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席次表なんて名前を並べるだけだと言われたので、最終確認を外れました——王宮舞踏会が大炎上しても私の責任ではありません

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/16

王宮舞踏会が大炎上した原因は、一枚の席次表だった。


 いいえ、正確には。


 その席次表から、私の注意書きがすべて消されたことだった。


「リナリア。君は少し、細かすぎるんだ」


 礼典長補佐のグレイン卿は、私の作った席次表を指先で叩きながら言った。


 王宮礼典課、第三執務室。


 明後日に迫った建国記念舞踏会の準備で、机の上には招待者名簿、欠席返答、贈答品一覧、食物禁忌表、喪中貴族一覧、派閥関係図、外交使節団の序列表が積み上がっている。


 その中心にあるのが、私の担当する席次表だった。


 赤字は、同席不可。


 青字は、身分上の注意。


 緑字は、食物禁忌と体調配慮。


 紫字は、外交儀礼上の序列注意。


 私にとってそれは、ただの色分けではない。


 誰かが恥をかかないための線であり、誰かが傷つかないための印であり、王宮が外交問題を起こさないための最後の柵だった。


 けれどグレイン卿には、それが余計な落書きに見えたらしい。


「舞踏会の席など、身分順に並べればいい。あとは見栄えだ。君の表は余白が多いし、注意書きが多すぎる」


「注意書きは必要です」


 私は、席次表の右端を示した。


「東翼の第二円卓には、ウォルク伯爵家とメイナード侯爵家を同席させないでください。両家は現在、運河利権をめぐって係争中です」


「そんなもの、舞踏会の席で喧嘩はしないだろう」


「昨年の秋季晩餐会で、ウォルク伯爵がメイナード侯爵夫人の前で『水路泥棒』と発言しています」


「よく覚えているな」


「記録が残っています」


 グレイン卿は、面倒そうに眉をひそめた。


「それから、こちら。南翼中央席には、グラント子爵夫人を置かないでください。ご主人と離縁協議中で、本日は別伴です」


「夫婦なのだから同席でいいだろう」


「現在、同じ馬車にも乗らない関係です」


「では離せばいい」


「離すだけでは足りません。夫人の現在の後見人がカラント伯爵なので、子爵をカラント伯爵の近くに置くのも避ける必要があります」


「……ややこしいな」


「はい。ややこしいです」


 だから、席次表がある。


 だから、確認が必要なのだ。


 私は次の紙をめくった。


「また、アルテンベルク公国の使節団については、必ず第三王女殿下より上座に置いてください。今回は公王弟殿下が代理出席されるため、通常の大使待遇では不敬になります」


「そこまで気にする必要があるのか」


「あります」


「君は何でも大ごとにする」


 グレイン卿はため息をついた。


 その時、執務室の扉が開いた。


 華やかな香水の匂いが、書類とインクの匂いの中に入り込んでくる。


「まあ。本当に紙だらけですのね」


 入ってきたのは、セレスティア・ベルローズ侯爵令嬢だった。


 王妃陛下の遠縁にあたり、今年の春から礼典課に出入りしている。


 正式な職員ではない。


 だが、社交界では花と呼ばれ、誰よりも舞踏会に詳しいと評判だった。


 白金の髪。


 淡い桃色のドレス。


 柔らかな笑み。


 王宮の廊下に立っているだけで、そこが絵画のようになる人だ。


 私は立ち上がり、礼をした。


「ベルローズ侯爵令嬢」


「リナリア様。ごきげんよう」


「ごきげんよう」


 セレスティア様は、私の机の上を見て、可愛らしく首を傾げた。


「まあ、これが席次表ですの?」


「はい」


「思っていたより、ずっと地味ですわね」


 悪意のない声だった。


 悪意がないからこそ、少しだけ痛い。


「舞踏会は華やかなものですのに、こんなに細かい文字ばかりでは気が滅入ってしまいますわ」


 グレイン卿が、ほっとしたように笑った。


「私も同じことを言っていたところです。リナリアは優秀なのですが、少々細かく考えすぎる」


