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時計  作者: 桐生星男
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SIDE‐B 社長の部下

 僕は運命論者ではないので一連の出来事がひとえに運命のみの成せる業だったとは思いたくない。しかしそれら一連の出来事に僕の主体性がどれだけ関与していたかというとそれはほとんど関与しておらず、だからやっぱりこれは運命の仕業だったのかもしれないと思う。そもそも社長がこんなに早く亡くなった事からして僕の与り知るところではないし――なぜなら僕は社長を殺してないから――だからとにかく僕達は出会ってしまった、としか言いようがない。

 再会した彼女は素晴らしく美しく成長していた。

 彼女はすうっと息を吸うとおもむろに立ち上がり、手に取った置時計を大きく振りかぶって、投げた。それは実にスローモーな放物線を絵描き、静閑としたロビーに予想通りの大喝音を響かせて粉々に砕け散った。やっぱりな。絶対そうすると思った。絶対投げると思った。彼女の目を見たとき僕はそれを確信し――頷く、覚悟を決め――頷いた。だから僕はそれほど驚かない。となりの老弁護士は、元から何があっても驚かない。

 そもそも僕はこの光景を、過去に一度見たことがあるのだ。多分一生忘れはしないだろう。十五年前、そのとき僕は人生で初めての恋に、落ちたのだから。


 事の始まりからして僕は納得できなかった。こんな理不尽な話はない。それじゃあ、加奈お嬢さんが可哀想すぎるではないか。鬼だ。鬼社長だ。

「娘の加奈は十年前、男と駆け落ちしたが、そのあと男に捨てられてな」

 知っている。社内では有名な話だ。僕は少しだけ失恋の古傷がうずくのを覚えた。

「今でも意地を張っていて、あれから一度も帰って来ないのだ……それでな、全く同じものを探し出すのに今までかかったが……。吉井君、是非君の手から渡してやってくれないか。何しろ君は、あのとき、あの場にいたのだからね」

 十年という歳月は短いようで長い。こんなものでその溝が埋まるのかどうか。それに、彼女と会うのは何となく躊躇された。過ぎし日の美しい思い出を―― 一方的な思い出ではあったけれど――美しいままに留めておきたかったのかもしれない。

「もし無理だと言うのならば、私が死んだあとにでも渡してくれ。いつでも帰って来られるようにな。これは私から加奈へのはなむけだ。まあ、そう簡単には……」

 死なんと思うがな、と言って社長は笑ったが、間もなくして呆気なく死んだ。

 公正証書遺言にはこうあった。娘、加奈へ以下のものを贈与する。アンティーク置時計、一台。……それだけ。他の財産は全て長男が相続することになっていた。一瞬でも社長の言葉に同調した僕はお人好しだった。社長、あなたは、鬼すぎです。


 それを直接告げる役目はとなりの老弁護士だったが、遺言で名指しされた僕も件の置時計を持って同伴していた。はっきり言って気が重かった。

「冗談じゃない!」

 彼女の打ち震えた声がロビーに響く。ほらな、やっぱり。人間誰だって金が絡むと変わってしまう。だから来たくなかったのだ。僕の初恋の人よ、あなたはかつて純粋で可憐な少女だった。あの頃、僕はまだ新人の一工員だったね。そして全ては時と共に失われた。覆水盆に帰らず。けれど悪いのはあなたではない、悪いのは全てあの鬼社長です! 悪いのは金です! 悪いのは男です! 悪いのは何もしてあげられなかった僕です! などと勝手に悦に入っていると、唐突に彼女は、ばんっ、と両手をテーブルに突いて立ち上がった。

「お金なんていりませんから。お金がなくても、私は一人でやっていけます!」


 あの日僕は十八歳だった。「何か忘れ物がないか見てこい」と先輩からことづかり、僕は旧工場に舞い戻った。汗と油臭い旧工場。必要な機器は全て運び終わり、辺りはがらんとして静まり返っていた。事務所の窓からはオレンジ色の夕日が差し込んでいた。

「忘れ物ですか?」

 突然、背後から声をかけられた。社長の一人娘、中学一年生になったばかりの加奈ちゃんだった。彼女は度々、裏の自宅からこの工場へ遊びに来た。ここは小さい頃からの彼女の遊び場でもあったのだ。

「いや、ちょっと確認に来ただけだよ。加奈ちゃんも色々と、さみしくなるね」

 ええ、と言って彼女はうつむいた。彼女は手に、あの見慣れた置時計を持っていた。

「この時計、パパが若い頃、借金までして買ったんです。どうしても欲しかったんですって。ちょっと馬鹿だと思いません?」

 彼女は口元に笑いを浮かべ愛しそうに時計を見ていた。へえ、高価な時計なんだ、僕が言うと彼女は、さらさらと髪を分け、僕のほうを見た。

「でもこんなもの、ちっとも欲しくないんです」

 彼女はそう言うと夕日を仰ぎ、置時計を両手に――すうっと息を吸い込んだ。


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