミルとカフェオは、いい子だ。人に噛みつかないし、吠えない。どちらかといえば、人懐っこい性格。番犬としては頼りないけど、心の優しい子たちだった。
「ワンワン!!」
「キャン!!」
それが、今はどうだ……。
大きな口を開けて、襲ってきている。
あれでは……まるで化け物だ。
「うおおおおお!」
「きゃん!」
「きゅーん」
愛犬に似た何かを、盾で弾き返した。悲痛な声を上げて、地面に伏せている。どうしてそんなことをするのと、訴えかけるような視線だ。
第一の試練を乗り越えるために必要なものは、一つ。
強い意志。
意思が弱いと、【思い出の遺骸】は、思い出の形に見え続けるそうだ。
昔の俺は、親に反対されたからという理由で探索学園を諦めた。18歳、自分で物事を決められる年齢だ。だというのに、俺は親の言うことに従う人生を選んだ。
それじゃあ、ダメなんだ。
ダンジョンは、自らの意思で立ち向かう者を歓迎する。
中途半端は許されないのだろう。
「うおおおおお!」
「きゃん!」
一匹の遺骸を蹴り飛ばした。姿かたちは小型犬。一時的に遠くへ追いやるのは簡単だ。
「ミルの偽物」
「くうん」
また、ミルの姿に戻る。餌を求めるような、頭を撫でてほしいような上目遣い。懐かしい。見るだけで、視界がぼやける。
「でも……偽物なんだ」
「きゃん」
だから、盾で押しつぶして動きを止める。ミルが抵抗するように盾を動かそうと懸命に足をばたつかせている。動けないようにグッと左腕に力を入れた。ゴキっと小さい音が盾から腕にまで伝わる。ミルは、キャンキャンと吠え続けていた。盾を少しずらして、短剣を刺して離してを繰り返す。シンナーの臭いが周囲に放たれ、ツンと鼻を刺激する。心がスッと晴れて、肩の荷が下りた気がした。
「やっぱり、モンスターだった」
「きゅーん」
カフェオの偽物は、潤んだ目でこちらを見ている。まるで、悪戯をして怒られた時の表情だ。懐かしい。撫でてと寄ってきたくせに、すぐに噛みつくから叱ったんだ。
思い出がよみがえる。
「きゃん」
まあ、でも……関係ない。撫でることはしない。ゆっくりと近寄ってくるから、ミルと同じく盾で潰した。潰しどころが悪かったのか、今まで以上にひどく暴れている。盾を慎重にずらせば、首が見えた。同時に、丸々とした大きな瞳と目が合う。首に刺そうとした短剣が一瞬止まった。手が震えている。おかしい。ミルの偽物を殺した時は、心がスッと軽くなったはずなのに。
「ふう」
深呼吸をした。犬特有の獣とシャンプーの匂いが鼻をくすぐる。視界が歪んで、息を吐く音が震えていた。殺したくないと心が訴える。でも、やらなければならない。だから、覚悟を決めて息を止めたまま、カフェオの首を刺した。肉の感触が右手に伝わる。数回も刺すと、声が小さくなって動きを止めた。
ミルの偽物と同じく、カフェオの偽物からも青い血が流れた。
シンナーの臭いが、こいつらが偽物だったと教えてくれる。
「偽物って……分かってるはずなのにな」
死体を見ると、重なってしまった。ミルとカフェオの死体。
二体の死体は、姿が歪んで見える。
第一の試練を乗り越えたという結果が手に入った。
【思い出の遺骸】を倒せない者に、探索者を名乗る資格なし。
これで、俺も探索者となった。
だというのに……。
「っ」
最低最悪の気分だ。怒りに任せて殺したが、後味は最悪。そこには、乗り切ったという達成感はない。心はぐちゃぐちゃのドロドロだ。泣くのは違うと思ったが、二匹の二度目の死を目の前にして、ポッキリと心が折れる音がした。
涙を拭って、もう一度死体を見た。見てはいけなかったと自覚するのが、遅すぎたようだ。
「うえ」
胃から逆流してきた酸をぶちまけた。喉が痛い、口の中が酸っぱいし、最悪の感触がする。胸の奥が熱い。吐いたからなのか、それ以外の原因かは、分からない。
死んだ後も、殺意丸出しのモンスターの見た目をしていればいいものを、その姿はミルとカフェオそのものだから。耐えきれなかった。
殺す必要があったから、殺した。それができる人間は、多くない。でも、する必要があった。自分の生活のために。自分の我儘のために殺したのだ。
化け物、人でなし、動物殺し。
意味もない言葉で埋め尽くされる。
今になって、罪悪感が湧き出てきたようだ。
「……ふう」
少しだけ落ち着いてきた。ミルとカフェオの死体は、もうない。ダンジョンに吸収されたから。でも、脳裏に彼らの死体が浮かんでいる。それをどうにか振り払った。
残ったのは、魔石一つだけ。それを、大事にリュックへしまう。
「はあ……帰ろう」
自分の人生を取り戻したいだけなのに、どうしてこう人生は残酷なのか。
今日は、なにもやる気が起きない。
手足が重たいのは、疲れているせいだろう。それ以外の要因はないと思いたい。
「ぎゃぎゃ!」
「……っ!」
それでも、ラットマンと遭遇すれば殺すほかない。というか、率先して殺した。少しでも、稼ぐためではない。少しでも、あの肉の感触を忘れるために。
「なんか……弱いな」
帰り道で会ったラットマンは、なんだかとても弱く感じた。力が漲っている気がする。気のせいではないと思うが、とても確認できる気力はない。
「早く寝たい」
ただ、それだけを考えながら、探索協会へと戻った。
探索者になったという喜びはない。
あるのは、罪悪感と喪失感だけだった。
第八話 探索者としての初成果
ダンジョンから探索協会へと戻ってきた。
換金所と書かれた場所へ向かう。ここで魔石や、素材、ドロップアイテムなどを出せば、換金してくれる。久しぶり過ぎて、換金の仕方を覚えていない。
返ってくるのが早かったから、換金所に並んでいる人は少ない。少し迷惑になるだろうが、直接聞く方が早いだろう。
「すみません」
「はい、換金ですか?」
あ、この眼鏡の人、前に再登録を担当してもらった受付嬢さんだ。どうやら、換金の仕事にも対応する人らしい。
「お願いします」
「では、こちらに取得物をお願いします」
「はい」
渡された箱に次々といれていく。ラットマンの魔石を10個。今日倒したラットマンの数は10体。もう一個あると踏んでいたが、リュックの中にはない。前回倒した分のラットマンの魔石が残っていると思っていたのだが、今日どこかで取り忘れてしまったのだろうか。そんなはずはないが、ないものはないので諦める。
最後に、一回り大きいサイズの魔石を手に掴んだ。【思い出の遺骸】の魔石のはず……。あれ、こんなに綺麗な青色だったっけ。画像で見る日の光が差す海の色みたいに綺麗だ。
「【思い出の遺骸】の魔石ですかね」
「ああ、はい。そうです」
どうやら、一目見て分かるらしい。まあ、そうか。明らかに初心者の恰好で、上質そうな魔石だもんな。見る人が見れば、分かるものなのだろう。
「第一の試練突破、おめでとうございます」
そう微笑んでくれたが、あまり喜べるものではない。とはいえ、素直に祝福してくれているわけだし、無下にはできなかった。
「あ、はい、ありがとうございます」
どうにか、口角を上げて笑顔を作ってみたが、うまくいっただろうか。眼鏡の受付嬢は、俺の態度を見て、やってしまったという顔をした気がした。気のせいかもしれないし、当たっているかもしれない。なにせ、流れる空気が微妙なものになったから。
探索者は、第一の試練を乗り越えたら喜ぶ人が多いのだろうか。やっぱり、探索者として生きるなら、それくらいのメンタルが必要なのだろう。
「そちらは、どうなされますか? 思い出の遺骸の換金額は、100万円ほどになると思われますが」
「ひゃ……え?」
あ、あぶねぇ。アホみたいな声が出るところだった。第一エリアで取れるアイテムの値段なんて、たかが知れてると思ってたけど、そうじゃないのか?