「まあ。けれど、舞踏会はもっと感性が大事だと思いますわ。誰と誰が隣なら絵になるか。どのテーブルが華やぐか。そういうものは、書類だけでは分かりませんもの」


「まったくその通りです」


 私は黙っていた。


 感性。


 華やかさ。


 見栄え。


 もちろん、それも必要だ。


 けれど、席次表は絵ではない。


 人間を並べる仕事だ。


 身分、派閥、血縁、婚約、破談、喪中、病気、食物禁忌、外交儀礼、過去の失言、現在の係争、見えない対立。


 それらを踏まえて、何も起きないように並べる。


 何も起きなければ、誰にも気づかれない。


 気づかれないことが、成功だった。


「リナリア」


 グレイン卿が言った。


「今回の建国記念舞踏会の最終席次は、セレスティア嬢に見てもらうことになった」


 私は、瞬きをした。


「最終確認を、ですか」


「ああ」


「私の担当では」


「君は下案を作った。そこまでで十分だ」


 グレイン卿は、私の席次表を軽く持ち上げた。


「最終的な見栄えや社交上の華やかさは、セレスティア嬢の方がよく分かる。なにしろ彼女は、社交界の中心にいる人だからな」


 セレスティア様が、困ったように微笑んだ。


「私、責任重大ですわね」


「難しく考える必要はありません。名前を並べるだけです」


 名前を並べるだけ。


 私はその言葉を、頭の中で一度だけ繰り返した。


「承知いたしました」


 私は言った。


「では、最終確認はベルローズ侯爵令嬢に引き継ぎます」


 グレイン卿は満足そうに頷いた。


「分かってくれて助かる」


「ただし、確認させてください」


「何をだ」


「私の注意書きは、最終席次に反映されない可能性があるということでしょうか」


「必要があれば反映する」


「必要性の判断は、どなたが」


「セレスティア嬢と私だ」


「では、私は最終確認から外れるという理解でよろしいですね」


 グレイン卿は、少し苛立った顔をした。


「そう言っているだろう」


「承知いたしました」


 私は席次表の下案、注意書き、関連資料の一覧をまとめた。


 そして、一枚の引き継ぎ書を作る。


 一、席次表下案は最新版。


 二、赤字は同席不可。


 三、青字は身分上の注意。


 四、緑字は食物禁忌および体調配慮。


 五、紫字は外交儀礼上の序列注意。


 六、右端の備考欄は削除不可。


 七、最終確認者が変更となったため、以後の席次決定責任は最終確認者に移る。


 私は署名した。


 リナリア・フォース。


 王宮礼典課事務官。


 その紙を、グレイン卿に差し出す。


「こちらが引き継ぎ書です」


「大げさだな」


「記録として必要ですので」


「君は本当に、そういうところが堅い」


「申し訳ありません」


 謝りながら、私はもう一部写しを作った。


 私の手元に残すためだ。


 グレイン卿とセレスティア様にも、確認署名をお願いした。


 二人は、細かい文字をほとんど読まずに署名した。


 名前を並べるだけの仕事だと思っている人たちには、責任の所在を並べた紙も、ただの紙に見えるのだろう。





 王宮礼典課の仕事は、華やかではない。


 少なくとも、私の知る限りは。


 招待状の封蝋が美しいかどうか。


 王妃陛下の入場曲がふさわしいかどうか。


 広間の花の色をどうするか。


 そういった仕事だけなら、たしかに華やかに見えるのかもしれない。


 けれど、私が普段扱っているのは、もっと地味なものだった。


 誰に招待状を送ったか。


 誰から返事が来ていないか。


 誰の爵位が先月変わったか。


 誰の夫が亡くなったか。


 誰が再婚したか。


 誰と誰を同じ入口から入れてはいけないか。


 誰が蜂蜜を食べられないか。


 誰の娘が誰の息子との婚約を解消したか。


 誰が去年、誰のドレスを「古い」と笑ったか。


 誰がその場で笑い、誰が笑わなかったか。


 そういう、残しておかないと消えてしまう情報を、私は表にしていた。


 誰かに褒められたことはない。


 けれど、私が作った表がある限り、舞踏会は平穏に終わった。


