エルバの獅子
3月7日、ナポレオンか2月26日に夜陰にまぎれ、兵1000名を乗せた船団を従えてどこかへ消えた。
メッテルニヒがジェノバからの手紙を読んで王宮へ馬車を走らせた。
3月8日。
「また怪物が出たのか」
アマーリエン宮のロシア皇帝は、王宮広場の黒い狼3頭を忌々しく見ていた。
「このままではグラーベンへ行けないじゃないか。伝令をシェーンブルンへ出してやれ」
「正面では出せません」
「禁裏側なら行けるだろう! さぁ、出せ」
シェーンブルン宮殿広場に早馬が駆けていた。
「シカ鳥がいなくて良かったね」
人化して白狼に乗ったマシロは笑いかけた。
「確かに鳥がいたら、伝令なんて来れないし今ごろ、獣かぁ」
灰色のコートを着て外に出たデオンは、マシロは太っちょトカゲでいてほしかった。3月でも寒いのだ。
王宮広場まで市内の馬車が乗り捨てられたままで、人々が広場前で集まっていた。大勢の野次馬は3頭の黒狼が、広場に居座っていると心得ているようだ。
獣たちは白狼と麒麟に体を向き直して、巨大化した。
マシロは一方の黒狼と、巨大化した白狼は一方を。
残りはデオンが担当した。
「ちょっと待て! あいつが1番でかいぞ」
大型馬の3倍で姿勢を低くうなり声をあげている。
白狼は黒狼の首を噛みちぎった。
マシロは炎刀で一撃で倒した。2人がデオンへ加勢しょうとすると、シカ鳥の大軍が邪魔して来た。
デオンの対峙する狼の先にローブの男がいた。
デオンは獣の足先を地味に斬りつけても、倒せる相手ではない。彼の脚が震えだした。
「我も加勢する」
麒麟は炎の玉を放った。獣は後ずさりした。
あんな麒麟まで戦っているのに怖気づくとは何事かと、デオンは剣を上に捧げ、構えた。
「墺麒、良くやった。下がってくれ」
デオンは麒麟を後退させ、黒獣の突進を誘う。
狼の鼻へ向けて剣先を突き進め、鼻を斬りつけ、ひるませたスキに、腹へ滑り込んだ。
腹部を斬り裂いて、でかいのが倒れたところで、デオンは首を斬り落とす。
マシロたちがシカ鳥を全滅させた後、奥の術士へ駆けつけた。
「貴公は下っ端のようだな。夢での偉そうな奴とは違う。ならそいつにこの身体をくれてありがとうって伝えてくれ。こんな楽しい場所でな!」
デオンは男の首元をつかんで叫んだ。
「その必要はない」
術士は何かを噛み砕き、口から血を流して絶命した。
「この大莫迦野郎! 戻って報告するだけで済むのに。私なんて国王に報告したとき足を骨折したのだからな」
デオンは悔し涙を流し、男をおろした。
「やっぱあなたは天使様だ!」
スイス衛兵たちがデオンへ駆け寄って来た。
「マシロたちも頑張ったのにね」
白フロックコートを血染めしたマシロは白狼と向き合った。
「シカ鳥を丸焼きとカツレツに料理してくれと料理長に伝えてくれないか」
デオンは積み上がった怪鳥の死体を指さした。
「はっ、かしこまりました!」
後にデオンとマシロは衛兵の食堂でシカ鳥の丸焼きとカツレツ、グヤーシュを堪能した。
「ここにいましたか。ナポレオンが逃亡した途端、あんな獣騒ぎで、さすがのリア、いやデオン様ですね」
メッテルニヒが駆けつけ、フランツ帝、プロイセン王、ロシア皇帝も来ていた。
「ナポちゃん逃げたの?」
マシロが肉の塊をくわえたまま尋ねた。
「そんな重要な話、あんたら首脳で隠していたのかよ」
デオンはメッテルニヒたちを睨んだ。
「急な怪物の出現だ。仕方ないよ。何にしても良い戦いぶりだったな」
フランツ帝が騎士十字勲章を見せた。
「なら、私を伯爵にして下さい」
