アンダー ザ ローズ 7
――この手続きをするのもレティシア様以来でしたか……、不思議なものです。
そう感慨に耽りながらデューイはレウレトのしたサイン済みの小切手に一千万と書き、それを渡して六畳ほどの簡素な部屋へと向かう。そこにはロクサーヌが毛布に包まっていた。
「ロクサーヌ様、お迎えにあがりました」
「デューイさん……」
「お召し物を用意致しました、支度が終わりましたらお呼び下さい」
言ってデューイが一礼して部屋を出ようとするとロクサーヌが呼び止めた。
「あの、レト……、御主人様は?」
「ロクサーヌ様、御安心下さい。御屋形様は少ししてから屋敷に戻られましょう」
それと、とデューイが付け加えた。
「御屋形様のことをいつも通りにお呼び下さい。でないと悲しまれますゆえ……」
デューイがロクサーヌを連れて屋敷に戻ったのが夕方過ぎである。その頃レウレトはアーチを含む二人と選挙対策について話し合い、その後二人きりで密談をしていた。時計の針がてっぺんを向いた頃に先の密談が終わってデューイが迎えにきた。その帰りの車中にレウレトが言った。
「彼女はどうしてる?」
「湯浴みを済ませ、それからレティシア様と食事を終えてもう床についている頃かと」
「そうか」
「食事はいかがなされますか?」
「今日は疲れた、すぐに休む」
「かしこまりました」
鉄人のレウレトもあの毒気に当たってひとたまりも無かったのだろう、屋敷に到着するとすぐさま自室に向かって服を脱ぎ捨ててそのままベッドに飛び込んでしまった。
* * *
翌早朝、まだ日の昇らないうちに彼は日課である鍛錬を行っていた。なぜに彼が東方から伝わる大陸武術を取り入れているかというと幼少の頃からデューイに教わっていたからである。デューイは十代の頃より諸国を廻って武者修行をしており、勉学も兼ねて研鑽を重ねてきた。彼の旅については大きく省くことにするが、仏国から船を使わずに単身ドーバーを渡り、英国に着いてしばらくしたのちにエスカレットと出会い、以来ルクレール家に尽くしている。そうして幼いレウレト少年に出会い、三年という短い期間ではあったが、自身の習得した武芸を叩き込んでいたのである。デューイは教えてすぐにレウレトに天賦の才があるのを見出だした。彼もまた四千年という途方もない歳月をかけて編み出された武術を余す所無く備え、若くして体現した不世出の天才であったが、レウレトの才はそれを遥かに凌駕していた。
天才は天才を知る。デューイの回顧録にこうある。
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魏の曹操は幼少の頃、武芸に秀で詩歌を嗜み一を聞けば十を知る、まさに破格の才の持ち主であった。若かりし頃の御屋形様にもこの破格の才が多分に備わっておられました。
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なにせレウレトはデューイのやった事を見よう見真似でしてしまう。しかもこれ全てデューイが半年かけて出来たものを一回で覚えてしまうのである。それでいて教わったことをさらに錬磨するのだ。デューイは驚きと同時に喜びに打ち奮えていたに違いない。なぜなら近い将来に自身を打ち倒せる相手を育てていたのだから。
時節は十月、レウレトの起臥するボルティモアの庭園はすっかり秋めいている。朝日が昇ってきた。天高くたなびくうろこ雲が黄金色に染まると、庭園のそちこちに見られる木々も照らされて色彩豊かに紅葉がこの目に映えてくる。母屋の近くには噴水があり、少し離れた場所を花壇が囲み、そこに傍立つようにして一人ぽつねんとレウレトが構えていた。上半身裸の彼は褐色のズボンを履いていて、両脚を少し屈めて両拳を腰の位置に留めてただじっとしている。鞭のようなしなやかな筋肉を纏い、滴り落ちる汗をそのままに彼はいま瞑想していた。瞳を少しだけ開いたいわゆる"観の目"をしており、彼の精神は森羅万象をたゆたっている。ふとそこにひらひらとトンボがやってきてレウレトの顔前を浮遊してはその複眼で様子を窺っている。やがて木々と同じものだとトンボが悟ると羽根を休めるために彼の拳の上に止まった。
辺りはただ閑として無韻、あるのは小鳥のさえずるものばかりなり。おもむろにレウレトが瞳を開く。すると目があったトンボはびっくりして拳から飛び立ってしまった。
――ふむ、だいぶ脱力のコツがわかってきた。しかし実戦ともなると難しいな。おそらくあと十年は素手でデューイには勝てまい。四千年は遠いなあ……。