 敵対する貴族はすれ違うだけで済み、離縁協議中の夫婦は同じ卓に着かず、喪中の家には華やかすぎる花を送らず、食物禁忌のある使節には別皿が用意された。


 何も起きない。


 それが、礼典課の仕事だった。


「リナリア先輩」


 後輩のミアが、小声で私を呼んだ。


 彼女は今年入ったばかりの下級事務官で、招待状の返答管理を担当している。


「本当に、最終確認しなくていいんですか」


「外されましたから」


「でも、あの席次表、セレスティア様がかなり直してます」


「見ました」


 見た。


 見ないようにしても、見えた。


 グレイン卿の机の上に置かれていた席次表は、私の下案とはかなり変わっていた。


 備考欄は消されていた。


 同席不可の赤字もない。


 食物禁忌の緑字もない。


 外交序列の紫字もない。


 代わりに、卓ごとに花の名前がつけられていた。


 薔薇の卓、百合の卓、菫の卓、金木犀の卓。


 たしかに、見た目は美しかった。


「止めなくていいんですか」


「一度、確認はしました」


「でも」


「ミア」


 私は彼女を見る。


「止める権限がありません」


「……」


「担当から外された人間が、最終決定に口を出すと、責任の所在が曖昧になります」


「でも、失敗したら」


「失敗しないと思っているから、外したのでしょう」


 ミアは唇を噛んだ。


「でも、先輩のせいにされませんか」


「そのための引き継ぎ書です」


 私は机の引き出しから、写しを取り出した。


 ミアはそれを見て、少しだけ安心した顔をした。


「さすがです」


「さすがと言われるほどのことではありません」


「いえ、そういうところです」


「どういうところですか」


「自分を守る書類を、ちゃんと作るところです」


 私は少しだけ笑った。


 自分を守る書類。


 たしかに、そうかもしれない。


 これまで私は、舞踏会を守るための書類を作ってきた。


 貴族の面子を守る。


 王宮の信用を守る。


 招待客の体調を守る。


 誰かの機嫌を守る。


 けれど今回は、初めて自分を守るために書いた。


「リナリア先輩」


「はい」


「明後日、怖くないですか」


「怖いです」


「ですよね」


「でも、私が怖がるべきことではありません」


 言いながら、胸の奥は落ち着かなかった。


 失敗を見たくはない。


 舞踏会に来る人たちが困るのも、怒るのも、傷つくのも見たくない。


 だから、今まで細かくやってきた。


 だから、注意書きを消された席次表を見るだけで、胃が重くなる。


 けれど、ここで私が夜中にこっそり直せば、また同じことになる。


 名前を並べるだけの仕事。


 細かすぎる女。


 誰にでもできる。


 そう言われながら、私はまた誰かの失敗を見えない場所で埋めることになる。


 それは、もうしない。


 私は自分の机の上に、別の仕事を置いた。


 建国記念舞踏会後に送る礼状の下書き。


 こちらは、まだ私の担当だった。


 担当の仕事をする。


 担当でない仕事はしない。


 それだけのことなのに、ずいぶん難しかった。





 建国記念舞踏会の当日。


 王宮大広間は、セレスティア様の意向で例年より明るく飾られていた。


 薔薇と百合。


 金の燭台。


 薄桃色のリボン。


 広間の中央には、円卓が花の名前ごとに配置されている。


 見た目は、たしかに美しかった。


 私は礼典課の事務官として、入口横の控え台に立っていた。


 役目は、招待者の到着確認と、欠席者の記録。


 席次表の確認ではない。


 席次表の確認ではない。


 私は自分にそう言い聞かせる。


「リナリア先輩」


 隣でミアが、小さな声を出した。


「来ました」


 最初に問題が起きたのは、開場から十分後だった。


 ウォルク伯爵とメイナード侯爵が、同じ薔薇の卓に案内された。


 私は息を止めた。


 係争中の両家。


 運河利権。


 昨年の「水路泥棒」発言。


 私の下案では、二人の席は広間の端と端に離してあった。


 だが、セレスティア様の席次では、同じ卓。