「そんなに高いんですね」
「はい。【思い出の遺骸】は、通常の魔石とは輝きが異なるようです。主な売却先としては、コレクターへの出品。たとえ売れなくとも、研究材料としても、それくらい価値がつく魔物です。【思い出の遺骸】は、市場にはまったく出回りません。なんせ、試練を乗り越えた探索者一人につき一個までしか取れませんからね」
「なるほど」
眼鏡の受付嬢は、つらつらと説明をしてくれた。探索者に一個。確かにレアだろう。世界でたった一人の人間からしか取れないアイテム。コレクターが付くのも当然かもしれない。
「いかがなさいますか?」
「そう……ですね……」
売れば、当分の生活の足しになる。当分どころか、十分な額だ。焦りから解放されるのは、願ってもないことだ。ただでさえ、あと二ヶ月で本格的に稼がないといけないのだから。それができなかったときの保険として、売るのはありだ。生活の安心が欲しいなら、間違いなく売るべきだ。
ただ、お願いしますと、一言だけ伝えれば済む話。
「いえ……せっかくですし、持ち帰ります」
「かしこまりました。では、換金してまいりますので、少々お待ちください」
「はい」
なぜか、売れなかった。売ってはいけない気がしたんだ。そんなわけないのにな。
【思い出の遺骸】の魔石を見た時、ミルとカフェオの顔が脳裏に浮かんでしまった。売れなかった理由なんて、そんなもんだ。
自分の都合で殺しておいて、金にすることができなかった。
こっちの方が、自分勝手だよな。
「……本当に馬鹿だな、俺」
つい、自虐的な言葉が口から出た。
「換金が完了いたしました。現金払い、銀行入金、ポイント。どちらにいたしますか」
「あー、ポイントで」
「かしこまりました。それでは、探索デバイスをかざしてください」
「はい」
指定された端末に、探索デバイスを重ねる。
ピロリロリーン――これでポイントが付与されたということだろう。
「ポイントが付与されたか、ご確認ください」
「はい」
5000TPか……これだけ頑張って5000円か。時給にしたら……いや、考えないようにしよう。命を懸ける職業に、時給なんて言葉使いたくない。
「今回が初めての換金ということですので、簡単にご説明させていただきます」
「はい」
10年前よりは色々と変わっているだろう。しっかりと説明を受けておくか。
「探索者ポイントのTPは、すべての商業施設、交通機関で利用可能です」
「はい」
昔は、制限があったけど、すべてとなったか……まあ、ダンジョンが出てから30年だもんな。当然と言えば、当然か。
「また、年金・住民税の税金関係、公共料金、家賃支払いの対応も可能となっております。こちらは引き落としとなりますので、手続きにお時間をいただきます。最短で来月末から引き落とし可能となりますが、申請書の送付はご利用いたしますか?」
「それって、途中からでも対応可能ですか?」
「ええ、もちろんです」
「……すみませんが、いったん保留させてください」
今は……未来のことを考える余裕がなかった。そもそも、一秒でも早く帰って寝たいという気持ちが強い。
「かしこまりました。では、最後に、次回の換金に関してですが、あちらに置いてあります換金用ボックスをご利用ください。換金用ボックスに入れていただければ、スムーズな対応が可能です」
「あ、はい、すみません。次回から、そうします」
「ご協力ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「いえ。お気を付けてお帰りくださいませ」
最後には微笑んで頭を下げてくれた眼鏡の受付嬢。ようやく終わったらしい。前回、一個だけでも換金所にもっていけばよかったと少しだけ後悔した。
まあ、終わったからいいか。
そそくさと、換金所を後にした。
ロッカールームに装備品を置いて、すぐに着替える。お昼ちょっとすぎ、どうやらこれから探索に向かう人もいるようだ。パーティを組んでいるのだろう、楽しげな声が聞こえてくる。
本当に自分が嫌なやつだと思った。楽しそうな若者の声を聞いただけで、恨み言の一つが心の中で浮かんでしまうのだから。
「……はぁ、帰ろう」
迷惑をかける前に、急いで家に帰った。帰る途中、コンビニが目に入る。
「……腹減った」
ここ最近、高いからといって立ち寄らなかったコンビニ。唐揚げ弁当とカップ麺を手に取って、辞めていた酒も手に取った。そのままレジへ向かう。
「あ、すみません……えっと、128番お願いします」
「はーい」
ああ……やめようと思ってたのにな。
「こちらでお間違いないですかー?」
「はい」
「合計で、1956円でーす。支払いの選択をお願いしまーす」
「はい」
【TP払い】と記載されたスクリーンをタッチする。
端末の画面が切り替わり、探索デバイスを当てるとピロンと光って、支払いが完了した。今日の稼ぎの半分が、一晩の食事で終わるかと思うと、何とも言えない感情が浮かんだ。
「ども」
「ありがとうございましたー」
最近は、コンビニの喫煙所も減ってきているが、ここはそうではないようだ。一人、先客がいる。紙同士ならいいだろう。
灰皿にはかなりの量のタバコが捨ててある。どうやら、探索者はストレスが半端ないようだ。
「あ」
タバコを吸おうとして、気づいた。
「……ライター」
そうだ、家にしかなかったな……帰るか。
はぁ、何してんだか。
「ほら、どうぞ」
隣の人がライターを貸してくれた。
ライトに光るアッシュグレーのボブヘア、ピンクゴールドの丸形眼鏡を掛けたきりっとした目、耳にたくさんのピアス、首にはネックレス、タバコを吸ってる左手には人差し指、中指、小指に指輪が嵌っている。
美人だな。驚きのあまり、何かの間違いかと思ったが、そうではないようだ。
「あー……助かります」
「なに、私もたまにやるから」
そう言って笑う顔は、とても清々しい。申し訳ないが、とてもギャップのある顔だった。我関せずが多い世の中で、見た目は他人に興味がなさそうな派手な格好なのに、案外気さくというギャップ。
単に、おしゃれが好きなだけなのかもしれない。
「どうも」
カチ、ジッ――ふう……四日ぶりか。……当分、止められそうにないな。熱い煙が喉を通り、メンソールの香りが、ストレスを追い払ってくれる。完全な中毒者だな。
「ライター、ありがとうございます」
「どういたしまして」
この人も、探索者なのだろうか。あんまりそういうタイプには見えないけど。まあ、人は見かけによらないし、詮索するのも失礼か。
