第15話【最終話】異世界転生したら人生逆転できると思っていた。
異世界に転生して、約半年。
勇者にもなれず、特別な魔法も使えず、商会の経営にも失敗した健太。
借金を抱え、社長という肩書きまで失った彼が、最後に選んだのは、ごく普通の仕事だった。
それでも、かつての健太には想像できなかった未来が、そこに待っていた。
異世界生活、170日目。
「……次の方、どうぞ」
王都東部物流センター。
神崎商業グループが運営する巨大な物流施設で、田中健太は面接を受けていた。
向かいに座っているのは、現場責任者のベルクだった。
「田中健太さん、34歳ですね」
「はい」
「以前は商会を経営されていたそうですが」
「……はい」
健太は頷いた。
「ケンタ魔導技術開発商会という、小さな会社をやっていました」
「なるほど」
ベルクは応募書類を確認した。
「どうして、こちらの仕事に応募されたんですか?」
健太は少し考えた。
以前なら、こう答えていただろう。
将来、神崎グループの幹部になるため。
経営者としての経験を生かすため。
自分の才能を認めてもらうため。
だが、今は違った。
「……生活を立て直したいからです」
健太は答えた。
ベルクが顔を上げた。
「……生活を?」
「はい」
健太は頷いた。
「会社の経営に失敗して、借金が残っています」
「……」
「だから、まずはちゃんと働いて、少しずつ返したいんです」
ベルクは黙って聞いていた。
「それから」
健太は少し迷った。
「……俺、今まで、ちゃんと働いてこなかったんです」
「……ほう」
「日本にいた頃も、ずっと親に頼って生活していました」
健太は俯いた。
「こちらの世界に来てからも、誰かが自分を成功させてくれると思っていました」
ベルクは何も言わなかった。
「でも、そんなわけなかったんです」
健太は顔を上げた。
「……だから、今度は自分で働きたいです」
ベルクは、しばらく健太を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「わかりました」
健太は緊張した。
「……」
「では、今日は実際の作業を少し体験していただきます」
「……え?」
「倉庫作業は、体力も必要ですからね」
ベルクは立ち上がった。
「続けられそうか、お互いに確認しましょう」
健太は慌てて立ち上がった。
「……はい!」
そして、ベルクのあとを追った。
* * *
「……重っ!」
健太は、木箱を持ち上げようとして声を上げた。
思っていたより、ずっと重い。
「無理に持ち上げなくていいぞ」
隣にいた男性が声をかけた。
「……すみません」
「大きな荷物は、台車を使う」
男性は笑った。
「俺はエリック。ここの作業員だ」
「……田中健太です」
「よろしくな」
エリックは、荷物の運び方を教えてくれた。
重い荷物は台車へ。
壊れやすいものは別の区画へ。
届け先ごとに札を確認する。
単純に見える作業だった。
だが、やってみると難しい。
「……あれ?」
健太は、木箱の札を見つめた。
「これ、どこに置けばいいんだ?」
エリックが確認した。
「西部第2区画だな」
「……西部?」
「そう。さっきの荷物は東部第2区画だったろ?」
健太は慌てた。
「……あ、違うのか」
「似てるからな。最初は間違えやすい」
エリックは笑った。
「焦らず確認すればいい」
「……はい」
健太は頷いた。
その後も、何度か間違えた。
荷物を置く場所。
台車の動かし方。
作業の順番。
知らないことばかりだった。
そして、午前の作業が終わる頃には、足が震えていた。
「……死ぬ」
健太は壁にもたれかかった。
エリックが笑った。
「最初は、みんなそんなもんだよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
エリックは水筒を差し出した。
「飲むか?」
「……ありがとうございます」
健太は水を飲んだ。
喉を通る冷たい水が、驚くほど美味しかった。
「……こんなに大変なんですね」
健太は呟いた。
エリックは頷いた。
「まあな」
そして、荷物が積み上がった倉庫を見渡した。
「でも、この荷物を待ってる人がいるからな」
「……」
「俺たちが間違えたら、違う場所へ届いちまう」
健太は、木箱を見つめた。
ただの荷物。
そう思っていた。
だが、この中には誰かが必要としている商品が入っている。
それを、正しい場所へ届ける。
それが、自分たちの仕事だった。
「……なるほど」
