SIDE‐A 父の娘
この街に帰ってくるのは十年振りだった。
母と兄夫婦はしきりに実家に泊まるよう勧めてくれたけれど、父が死んだ途端待ってましたとばかりに家の敷居を跨ぐのも、何だか格好悪いとゆうかプライドが許さないような気がしたので、断った。
駅前はいつの間にか再開発されていて、私は最近出来たばかりだという広いロビーのあるステーションホテルに泊まることにした。
早すぎる父の死。ちょうど二週間前、母から電話があった。「父さんが加奈と話をしたいって言ってるんだけど……」もしかするとその時すでに、父は何か死の予感のようなものを感じていたのかもしれない。けれど私は、そうするのが当然のように――この十年間ずっとそうしてきたように――父との会話を、拒絶した。
「……ですからね、加奈さん。そういう事ですので、ご理解いただけましたか?」
私の向かい側には、弁護士を名乗る白髪の男と父の部下だったという三十歳くらいの痩せた男が、喪服を着て並んで座っている。遅い時間のせいかホテルのロビーは閑散としていて、広いわりには私達の他にほとんど人影がなかった。
父の葬儀が終わったのは、ついさっき、ほんの二時間くらい前の事だ。傍若無人の塊のような父だったのに、実にあっけなく煙となって消えた。私は泣きたいような泣けないような、複雑な気分だった。父には何か伝えたい事があったような気もするけれど、それは私の心の奥深い場所で錘に繋がれ、表面まで浮かんで来る事はなかった。私はまだ父との関係をうまく、整理出来ずにいるのだ。
それなのに、と思う。私は今、薄ら寒いホテルのロビーの一画で顔に神妙を貼り付けたような黒服の男二人と、父の遺産相続の話をしている。
ああ、また、金の話だ……。十年前、事業が軌道に乗りだしてからの父は四六時中、金の話ばかりするようになった。私はそんな父が嫌で家を出たのだけれど、たぶん父は死んでも、今の私の気持ちなど理解できないんだろうと思う。そういう人なのだ、父は。そう思うと私は何だか急に、胸の中で澱をなしていた積年の怒りが、むくむくと沸き上がって来るのを感じた。
「冗談じゃない!」
思わず口をついた私の声は、思った以上にロビーの中に響いた。若い方の男ははっとしたように私を見つめたが、年寄りの弁護士はいかにも慣れてますという風に取り澄ました微笑を崩さなかった。――冗談じゃない、と今度は心の中で叫んだ。受け取ってなどやらない、誰があんな父の遺産なんか受け取ってやるものか。私が欲しかった物はいつも、お金なんかじゃなかった。――お金なんていらないから時を戻して欲しい、と思う。まだ会社が小さな町工場だったあの頃、父や工員達が賑やかに裏路地を出入りしていた、貧しくても温かかったあの頃の日々に。
「あ、あのぉ」
それまで黙っていた若い方の男が、おずおずと口を開いた。私は男の方を見た。
「社長……あ、いや、お父様から、加奈さんに預かっているものがあるんです」
父から私に? 一体何だろう。男は鞄から丁重に包装されたそれを取り出すと、慎重にテーブルの上に置いた。
「これだけは、ちゃんと渡してやりたかったと、最後に社長から頼まれまして……」
それは、アンティークのからくり時計だった。卓上タイプで丁度ウイスキーのボトルを縦横に膨らませたくらいの大きさ。ガラスケースの中には左右に揺れる振子と二体の愛くるしい人形が向き合っている。金色の文字盤には精巧な装飾が施してあり、全体を縁取る真鍮の彫刻と絶妙なアンサンブルを醸し出していた。
忘れもしない。私がまだ小さな子供だった頃。私はよく父に抱き上げられて、工場の事務所の棚に置かれていたこの素敵な置時計を飽きもせずに眺めた。午後五時になると時鐘と共にガラスの中の人形達が楽しげに踊りだす。「お、いいなぁ加奈ちゃん、お父さんに抱っこされて」「加奈ちゃん、また明日な」奥の工場から、笑顔で帰り支度をする工員達。差し込む夕日、時計の音色、汗と油の匂い……。
直後、長い間忘れていた記憶の一部が、胸の痛みと共に鮮明に私の脳裏に蘇った。――そうだ、確かにもらったのだ。十三歳のとき、旧工場が隣町の大きな新工場へと引っ越す日だった。工員達は名残惜しそうに私にさよならを言い、私は父から、それまでは一度だって触れさせてくれなかったあの美しい置時計を、もらったのだ。
……それが何故、今ここにあるのだろう? 私が「なんで?」という顔で男を見ると、男は目を潤ませて、うんうん、と二つ、大きく頷いた。私は何だか抑えられない衝動に駆られ、置時計を両手に――すうっと息を吸い込んだ。