「じゃあ、あたしはこれで」
「あ、はい。ありがとうございました」
お世話になったので、頭を下げる。間違いなく年下ではあるけど、恩を受けたのはこちらだからな。にしても、最後までちゃんとした人だった。俺はライターを人に貸しても、声を掛けずに去るから。
去っていく後姿をなんとなく見ていると、女性は立ち止まる。
「どれだけクソみたいな人生でもさ、最後には笑えるようになるよ」
横顔だけを見せて、そう呟いた。ふわりと吹いた風から、香水が鼻をくすぐる。電車で嗅いでいたような、鼻が曲がる臭いではなかった。むしろ、優しく甘い心を落ち着かせる香りだ。
「……どうして」
ただ、なぜ突然そんなことを言ったのか分からない。だから、聞いた。けれど、ピアスの女性は何も答えない。
「じゃあね」
彼女は手を上げてからひらひらと振って、その場を去っていく。少しだけ心臓が高鳴った。恋というよりは、今声をかけてほしい言葉を貰えたことに驚いている。
「ふぅー」
意味なんてないのだろう。彼女の姿が見えなくなっても、彼女が去った場所から目を離せない。
「最後には笑える……か」
けれど、気まぐれに伝えられた言葉は、いつまでも脳内で花の香りと共に再生され続けた。
第九話 負のループからの脱却
「ふう」
家に帰ってからすぐ、換気扇を付けてタバコを吸った。メンソールが口いっぱいに広がる。換気扇の下に置いていた空の灰皿に、灰を落とす。せっかくもう使わないように掃除したのに、また汚れてしまった。
ゴオオオ――無駄に音が大きいくせに、まったく煙を吸ってくれない換気扇。役に立っているのか、立っていないのか、判断が難しい。まあ、そんなこと、どうでもいいか。
「……腹、減ってないな」
とりあえず、腹に入れて寝る予定だった。でも、腹は空いていない。腐らせても勿体ないからと、弁当は冷蔵庫に入れた。今日食べるはずだった鶏ハムが、冷蔵庫の中で保存されている。もう一度、冷凍しようか迷って、そのままにした。
カシュッ――帰り道で一本目を開けてしまったので、今が二本目の酒だ。なるべくアルコール度数の高いものを選んだ。味は分からない。アルコール臭いと分かれば、それでよかった。薬品の臭いが、少しだけ心を軽くする。
「ふぅー」
喉に通る煙の熱が、いつもより弱く感じた。タール数は変わらないのに、吸った気がしない。相当なストレスが掛かっているようだ。まあ、無理もないか。愛犬二匹の死体を、もう一度見る羽目になったのだから。偽物と言われても、姿かたちがそっくりなんだ。思い出すだけでも、目が霞む。
「自分で殺したくせにな……」
そう、自分で殺した。あれだけ怒っていたくせに、今は悲しんでいるとは滑稽だ。自分の都合で、自らの手で、偽物だけど姿かたちが全く同じ犬を殺した。
最悪の気分であることには変わりない。
「はあ」
タバコの火が消えれば、すぐに次のタバコに火を点けた。
タバコを吸う、煙を吐く、換気扇に吸われる煙を見つめる。
タバコを吸う、煙を吐く、換気扇に吸われる煙を見つめる。
タバコを吸う、煙を吐く、換気扇に吸われる煙を見つめる。
タバコの火が消える。そして、また、次のタバコに火を点ける。
「はぁ……」
メンタルは脆い方だと思っていたが、案の定ということだ。危惧していたことが、現実になっている。こういう時、いつまでも引きずるのは良くないと分かってるんだが……どうにもな。
「ふうー」
【思い出の遺骸】を倒した探索者が、良く口に出すフレーズを思い出す。
『殺してしまった愛犬の分まで、強い探索者になってみせる!!』
こうなる精神は、よく分からない。そもそも、偽物だしな。殺したからなんだという話だ。まあ、偽物とわかっても、俺は立ち直れないわけだが。
自分を肯定するだけの言葉。そういうのが、自分に足りていないところだ。割り切れない。あれだけ覚悟を決めたくせに、中途半端な自分自身が姿を見せる。
タバコを止められないのも、そういうところだろう。
だから躓く。分かっていても、割り切れない。
「はあ」
俺は、何がしたいんだろうな。
「……っ」
タバコを吸おうとして、喉の痛みが先に来た。
「んっん……」
さすがに、連続で吸い過ぎたようだ。気付けば、五本ほど灰皿に溜まっていた。この短時間で、吸い過ぎだろう。どうりで、喉が痛いわけだ。すぐに付けたタバコを灰皿に押し付けた。
「ん」
ガシガシ頭を掻いたとき、やけにシンナー臭いにおいがした。髪についてしまったのだろうか。面倒だが、さすがにこの状態で眠りたくない。
「……シャワー浴びるか」
さっとシャワーを浴びた。
シャワーを浴びてる間、『きゃん』と鳴いた愛犬の声が脳内で再生され続ける。罪悪感で、頭がおかしくなりそうだった。それを振り払って、急いで風呂から出る。
もう、限界だった。歯を軽く磨いて、電気を消して倒れるようにベッドに転がる。
「……」
体の疲労というより、心の疲労。何もやる気が起きない。スマホを眺めることも、したくなかった。ただ、ぼーっとしていたい。心がそう、望んでいた。
「寝れない」
部屋の電気は消したが、外はまだ明るい。遮光カーテンの隙間から光が漏れている。その光が、気になってしまう。体は疲れているはずなのに、目を瞑っても、体が眠るのを拒んでいるようだ。
こういう時、決まってあることを考える。
よくないことだ。
思考が、それに囚われる。
負のループ、といったところだろうか。
『自分は駄目な奴だ』『どうして生きてるんだ』『あー、早く死にたい』『だれか、殺してくれないかな』『こんなやつ、生きてても仕方ないのに』『俺は本当に駄目な奴だ』『ペット殺し』『残虐非道』『クズ』
『俺が死ねばよかったのに』
「こりゃ、ダメだ」
両目の上に腕を置いた。じんわりと、腕が冷たい。部屋着の長袖が濡れている。でも、腕を動かせない。
脳裏に浮かぶのは、死体のミルとカフェオ。刺した時の肉の感触と、シンナーの臭いと、『キャン』と小さく鳴いた悲鳴が聞こえる。
また、服の袖が濡れた。
『やめとけば?』
『トラウマが、トラウマを呼んだだけ』
『挑戦したし、普通の仕事をしようよ』
弱い自分が囁いてくる。頭を鷲掴みにして、脳内に入り込んで同じことを呟き続けた。
「うるさい」
こいつらは、どうやったら消えてくれるのだろうか。
考える。
普通の仕事に戻ったときのことを。本当に戻るべきなのかを。
自分を押し殺す日々。謝る価値のない人間に対して、心の底から反省してない言葉で平謝りする自分。窮屈な居場所。
本当にそんなところに戻りたいのか?
