『神の書』の吟詠
ホールのなかには、今日も身分を問わず人が集っている。声明の時間なのだ。声明というと仏教のようだが、敢えて日本語にすれば、リリアナ的にこの言葉がしっくりくるというだけのことである。正確に言えば、『神の書』を吟詠する時間、になるだろうか。
『神の書』の原語での教育方法を決めるのは、想像以上に困難だったようだ。形ができるまでに、ほとんどひと夏かかってしまった。いろいろと調べた結果、『神の書』を学ぶに当たっては、詠ずること、つまり節をつけて読むことが重要なことが分かったらしい。しかし、その節が伝わっておらず、作業は難航した。
その節、つまり音の高低や長さを示す記号のついた書物が、とある筋から見つかったのだが、教える導師さまと教授が、これらを読めるようになるのにも、それなりに時間を要した。
また、伝統的な教育方法に依ると、講師は、複数の生徒に対して、読み上げてみせ、それを生徒らが復唱するのだが、肝心の生徒が王子ひとりだというのも問題であった。
例によって、魔術師が真っ先に生徒その2に立候補したのだが、出来ればもう少し人数が必要のようであった。しかし、この離宮には生徒になるような人間は、いない。殿下には、学友どころか、同年代の知人すらいない。子供といってよい年代の人間は、王子殿下のほかには誰ひとりいないのだ。
困りきっていたところ、偶然それを聞いた王子殿下ご本人が、身分を問わず、参加したいものは参加すればよいと言い出したものだから大変であった。
威厳がどうの、身分がどうのと騒ぎだした侍女長や騎士、教師に対し、ウィリアム殿下は、こう宣ったのだった。
「ことは神事のようなものですし、威厳も身分も発揮する機会などないらしいですから、いいと思いますが。離宮の外で馴れ馴れしくされてしまうと困りますけど、皆さん、良い方ですから、この中なら構わないじゃないですか」
その台詞を聞いて、反論できるものは、いなかった。加えて言うならば、幼い子供が言うことでもなかった。急に大人びたことを言われたこともあって、ぎょっとして反論しそびれた向きもあったようだ。
騎士が素早くアドリアンを部屋のすみに引っ張って行き、
「ターナー、余計なことを言ったのはお前か、お前だろう」
と、小声で責め立てていた。余計なことなど言っていないという反論は、聞き入れられなかったようである。
「詭弁だな」
「ひどい言いがかりだ。僕はほんとうの事しか言ってない」
ともあれ、殿下の案は、言わばなし崩し的に通ってしまったのだった。
参加希望者が多くて、業務に差し障るほどだったため、この授業は朝昼夕の3回、短時間を毎日行うこととなった。仕事のあるもの達は、交代で出られる時に出ることが認められた。短時間を毎日複数回、というこの授業方式は、導師達にとっても都合が良いらしい。一度に長い時間講義をするよりも、その方が効果が得られやすいのだそうだ。
こうして、使用されることのなかった大広間は、朝食前、昼休憩後、夕食前の3回も毎日利用されることになったのだった。
夏の終わりから始まったこの日課は、驚くべきことに、誰ひとり欠けることなく続いていて、今では、この離宮にいるほぼ全員が参加する行事になってしまった。変わり者揃いの教師連までもだ。
それは、この日課が始まって、しばらく経ってから流れ始めた噂のせいもあるだろう。なんと、参加し続けていると不調が直るというのである。リリアナの認識にはない効能である。そんな、温泉みたいな効能はないはずなのだが。噂のせいで、偽薬効果でもあったのだろうか。
この日課に、だれより積極的に参加している魔術師は、その点については懐疑的である。ただ、こんなことも言った。
「あの『神の書』ってやつは、かなりレベルの高い魔術書だよ。『詩編』なみのとんでもないやつ。ただ、恐らくだけど、防御的な魔術が籠められてるから、潜在的に魔術師の特性がある人間には、何らかの魔術が効いてきてる可能性がある。あの、何て言ったっけ、暴力侍女なんかは効果があるんじゃないか」
「マリヤは、暴力侍女なんかじゃございませんわよ。第一、殴られたのは自業自得じゃありませんか。アドリアン様には、配慮ってものがなさすぎるのです」
マリヤは、嬉々として参加している者のひとりで、時間があれば、日に2回、3回と出ている。そういえば、最近とても調子がいいのだと同僚に話しているのを聞いたような気もする。もしかして、それが噂の出所だろうか。
普段は口数の多い魔術師も、今は、他の者に混じって真面目に教授の吟詠を復唱している。始めの一節を聞いてからこっち、興味本意の態度は消え失せてしまった。原書を借りられないか交渉もしていたようだが、音から学ぶという方法について説明を受けて納得したようで、恐ろしく真剣に復唱している。個人的に何度も繰り返し詠唱し、一刻も早く覚えようとしているようだ。例の、『神の書』が魔術書だとかいう見解に関係あるのだろう。
リリアナも、殿下の肩に腰かけて、一緒になって詠唱しているが、これは普通の書物ではないという感じがする。他の者がどうなのかは分からないが、リリアナにとっては、ものすごく覚えやすいのだ。ごく自然に、するすると身体に入っていく感じがする。なるほど、これが『神の書』を身につけるということかと関心していると、詠唱を終えた王子が嬉しそうに言った。
「リリアナの声明は、綺麗です。聞き惚れるって、こういうことを言うんですね」
まだ、ぎこちない丁寧語と、屈託のない笑顔に衝撃を受けるリリアナ。
(あぁ、なんて可愛いのかしら。)
どこか気の抜けた、ふにゃっとした笑顔もよかったが、ニコニコ笑顔も破壊力抜群である。
「まぁ、殿下ったら。そんなに誉められたら、わたくし、困ってしまいます」
「ほんとうの事です。リリアナは、もっと困るといいんです。困った顔もすごく可愛らしいですから」
(ん……?)
幼児の口から出る言葉ではない。誰が教えたのだろうとちらと周囲を見回すが、リリアナには思い付かない。隣に立っているアドリアンに、なんとなく目を向けると、不機嫌そうに返された。
「僕じゃないからね」
「……でしょうね」
自由すぎる言動で叱られまくっている彼に、こんな物言いが教えられるわけがない。
「誤解されてないのは何よりだけど、それはそれで納得いかないなぁ。最近忙しいのも絶対、『神の書』のせいに違いないよ。面白すぎて止められないから、余計にさぁ……」
アドリアンは、そこまで言うと、口をへの字にして黙ってしまった。視線の先には、もの言いたげな侍女長の姿があった。




