6 カラスとリコーダー――――菱人
サチは祖母のお気に入りで、小学生になってからもしょっちゅう家に入り浸っていた。あまりにずっといるので、流れで俺が宿題の面倒まで見ることになってしまった。それを申し訳ながった彼女の母親に、いっそアルバイト代を払わせてほしいと頼まれて、家庭教師のまね事をしていたこともある。
気が合う遊び相手というにはあまりに年が離れていた。だが、彼女は勘がよくて口が達者だった。からかっても、すぐに泣いたりしないで、反抗心丸出しで言い返してくる。精一杯自分を大きく見せようとしている小型犬みたいで面白い。負けん気の強さからか、教えたことはすぐ覚えるほど飲み込みもよくて、構い甲斐があった。
でも、今にして思えば、後々まで強く印象に残っていたのは、高学年になったころから時折彼女が見せていた小学生とは思えないほど激しい眼差しだった。
忘れられないのは、サチが六年生、俺が高校二年になったばかりの、晩春のできごとだ。
学校帰りの彼女の後を追うように、小さな猫がついてきてしまったことがあった。ひどくやせて、毛並みも悪かった。何らかの事情で母猫とはぐれたか、育児放棄されてしまった仔猫だろう。
『家では飼えないんだよ。お父さんが猫嫌いだから』
半泣きで繰り返し猫に言っていた姿を思い出す。ちょうどこちらも学校帰りだった俺は、困り顔で必死に猫に話しかけるサチがちょっと面白くて、あえて声をかけずに少し離れて後ろを歩いていた。
当惑したような彼女の様子が豹変したのはその次の瞬間だった。
さっと黒い大きな影が一人と一匹の上に急降下したのだ。
彼女はとっさに仔猫におおいかぶさって、かばった。
狩りを邪魔された大きな黒い鳥は、があとしわがれた声をあげて、サチに向かって威嚇するように大きく羽を広げた。
子育て期のカラスだ。気性が荒い。俺が慌てて追い払おうと駆け寄ったときだった。
『この時代遅れのごみ袋鳥めっ! 黒なんてもうとっくの昔に違法なんだから! あんたの胃袋なんかに、この子は絶対に入れさせないんだからね!』
立ち上がって大声で無茶苦茶な啖呵を切ると、サチはとっさに取り出した棒のようなものを両手で握って、先端をぴたっとカラスに向けた。見様見真似の正眼の構えか。
サチだって怖いだろうに、その姿勢からは、一歩も引く気配は見えなかった。大きく見開いてカラスをにらみすえた眼差しは、いつもよりも一段深い色になって、内側から燃えるような気迫に満ちていた。
カラスもまた引かなかった。再び、大きく翼を広げた。
『うわあああっ! あっちいけーっ!』
サチは叫んで、手に持った何かを振り回した。
『やめろ、サチっ! 危ない!』
気が立っているカラスを刺激したら、手ひどく攻撃される危険がある。
俺は手に持っていた通学かばんを盾のように振りかざしつつ、急いでサチとカラスの間に割って入った。
割り込んできた俺の顔とサチの顔、背後の仔猫。カラスはそのずる賢そうな色を浮かべた瞳で、等分に眺めたように感じられた。冷静に計算したのだろう、多勢に無勢を悟ったように、漆黒の鳥はちょんちょんと後ろに跳びすさると、バサッという羽ばたきの音を残して飛び去った。
『大丈夫か』
俺が振り返ると、サチは地面にぺたんとへたりこんでいた。
『ケガは』
尋ねた俺に、彼女は左手を差し出した。
『擦りむいた。血が出た』
小指の第二関節あたりに、小さな擦り傷ができている。
『カラスか?』
『違う。猫を守ろうとして、そこのブロック塀にこすって……』
最後まで言いきれずに、サチは、うわああん、と声をあげて泣き出してしまった。
ついさっきまで勇ましく大きな野鳥に立ち向かっていた女の子とは思えない。でも、少しだけ、わかる気がした。
とっさに身体が動いてカラスに対抗したものの、怖くて仕方なかったのだろう。一難去って、緊張の糸が切れたに違いない。
サチの右手に、こぶしが白くなるほど強い力で握りしめられていたものが何か、そこでようやく俺は気がついた。細いソプラノリコーダーだった。
よくもまあ、こんな武器で立ち向かったものだ。
『ほら帰るぞ』
そう言った俺に、サチはしゃくりあげながら首を横に振った。
『立てない』
足に力が入らないと言う。気が抜けてしまったのだろう。本当に全力をかけて、戦っていたのだ。
『肩貸してやるから、ほら』
俺が手を差し出すと、普段意地っ張りな彼女にしては珍しく、素直につかまった。
引き起こそうとすると、思ったよりずしっと重い。膝を屈め、肩に手を掛けさせようとしたけれど、身長差がありすぎて上手くいかなかった。
『おんぶしてやろうか』
『それはさすがにやだ。赤ちゃんじゃないんだし、クラスの子に見られたら恥ずかしすぎる』
むっとしたように言う。その生意気で反抗的な口調に、ようやくいつもの元気が戻ってきた気がして、俺は内心ほっとした。こいつがあまりに素直だと調子が狂う。
『ちゃんとつかまっていけよ』
二の腕の辺りにつかまらせ、反対の腕で猫を抱えた。遠慮なく体重を掛けてつかまってきたサチから、ふわっと、甘い果物のような匂いがした。
いつまでも小さい女の子だと思っていたサチが、もう六年生なのだ、ということを、その瞬間に妙に意識した。
サチを支えつつ仔猫を抱えるといういささか不便な姿勢で、家までの百メートルほどを歩く間が、いつになく長い道のりに感じられた。喉がやけに乾いたのを今でも生々しく覚えている。
驚いて玄関先まで出てきた祖母が、サチをほめたたえつつ小さな擦り傷を消毒してばんそうこうを巻くのを、俺は膝の上で猫をあやしながら見るともなく見ていた。
目の前の女の子が、隣の家のチビさんではなく、確実に、強い意思をもった一人の人間になっていく瞬間に立ち会っているような厳粛な気持ちを覚えながら。
猫は結局、祖母の年下の友人で、飼っていた猫をしばらく前に亡くして気落ちしていた女性が、縁を感じて引き取ることになった。
彼女と母親が隣の家から姿を消したのは、その数ヵ月後だった。