健太は小さく頷いた。
以前の自分なら、こんな仕事は誰にでもできると馬鹿にしていただろう。
だが、実際には、何ひとつ満足にできていなかった。
「……俺、全然駄目ですね」
健太が苦笑すると、エリックは首を振った。
「まだ初日だろ?」
「……はい」
「だったら、これから覚えればいい」
健太は顔を上げた。
「……そうですね」
そして、小さく笑った。
* * *
異世界生活、173日目。
「……田中さん」
健太は、再びベルクの前に座っていた。
「はい」
「採用についてですが」
心臓が跳ねた。
落ちたかもしれない。
作業は遅かった。
間違いも多かった。
体力だって足りていなかった。
健太は、膝の上で拳を握った。
「……」
「試用期間付きで、採用したいと思います」
「…………」
健太は固まった。
「……え?」
「月額給与は銀貨6枚。試用期間は3か月です」
ベルクは続けた。
「勤務状況や作業の正確性を確認し、継続雇用について判断します」
健太は、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
月額銀貨6枚。
自分が社長だった頃なら、安いと笑っていたかもしれない。
だが、今は違う。
毎月、働いた分の給与を受け取れる。
その収入で生活し、借金を返せる。
それが、こんなにもありがたい。
「……よろしくお願いします」
健太は、深く頭を下げた。
ベルクは微笑んだ。
「こちらこそ」
そして、手を差し出した。
健太は、その手を握った。
大きく、力強い手だった。
* * *
異世界生活、180日目。
神崎商業グループ王都東部物流センター。
「……おはようございます!」
健太は、少し大きな声で挨拶した。
「おう、おはよう」
エリックが笑った。
「今日から正式に勤務開始だな」
「……はい!」
「最初から無理するなよ」
「わかりました」
健太は頷いた。
作業着に着替える。
荷物の札を確認する。
台車を準備する。
そして、仕事を始める。
単純な作業。
だが、気を抜けば間違える。
健太は、慎重に荷物を運んだ。
「……東部第3区画」
札を確認する。
「……よし」
台車を押す。
指定された場所へ運ぶ。
そして、次の荷物へ向かう。
その繰り返しだった。
午前中だけで、何度も汗をかいた。
足も痛くなった。
腕も疲れた。
だが、以前のように、すぐ仕事を投げ出したいとは思わなかった。
なぜなら、自分がここで働くと決めたからだ。
「……田中さん」
エリックが声をかけた。
「はい?」
「さっきの荷物、ちゃんと確認できてたな」
健太は驚いた。
「……本当ですか?」
「ああ」
エリックは笑った。
「少しずつ慣れてきたんじゃないか?」
健太は、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
たった、それだけの言葉。
だが、嬉しかった。
社長だった頃。
自分は、社員から褒められることを当然だと思っていた。
社長なのだから。
アイデアを出す人間なのだから。
そう考えていた。
だが、今は違う。
ちゃんと仕事をして、認めてもらう。
それだけで、十分嬉しかった。
* * *
異世界生活、195日目。
「……銀貨6枚」
健太は、初めての給与袋を見つめていた。
正確には、勤務開始時期に応じて計算された最初の給与だった。
額は、決して大きくない。
だが、自分で働いて得た金だった。
「……これが、給料か」
健太は小さく笑った。
日本にいた頃。
34歳になるまで、まともに働いた経験はほとんどなかった。
親から生活費をもらい、家でゲームをしていた。
働いている人間を見ても、自分の方が賢いと思っていた。
会社に雇われて、上司の言うことを聞いている。
そんな人生は負け組だと考えていた。
だが、今。
自分は会社に雇われている。
毎朝決まった時間に出勤する。
上司の指示を聞く。
同僚と協力する。
そして、給料をもらう。
「……悪くないな」
健太は呟いた。
もちろん、借金はまだ残っている。
生活だって楽ではない。
大商人になったわけでもない。
皇女と結婚したわけでもない。
特別な魔法を覚えたわけでもない。
だが、不思議と、以前ほど不満はなかった。
健太は、給与袋を持って商業ギルドへ向かった。
返済のためだった。
「……田中様」
職員が顔を上げた。
「本日は、どうされましたか?」
「……返済に来ました」
健太は、銀貨を差し出した。
「少しだけですけど」