……いや、戻りたくない。
だから、探索者になったんだ……。
ガタン――そう思った時、何かが崩れた音がした。
「なんだ……」
さすがに気になって眠れないので、嫌々立ち上がる。それくらいの気力は残っていた。
電気をつける。
倒れていたのは、リュックだ。
「……そういえば、魔石を入れっぱなしだったか」
リュックから取り出した魔石を眺める。
それは、日差しを浴びた海のように澄んでいて、とてもきれいな色をしていた。
「綺麗だな……」
【思い出の遺骸】を殺した時に手に入れた魔石。
売ることもできたはずの魔石を持ち帰った。なんとなく、そうする必要があった気がしたからだ。
じっと、魔石を眺めているとなぜか、心が休まる気がした。
あとは、そう……何か言われている気がする。
『殺しておいて、不貞腐れて終わりか?』
なんとなく、魔石から不満が漏れているような気がした。
「……ああ、そうか」
こういうとき、自分を肯定する言葉が必要なのだろう。
「やり始めたのなら、最後までやるしかない」
あの頃の自分に戻りたくない。
理由は、それだけで十分だ。自分を肯定するための言葉。
偽物を殺した。愛犬そっくりの偽物を。
なら、その分まで生きてみようと思った。
逃げずに挑戦して……。
どうせ死ぬなら、ダンジョンで。
「そうだな……それがいい……」
人生を取り戻したいだけなのに、余計なことまで考えすぎたかもしれない。
奪い、奪われるのがダンジョンだ。
俺は、ミルとカフェオの命を奪って、探索者になることを選んだだけ。
それ以上も、それ以下もない。
そこに、感情を持ち込むことすら、違ったのかもしれないな。
『どれだけクソみたいな人生でもさ、最後には笑えるようになるよ』
喫煙所で会った女性の何気ない言葉が、最後に聞こえてきた気がする。
わずかにだけど、一ヶ月前の自分よりも先に進めていると、実感できた。
「ありがとな」
話をするはずのない魔石に、お礼を伝える。気のせいだろう。魔石が僅かに光った気がした。そういうふうに思い込みたい自分の幻影だろう。
「ふっ」
それでも、確かに救われた。
【思い出の遺骸】は、いつでも目に入る場所、玄関の上に置くことにした。
戒めというか、心が折れた時に探索者であることを忘れないための原点として飾ったのだ。
「よし」
グウウウウウウ――少し心の整理ができると、腹の音が響く。腹が空いている。そのことだけでも、今生きている喜びを感じられた。
「……腹、減ったな」
腹が空いていると、不思議と動く気力が湧いた。
弁当を食べよう、そう思えた。腹を満たして、英気を養う。ダンジョンで生きるには、体が資本だ。
明日を生きるために、買ってきた弁当を温める。
コンビニ弁当の匂いが部屋に充満して、食欲が蘇った。
レンジから取り出して、弁当をテーブルに置いて、唐揚げを夢中で食べる。
「……うーん、味が濃くてうまい」
仕事の後、久しぶりに味わって飯を食えた気がした。
第十話 探索者としての第一歩
「……んあ……いま、なんじ?」
時計を見る。時刻は、9:00を過ぎていた。昨日までなら、とっくに起きていて、今頃はダンジョンに潜っているはずだ。
「うわ……寝坊かよ……」
昨日、あれだけ張り切っておいて寝坊したとは情けない。朝のルーティンをすっぽかしたのは、ここへ来て初めてのことだ。
体が重い。ダンジョンで10体以上のモンスターと戦って疲れていたからか、それとも心が疲れているのか、アルコールのせいか。どちらにせよ、だらしないな。
「今日は……休むか」
昨日は頑張った。盾と短剣を駆使して、モンスターを10体以上倒して、【思い出の遺骸】まで倒したんだ。立派な探索者への道を踏み出せた。今は、それを褒め称えてもいいだろう。
昔できなかったことが、今できるようになった。これは確かな進歩である。なら、誇るべきだ。今まで休みなく動いてきたから、疲れがたまっているんだろう。
そう、休んでいいはずだ。
「はぁ……誰に言い訳してんだか」
誰が責めるわけでもないのに、何してんだか。まあ、いい。顔洗って、歯を磨いて、洗濯して。朝のルーティンをサボったとはいえ、普通に考えたら朝に変わりはない。少し汚れた部屋でも片付けよう。
散らかった部屋を片づけていたら、腹が減った。
「そういや、鶏ハム残ってたっけ」
タッパーに保存してある鶏ハムを、テーブルまで持っていく。
「いただきます」
一ヶ月ちょっと、作り続けた鶏ハム。慣れた味だけど、やっぱりうまい。昨日、アルコール飲んで、油物を食べたせいか、肉なのにさっぱりする。鶏のうまみが最大限に引き出されている気がした。
「ふう」
冷蔵庫に解凍してあった分を食べ終えて、皿を洗ってから、のんびりすることに決めた。
「動画でも見るか」
ベッドからスマホを取って、ベッドに寄りかかり動画を眺める。
そう、今必要なのはリフレッシュすること。病みかけの精神には、YouCastの動画が役立つ。ただなにもせず、こうして動画を見ることが癒しなのだ。
自分へのご褒美。最近見れてなかったしさ……って、また誰に言い訳してるんだか。
――テテ、テテン、テレレン。
動画を開くと、Vstarが雑談を始める前の陽気なBGMが流れてくる。この段階で分かった。今はこの気分じゃないと。アニメも違う。そういう気分じゃない。
ゲーム配信でも見るか。上手い人のゲーム見ると、スカッとするんだよな。あとは、好きな配信者の大会勝利シーンでも見るか……うーむ、悩む。
まあ、俺もダンジョンの第一の試練に勝ったし、勝利シーン集でも見るか。YouCastのお気に入りの動画をタップする。
グルグルと動画の読み込みが終わると、広告が飛び込んできた。
『君も、探索者になろう!!』
「……」
探索者にはなれた。まだ、なれただけだけど。
まあ、でもほら、今日は休みだから。
逃げるように広告のスキップボタンを押す。
動画に集中しようとして、突然画面が暗くなった。
「はぁ……」
またか。最近、画面が急に落ちることが増えている気がする。こういう日々のストレスは馬鹿にならない。とはいえ、スマホを変える金は……今のところないんだよな。
「ん」
暗くなったスマホのディスプレイには、冴えないおっさんの顔。
いや、俺なんだけどさ……。
……前に見た時より、血が通ってる感じがする。
『君も、探索者になろう!!』
さっき、スキップした広告が頭をよぎった。
「そうだよな……」
この冴えないおっさんが、第一の試練をクリアしたんだよな。
自分の可能性を否定して、周りの目を気にして、不満だらけのくせに何もしてこなかった自分。
「……ふ」
なんだか、笑えてきた。
そう、そうなんだよな。俺は、やったんだよ。第一の試練をクリアしたんだ。
あれだけ無理だと否定し続けていたのに、行動したら成功したんだぞ。
それだけじゃない。部屋も綺麗だ。汚部屋になりかけていた家が、今では足場が見えてる。仕事をした翌日から、動けてる。
「成長してるんだな……俺も」
目の前のおっさんが、アホ面で笑っている。
どの動画を見ても、すぐに消してしまったのは行動していないことが嫌だったから。それを気のせいだと思い込んで、また次の動画を再生して。
これじゃあ、今までと同じだ。
俺は、何をしに探索者になった?