 しかも隣席だった。


「これはどういうことだ」


 ウォルク伯爵の声が低く響いた。


「メイナード侯爵と同席とは、王宮は我が家を侮辱するつもりか」


 メイナード侯爵が鼻で笑う。


「侮辱とは大げさな。水路を独占できなくなったからといって、席まで選り好みされるとは」


「何だと」


 周囲の空気が凍った。


 給仕が慌てる。


 案内係がグレイン卿を探す。


 グレイン卿は、まだ王妃陛下の入場準備で奥にいた。


 セレスティア様は、花の配置を確認していた。


「リナリア先輩」


 ミアが泣きそうな目で私を見た。


 私は手元の到着確認表に、二家の到着時刻を書いた。


 王暦三百十二年、陽月三日。


 十八時十二分。


 ウォルク伯爵家、メイナード侯爵家、薔薇の卓にて口論発生。


 私はそれ以上、動かなかった。


 担当ではないから。


 数分後、グレイン卿が駆けつけた。


「伯爵、侯爵、本日は祝いの席ですので」


「祝いの席だからこそ言っている!」


「王宮は我が家の訴えを軽く見ているのか!」


 二人をなだめるために、薔薇の卓は開始前から崩れた。


 椅子が動かされ、給仕の導線が乱れ、近くの夫人たちが眉をひそめる。


 舞踏会は、まだ始まっていなかった。





 二つ目の問題は、王妃陛下の入場直前に起きた。


 グラント子爵夫人が、南翼中央席で固まっていた。


 隣には、グラント子爵。


 離縁協議中の夫婦である。


 しかも、夫人の後ろには現在の後見人であるカラント伯爵が座っていた。


 三人の顔色は、それぞれ違う意味で悪かった。


「これは、どういうおつもりですか」


 グラント子爵夫人の声は静かだった。


 静かすぎて、近くの貴族たちが一斉に黙るほどだった。


「王宮は、私にこの席で何を話せと?」


 子爵は汗を拭いている。


 カラント伯爵は、明らかに怒っていた。


 案内係が、席次表を見直す。


「こちらの席で間違いございません」


「間違いではない?」


 夫人が微笑んだ。


「では、意図的なのですね」


 違う。


 意図的ではない。


 ただ、知らなかったのだ。


 情報を消した席次表では、ただの夫婦に見えたのだろう。


 私は控え台で、到着確認表の余白に記録を足した。


 十八時二十一分。


 グラント子爵夫妻、同席により抗議。


 カラント伯爵、王宮礼典課への説明要求。


 ミアは隣で真っ青になっている。


「先輩、私、胃が痛いです」


「私もです」


「なのに書くんですね」


「記録は必要です」


「こういう時の先輩、本当に先輩です」


 褒められているのか、分からなかった。





 三つ目は、食物禁忌だった。


 アルテンベルク公国の使節団に、蜂蜜を使った菓子が出された。


 使節団の一人、若い外交官がすぐに手を止めた。


「これは蜂蜜入りですか」


 給仕が答える。


「はい。王宮菓子職人の特製でございます」


「我が公国の公王弟殿下は、蜂蜜を口にできません」


 空気が変わった。


 私の下案では、アルテンベルク使節団の卓には蜂蜜菓子を出さないよう、緑字で大きく記してあった。


 食物禁忌表にも、別紙で添付していた。


 だが、最終席次と料理表を合わせる時、備考欄が消えていた。


 結果、給仕側には伝わらなかったのだ。


「まさか、王宮側にお伝えしていなかったとは思えませんが」


 外交官は微笑んでいた。


 だが、目は笑っていない。


 グレイン卿が駆けつける。


「失礼いたしました。すぐに別皿を」


「別皿の問題ではありません」


 外交官は、静かに言った。


「我が国の禁忌を、祝宴の席で確認されなかった。その事実を問題にしています」


 私は、手元の名簿を確認した。


 外交官の名は、オスカー・ヴァルツ。


 アルテンベルク公国礼典局の次席官。


 若いが、礼典実務に詳しい人物として記録していた。


 彼の視線が、ふとこちらを向いた。


 私は会釈だけした。


 彼はわずかに目を細めた。


 何かに気づいたようだった。


 けれど、この場で私にできることはない。