職員は頷いた。
「ありがとうございます」
そして、帳簿へ記録した。
「確かに、お預かりいたしました」
健太は、深く頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
借金が消えたわけではない。
ほんの少し、減っただけだ。
それでも、前へ進んでいる。
そのことが、嬉しかった。
* * *
異世界生活、201日目。
「……あれ?」
健太は、倉庫の片隅で立ち止まった。
荷物を運ぶ台車。
その前輪が、少し引っかかっていた。
「……何だ、これ」
試しに動かしてみる。
一定の角度になると、車輪の動きが重くなる。
「……故障か?」
健太は、車輪を見つめた。
以前、自分の商会で開発しようとしていた多機能四輪荷車を思い出した。
前輪の方向転換機構。
軸受け。
荷重。
あのとき、ノルンとフィルが何度も説明していた。
自分は、ろくに聞いていなかった。
「……そうか」
健太は呟いた。
今なら、少しだけわかる。
車輪が自由に動くことと、荷物を載せても安全に動くことは違う。
実際に使う環境を考えなければならない。
「……エリックさん!」
健太は声をかけた。
「ん?」
「この台車、ちょっと見てもらえますか?」
エリックが近づいてきた。
そして、車輪を確認した。
「……ああ、これか」
「何か、引っかかるんです」
「本当だな」
エリックは頷いた。
「整備担当に連絡しよう」
「……はい」
健太は台車に使用停止の札を付けた。
そして、整備担当者へ報告した。
しばらくして、担当者が確認に来た。
「……軸受けに摩耗があるな」
担当者が言った。
「このまま使ってたら、故障してたかもしれない」
健太は驚いた。
「……そうなんですか?」
「ああ」
担当者は頷いた。
「早めに見つけてくれて助かったよ」
健太は、少し照れくさくなった。
「……ありがとうございます」
そして、ふと思った。
こういう故障。
もっと早く見つけられないだろうか。
毎日、台車の状態を確認する。
車輪の動き。
異音。
軸受けの状態。
異常があれば、すぐに整備担当へ連絡する。
「……あの」
健太は、エリックへ声をかけた。
「ん?」
「台車の点検項目って、決まってます?」
エリックは少し考えた。
「日常点検はしてるけど、担当者によって確認する場所が違うことはあるな」
「……なるほど」
健太は頷いた。
「だったら、簡単な確認表を作るのはどうでしょう?」
エリックが顔を上げた。
「……確認表?」
「はい」
健太は答えた。
「誰でも同じ場所を確認できるようにするんです」
エリックは少し考えた。
「……悪くないな」
健太は嬉しくなった。
「……本当ですか?」
「ああ」
エリックは笑った。
「ベルクさんに相談してみよう」
「……はい!」
健太は頷いた。
そして、紙を取り出した。
『台車の日常点検項目』
車輪の動き。
異音の有無。
軸受けの状態。
荷台の破損。
固定部品の緩み。
健太は、ひとつずつ書き込んでいった。
今度は、誰かに全部作らせようとは思わなかった。
自分でできるところまで考える。
わからないことは、詳しい人に聞く。
そして、一緒に形にする。
それが、以前とは違うところだった。
* * *
異世界生活、210日目。
「……田中さん」
ベルクが声をかけた。
「はい?」
「例の台車の点検表なんだが」
健太は顔を上げた。
「……はい」
「試験的に導入することになった」
「…………」
健太は固まった。
「……本当ですか?」
「ああ」
ベルクは頷いた。
「整備担当者からも、わかりやすいと評価されてる」
健太は、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと笑った。
「……ありがとうございます!」
ベルクも笑った。
「まだ試験運用だが、良い結果が出れば正式に採用する予定だ」
「……はい!」
健太は深く頭を下げた。
その日の昼休み。
健太は、倉庫の外で空を見上げていた。
異世界の空。
日本と同じように青い空。
だが、その下で暮らす自分は、少し変わった気がした。
「……そういえば」
健太は、小さく呟いた。
この世界に来たとき。
自分は、人生を逆転できると思っていた。
勇者になる。
魔王を倒す。
伝説の魔法を手に入れる。
美しい姫と結婚する。
そして、誰もが自分を称える。
そんな未来を夢見ていた。
だが、現実は違った。
魔法の才能はなかった。
冒険者にもなれなかった。