そう、人生を取り戻すためだ。
デカくなりたいわけじゃなくて、自分を好きになるため。
言い訳ばかりして、休んでいる自分が好きになれるだろうか。
「なれない」
なら、今からでも行動すればいいじゃないか。予定が崩れたからなんだ。やるべきことをやるんなら、何時からでもいいじゃないか。
一番駄目なのは、言い訳して何もやらないことだ。
それをよく分かっているのは、俺自身だ。
ほら、画面の前のおっさんも、動けよと言っている。
「行くか……」
――ワンワン!
――キャンキャン!
「ん?」
廊下の奥から、犬の鳴き声が聞こえた気がした。廊下からではない。玄関から。
あれだけ重かった体が、簡単に動いた。
扉を開ける。
そこには、【思い出の遺骸】の魔石が静かに鎮座している。
幻聴だ。いまさら、ミルとカフェオの声が聞こえるなんて都合が良すぎる。
それでも、彼らは吠えている気がした。
【思い出の遺骸】の魔石の前に、導かれる。
「はは」
『早くしろ』『さっさと行け』
散歩に連れて行けと言わんばかり、急かされている気がした。
なんだか、懐かしい記憶だ。
胸の奥が、温まる。
と、同時に、税金の手紙が見えた。
ひゅっと息を飲んで、血の気が引いた気がする。
「現実は……厳しいな」
夢を追えば、世界が広がると思っていた。
トラウマを乗り越えれば、強くなれると信じていた。
でも、現実は違ったようだ。
トラウマを乗り越えても、結構しんどい。
夢を追っているのに、現実が後ろから追いかけてくる。
楽しいよりも、大変の方が、先に感想が浮かぶくらい。
現実は、いつでもどこでも、どれだけ経っても……手厳しいままだ。
「あーあー」
嘆いている暇はない。
貧乏暇なしとは、よく言ったものだ。
「体は……動くな」
昨日と比べれば、面白いくらい軽い。帰り道は、リュックの中に岩でも入れてしまったかのように重たかったのに。
「行くか」
心が沸き立っている自分がいる。
それからすぐに、身支度を整えた。
「ふう」
鏡の前に立つ。
二ヶ月前の自分よりも、目が生き生きしてる。くたびれた30歳ではなく、何かに挑戦する男の顔だ。
一ヶ月前の自分よりも、自信が漲っている。有言実行。目標を達成するだけで、こうも違うものか。
鏡に立つようになって、自分の変化に気づく。
変化を見ると、胸がじんわりと熱くなる。
「俺は……探索者」
本物の探索者になった。
「俺なら……できる」
今までとは違う人生を間違いなく歩んでいる。
今できたなら、これからもできるはずだ。
「きっと、なんとかなる」
そう、きっと大丈夫。
自分を信じてさえいれば、必ず道は開ける。
現に今、俺は道を自らの手で切り開いたのだから。
「行ってきます」
【思い出の遺骸】の魔石に向かって、挨拶をした。
返事はないが、なんとなく『行ってこい』と言われている気がする。
扉が軽い。
今まで生きてきた中で、一番軽く感じた。
「今日も、頑張りますかね」
そう言い聞かせて、ダンジョンへ向かう。
探索協会に向かう途中、飼い犬を散歩している年配の方に会って、若干肩がびくついた。まあ、すぐに心が晴れたかと言われれば、そうではない。
それでも、前に進むしかないのだ。
生きるとは、足を前に動かし続けることなのだから。
心臓をバクつかせながら震える足で、探索協会へ向かう。
「こんにちは」
探索協会に着いてすぐ、受付に向かった。
「こんにちは、探索でしょうか?」
「そうです、お願いします」
「では、入場記録を登録いたしますので、こちらの端末に探索デバイスを重ねてください」
「はい」
ピピ――レジ打ちのような音が響いた。
「探索デバイスに入場記録を登録いたしました。本日は日帰り探索でしょうか」
「はい、そうです」
ダンジョン内での野宿の有無を聞くのは、異常事態に備えてのこと。日帰りの探索者が、24時間以内に帰ってこない場合、探索協会が安否の確認をする必要があるからだ。
安否確認から生きていることが分かれば、強制的に救助要請が掛かる。命が助かるのはありがたいが、高額な救助費用が請求されるらしい。本当に気を付けたいところだ。
今は、僅かな金を取られるだけでも致命的だから。
「かしこまりました。それでは、本日もお気をつけていってらっしゃいませ」
受付嬢は、深く頭を下げる。
「いってきます」
いってらっしゃいには、相手の無事を祈る意味がある。仕事だから言っているだけだろうけど、挨拶を返すのは大事だ。
今までは、人の目を気にして言えなかったけど……もう気にするのは止めた。
自分が言いたいことを言えたからだろうか。
昨日よりも軽い足取りで、ロッカールームに向かえた。
不用品を置いて、革製のガントレット、盾、短剣を装備する。ガントレットの上から、探索デバイスを装着して、準備完了だ。
そして、すぐにロッカールームから出て、ゲートへ向かう。
今日は入る時間が遅すぎたのか、ロッカールーム、ゲート前広間には数人しかいなかった。
「うし……」
海の渦巻きのような見た目をしたゲートに入る。
やはり、気味の悪い浮遊感に慣れることはなかった。
浮遊感の後、見渡す限りの広い草原が現れる。
「さて……稼ぐぞ」
今日から、本格的に稼がねば。
なにせ、来月には恐ろしい支払いが待っているのだ。
探索者として稼げるようにならないとな。
「ふ……」
生活の危機的状況ではあるが、なぜだか口角が上がった。
この状況を楽しんでいる自分がいるせいだろう。
「人は……意外と変わるもんだな」
自然と口から零れた言葉と共に、本物の探索者としての第一歩を踏み出した。
第十一話 第一エリアでの稼ぎ方
第一エリアを西に歩き続けること、一時間。
「【雑木林ゾーン】は、ここか」
そこらに木がまばらに生えている。密林ではなく、本当に雑木林という感じ。ただ、花の匂いはしないな。どちらかと言えば、青臭さが目立つ。
「意外と早く来れたな」
もう少し掛かると思っていたが、思っていたよりも早く目的地にたどり着けた。目的地まで、ラットマンが邪魔してくる。戦闘になれば、慎重に動かざるを得ない。
「調子がいいな」
だが、【思い出の遺骸】を倒す前より、体が動く気がした。調子がいいというべきか。なんにせよ、五体のラットマンの相手をして、そこまで疲れていないのが証拠かもしれない。
「レベルアップか……」
第一の試練をクリアすると、格力が上がるとされている。ゲームのようなステータス画面は出ないが、肉体の変化はあるようだ。つまり、俺自身の肉体も強化されたのだろう。
【思い出の遺骸】を倒した時は気付かなかったけど、ダンジョンに入ってようやく実感できた。
「となると、天能の有無を確認したいが……」
ある程度の格力が上がれば、天能が生えるらしい。ダンジョンに入ってすぐに天能を授かる者もいれば、格力をたくさん上げてようやく手に入れたなんて話もある。