 私は記録した。


 十八時三十四分。


 アルテンベルク公国使節団、提供菓子に関し抗議。


 禁忌情報の反映漏れ。





 四つ目は、喪中の家だった。


 ライゼン伯爵家に、祝花が贈られていた。


 しかも、白い百合ではなく、真紅の薔薇である。


 ライゼン伯爵家は先月、長男を亡くしたばかりだった。


 正式な服喪期間は明けていない。


 私の贈答品一覧では、ライゼン伯爵家への卓上花は白に変更し、祝いの言葉を控えめにするよう記していた。


 だが、セレスティア様は卓ごとの華やかさを優先したらしい。


 伯爵夫人は、赤い薔薇を見た瞬間、静かに席を立った。


 誰も止められなかった。


 止めてはいけない空気だった。


 その背中が広間を出ていくまで、音楽が薄く聞こえた。


 私はペンを握る手に力を入れた。


 これは、見たくなかった。


 これは、避けたかった。


 でも、私は注意書きを残した。


 引き継ぎもした。


 最終確認から外された。


 それでも胸が痛む。


 ミアが、震える声で言った。


「先輩」


「はい」


「名前を並べるだけじゃ、ないですね」


「はい」


「花を置くだけでも、ないですね」


「はい」


 私は記録した。


 十八時四十二分。


 ライゼン伯爵夫人、卓上花により退席。


 服喪配慮の反映漏れ。


 文字が少し歪んだ。





 五つ目は、上座の問題だった。


 アルテンベルク公国の公王弟殿下が、第三王女殿下より下座に置かれていた。


 通常の大使待遇であれば問題ない。


 だが今回は、公王弟殿下が代理出席している。


 王族待遇が必要だった。


 私の紫字の注意書きは、削除されていた。


「これは、我が公国を大使級と見なすという理解でよろしいか」


 公王弟殿下は、穏やかな声で言った。


 穏やかだった。


 だからこそ、周囲の顔が青くなった。


 第三王女殿下は、すぐに立ち上がった。


「そのような意図はありません」


「では、意図なくこの席に?」


「礼典課の手違いです」


 手違い。


 その一言で、グレイン卿の顔が真っ白になる。


 手違いは、礼典課の責任だ。


 セレスティア様は、もう笑っていなかった。


「わ、私は、ただ見栄えがいいように……」


 彼女の声は震えていた。


 たしかに、見栄えは良かった。


 薔薇の卓には赤系のドレスの夫人たち。


 百合の卓には白や銀の装いの貴族。


 菫の卓には若い令嬢たち。


 絵のようだった。


 けれど、舞踏会は絵ではない。


 そこにいるのは、人間だ。


 歴史があり、関係があり、誇りがあり、傷があり、食べられないものがあり、会いたくない相手がいる。


 名前は、ただの文字ではない。


「リナリア!」


 グレイン卿が、ついに私の方へ駆け寄ってきた。


「君の下案はどこだ」


「礼典長補佐に提出済みです」


「写しは」


「ございます」


「なら早く出せ!」


 私は控え台の下から、下案の写しを取り出した。


 けれど、すぐには渡さなかった。


「確認させてください」


「今はそんな場合ではない!」


「重要です」


 私はグレイン卿を見た。


「私は、最終確認から外されました。席次決定責任は、礼典長補佐およびベルローズ侯爵令嬢に移る。その認識でよろしいですね」


「だから何だ!」


「その認識のもと、私は一昨日、引き継ぎ書を提出しております」


「分かっている! だから早くその写しを寄こせ!」


「お断りします」


 グレイン卿の顔が止まった。


「……何?」


「私の下案には、招待客の係争、離縁協議、食物禁忌、服喪、外交上の序列が記されています。正式な担当者でない私が、この場で独断でそれを使用し、席次を組み替えることはできません」


「そんなことを言っている場合か!」


「そういう場合にしないための最終確認でした」


 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「私は、最終確認の権限を外されています。責任も権限もない者が、王宮舞踏会の席次を動かすことはできません」