「本当に生意気な若造だな。私がアマーリエン宮で見た限り、そこの狼と旧王が獣を軽々と倒し、貴殿はやっと倒したもんだろう」
プロイセン王がつっかかった。
「私は87歳だ! 1810年5月に82歳で死んで、今の年代換算で87歳だ!」
獣倒しに手こずったのは認めるが、若造扱いにはデオンは苛立った。
「今は歳の話は置いて、そなたには伯爵は無理だよ。プロイセン関係者を怒らせてしまったから。騎士十字勲章で我慢してくれ」
「プロイセン関係者の苦情は私の方にも来ましたから、伯爵は諦めてください。我々はナポレオン問題で忙しいのです」
メッテルニヒは懇願した。
「ああ、分かった。昔のわからず屋じゃないから、勲章はありがたく貰う。ナポレオンって、今はどこにいるのだ?」
「カンヌに上陸してパリに向かっている模様です」
「ナポレオン軍なぞ、我が軍でひねり潰してやる。そなたらは高みの見物をして、我が軍の凄さを思い知ればいいのだ」
プロイセン王はデオンを注視してから食堂を出た。
「やっと無粋者は去ったな。旧王とシュヴァリエ殿、おかげでグラーベンで遊びに行けるし、皆が安心して閣兵できるよ」
デオンはロシア皇帝から金のタバコ入れをもらった。
「グラーベンで遊びって、噂通りのヤリチンですな」
横目のデオンはにやけてロシア皇帝へささやいた。
「あなたみたいな女性顔でいわれると気恥ずかしいな。これでやっと動ける。ご苦労であった!」
ロシア皇帝はそそくさと部屋を出た。
「わーい。ヤリチン、ヤリチン」
サラマンダーになったマシロがテーブル上で腹で跳ねた。
「あの皇帝は遊びが過ぎて呆れるわい」
「ケチな皇帝にしては豪勢なタバコ入れですね。よほど嬉しかったのでしょう」
困り顔のフランツ帝と嫌味を言ったメッテルニヒは食堂を出た。たらふく食べたデオンたちも広場へ行くとウージェーヌと会い、よもやま話に花を咲かせた。
午後にロシア皇帝がシェーンブルン宮殿に訪れていた。
「デオン殿、君は本当に男なのか? ひょっとして、男として育てられたお嬢様ではないのかね?」
興奮した赤ら顔の皇帝がせめた。
「何を言っているんだあんたは。仕方ない」
こういう輩は言ってもわからないと決めたデオンはシャツをはだけて、平たい胸を見せた。
「そんな……」
崩れ落ちた皇帝はデオンの股間を掴んだ。
「貴様、何を!」
デオンはロシア皇帝の顔を蹴り上げた。後でしまったと、デオンは蒼白した。
「いいぞ。デオン殿、次は余の尻を蹴り上げてくれ!」
「後で文句言うなよ!」
デオンは2,3回蹴った。
「あいつ、ヤバいことに目覚めたんじゃねーの」
テーブル上でサラマンダーマシロがつぶやいた。
「いいぞ、デオン殿。次は背中だ!」
「後で訴えるなよ!」
デオンが蹴り上げると皇帝は変な声をあげていた。
皇帝の気が済むまで痛めつけ、皇帝が帰るとデオンは緊張が解けて絨毯へ倒れ、しばらく寝込んだ。
マリア・ルイーゼはナポレオンに対して激怒し、フランツ帝の前にフランス語の手紙を書いた。
新しい危機がヨーロッパの平和を脅かし、私の頭上に黒い雲が新たに覆ったこの時、私と息子にやけて対する父の優しさほど、確かな避難所、よき保護者は他にありません。
私と私の最も大事な息子は、父の腕の中に逃げ込みます。
私は私の運命を父の手に委ね、父の保護を信用します。
メッテルニヒは会議の席上でルイーゼの手紙を回覧させた。列国君主に対ナポレオンへの決意を共有させることにも成功した。
3月12日ナポレオンがジョアン湾上陸の報が伝わり、各地の宴会と舞踏会が中止された。デオンと貴人たちも会話をそこそこに帰宅した。
「お前は騎士なんだから、オーストリア軍に参加できるんだろう?」