格力が上がっても天能なしは、意外と多いとも聞いた。
あまり期待しないほうがいいだろう。
それに、金がかかる。
鑑定に一回10万円だ。すぐにできることではない。それに、そこそこ時間もかかるらしいので、いつかやってみたいとは思うけど、今じゃないということだ。
「まずは、安定した稼ぎから」
第一エリア、雑木林ゾーンに来た目的を思い出す。
「そのために、ここに来た」
【雑木林ゾーン】――ここでは、素材が取れる。主な素材は薬草。あとは、キノコや蜜なんかも取れるらしい。毒キノコは第一エリアのゾーンにはないそうだから、見つけ次第取っておきたいな。素材は10単位で買い取ってくれるらしい。蜜はグラムかな。
とりあえず、そこそこの儲けが出ると、動画で見た。ソロ探索者の生きる道を教えてくれた動画でもある。残念ながら、ソロ配信の人気はない。世間は娯楽としてダンジョン探索の動画を見たいだけで、実際に役立つ情報は不要のようだ。
「案の定、人はいないか」
第一エリアで素材集めをする探索者は、ほとんどいない。モンスターを倒したほうがよっぽど金になるからだ。それに、パーティ単位で動くから、こんな地味な仕事はしないだろう。ソロだからこそ、生活ができるのだ。
「うし、薬草採りスタートだ」
薬草の見分け方は、割と簡単だ。葉っぱの先が青く染まっているのが特徴。とはいえ、腰を屈めて見ないと見分けがつかない。
「お、あった」
リュックを降ろしてスコップを取り出す。薬草は根っこまで使えるので、根っこを傷つけないようにしないといけない。傷つけると、価値が下がるらしい。とはいえ、主根さえ傷つけなければいいそうなので、そこまで慎重になる必要もないはず。
だが、やはり慎重になってしまう。そういう性なので気にしてはいけない。
最初のうちは、作業が遅くなるだろう。でも、慣れれば、そこそこの金額が稼げるらしい。
正直、採取が頼みの綱だから、上手くいってほしいものだ。
「盾が……邪魔だな」
いくら盾が軽いとはいえ、採取には邪魔だ。とはいえ、外すことはできない。なにせ、ここはダンジョンだ。ラットマンを簡単に倒せるようになったとはいえ、油断はできない。
盾がない状態で襲われるのは、非常に怖いからだ。茂みが風に揺れる音だけでも、肩がびくりと反応する。ソロでやるなら小心者くらいが、ここではちょうどいい。探索協会職員、佐伯さんの教えである。
「ぎゃぎゃ」
「おっと」
ほら、来た。薬草採取中だからって、モンスターが待ってくれるわけじゃない。けれど、来ると分かっているなら対処がしやすいだけ。
「ぎゃあ!」
ガン!!――攻撃が来たら、盾で弾く!!
「ぎゃあ!?」
「らあ!」
のけぞったところに、盾を構えたまま接敵して短剣で刺す。革のガントレット越しに短剣の柄を握る手を、これでもかというほど力を一杯に込める。体の中でも柔らかい首を狙っているのに、それでも短剣を突き刺すとき、力を加える必要がある。一回詰まったところを、力を入れ直して刺す。残酷だが、これが一番早く倒せる。
「ぎゃ」
首から青い血が噴き出した。相変わらずのシンナー臭さだ。顔にだけかからないようにすれば、服と武器に血は付着しない。ツナギにかかった青い血が、地面に落ちていく。
「魔石もゲット」
リュックを背負っていないからだろうか。いつもより戦いやすいな。薬草も採れて、ラットマンも狩れる。いいこと尽くしだな。
「さて、頑張りますかね」
ラットマンを倒せれば、次は薬草採取。
やることは多いが、充実している。人の目を気にせず、休みたいときに休み、仕事をするときは集中。心が満たされているからなのか。薬草採取に不思議と不満はなかった。
探索者にはなったが、同じことの繰り返しで金を稼ぐことは、会社員時代と変わりはない。違いといえば、人がいないことや、自分のペースで仕事ができること、満員電車に乗らなくていいことなど、挙げたらきりがない。
もし……人の周囲を気にせず、自分のペースで仕事ができて、満員電車に乗らなくてよかったのなら。きっと、探索者になる必要性はなかったのかもしれない。そういう仕事を続けていたなら、探索者にはなっていなかったと思う。
でも、俺は探索者になった。自由を感じる。生きてるって感じがするんだ。きっと、同じ条件の職場が見つかっても、社会人時代には戻れないと思う。
それくらい、探索者の仕事が気に入ってる。
「まあ、まだ探索者になって一日目だけど」
ずっと、そう言い続けられることを願うばかりだ。
おっと、手が止まってたな。
再開しようか。
結局、この日は、薬草を50株採取して帰路に立った。時間もそうだが、腕の限界だ。むしろ、よくもまあ、ここまで採れたと思う。明日は間違いなく筋肉痛だ。
「おっも……」
途中、ラットマンにも嫌というほど出会ったからか、両肩にずっしりと魔石の重さが襲い掛かる。全力で体を動かしたせいで、リュックを背負って帰るのもしんどかった中学時代を思い出した。荷物のすべてを置いて帰りたくなるような気持ちだ。
「まあ、できないけど」
休憩を挟む時間をもう少し増やしたほうがよさそうだ。今日は来るのが遅かったから、ハイペースで作業をした。慣れない動きを長時間したのも良くなかったんだろう。
これは、要反省だな。
「ああ……ゲートまでが遠い」
結局、歩いてゲート前に帰るまでに、二時間かかった。
遠かった……次回からは気を付けようと思う。
「うお」
時刻は21時。探索協会には、そこそこの数の探索者がいる。混み合ってはないけど、多少いるって感じか。朝早く来て、夕方に帰るのがベストかどうか、確認するか。そのためにも、明日は早く起きないとな。
もう、盾は取っていいだろう。さすがに左腕がしんど過ぎる。
……おお、軽い。左腕が軽いぞ。
つうか、職業病で、左腕だけマッチョになりそうだな。右腕もどうにか鍛えないと。
いや、そんなことは、どうでもいいか。
「さて」
換金所に行こう。
換金前の換金用ボックスに、今日取得したアイテムをリュックから入れていく。
薬草10株ずつまとめた薬草が5束。ラットマンの魔石が15個。やっぱり、かなりたくさんのラットマンを倒していたらしい。まあ、13時から来て、ダンジョンに潜った時間は8時間。そのうち、移動に3時間かかる。どうにか移動の時間を減らして、薬草採取の時間にしていきたいな。
まあ、今はいいか。それよりも、今日の成果だ。
「換金お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
しばらくすると、換金所の受付嬢が戻ってくる。
「お待たせしました。こちらが、本日の換金額です」
薬草50株 10000TP
魔石15個 7500TP
薬草高い、魔石安い!!