「君は王宮が恥をかいてもいいのか!」


「私は一昨日、恥をかかないための資料を提出しました」


 グレイン卿が言葉を失う。


「それを不要と判断したのは、私ではありません」


 広間の騒ぎは大きくなっていた。


 ウォルク伯爵とメイナード侯爵の口論。


 グラント子爵夫人の抗議。


 ライゼン伯爵夫人の退席。


 アルテンベルク公国からの正式抗議。


 公王弟殿下の席次問題。


 王妃陛下の入場は、止まった。


 舞踏会は、始まる前に崩壊していた。


 グレイン卿は怒りと焦りで顔を歪めた。


「リナリア、これは命令だ!」


「命令権限をお持ちでしたら、書面でお願いいたします」


「この場でか!」


「はい。この場でです」


 その時だった。


「その必要はありません」


 静かな声が、広間の入口から届いた。


 王妃陛下だった。


 広間のざわめきが、一瞬で引いていく。


 王妃陛下は、入場曲もなく、大広間へ姿を現した。


 その表情は穏やかだった。


 穏やかすぎて、礼典課の人間は全員青ざめた。


「グレイン・ローデル。セレスティア・ベルローズ。リナリア・フォース。アルテンベルク公国のオスカー礼典官も、控えの間へ」


 王妃陛下は、ゆっくりと言った。


「今すぐ説明を聞きます」





 王妃陛下の控えの間には、礼典長、グレイン卿、セレスティア様、アルテンベルク公国のオスカー礼典官、そして私が呼ばれた。


 王妃陛下の前には、二つの席次表が置かれている。


 一つは、私が作った下案。


 もう一つは、実際に使われた最終席次表。


「説明しなさい」


 王妃陛下の声は静かだった。


 静かすぎて、誰もすぐには口を開けなかった。


 最初に声を出したのは、セレスティア様だった。


「わ、私は、広間が美しく見えるように整えただけですわ。細かい注意書きまでは、リナリア様が確認してくださるものだと……」


「リナリアは最終確認から外されていたのでは?」


 王妃陛下が言った。


 セレスティア様の唇が震える。


「そ、それは……」


 王妃陛下は、私を見た。


「リナリア。記録はありますか」


「ございます」


 私は、引き継ぎ書の写しを差し出した。


 王妃陛下の秘書官が、それを読み上げる。


「一、席次表下案は最新版」


「二、赤字は同席不可」


「三、青字は身分上の注意」


「四、緑字は食物禁忌および体調配慮」


「五、紫字は外交儀礼上の序列注意」


「六、右端の備考欄は削除不可」


「七、最終確認者が変更となったため、以後の席次決定責任は最終確認者に移る」


 部屋の空気が、冷たくなった。


 秘書官は続けた。


「署名。リナリア・フォース。確認者、礼典長補佐グレイン・ローデル。ベルローズ侯爵令嬢セレスティア」


 グレイン卿の顔から血の気が引いた。


 セレスティア様は、小さく首を横に振った。


「そんな、私は、ただ……」


「ただ?」


 王妃陛下の声が、そこで少しだけ低くなった。


「ただ、係争中の貴族を隣席にし、離縁協議中の夫婦を同卓にし、服喪中の家に真紅の薔薇を置き、蜂蜜を口にできない使節に蜂蜜菓子を出し、隣国王族を下座に置いたのですか」


 セレスティア様は黙った。


「それを、ただ、と呼ぶのですね」


 誰も何も言えなかった。


 王妃陛下は、今度はグレイン卿を見た。


「あなたは、席次表を名前を並べるだけの仕事だと言ったそうですね」


「……申し訳ございません」


「謝罪は私にではありません」


 グレイン卿が、私を見る。


 けれど、王妃陛下は続けた。


「いいえ。今は謝罪より処分です」


 グレイン卿の肩が震えた。


「グレイン・ローデル。あなたを礼典長補佐の任から解きます。正式処分が下るまで、礼典課への出入りを禁じます」


「王妃陛下!」


「セレスティア・ベルローズ。あなたには今後、王宮礼典に関わる一切の非公式参与を禁じます。ベルローズ侯爵家には、正式に抗議文を送ります」


 セレスティア様の顔が真っ白になった。


「そんな……私は、王宮のために」


「王宮のために働く者は、まず自分の責任範囲を理解します」


 王妃陛下は、私の下案に手を置いた。


「リナリア・フォース」


「はい」


「あなたの下案は、正しかった」


 その一言で、胸の奥が詰まった。


「あなたの注意書きは、すべて必要でした」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その時、オスカー礼典官が一歩前に出た。


