第2章3節 この町の事情、彼の事情
音楽室に向かう途中の廊下で、陽鞠はソリスの肩に腕を回す。教科書とペンケースを抱えたソリスは、勢いに押されて少しよろける。
「ソーちゃんはもう学校慣れた~?」
「勉強には慣れてきたけど、学校にもこの町にも慣れない」
「正直だね~、アタシも転校して来てすぐの頃はそんなんだったなぁ」
この明るい少女が自分を気に掛けるのは、自分と同じく町の外から来た経歴があるからだ。タカヒロや先日の小学生のように、星逢町での生き方に慣れた人間には取り合えってもらえないような質問も、自分と同じ経験があるからと彼女は大目に見て答えてくれる。
廊下の角を曲がった時、ソリスは見慣れない人影を見かけた。
服装はカジュアルな普段着で、右目に眼帯を着けた若い男性。周囲を睨めつけるような目付きと黒い革の眼帯が、やけに目を引く異様な男だった。
教師とも思えない男の出で立ちに首を傾げていると、陽鞠が「あぁ」と声を上げる。
「あの眼帯の人、藤沼さんの息子さんでしょ? 母親について来たんじゃない?」
短い黒髪に無難な服装の男の容姿の中で、革製の黒い眼帯だけが浮いていた。
疑問は全て消化しないと気が済まないソリスでも、陽鞠になぜあの男が眼帯をしているのか聞いて答えが得られるとは思っていない。まして初対面の男本人に聞くほど無鉄砲でもなかった。
疑問は心の中に押し留め、眼帯の男の真横を通り過ぎる。
陽鞠に聞いておきたい疑問は他にもあるのだ。
「この辺りは数百年前まで、農村だったんだよね。どうして今は田畑一つないの?」
「不審火で焼失したらしいよ~? 江戸時代の話だから、本当のことは誰にも分からないけど」
授業が始まる三分前に差し掛かり、ほとんどの生徒が音楽室に揃ってきた。その中に護衛対象である青年の姿がなく、ソリスは一度座った席から立ち上がる。
「どうしたの、ソーちゃん? 後三分で授業始まるよ~?」
「教室に忘れ物したかも、すぐ戻る」
廊下に出ようとしたソリスの目の前でドアが開く。
白い包帯に覆われた手と少しの湿布臭さ。進行方向に立っていたソリスに、彼は少し困ったように視線を揺らした。
「タカヒロは一緒じゃないの?」
彼と一緒にいることの多い少年、久我睦月は友人の名前を出した少女に疑問の色を浮かべる。
「ヒロは教室で教科書探してる」
「教科書……?」
「俺も途中まで一緒に探してたんだが、先に行くように言われ、て」
彼が言い終わる前に、ソリスは廊下に飛び出す。
教室に戻った途端、自分のカバンの中をあさっている少年の姿が目に入った。
「教科書探すなら手伝うけど」
顔を上げた少年は、教室に入って来る銀髪の少女を見て手を止める。
「え、なんでソリスが」
「キミの友達に聞いた。護衛のために入学したのに、わたしだけ音楽室行っても仕方ない」
授業の出席率や遅刻も、護衛のためだけに在籍している彼女からすればどうでもいいのだ。
「これまで学校の中で襲われたことないし、人が多い場所には来ないんじゃないか?」
教室内を探し回っていたタカヒロは、ふと窓の外を見て硬直する。何事かと視線の先を確認したソリスは、外の花壇に音楽の教科書が落ちているのを目の当たりにした。
「見つかったから音楽室戻っていいぜ。手伝ってくれてありがとな――って、おいソリス!」
窓枠に足を掛けたソリスは、花壇に向かって飛び降りた。
教室は三階にあるため、飛び降りたら骨折は覚悟する高さだが――無事に着地したソリスは、教科書を取って昇降口に入っていくと、教室の入口から平然と戻って来た。
授業の開始を告げる鐘の音が校舎に響く。
「ありが、とう……えっと、とりあえず音楽室行くか」
「こういうこと、よくあるの?」
持ち主が何の心当たりもない場所に、教科書が投げ捨てられていたこと。
ずっと、その気配を感じさせないように振る舞ってきた。一緒に行動する時間が長くなれば、誤魔化せなくなると分かっていながら。
「あるよ、でも誰が悪いわけでもない」
教科書を受け取って廊下に出た。
それ以上追及されたら、きっと耐えられなくなる。
「遅刻ですよ、冨楽ソリスさん。転校してきたばかりで迷うこともあるかもしれませんが、なるべく遅刻しないようにね」
音楽の先生はソリスに注意はしたものの、タカヒロに言及することなく授業を始める。他の生徒も彼の遅刻を気に留めるような素振りはない。
授業が終わって音楽室を出る時、ソリスの座席に真っ直ぐ向かって来る青年がいた。至る所に包帯を巻いた姿は、遠目にも誰かすぐに分かる。
「転校生。お前、どういうつもりだ」
何のことか分からないが、教科書を探しに戻ったことが関係しているのは確かだ。怒りこそ感じないものの、不審なものを見るような視線に何を答えれば良いのか分からなくなる。
「久我くん、何の話? ソーちゃん困ってるよ~?」
「アイツの事情を知ってて、関わる覚悟あるのかって聞いてる」
今度はソリスが本気で首を傾げる番だった。
「事情……? 特に知らないんだけど」
「……この町にいる限り、『知らない』じゃ済まされない」
言うだけ言って、睦月は背を向けて歩いて行ってしまった。
この町にも、あの宇田川隆宏という青年にも何か事情があることは分かっている。その詳細を当たり前のものとして閉じ込め、語ろうとしないのは彼らの方だ。
躓きながら去っていく青年の背中を眺め、ソリスは青い瞳を閉じた。




