番外編「温かな土の匂いと彼の手のひら」
◇リリア視点
鳥のさえずりが、澄み切った朝の空気を震わせて耳に届いた。
私はゆっくりとまぶたを開け、柔らかな綿のシーツから身を起こす。
窓の隙間から差し込む朝の光が、木製の床に長い影を落としていた。
かつては冷たい岩肌や、吹きさらしの荒野で身を寄せ合って眠っていたことが、まるで遠い昔の幻だったかのように思える。
窓辺に歩み寄り、木の留め具を外して両開きの窓をそっと押し開けた。
ひんやりとした朝の風が頬をなで、私の長い髪をふわりと揺らす。
風に乗って運ばれてくるのは、かつての死んだ土の乾いた匂いではない。
朝露をたっぷりと含んだ黒褐色の土の匂いと、見渡す限り広がる麦畑の甘く香ばしい香りだ。
遠くの小川では、朝日を反射して水面がきらきらと輝いている。
私は目を細め、この豊穣の景色を肺の奥深くまで吸い込んだ。
胸の奥で、静かな熱がじんわりと広がっていく。
あの日、すべてが絶望に包まれていた荒野での出会いが、私の運命を大きく変えた。
私は、迫害から逃れてルヴァ様と共に不毛の地をさまよっていた。
人間の魔法によって傷つけられたルヴァ様は、血を流して倒れ伏し、私にはどうすることもできなかった。
干からびた大地の真ん中で、ただ死を待つしかなかったあの時。
蜃気楼の向こうから、ふらつく足取りで一人の人間が現れた。
それがアルトだった。
彼の唇はひどくひび割れ、頬はこけ、誰の目から見ても限界を迎えていることは明らかだった。
それなのに、彼は自分の命を顧みず、傷ついたルヴァ様に這い寄り、手当てをしてくれたのだ。
震える指先で薬草を塗り込む彼の瞳には、獣人や霊獣をさげすむ人間の冷たさは微塵もなかった。
ただ、目の前にある命を慈しみ、何としても繋ぎ止めようとする純粋な光だけが宿っていた。
私はその時、彼の横顔から目が離せなくなっていた。
その後、彼がルヴァ様の排泄物を宝物のように扱い始めた時は、正直に言って驚きを隠せなかった。
神聖な存在の残したものを、素手で泥に混ぜ合わせるなど、一族の教えでは考えられないことだった。
しかし、彼の手から生み出された発酵の熱が、私の冷え切った心を少しずつ溶かしていった。
岩陰で身を寄せ合った夜、彼の作った土の山から立ち上る陽だまりのような温もりが、どれほど私を安心させたことか。
そして、あの小さな緑色の双葉が硬い地面を割って顔を出した瞬間。
私の目からこぼれ落ちた涙は、絶望の涙ではなく、明日を生きるための希望のしずくだった。
彼が初めて焼いてくれたパンの味を、私は一生忘れることはないだろう。
粗挽きの粉の素朴な食感と、噛むたびに口の中に広がる凄まじい甘み。
それ以上に、彼が私に向けてくれた優しい声と眼差しが、私の渇ききった魂を深く潤してくれた。
辺境都市の市場で、彼が私に新しい服を買ってくれた日のことも、鮮明に覚えている。
深い森の緑色をしたチュニックと、動きやすい革のズボン。
私が獣人であるという理由で遠慮しようとすると、彼は真っ直ぐに私の目を見て言ったのだ。
お前はもう、豊穣商会の立派な一員だ。俺からの感謝の証だ、と。
その言葉は、私がこの世界に存在していいのだという、何よりも確かな証明だった。
布地の柔らかさ以上に、彼の心が私を優しく包み込んでくれたことが嬉しかった。
数日前、侯爵家の軍勢が去った後の夕暮れ時。
新たに開墾を始めた白い死の大地の前で、彼は私の泥だらけの手を握ってくれた。
鉄のカマやクワを振るい続けた彼の手のひらは、硬く分厚い皮で覆われている。
しかし、指を絡めて握り返した時、その硬い手のひらから伝わってくる熱は、どこまでも優しく、そして力強かった。
お前がいてくれたから。
彼が紡いだその言葉が、私の耳の奥で何度も繰り返されている。
私はもう、彼の手を離すつもりはない。
この先、どれだけ広大な死の大地が待ち受けていようとも、彼と一緒ならすべてを緑に変えていける。
私は窓から離れ、部屋の隅にある木製の洗面台で顔を洗う。
冷たい水が思考をすっきりと目覚めさせてくれた。
髪を指ですいて整え、お気に入りのチュニックに袖を通す。
今日は、新しく収穫したばかりの香草を使って、少し特別な朝食を作ろう。
厨房へ向かうと、そこにはすでにルヴァ様が横たわっており、私に気づいて長い尻尾を床に打ち付けた。
心地よい音が、静かな空間に響く。
「おはようございます、ルヴァ様」
私がしゃがみ込んで銀色の毛並みをなでると、彼は目を細めて喉を鳴らした。
私は立ち上がり、調理台に向かう。
かまどに乾燥した薪をくべ、火打ち石で丁寧に火を起こす。
小さな火種が薪に移り、熱を持った赤い炎が立ち上がった。
鍋に水を張り、昨日収穫した紫色の根菜を木べらで一口大に切り分けていく。
包丁が木のまな板を叩く音が、厨房にリズミカルに響き渡る。
続いて、麦の粉を水で練り、発酵させておいた生地を取り出した。
ふっくらと膨らんだ生地を両手で優しくこね、丸い形に整えていく。
指先に伝わる生地の弾力は、まるで生きているかのように滑らかだ。
オーブンの熱い鉄板の上に生地を並べ、重い扉を閉じる。
しばらくすると、鍋の中で根菜が柔らかく煮え、香草のさわやかな匂いが蒸気とともに立ち上り始めた。
オーブンからは、香ばしい麦の焼ける匂いが漂ってくる。
背後の廊下から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
獣の耳がその音を捉え、私の鼓動が自然と早くなる。
「いい匂いだ。もう起きているのか、リリア」
厨房の入り口に、寝癖をわずかにつけたアルトが立っていた。
彼の目はまだ少し眠たげだが、私を見ると柔らかい笑みを浮かべる。
「おはよう、アルト。ちょうどパンが焼き上がるところよ」
私が振り返って微笑むと、彼は歩み寄り、私の隣に立った。
彼から漂う、微かな土の匂いと石鹸の清潔な香りが混ざり合った匂い。
その距離感が、私に深い安らぎを与えてくれる。
彼はオーブンから取り出された熱々のパンを見つめ、満足そうに目を細めた。
「お前の作る食事は、いつだって世界一美味い」
そのさりげない一言が、私の胸の奥を甘くくすぐる。
私たちは木製の食卓に向かい合い、湯気を立てるスープとパンを分け合った。
サクッとしたパンの食感と、根菜の甘みが溶け込んだスープの温かさが、体に染み渡っていく。
ルヴァ様が足元にすり寄り、パンの切れ端をねだるように鼻先を押し当ててきた。
アルトが笑いながら小さくちぎったパンを与えると、ルヴァ様は美味しそうにそれを飲み込む。
食卓を挟んで向かい合うアルトの顔を見つめながら、私は心の中で静かに誓った。
彼が大地を耕すなら、私は彼の心を潤す泉になろう。
彼が未来を描くなら、私はその隣で共に筆を執ろう。
窓の外からは、元兵士たちや商人たちが働き始める活気のある声が聞こえてくる。
私たちの新しい一日が、また穏やかに始まろうとしていた。