テーブル上のサラマンダーマシロが聞いた。
「私は昔ほど戦争に参加したい気が起きないんだよ。麒麟で飛び回るのはいいけど。ただ戦地を眺めるのはいいかなぁって」
「マシロはナポちゃんの最後の戦場を眺めてぇな」
デオンは転がっているでぶトカゲとの意見の一致が愉快になり、笑い出した。
3月13日、王宮の帝国官房宮のメッテルニヒの執務室にデオンたちが訪れた。
「私は87歳のおじいさんだからナポレオン戦は辞退する」
「その容姿で言われましてもねぇ……」
困惑ぎみのメッテルニヒは快諾した。
「でもナポレオンがどこの戦場で敗れるのは見たいなぁ」
デオンはイタズラっぽく笑った。
「空飛ぶ鹿で追跡くらいなら、認めましょう。ただし将官たちの邪魔はしないでください」
「ところであんたはナポレオンと会談したんだろう。どんな容姿だった?」
デオンは流し目で尋ねた。
「角ばった顔で足が短く、胸幅が広い自信家でしたよ」
メッテルニヒは赤面して目をそらした。
夜には列国はタレイランによってナポレオンを法の外におくとの声明を発した。牢獄破りの無法者を捕らえたら縛り首を含む死刑に処することになった。
コルシカ生まれのブオナパルテを、タレイランは海賊となじり、怒りをあらわにした。
3月17日、ナポレオン討伐軍服のネイ元帥がナポレオンに寝返った。ルイ18世(ルイ16世の弟プロヴァンス伯)は20日にパリを脱出した。
3月18日にフランツ帝はルイーゼを呼んだ。
「これから小フランツを市内のホーフブルク王宮に移す。警戒のためだ。20日には4歳になるので養育係を代えて男性にする」
「全く親父には困ったよ! 何だってこんな危険な賭けをするんだ」
バイエルン軍服のウージェーヌがシェーンブルン宮庭園で怒鳴りあげた。
デオンは彼の話から、ナポレオンが首都制圧を快進撃でこなしていたという。
「親父は小島のエルバでも皇帝として統治できたんだ。民政、財政、農地改革や、鉱山開発と色々統治していたのに、何で今更棄てるんだよ。おかしいよ。全く!」
「君はバイエルン軍人として出兵するのかい?」
「冗談じゃない! 親父とはもう関わりたくないよ。デオン殿こそ、行くのだろう?」
「もう昔ほど戦場に出たいとは思わなくなったんだ。逆にナポレオンが負けるが見たくて見学の許可を得たところだ」
ナポレオン軍に牙を向ける気がなく、デオンには軍隊をかき回す気がとうの昔に失せていた。
「もったいないなぁ。あなたほどの剣豪が軍隊で活躍できるいい機会なのに」
「私は穏やかな日々を過ごしたい反面、刺激を欲してもいるのだ。ただ命のやり取りは何度でもしたくはないのだ」
「俺も激しい戦いは嫌だねぇ」
互いに笑い合った。
3月25日、各国は部隊の移動をはじめた。
オーストリア軍はシュヴァルツェンベルク候指揮下に23万の兵力、英国とオランダはウェリントン公、プロイセンと他のドイツ諸国はブリュヒャー候の下にそれぞれ40万の将兵を配し、ロシアは15万の兵団を投入する予定だ。
オーストリア軍は上ライン、ロシア軍は中部ライン、プロイセンと英国はベルギーから一斉攻撃する戦略で6月末を予定していた。
3月30日、ウェリントンがオランダに向けて出発した。
ロシア軍はブレスラオ・プラハ・バンベルク経由で西を目指した。
一方、シェーンブルン宮殿引きこもったデオンとマシロは剣技の勝負を重ねていたが、デオンと1度も勝てなかった。
4月12日、朝からシェーンブルン宮殿でアレクサンドル・ヒラー連隊の分列行進が見られた。隊は前線へと向かう。
