黒い水(2)
気がつくと、私は独り荒れ地に立っていた。見渡す限りの荒れ地。遠くに神殿のようなものが見えるけれど、それ以外は一面の土。見渡す限り赤茶色の土。土煙が舞い、空は暗い鈍色。
私は神殿の方に向かおうとした。
だが――
いまの私には足がない。
いまの私には身体がない。
いまの私は人ではない。
自分が何であるかを自覚した瞬間、見えているものを理解した。
この風景は人の目には見えない。
XYZの三軸のほかにある軸が認識できなければ。
いまの私は『あちら』の『私』。
人には知ることのできないことを知っている。
そして――
私はここの主を知っている。
私は神殿に向かう。
近づくと、それは思いのほか巨大であった。
ギリシャ建築を思わせる丸い柱が並ぶ。
柱の上には中東の神殿のような建造物が乗っている。
裏側に回ると、そこには黒い水が湛えられた石のプールがあり、石の水路が張り巡らされていた。黒い水はその水路を通って神殿から流れ出している。
黒い水の流れる水路は建物の中――中央の祭壇へと続いている。その祭壇には、十字架にかけられたイエスの像があり、茨の食い込んだ頭から、釘で打たれた手足から、槍で刺された肝臓から、黒い水が流れ出していた。
イエスは神を知り、神に敵対した。この像は、神がイエスを滅ぼしたことを祝う、神の創ったモニュメント。人ではない『私』は人の知り得ないことを知っている。
この建物にはさらに奥がある。
そこには玉座があり、熊頭の神が居る。
熊頭の神には私が見えない。
熊頭の神はヤウェ。
蛇とライオンの外貌を持つヤルダバオートの息子。
ヤルダバオートは病んだソフィアが生み出した神。
そのヤルダバオートには高次を見る力がない。
だから母であるソフィアさえも見えなかった。
それ故、あれは唯一神を名乗った。
あるとき、ヤルダバオートからヤウェが生まれた。
だが、やはりヤウェにはヤルダバオートが見えない。
父親と同じように、ヤウェも唯一神を名乗ることになる。
彼らには、XYZ以外の軸を一つ二つ見ることができる。
しかし、遠くまで見通す能力はない。
ある程度座標がずれると見えなくなる。
その程度の存在。
さらにその上の神々のおわす軸など想像することさえできない。
ここはかつてヤルダバオートの創った泡。
いつの頃からか、『私』の泡につながっている。
私たちのことが見えない彼らは、唯一神として暴君のように振る舞う。
母ソフィアはヤルダバオートに光を与え、あとになって取り戻そうとした。
そして、実際、多くを取り戻した。
結局、これは光の取り合いなのだ。
いま、ヤルダバオートに代わり、ヤウェが取り戻された光を再度闇の中に取り込もうとしている。
だが、『私』は見ている。
見ている。
見ている。
見ている。
『その光は聞くこととロゴスに満ちた思考であった。それらは一つに結ばれていた。反対に、闇は風であり、暗黒の水の中に在ってヌースを持っていたが、ヌースは混沌とした光に包まれていた。光と闇の間にある霊は静かな控えめな光であった。これらが三つの根源である。
それらは互いに干渉し合わず、それぞれ自分自身を支配していた。そして、それぞれの力をもって互いに覆い合っていた。しかし、光は大きな力を持っていたので、闇が卑小で無秩序であること、すなわち、その根が真っ直ぐではないことに気がついた。闇のねじれとは無知な思い上がり、すなわち自分の上には誰もいないと思い込んだことである。』
シェームの釈義 §3