料理のアイデアでは、料理人に負けた。
技術のアイデアでは、職人たちの実力を思い知らされた。
会社を作れば、経営に失敗した。
大商人に会おうとしても、相手にされなかった。
そして、今。
自分は、倉庫で働いている。
毎日、荷物を運んでいる。
借金を返している。
誰も、自分を特別扱いしてくれない。
「……でも」
健太は、小さく笑った。
「……前より、ちゃんと生きてる気がするな」
以前は、毎日が同じだった。
起きる。
ゲームをする。
食べる。
寝る。
そして、誰かの成功を羨む。
自分は本気を出していないだけ。
いつか、チャンスが来れば成功できる。
そう思い続けていた。
だが、そのチャンスが来ても、何もできなかった。
異世界転生という、人生最大のチャンス。
それでも、自分は失敗した。
なぜなら。
場所が変わっても、自分自身が変わっていなかったからだ。
「……やっと、わかったよ」
健太は呟いた。
そして、少しだけ笑った。
* * *
異世界生活、230日目。
王都職人地区。
「……よお、健太!」
聞き覚えのある声が響いた。
「……ガレスさん!」
健太は笑った。
久しぶりに訪れた鍛冶工房。
そこには、以前と変わらず、熱気と金属を叩く音が溢れていた。
「最近どうだ?」
ガレスが尋ねた。
「……倉庫で働いてます」
「聞いてるぞ」
ガレスは笑った。
「神崎商業グループに入ったんだってな」
「はい」
健太は頷いた。
「まだ、荷物を運ぶ仕事ばっかりですけど」
「それも立派な仕事だろ」
ガレスは笑った。
健太も小さく笑った。
「……そうですね」
そして、工房の奥へ目を向けた。
そこでは、フィルが魔導機械の部品を確認していた。
「……フィル?」
健太は驚いた。
フィルが振り返る。
「あ、田中さん!」
「……ここで働いてるの?」
「はい!」
フィルは笑った。
「ガレスさんの工房で、勉強させてもらっています」
健太は頷いた。
「……そうなんだ」
「まだ見習いですけど」
フィルは少し照れくさそうに笑った。
「いつか、自分で魔導機械を設計できるようになりたいんです」
健太は微笑んだ。
「……頑張って」
「ありがとうございます!」
そして、ガレスが口を開いた。
「そういや、ノルンも元気にやってるぞ」
「……本当ですか?」
「ああ。木工工房で修業してる」
健太は安心した。
「……よかった」
そして、少し迷ったあと、口を開いた。
「……ガレスさん」
「ん?」
「俺、あのとき、ひどい社長でしたよね」
ガレスは少し考えた。
「……まあな」
健太は苦笑した。
「……ですよね」
ガレスは笑った。
「だが、今は違うんじゃねえか?」
健太は顔を上げた。
「……そうですかね」
「ああ」
ガレスは頷いた。
「少なくとも、今のお前さんは、人の話を聞けるようになった」
健太は小さく笑った。
「……ありがとうございます」
そして、工房の中央に置かれた魔導回転機へ目を向けた。
以前、自分が改良案を出した機械だった。
今では、ガレスの手によって、さらに改良が進んでいる。
「……すごいですね」
健太が呟いた。
ガレスは頷いた。
「まだまだ改良できるぞ」
「……そうなんですか?」
「ああ」
ガレスは笑った。
「技術ってのは、完成して終わりじゃねえからな」
健太は、しばらく機械を見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「……ガレスさん」
「ん?」
「また、何か一緒に作ってもいいですか?」
ガレスは顔を上げた。
「……ほう」
「俺、まだ技術のことは全然わからないんですけど」
健太は続けた。
「今度は、ちゃんと勉強したいんです」
ガレスは、しばらく黙っていた。
そして、豪快に笑った。
「……いいじゃねえか!」
健太は驚いた。
「……本当ですか?」
「ああ!」
ガレスは頷いた。
「ただし、まずは薪割りからだな!」
「……ええ!?」
健太は思わず声を上げた。
フィルが笑った。
「僕も最初は薪割りでしたよ!」
健太は、少しだけ苦笑した。
そして、笑った。
「……わかりました」
ガレスは満足そうに頷いた。
「よし!」
そして、薪が積まれた場所を指さした。
「じゃあ、早速頼むぞ!」
「……はい!」
健太は斧を手に取った。
重い。
以前も、同じように感じた。
だが、今は違った。
薪を割る。
工房を手伝う。
技術を学ぶ。
そして、自分にもできることを少しずつ増やしていく。