「王妃陛下。アルテンベルク公国としては、今夜の扱いについて正式な説明を求めます」


「当然です」


 王妃陛下は頷いた。


「謝罪文は、今夜中に用意します」


「ありがとうございます」


 オスカー礼典官は、ちらりと私を見た。


「なお、リナリア・フォース殿の下案と引き継ぎ書を見る限り、彼女が必要な警告をしていたことは明白です。我が国は、彼女個人の責任を問う意思はありません」


「分かりました」


 王妃陛下は、私へ視線を戻した。


「リナリア。王宮礼典課に残りなさい」


 その言葉に、私は深く頭を下げた。


「光栄です」


 嘘ではなかった。


 ここは、私が働いてきた場所だ。


 何度も徹夜して、何度も胃を痛めて、それでも舞踏会が何事もなく終わるたびに、少しだけ誇らしかった場所だ。


「ですが、お受けできません」


 部屋の空気が止まった。


 グレイン卿が顔を上げる。


 セレスティア様も、信じられないものを見るように私を見た。


 王妃陛下だけが、静かに私を見ていた。


「理由を聞きましょう」


「はい」


 私は、アルテンベルク公国のオスカー礼典官から事前に渡されていた封書を取り出した。


 彼は昨夜、私の下案を見た時点で、この話をしてくれていた。


 あの時は、まだ返事を保留していた。


「アルテンベルク公国礼典局より、席次管理官としての正式な採用打診をいただいております」


 王妃陛下の目が細くなる。


「条件は?」


「最終確認権限。情報照会権限。補助職員二名。緊急対応手当。責任範囲の明文化。給与は、現在の三倍です」


 グレイン卿が息を呑んだ。


「三倍……」


 私は彼を見なかった。


「王宮礼典課で同じ条件をご用意いただけるなら、検討いたします」


 沈黙が落ちた。


 その沈黙が、答えだった。


 王妃陛下は、長く目を閉じた。


「……今すぐには、難しいでしょうね」


「承知しております」


「あなたを失うのは、王宮の損失です」


「ありがとうございます」


 私は、静かに息を吸った。


「ですが、私はもう、損失になってからしか価値を認められない場所では働きません」


 誰も、何も言わなかった。


 私は礼をした。


「これまで、お世話になりました」


 オスカー礼典官が、私の隣に立つ。


「リナリア・フォース殿。アルテンベルク公国礼典局は、あなたを歓迎します」


 私はその言葉に、初めて少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


 その日、私は王宮礼典課を去った。


 ただし、一人だけ、置いていかなかった。





「リナリア先輩」


 王宮の裏門で、ミアが小さな鞄を両手で抱えて立っていた。


 目は赤い。


 けれど、泣いてはいなかった。


「本当に、いいんですか」


 私が尋ねると、ミアは大きく頷いた。


「はい」


「王宮礼典課に残れば、安定はしています」


「分かっています」


「アルテンベルク公国では、最初から覚えることも多いです」


「はい」


「私も、あなたを甘やかすつもりはありません」


「それも分かっています」


 ミアは、ぎゅっと鞄の持ち手を握った。


「でも、私はもう、名前を並べるだけだと言われる仕事を、名前を並べるだけだと思っている人たちの下で覚えたくありません」


 私は何も言えなかった。


「先輩が作った表を見て、初めて分かりました。何も起きないようにする仕事って、本当にあるんだって。誰にも褒められなくても、誰かが傷つかないようにしている仕事があるんだって」