いやまあ、分かってたことだけど。戦うより、採取したほうがよっぽど金になる……。屈んで痛めた腰も、乳酸がたまりにたまった左腕の痛みも、全て解放された気分になる。
1万TP超え、今すぐに小躍りしたい気分だ。
「換金はポイントでよろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
「では、こちらの端末にタッチをお願いします」
「はい」
ピロン――探索デバイスが光る。
「本日もご苦労様でした。お気をつけてお帰りください」
「はい、ありがとうございます」
……よっしゃ!!!
換金所から離れてすぐ、誰にもバレないように小さくガッツポーズをした。毎日潜ることは無理だとしても、一日1万TP以上も稼げたら十分な成果だ。
「やっと……やっとだ」
今日の成果で、確信できた。
俺は……探索者として生きていくことができると。
今日は、すぐに帰った。
小祝いだ。
近所にある町中華屋。前から気になっていたのだが、稼ぎが不安で入れなかった店だ。
ガラガラ――店の扉を開けただけで漂うニンニクの香り……。ニンニクの炒めた香りを嗅いだだけで、腹の虫が延々と鳴き続けている。
「いらっしゃいませー。オスキナお席、どうぞ!」
おお、中国の人なのかな。ということは、かなり本格的なのかもしれない。
「お酒ノミマスカ?」
「ああ、じゃあ、レモンサワーを」
「はいよー」
つい頼んでしまった……いやしかし、後悔はない。
今日は豪遊すると、今決めたのだ!
「ダブル餃子定食、ご飯大もりで」
「はいよー! シュアン……ダーフェン!!」
うお、まさかの中国語か?
最初と最後しか、聞き取れなかった。
「ハイ、レモンサワーね!」
「ども」
……くう、炭酸が沁みる!!
なんかこう、美味い酒だ……昨日飲んだ酒が、同じ酒とは思えないほどに。
「……うまい」
そうして、しばらくレモンサワーを飲みながら待っていると。
「ハイヨー、お待たせねー!!」
思っていたよりも早く料理が届く。
たまらず餃子を頂く。噛んだ瞬間、肉汁が弾けてニンニクと肉が空腹の腹にガツンと脳を刺激した。ニラや他の野菜も絶妙なバランス。ご飯との相性も最高だ。
「うまい……」
ちょっと、涙が出た気がする。
「最高だ」
結局、無我夢中で餃子定食をかっくらい、レモンサワーを飲む。
まさに、至福の時間だ。
結局、この日、一杯のレモンサワーと、餃子定食で1800円の支払いをした。
探索者としての新たな生活は、ニンニクの臭いで幕を閉じたのだ。
こういう生活を続けていきたいと、心から願える夜だった。
第十二話 現在の収入と、新たな目標
本物の探索者になってから一ヶ月が経った。
週に一度は休みを取っているが、それ以外はダンジョンに足を運んでいる。週二回休みを取るつもりだったが、体の調子もいいので、週一で問題ないと判断した。筋肉痛もほとんどないし、どこか節々が悪くなったというわけでもないから。
それなら、ダンジョンに潜ろうという結論に至った。
「今月の収入はっと……」
今日は休みで、ここ最近の収支について計算中だ。
一ヶ月間、ひたすら薬草採取に励んでいる。薬草は毎日70株を探索協会で換金した。これは、ダンジョン探索における最低条件だ。これだけで14000円は手に入る。70株採取するのにダンジョン探索の半分の時間を要するのだ。採取するのは楽ではないが、その分やはり報酬はうまい。
だが、ここ最近、【雑木林ゾーン】であるものを見つけた。蜜とキノコだ。なんと、蜜とキノコを持ち帰るだけで、5000〜10000円の追加報酬が貰える。需要と供給が追いついていないのかもしれない。どちらも高値で売られるのは、こちらとしては大変ありがたい。
もちろん、10000円分は結構な量だ。それに、蜜はレア度が高いのか、あまりお目にかかれない。さらに、蜜の周囲には【蜜熊】という蜜を作るモンスターもいるから、簡単には採れない。ただ、蜜熊というモンスターには、ドロップアイテムが落ちるのだ。
蜜とドロップアイテムを同時に得られれば、日給20000円は確定するのだから、絶対に採ってから帰ると決めている。難点といえば、蜜熊が結構強いことと、蜜とドロップアイテムが物凄く重いということくらいだろう。
あとは、ラットマンの魔石。数えられないほど取ったが、こちらは多くても8000円くらいだ。ラットマンだけの収入で暮らしていくのは不安なので、こうして採取に勤しんでいる。
平均日給は、18000円くらいだ。
本物の探索者になって、昨日で26回はダンジョンに潜っている。
つまり、かなりの収入を手に入れたということだ。
探索デバイスを操作して、手元に残っている金額を確認する。
ボワン――探索デバイスから【ホログラム】が展開された。探索デバイスは空中の魔力を使って、色々な操作ができるようになっているらしい。凄まじく便利だが、探索者関連以外のことには使えないのが残念だ。これで、動画を見れて、日常使いの連絡もできればスマホを解約できるのだが、そういうわけにはいかないようだ。
まあ、それはいいか。
それよりも、ホログラムに映し出されている金額のことだ。
手元に残ってるのは……約25万TP。食費、生活費、税金保険料、探索でかかる経費、サブスク代等、すべての支出を差し引いた額だ。
つまり、一ヶ月で稼いだ金額は45万円以上だ。
45万、ボーナスですら見たことない数字だ。それが毎月入ってくる。大怪我をしたときの治療費は貯めておくべきだが、これからは多少の贅沢もできるよな……。
やばい、想像しただけで、口角が上がる。
「ふふ……笑いが止まらねぇな!」
来月からは、TPから家賃や税金を引いてもらうように申請した。すべてがTPで完結するということだ。つまり、銀行口座にある金は使っても問題ない金となった。
「会社を辞めて、二ヶ月間か……たった二ヶ月で、人生はこんなにも変わるんだな」