それが、今の自分に必要なことだと思った。
「……よし」
健太は斧を振り上げた。
乾いた音が、工房に響いた。
* * *
異世界生活、365日目。
異世界に転生してから、ちょうど1年。
健太は、王都の小さな食堂で夕食を取っていた。
机の上には、商業ギルドから受け取った返済記録が置かれている。
借金は、まだ残っている。
だが、確実に減っていた。
神崎商業グループでの勤務も、続いている。
試用期間を終え、継続雇用も認められた。
台車の点検表は、正式に採用された。
そして、倉庫の作業改善について、少しずつ提案するようになっていた。
特別な役職があるわけではない。
高い給料をもらっているわけでもない。
それでも、毎月、自分で稼いだ金で生活している。
借金を返している。
休日には、ガレスの工房で技術を学んでいる。
以前の自分なら、絶対に選ばなかった人生だった。
「……いらっしゃいませ!」
食堂の店員が、新しい客を迎えた。
健太は、温かいスープを飲んだ。
そして、窓の外を眺めた。
王都の街並み。
行き交う人々。
夕日に照らされた建物。
初めてこの世界に来たとき。
すべてが、自分のために用意された舞台のように見えた。
自分は主人公。
周囲の人々は、自分を成功させるための存在。
そう考えていた。
だが、今ならわかる。
この世界には、自分以外にも人生がある。
ガレスには、職人としての誇りがある。
レオンには、商人としての責任がある。
神崎には、大勢の従業員と取引先を支える仕事がある。
九条には、国境を越える事業と家族がある。
ノルンとフィルには、技術者としての夢がある。
セシルには、経理担当者としての仕事と人生がある。
そして、自分にも。
ようやく、自分の人生ができた。
「……そうか」
健太は小さく呟いた。
日本にいた頃。
自分は、誰かが人生を変えてくれるのを待っていた。
両親。
社会。
運。
そして、異世界転生。
何か特別なことが起きれば、自分は成功できる。
そう信じていた。
だが、異世界に来ても、何も変わらなかった。
むしろ、同じ失敗を繰り返した。
そして、初めて気づいた。
変わらなければならなかったのは、世界ではない。
自分自身だったのだ。
「……人生逆転、か」
健太は、少し笑った。
勇者にはなれなかった。
魔王も倒していない。
大商人にもなれなかった。
皇女と結婚することもなかった。
それでも。
今の自分は、以前の自分より、ずっと前へ進んでいる。
誰かの金で生活するのではなく、自分で働いている。
失敗から逃げるのではなく、責任を果たそうとしている。
そして、明日も頑張ろうと思えている。
それだけで、十分だった。
健太は、食事を終えた。
銅貨を支払い、店を出る。
夜の王都には、涼しい風が吹いていた。
「……明日も仕事か」
健太は呟いた。
以前なら、嫌になっていただろう。
毎朝起きて、働く。
誰かの指示を聞く。
失敗すれば注意される。
そんな生活は、負け組の人生だと思っていた。
だが、今は違う。
「……まあ、悪くないな」
健太は笑った。
そして、歩き始めた。
異世界生活、365日目。
田中健太、34歳。
職業、物流センター勤務。
特別な魔法、なし。
伝説の武器、なし。
莫大な財産、なし。
借金、返済中。
そして、明日も仕事。
異世界転生したら、人生逆転できると思っていた。
だが、転生しただけでは、何も変わらなかった。
特別な才能も、奇跡のような幸運も、自分には与えられなかった。
それでも。
毎日働き、少しずつ学び、失敗しても立ち上がる。
その繰り返しで、人生は変えられる。
田中健太は、ようやくそれを知った。
そして、夜の王都を歩きながら、小さく呟いた。
「……さて、明日も頑張るか」
その声は、誰かに聞かせるためのものではなかった。
自分自身に向けた、ごく普通の言葉だった。
けれど、今の健太にとっては、どんな魔法よりも価値のある言葉だった。
――完――
『異世界転生したら人生逆転できると思っていた。』は、今回で完結です。
異世界に転生した健太は、最後まで勇者にも大富豪にもなれませんでした。それでも、自分の失敗を認め、働くことや人と協力することの意味を学びました。
人生が変わるきっかけは、突然訪れるかもしれません。
しかし、そのきっかけを本当の変化につなげられるかどうかは、自分自身にかかっているのだと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