コンスタンチン・ハルデック連隊も禁裏内をラッパの音を鳴らしていて勇ましく行進していた。
カールとヨーハンなどのハプスブルク家の大公たちも前線へ出陣の準備をしていた。
彼らの様子をサラマンダーマシロを抱いたデオンは眺めていた。
「一緒に行きたい」
そばにいた皇太子フェルディナントがしゃべった。
「あの莫迦がしゃべった!」
マシロが叫んだ。
「おお、なんと!」
めったに言葉を発しないか細い青年を、フランツ帝は涙を流しながら大喜びした。
4月にはルイーゼの元にパリのナポレオンから手紙が届いた。
私はお願いする。ルイーゼと息子、お前たちが足りないのだ。ストラスブールを通って、すぐ私のところに来なさい。
代わりにメッテルニヒが返した。
フランツ皇帝は祖国とヨーロッパの安寧のために、1度は皇女を犠牲に供しましたが、何ももたらされませんでした。したがって皇女をフランツには返しません。
皇帝は閣下が政府の原点にいる限リ、革命の噴火山とみなします。皇女の子息についても、フランス皇帝の手の中の人質として同様の態度をとります。
4月11日にナポリ王ミュラはオーストリアに宣戦布告した。
5月にアペニン山脈の雪深い戦場でミュラ軍が敗北して5月中旬にナポレオンの元へ逃亡した。
4月7日。バイエルン国王とウージェーヌはミュンヘンへと旅立つことになった。
ウージェーヌは養父のエルバ脱出からちやほやしていた周囲の眼が冷たくなり、デオンが親しくしてくれたことに感謝していた。
「もう会えないと思うと悲しいよ」
互いに抱き合って別れを惜しんだ。
ナポレオン脱走事件から帝室主催の祝典が控えられ、貴顕らはそれぞれ小グループに分かれて、交渉成立までの時間をつぶしていた。
5月の日射しに誘われて、ピクニックで帝都郊外へ出かけるグループが目立った。
ロシア皇帝はアウエルスペルク侯爵未亡人のあとをつけ回した。
プロイセン王はプラータの別邸に移ろうとする天上の美女のところへ足しげく通っていた。
デオンとマシロはグラーベン通りを散策していると、音程の外れた歌を歌う馬上の御仁と会った。
馬の額にはスズランの花冠がのせられ、たてがみにもスズランが結びつけられている。
大きく傾きながら片方で手綱をつかみ、もう一方の腕でスズランの花束を持つ男に、周りの者たちは急いで脇へ避けていた。
「あのおっちゃん、酔っぱらっているぜ」
デオン頭上のサラマンダーマシロが跳ねた。
「あの時の英国大使だ。この人、11月に泥酔して他の御者とケンカしていたような……」
新聞には彼の奇行が載っていた。チャールズ・ウイリアムズ卿スチュワートは以前からアルコール中毒患者で知られていた。
(私はあまり、彼を責められない……)
デオンのゲルシィとの泥沼な争いはヨーロッパ各地を騒がせていた。
「面白い酔っぱらいだ」
「ソリ止めのおっちゃんだー」
市民たちはスチュワートへ寄って騒ぎ出した。
5月16日、デンマーク王はアルンシュタイン男爵に6000グルデンもの値打ちのタバコ入れを残し、恋仲の町娘に終身年金を約束して旅立った。
5月26日、ロシア皇帝とプロイセン王は揃ってドナウ河畔の町を発った。
ロシア皇帝は中部ラインの戦線を目指し、プロイセン王はベルリンに寄ってから、戦場へ向かう。
円卓の8ヵ国のうちスペインはイタリア問題で引き下がらず、ドイツ連邦の発足をめぐってバイエルンは最後まで留保した。西南ドイツ諸侯の中には対ナポレオン戦の結果を待つ者も出始め、ロシア皇帝もプロイセン王らも事後処理を使節団に委任して出発した。
6月9日にはウィーン議定書が締結され、長かったウィーン会議は終了した。