全てを諦めたように悟って、行動しなかった過去が噓のようだ。
にしても、上手く行き過ぎている気もする。30年間、碌な人生ではなかったから、ようやく運気が向いてきたというふうにも取れるけどな。
――どうにも、自分が幸せなことに違和感がある。
いいことのはずなのに、これからまた大きな不幸が振りかかってくるんじゃないかと思う。不幸が普通だと思い込んでいるからだろうか。つまらない人間だとは思うが、今まで幸せではなかった分、そういう目に見えない恐怖もあった。
――いずれ慣れるのだろうか。
「慣れてほしいな」
不幸が当たり前なんて絶対に嫌だしな。今後の自分に期待だ。
まあ、でも大丈夫だとも思う。本物の探索者にしては地味だけど、暮らせるくらいのお金は手に入ったから、自信が付いたというべきか。夢だけを見ていたころの自分とは、すでに違うのだから。
「……でも、このままってのもなぁ」
生活できるようになった今、新たな目標が必要なのかもしれない。目標がないと、ダラダラと生きてしまう。前の自分がそうだったように。昔のようには戻りたくない。
「目標書くか」
まずは、一年間、この暮らしを維持することが大前提だ。つまり、最低収入は35万を目安だな。
これなら年収400万円を目指せるだろう。今までの生活より、遥かにいい暮らしができるはずだ。お金の余裕は心の余裕につながる。今だって、心にゆとりを感じているから。
それから、趣味を見つけること。動画や映画、アニメを見ること以外にも趣味を見つけたい。筋トレは、ダンジョンに潜ってるし、実用的な筋肉が欲しいからパスだな。アウトドア趣味なんかはダンジョンでいずれ必要になるからパス。ゲームは、ゲームみたいな活動中だからな……あれ?
ダンジョンですべてが賄えてしまっているのでは?
じゃあ、ダンジョン関連に必要な趣味を見つける。例えば、そうだな……。ダンジョンといっても、第一エリアのすべてを攻略したわけじゃない。第一エリアですら、まだまだ行けていない場所がある。それを探しに行くのも面白そうだ。
ああ、そうだな。第一エリア観察日記でも取るのがいいかもしれない。ジャーナリングも嫌いではなかったし、書く瞑想はいいことだろう。
よし、そうしよう。
となると必要なのは、ダンジョンに寝泊まりするための道具一式だ。食事もダンジョンでしないとだし、自炊の腕も上げておきたい。あとは、リュックだな。ダンジョン産のリュックには、空間魔法が付与されたリュックがあるという。それがあれば、どんな道具も持っていける。
「金がいるな」
金が必要だというのは、分かった。でも、これは先が長いな。やりたいことリストのうちの一つにしておくか。いずれ、第一エリアの最果て地まで行くのはいいとして、実現可能な目標が必要だろう。
「そうなると、やっぱり探索者ランクをEからDまで上げることか」
探索者ランクD。第二エリアの探索を可能とする階級だな。一般的なソロの限界は、Cランクと言われているため、目標の一つ下だ。
探索者ランクが上がれば、国からの恩恵が手に入る。Dランクは住民税や保険料の支払い義務が半額になるんだよな。残りの半額は国が補填してくれる。半額払えば、年金は満額貰えるってことだ。あまりにもデカい恩恵だ。
「てことは……パーティを組まないといけないのか」
探索者ランクDは第二エリアの到達。第一エリアのボスモンスターなら、ソロでも倒せるらしいが、天能ありきの話だ。今の俺には到底無理だから、第二エリアに挑める探索者と一時的にパーティを組むことか。
30歳のおっさんと組んでくれそうなところを探すのは難しそうだ。でもまあ、やるだけやってみよう。
そうなると、強さも必要か……うーん、難しいけど、挑戦してみるか。
「あとは……家族か」
30歳ともなれば、家庭を持つ人もいるんだよな。まあ、そうだな……巡り合わせがあれば、結婚も視野に入れたい。となると金を稼ぐ必要がある。
「結局は、金か」
まあ、分かりやすくていいか。
「こんなもんかな……」
ざっとまとめて箇条書きする。
――――――――――――――――
目標
・1000万を貯める。
→何事にも金は必要なんだから、まずはここを目指す。
・探索者の階級をDランクに上げる。
→挑戦する気持ち。税金半額。貯金1000万も夢じゃない。
・家庭を持つ。
→まずは出会うところから。専業主婦がいいと言われても問題ない稼ぎを目指す。
・年収1000万以上
→ソロのDランクなら、可能。今でも無理をすれば可能だけど、税金が恐怖。税金半額補填を目指す。
・車も欲しい
→免許あるし、どうせなら欲しい。普通自動車。Dランクなら、税金半額。ガソリンも怖くない。
・第一エリアの最果てを目指す。
→これは遠い目標。いつか叶えたい。
――――――――――――――――
「うーん、我ながら大きな目標だ……大体は金の問題だけど」
自分でも、呆れてしまうほど金頼りだ。
まあ、でも、目標も立てられなかったころとは違う。
――ここから、人生を取り戻す。
そのための、目標だ。
「明日から、また頑張るか」
目標を決めたら、また頑張ろうと思えるようになった。
時計を見たら、もう21時だ。そろそろ寝るとしよう。
明日からまた、探索者として頑張ろう。
この時の俺は、まだ本当の意味で、ダンジョンを知らなかった。
第一の試練をクリアして浮かれていたからなのか、はたまた生活に余裕ができたからなのか。
その両方を得てしまったせいかもしれない。
ダンジョンは危険だけど、第一エリアでだけで活動すれば、安全に金が稼げる場所だと思い込んでいた。
――ダンジョンを……信用してはいけないというのに。
最悪の事態に直面してようやく、ダンジョンは理不尽な場所だと思い出すことになるのだ。
気付いたときには、取り返しがつかないことになっている。
後悔先に立たずとは、よく言ったものだ。




