1はじまり
海に囲まれた島国、レオマシュエラ。
王国歴533年、まだ暑さの残る日の夜明け前に、一つの命が誕生しようとしていた。
場所は、広大な土地を治めるアシュリディク侯爵家の邸の一室。領主の妻、アビアメーネはお産の苦しみに表情を歪めながら最後の力を振り絞る。
傍では夫であるホーファードが膝をつき、そっと寄り添い、支えるように妻の手を握っていた。
仄かな灯りに照らされているだけの室内に、赤子の泣き声が響き渡る。
「っ、……アビアメーネ様っ……、お生まれになられましたよ! 女の子です!」
控えていた侍女が声を張り上げて伝える。その声は感動と歓喜に震えていた。
長く子に恵まれなかった夫妻がこの時を待ち侘びていたように、幼き頃からアビアメーネに仕えていた侍女も生まれてくるその瞬間をいまかいまかと待っていたのだ。この世に誕生することなく尊い命が失われていくのを何度も経験したアビアメーネ。嘆き悲しむ姿を思い出してしまい溢れ出した滴が頬を伝う。
しかし、念願が叶った今、涙とともに浮かぶのは幸福に満ちた笑みだった。
ようやく泣き止み上質なおくるみに包まれた赤子が侍女に受け渡され、力なく横たわるアビアメーネの前までやってきた。
「ああ、私の可愛い子……っ、生まれてきてくれてありがとう……っ」
小さな我が子を眺めて、幸せを噛み締める妻に、ホーファードは微笑む。
「アビアメーネ、よく頑張ってくれたね。体は大丈夫かい?」
汗に濡れた髪をそっと撫でて労る夫に、アビアメーネは何度も頷いた。
「この子にはどんな名が授けられるのでしょう。早く呼びたいわ……ホーファード様、この子を神官様のところへお願いします」
「ああ、分かった。すぐに戻るからね」
袖を引く妻の手をやんわり握った後、ホーファードは立ち上がり、慣れない手つきで赤子を優しく抱く。ひとつの命が腕の中にあると思うと、慎重になる。
両の腕が強張り、落ち着きを取り戻そうと息を吐いて顔を眺めた。
生まれたばかりなのに、その赤子はとても愛らしく、美しい顔をしていた。妻に似たのだろうと心の中で思うホーファードの表情は緩みきっている。
ゆっくり、ゆっくりと部屋を後にする夫の姿に、アビアメーネは侍女と顔を見合わせて笑った。
赤子の名は勝手には決められない。
神官が大地の神の意思を感じとり、神が決めた名を光の文字と共に授ける。貴族であれば邸宅に招き、平民ならば神殿に赴いて命名の儀を執り行う。
貴族であるアシュリディク侯爵家は生まれる数時間前から神官を呼び待機させていた。
「神官様、お待たせ致しました」
「大丈夫ですよ。さあ、こちらへ」
白の衣を身に纏った神官が立ち上がり、赤子用のベッドの前へと移動する。その後をホーファードが追いかけるように歩み寄った。
そっとベッドに赤子を乗せたホーファードの手から漸く力が抜け、安堵の息を吐く。
「可愛いお子様ですね、お慶び申し上げます」
「有り難く存じます」
「早く名を呼びたいことでしょう。これより、命名の儀を執り行います」
「はい、宜しくお願いいたします」
神官の手が赤子の胸元にそっと添えられた。
その瞬間、淡い光の粒が無数に現れ周囲を優しく照らしていく。一つの瞬きとともに、神官が微笑む。
その様子に、今まさに神の意思を感じ取っているのだろうと、ホーファードは息を呑んだ。
小さな光が徐々に赤子の上へと集まりはじめる。
「名を授けましょう」
両手で光の集合体を包み込んだ神官が、手を開く。上に向けた手のひらから光が溢れ、文字が紡がれていくのを神官とホーファードは目で追っていった。
そして、
「リル」
神官の口から、優しく名が告げられた。
「あなたの名は、リルです。意味は、始まりの光」
白く光る文字がリルの胸に吸い込まれていく。
「リル……良い名だね」
柔らかな表情をリルに向けたホーファードは瞼を閉じた赤子に手を伸ばした。微かに胸元が上下し、生きていることを実感する。