 ミアは、少しだけ笑った。


「私は、それをちゃんと覚えたいです」


「……王宮には、退職願を?」


「出しました。受理される前に、グレイン卿が処分されましたけど」


「そうですか」


「王妃陛下の秘書官が、手続きを通してくれました。今回の件で、私も席次表の写しを確認していた証人だから、王宮に残るより外に出た方がいいだろうって」


 王妃陛下らしい判断だった。


 私は、ミアの鞄を見た。


 小さい。


 王宮で働いた数年分の荷物にしては、あまりに小さい。


 けれど、私も似たようなものだった。


 仕事に必要なものは、ほとんど置いてきた。


 でも、本当に必要なものは、頭と手の中に残っている。


「ミア」


「はい」


「アルテンベルク公国礼典局では、私の補助職員が二名つくことになっています」


「はい」


「そのうち一名に、あなたを推薦します」


 ミアの目が、大きく開いた。


「え」


「ただし、正式採用されるかどうかは、あなたの実力次第です。私の後輩だからという理由だけでは通しません」


「はい!」


「最初に覚えることは、招待者名簿です」


「はい!」


「次に、食物禁忌表」


「はい!」


「それから、同席不可一覧」


「はい!」


「そして最後に」


 私は少しだけ笑った。


「自分の仕事を守る書類の作り方です」


 ミアは、今度こそ泣きそうな顔になった。


「はい、先輩」


 オスカー礼典官が、馬車の横で私たちを待っていた。


 彼はミアを見ると、すぐに事情を察したようだった。


「彼女が、あなたの後輩ですか」


「はい。ミア・カレル。招待状返答管理を担当していました」


「では、アルテンベルクで面接をしましょう」


 ミアが慌てて頭を下げる。


「よろしくお願いいたします!」


「こちらこそ。礼典局は、記録を軽んじない人材を歓迎します」


 その言葉に、ミアの肩から力が抜けた。


 私は馬車に乗る前に、王宮を振り返った。


 王宮の窓は、朝の光を受けて白く光っている。


 あの中に、私の机があった。


 私が作った席次表があった。


 私を細かすぎると言った人たちがいた。


 そして、私の仕事を見てくれた後輩がいた。


 全部を捨てたわけではない。


 必要なものだけ、連れていく。





 私がいなくなった後、王宮では席次管理主任という役職が新設されたらしい。


 補助職員も二名ついたという。


 注意書きの削除には担当者承認が必要になり、食物禁忌表と外交序列表は席次表から切り離せない公式書類になったらしい。


 それは、良いことだと思う。


 ただし、私の席ではない。


 アルテンベルク公国礼典局での初出勤の日。


 私の机には、厚い名簿と、色分けされた資料と、私専用の大きな作業机が用意されていた。


 隣には、補助職員が二人。


 一人は、既に礼典局で働いていた記録官。


 もう一人は、少し緊張した顔で立っているミアだった。


 オスカー礼典官は、私の前に一枚の辞令を置いた。


「リナリア・フォース殿。本日より、国際会議席次管理官として勤務していただきます」


「承知いたしました」


「最終確認権限は、あなたにあります」


 私はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。


 権限。


 責任と一緒に、初めて渡されたもの。


「ありがとうございます」


「こちらこそ。あなたの仕事には、それが必要です」


 私は新しい席次表を広げた。


 そこには、まだ誰の名前も並んでいない。


 でも、ただ名前を並べるつもりはなかった。


 誰と誰を離すべきか。


 誰に敬意を示すべきか。


 誰に配慮が必要か。


 誰の傷を踏まないようにするか。


 それを考えるところから、私の仕事は始まる。


「ミア」


「はい、先輩」


「まず、去年揉めた人たちの一覧から作ります」


「華やかじゃないですね」


「華やかではありません」


 私はペンを取る。


「でも、必要です」


 ミアは、まっすぐ頷いた。


「はい」


 私は、最初の一行を書いた。


 国際会議、同席不可一覧。


 もう、誰にも名前を並べるだけとは言わせない。


 名前を並べるだけの仕事。


 そう言った人たちの前から、私は自分の名前を外した。


 そして、自分の仕事の意味を分かってくれる後輩の名前だけを、新しい席に並べた

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