第3話 北門裏の火種
終い鐘の最後のひとつが、北門の石壁に当たって消えた。
表通りでは店じまいの灯りが順に落ち、戸板を運ぶ音と、遠ざかる人の声だけが残っていく。裏路地へ一歩入ると、その音も灯りも、壁一枚で断たれた。
濡れた石畳。
湿った薪の匂い。
路地の突き当たりに、石を積んだ共同炉があった。火はない。灰だけが黒く沈んでいる。
その前に、子どもが三人いた。
一番大きいのが濡れた薪を抱えている。小さいのは空の椀を胸に抱いていた。もう一人は壁際に座り、炉の灰をじっと見ていた。三人の中で一番小さいのに、いちばん火から目を離さなかった。
薪の子が先に気づいた。
エナの腕の鍋を見て、それから顔を見る。
「……ロアンじいさんは?」
エナは、すぐに答えられなかった。
喉の奥で言葉が一度つかえた。
答える代わりに、炉の脇へ膝をつき、鍋を置いた。石の上で、鈍い音がした。
「今夜は、私が来ました」
「じいさんは?」
「来ません。もう」
薪の子は口を結んだ。
それ以上は聞かなかった。濡れた薪を、少し強く抱え直した。
椀の子が、エナの後ろにいるガルドを見た。
一歩、下がる。
ガルドは気づいたらしく、炉から少し離れた壁際へ移った。膝を曲げ、子どもたちより低い位置に腰を落とす。
酒の匂いが流れないように、顔だけを横へ向けていた。
炉の縁の壁に、古い注意札が貼ってあった。共同炉の決まり書き。その余白に、線の潰れた汚い字で追記がある。
灰を捨てるな。
「灰」の一画目が潰れていた。
エナは喪服の内側から依頼札を出し、並べて見た。同じ潰れ方だった。
北門裏。火種。子ども。
ここで合っている。
炉を覗く。
灰は冷えて見えた。だが火掻き棒で浅くさらうと、灰の奥に、爪の先ほどの赤が沈んでいた。
放っておけば、朝までもたない赤だった。
これが消えたら、濡れた薪しかないこの路地では、朝まで火を起こせない。湯も沸かせず、濡れた服を乾かす場所もなくなる。
「薪、貸してもらえますか」
薪の子は渡さなかった。
腕に抱えたまま、半歩引く。
「じいさんは、いつも遅かったけど来た。あんた、誰」
「弟子です」
言ってから、袖の中の指を握った。
帳面の上では違う。でも、この路地に帳面はなかった。
薪の子はエナの爪の黒さを見た。少し迷ってから、薪を一本だけ寄越す。
濡れていた。
皮の下まで湿っている。
エナはロアンの手順をなぞった。赤を火掻き棒で寄せ、薪を立てかけ、息を送る。
煙だけが立った。
白い煙が椀の子の顔にかかり、小さな咳が続く。赤は少し膨らみ、すぐに痩せた。
もう一度、息を送る。
濡れた薪の皮だけが黒くなり、中まで火が入らない。赤が灰の下へ沈みかける。
「それで火、つくの?」
薪の子の声は、意地悪ではなかった。
今夜の寒さの分だけ、正確だった。
エナは手を止めた。
炉を見る。薪を見る。それから、鍋を見る。
師匠の薪は、いつも小屋の軒下で乾いていた。ここの薪は濡れている。
同じ手順では、同じ火にならない。
壁際の子だけは、椀を見ていなかった。
エナの手元を見ていた。火掻き棒が灰を寄せるたび、目だけが小さく動く。
エナは薪を石の角に打ちつけ、細く裂いた。
乾いた芯だけを選り出す。喪服の長い袖の、ほつれた裏地の端を少し裂いた。
どうせ借り物で、どうせ袖は長すぎた。
鍋を傾け、焦げの残る底を炉の縁に寄せる。
風よけと、火種の受けに。
火掻き棒で赤を鍋底の陰へ集め、布の端を触れさせた。
息は吹かず、細く、長く送る。
布が縮れた。
細い薪の芯へ、赤が這う。
小さな火だった。両手で囲えるほどの。
椀の子の咳が止まった。薪の子は、抱えていた薪を少し下ろした。
椀の子が炉へ近づく。
「熱いぞ」
輪の外から、ガルドが低く言った。
椀の子はびくりと止まる。ガルドはそれ以上、何も言わなかった。
水桶の水と、路地の隅の籠にあった芋の残り。それだけで、薄い芋汁を作った。
塩は、ガルドの外套の隠しから出てきた小袋を借りた。何も言わずに放って寄越されたので、何も聞かずに受け取った。
鍋はよく焦げつく鍋だった。
知っていたのに、底を少し焦がした。焦げの匂いが、湯気と一緒に路地へ広がる。
椀の子が真っ先に椀を出した。
注いでやると、両手で抱え、一口すすった。
顔が、くしゃりと歪む。
「まずい」
エナの手が止まった。
玉杓子の先から、汁が一滴落ちた。
でも、椀の子は椀を離さなかった。
抱え直して、二口目をすすった。三口目は、もっと早かった。
薪の子が横から覗いて、自分の椀も出した。
「じいさんのも、まずかった」
「……知ってます」
エナは注ぎながら答えた。
毎晩、隣で食べていた味だった。
壁際の子が、初めて立ち上がった。
炉の前まで来て、小さな火を見下ろす。それから、エナの手元を見た。
「消えない?」
エナはすぐには答えなかった。
消える火だった。
誰かが薪を足さなければ、朝には灰に戻る。それを知らないふりは、できなかった。
エナは細い薪を二本、火の脇に立てかけ、濡れた薪を炉の縁に並べた。
火の熱で、朝までに乾く位置だった。
「足し方、覚えますか」
壁際の子は頷いた。
小さく、一度だけ。
エナは火掻き棒を渡した。
ロアンの手垢で柄の色が変わった、古い棒だった。
「灰、捨てちゃだめなんだよね」
壁際の子が、火掻き棒を握ったまま言った。
エナは炉の縁の注意札を見た。
灰を捨てるな。
潰れた字は、まだそこに残っていた。
鍋の底には、新しい焦げが増えていた。
昨日までの黒に、今夜の黒が重なっている。
共同炉には、小さな火が残った。
椀の子はまだ、空になった椀を離さずにいた。