指先でリルの手に触れるとそっと小さい手で握り返してくる。それが、ホーファードは堪らなく嬉しかった。
喜びに満ちた瞬間だった。
別室で笑い合うアビアメーネと侍女。
慌ただしく動きながらも明るい雰囲気を纏った使用人たち。
娘と父を暖かな眼差しで見つめる神官。
微笑むホーファード。
その時邸にいた者たちの誰もが想定していなかったことが起きる。
気づいた時には、ホーファードと神官は膝をつき、倒れ込んでいた。
いや、何かによって絨毯に叩きつけられたのだ。
「ぐっ……!?」
「な、んだ、これは……!」
ホーファードは何が起きたのか分からなかった。
うつ伏せのままで起き上がれず、呻き声が口から溢れる。
上から押さえつけられる感覚を無視して無理やり起きあがろうとするも四つん這いの状態までもっていくのが精一杯だった。
圧倒的な力がこの場の空間を支配している。
「これは……ッ、魔法?」
「いいえ、違い、ます……! ……っこれは」
伝えようとした神官の口が動く前に、二人は左右へと吹き飛んだ。同時に、室内からの衝撃波に掃き出し窓は外へ向かって割れ、破片が飛び散っていく。
背中や肩、頭などを壁に打ちつけ、強い痛みに眉を顰めたホーファードの視界は点滅していた。
全身の痛みに顔を歪めたホーファードの耳に、リルの劈くような泣き声が届いたのはその時だ。
「ぎゃぁぁぁぁっぎゃあぁぁっ」
「リル……ッ、リル!! ぐぅぅぅッッッうご、け!!」
次は壁に押さえつけられた状態から動けない。ホーファードの体は何にも縛られていないというのに、指の一本すらもぴくりとも反応しなかった。
混乱と得体の知れない恐怖に全身から血の気が引き冷たい汗が背筋を流れていく。
ドクッ、ドクッ、と心の臓が鳴る音が内側から聞こえてくるような錯覚に目を見開いたまま我が子がいるベッドを見つめ続けるしかなかった。
こんな情けない父親がどこにいる、と叫びたかった。
愛する妻が苦しみを乗り越えて産んでくれた宝物を、このままでは失ってしまう予感がした。
『あっ、今お腹の子が蹴りましたよ! ふふっ元気いっぱいね』
『可愛いあなたの姿を私に見せてちょうだい。お願い、……お願いよ』
アビアメーネとホーファードの愛しい子。
日々大きくなる腹を優しく撫でていた妻は、慈愛に満ちていて、美しかった。切実な願いを口にする姿を見た時は、思わず強く抱きしめてしまい叱られた。
「うぎゃぁあぁぁあ!」
動け。
動け。
動け。
「ッ…う、ごけぇぇえ!!」
頭を支配する思いに体が反応し、足先が僅かに動いた気がした。
「……ーーーー?」
いや、違う。と直感的に感じたホーファードは足元にゆっくりと視線を向ける。
そこには光りを帯びた何かがいた。
赤子のような白く光るナニカが、ホーファードの足を手のひらでぺちぺちと叩いている。
直ぐ近くにもソレが現れ、立ち姿の状態で首をこてんと傾げた。
「……は?」
ホーファードの口から上擦った声が出る。常識はずれの光景に口を開けたまま閉じられなくなってしまっていた。なにせ辺りを見渡すと窓から沢山のソレらが部屋に入ってきていたからだ。
リルの半分以下の小さき存在。
壁に背を預けたまま意識を失っている神官をつんつん突いたりと自由気ままに行動している。
だが、大半のソレらは円を描くようにリルのもとに集まり出し、棒立ちのままベッドへ視線を向けていた。
「何を……」
しようとしている?
ホーファードの言葉は続かなかった。
ソレらがベッドに乗り上がり、リルに次々と覆い被さっていったからだ。
「!?」
重なり合うほど光がそこから溢れ出し、リルの姿が見えなくなっていく。焦ったホーファードは無理矢理体を動かそうとしたが、傍にいたソレにぺちぺちと再び叩かれた。
見下ろすと、ソレがこちらを見ている。
目があるかも分からない光の存在だったが、確かに見つめ合ってると、そう感じた。
『大丈夫』
声が聞こえたわけではなかったが。ホーファードにはそう言っているように思えた。




