エピローグ「豊穣の泉と永遠の誓い」
数年の歳月が、かつて不毛と呼ばれた荒野をまるで別世界のように作り変えていた。
果てしなく続いていたひび割れた白と赤茶色の大地は、今や視界の限界まで緑と黄金色に染め上げられている。
なだらかな丘陵地帯には無数の木製風車が立ち並び、風をはらんでゆっくりと回転しながら、地下深くに張り巡らされた水脈から清らかな水をくみ上げていた。
水路は毛細血管のように広大な農園を駆け巡り、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。
麦畑の隣には、枝がたわわにしなるほど実をつけた果樹園が広がり、甘い香りが風に乗って領都の隅々にまで運ばれていた。
豊穣商会の拠点から始まった小さな集落は、今や大陸有数の活気にあふれる巨大な街へと成長を遂げている。
石畳の通りには、王都や遠方の国々から訪れた商人たちの馬車が行き交い、かつて侯爵軍として剣を振るっていた兵士たちは、今では誇り高き街の警備隊や熟練の農夫として、笑顔で人々と挨拶を交わしていた。
誰も飢えることはなく、魔法による搾取に怯えることもない。
命の循環がもたらす正当な対価が、人々の暮らしを根底から豊かに満たしていた。
街の中心にある、上質な木材で建てられた領主の館。
その一室で、アルトは姿見の前に立ち、首元をきつく締める純白のクラバットと格闘していた。
彼の身を包んでいるのは、商人ギルド長がこの日のために大陸最高の仕立て屋を呼んで作らせた、白と深い緑を基調とした豪華な正装だ。
上質な絹と金糸の刺繍が施された布地は、彼がかつて身にまとっていたボロボロの外套とは次元が違う。
しかし、長年鉄のカマやクワを握り続けてきた彼にとって、このような装飾過多な衣服はどうにも居心地が悪かった。
『どうしても、この首回りが慣れないな』
アルトが苦笑しながら内心でつぶやくと、背後で控えていた片目に傷のある銀狼が、呆れたように短く喉を鳴らした。
今日、この狼の首にも色鮮やかな花飾りが巻かれている。
窓の外からは、朝から祝祭の音楽が鳴り響き、街の人々の歓声が絶え間なく聞こえていた。
今日は、この豊かな大地を作り上げた管理者であるアルトと、彼を支え続けたリリアの結婚式が行われる日だ。
アルトは首元の布を少しだけ緩め、深く息を吐き出して部屋を出た。
廊下を抜け、館の外へ出ると、抜けるような青空の下に集まった群衆から割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こった。
人々は色とりどりの花びらを宙に舞わせ、満面の笑みで彼を祝福している。
アルトは照れくささを隠しながら軽く手を上げ、街の中央広場へと向かって歩みを進めた。
広場の奥、かつてアルトとリリアが初めて発酵床を作り、奇跡の麦を芽吹かせたあの岩陰があった場所。
今では岩は取り払われ、澄み切った地下水が湧き出す美しい泉となっている。
泉のほとりには、緑の蔦と色鮮やかな花々で飾られた壮麗な祭壇が設けられていた。
アルトが祭壇の前に立つと、群衆の歓声が少しずつ静まり、穏やかな静寂が広場を包み込む。
参列者の視線が、広場の反対側へと一斉に向けられた。
微かな衣擦れの音とともに、群衆の道が開き、彼女が姿を現す。
リリアだった。
純白の絹を幾重にも重ねたドレスは、歩くたびに朝露に濡れた花びらのように滑らかに揺れる。
彼女のしなやかな体躯を美しく包み込み、深い森の緑色をしたリボンが腰元で鮮やかなアクセントとなっていた。
透き通るような白いヴェールの下で、彼女の大きな瞳が潤みを帯びて輝いている。
頭頂部の獣の耳には、色とりどりの野花を編み込んだ美しい花冠が乗せられていた。
かつて迫害され、泥にまみれて怯えていた少女の面影はない。
そこには、大地に愛され、豊穣の女神と見紛うばかりの美しさを持った一人の女性が立っていた。
彼女の隣には、巨大な銀狼であるルヴァが付き添い、ゆっくりとした足取りで祭壇へと歩みを合わせている。
アルトは呼吸を忘れ、ただ真っ直ぐに彼女の姿を見つめた。
心臓が、かつてないほど激しく胸を打ち据える。
リリアが祭壇の前に到達し、アルトの正面に立つ。
彼女の頬は微かに紅潮し、口元には幸福に満ちた柔らかな笑みが浮かんでいた。
アルトはそっと手を伸ばし、彼女の震える指先を両手で包み込んだ。
絹の手袋越しでも、互いの確かな体温と脈動が伝わってくる。
「綺麗だ。本当に」
アルトがかすれた声でささやくと、リリアは恥ずかしそうに目を伏せ、小さくうなずいた。
「アルトも、とても似合っているわ。でも、いつもの土にまみれたあなたのほうが、私には見慣れているけれど」
彼女の言葉に、二人の間で小さな笑い声がこぼれる。
誓いの言葉を読み上げる神父や貴族は、ここにはいない。
二人はただ、豊穣の泉と、ルヴァをはじめとする銀狼たち、そして彼らを支えてくれたすべての人々の前で、永遠の絆を誓うのだ。
アルトはリリアの手を引いて泉の縁に膝をつき、二人でそっと澄んだ水をすくい上げた。
その水を互いの手のひらに注ぎ合い、大地の恵みに深く感謝を捧げる。
立ち上がった二人の間に、ルヴァが進み出た。
ルヴァは黄金色の瞳で二人を静かに見つめ、その冷たく濡れた鼻先を、二人が繋いだ手の上にそっと押し当てる。
それは、霊獣としての最上級の祝福だった。
ルヴァが空を見上げて長く美しい雄叫びを上げると、周囲を取り囲んでいた数十頭の銀狼たちも一斉にそれに呼応した。
大気を震わせる命の産声が、青空の彼方へと突き抜けていく。
街の人々が歓声を上げ、花びらが雪のように二人の頭上へと降り注いだ。
アルトはリリアの腰に手を回し、そっと引き寄せる。
リリアは目を閉じ、身を任せるようにアルトの胸に寄り添った。
アルトは彼女のヴェールを静かにめくり上げ、その柔らかい唇に自身の唇を重ねた。
温かく、甘い感覚が全身を駆け巡る。
数多の苦難を越え、死んだ大地を蘇らせた彼らがたどり着いた、結ばれる結末だった。
唇を離し、二人は互いの瞳の奥にある揺るぎない光を見つめ合う。
彼らが作り上げたこの場所には、奪い合いも搾取もない。
土を愛し、共に生きる者たちが織りなす、淀みない命の循環が永遠に続いていくのだった。




