第2話 弟子帳にない最後の弟子
鍵は、エナの首にあった。
朝晩の買い出しのたびに預けられ、そのまま返しそびれた、ロアンの小屋の鍵だった。その鍵穴は今、赤い封印紐の下にある。
扉には白い管理札が下がっていた。王国の印。昨日までなかったものだ。
「鍵をお持ちでも、弟子帳にお名前がない以上、単独では入れません」
入口脇の係官が言った。
責める声ではなかった。帳面を読む声だった。
エナは首の紐を握った。指が白くなる。鍵は掌の中で、いつもと同じ形をしていた。
形だけは。
「立ち会いのもとであれば、遺品確認は可能です。どうぞ」
封印紐が外され、扉が開いた。
雨上がりの匂いが土間から流れ出る。
狭い小屋だった。勇者の屋敷ではない。土間には昨日の靴跡が乾いて残り、外から持ち込まれた泥が筋になっていた。
左の作業机には弟子帳と遺品目録が広げられている。右の棚には薬草袋と古布、そして底の黒い鍋。奥の炉には灰だけがあった。
火は、もうどこにもなかった。
机の前に、若い門弟が立っていた。
本家の喪章をつけている。弟子帳を胸の前で抱え、ちょうどエナの動線を塞ぐ位置だった。
「晩年のお世話をされていた方ですよね。確認は棚の側からお願いします」
門弟は軽く頭を下げた。
抱えた弟子帳だけは、エナの動線に残っていた。
エナは棚の側へ回った。
回りながら、机の弟子帳が見えた。最後の名前の下の余白が、昨日と同じ白さで開いていた。
昨日、処分箱からは戻した。
けれど、それは廃棄を止めるための仮記録だった。
封印された小屋から外へ持ち出すには、別の理由が要る。
係官が目録に線を引いていく。
「棚上段、薬草袋。保存。古布、処分。鉄鍋──」
筆が止まる。
「展示不適。廃棄候補」
係官が赤い札を取り出した。
札には、太い字で【廃棄候補】とあった。糊を引かれ、鍋の腹へ寄せられる。
エナの体が先に動いた。
札と鍋の間に、長い袖ごと手を差し込んでいた。
「……触れないでいただけますか」
「触れたのはそちらです」
言い返せなかった。
ただ、手は退かなかった。赤い札は半分だけ糊が残り、係官の指先で所在なく揺れた。
エナは鍋から手を離さないまま、机の上の木札を見た。
入口で音がした。
ガルドが敷居に蹴つまずいていた。
昨日と同じ濡れた外套。寝癖はむしろ悪化していた。土間に入るなり柱に寄りかかり、そこが自分の席のように収まる。
酒の匂いが、小屋の湿気と混ざった。
エナは少しだけ鼻を寄せた。師匠の薬湯より、ひどい匂いだった。
門弟が眉を寄せ、係官が咳払いをした。
ガルドはどちらも見ていなかった。棚の鍋と、エナの袖だけを見ていた。
「話を進めます。昨日の、看板裏の木札を」
係官が机に未処理依頼札を置いた。
雨染みと釘穴のある、あの札だ。
門弟が覗き込み、すぐに首をひねった。
「師の字は、私たちにも読めません」
「公文書の癖ではないですね。判読不能として記録を」
ガルドが柱から離れ、札をつまみ上げた。
逆さだった。
エナは無言で歩み寄り、札の向きを直した。
「……読めねえ」
「師匠の字は、慣れれば読めます」
真顔で返し、札を受け取る。
それから窓際へ寄った。曇りの光でも、机の上よりは字が起きた。
線が潰れている。
だが、潰れ方に癖があった。
「北」を一画目から潰して書く癖。買い出しメモの「北の八百屋」がいつもそうだった。
「火」の払いだけ妙に長い癖。薬草袋の走り書きで見た。
日付の「三」が、横線二本にしか見えない癖。あれで何度、朝の粥の当番を読み違えたか。
エナは鍋の底の焦げを見て、もう一度札を見た。
「北門裏。火種。……子ども。三日目の、夜まで」
「失礼ですが、本当にそう書いてありますか」
門弟は弟子帳を抱え直した。目だけが、札とエナの顔を往復している。
「三日目」
エナはまばたきを止めた。
看板が外されたのが一昨日。葬儀が昨日。
「三日目って、今日です」
師匠は、急がなくていい仕事に日限を書かない。
係官の筆先が、目録の上で止まった。
すぐに、ペンを持ち直す。
「依頼の存否は確認が必要ですね。ただし遺品の持ち出しは──」
「これは、未処理依頼の確認に必要です」
エナは棚の鍋を指した。
「火種を確認するなら、この鍋が必要です。師匠は、火種をむき出しで運びません」
形見だから、とは言わなかった。
言えば負けると分かっていた。
「正式な譲渡はできません」
「譲渡ではなく、持出です。理由と返却予定日を書きます」
係官が門弟を見た。
門弟は弟子帳を抱えたまま、札とエナの爪を見比べ、何も言わなかった。
「……一時持出には、理由と返却予定日の記入が必要です」
係官が申請書を机に置いた。
エナは鍋を先に抱えた。
片腕で底を支え、空いた手でペンを取る。鍋が重みで傾き、申請書が肘の下でずれかけた。
門弟がとっさに鍋へ手を伸ばす。
片手だった。
「雑に持つな」
低い声だった。
ガルドは柱の脇から動いてもいなかった。
だが門弟の手は止まり、両手に直ってから、机の端を押さえるだけに変わった。
エナは書いた。
理由、依頼確認。
返却予定日、明日。
持出者の欄に、煤のついた指でペンを握ったまま、二文字。
エナ。
弟子帳の余白は白いままだった。
だがこの紙の、この欄は、もう白くなかった。
小屋を出る。
背後で封印紐が結び直される音がした。
首には鍵。腕には鍋。喪服の内側には、折らずにしまった依頼札。
鍋の重みで、エナは半歩よろけた。
「重いぞ」
「知ってます」
空は暮れ始めていた。
北門の方角から、市の終い鐘が遠く聞こえる。
三日目の夜は、もう始まっていた。




