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七話 天正三年七月四日 長治帰城と史実の未来

本願寺の名称についてですがWEB小説などを見ると石山本願寺の名称が多く使われますが、戦国時代の当時は「大坂本願寺」と呼ばれていました。

街道の日本史33 大坂 摂津・河内・和泉 今井修平 林田路人(編)

の中に記載されていたもので、吉井克信「戦国・中近世移行期における大坂本願寺の呼称」「ヒストリア」(一五三号)が出典となっています。

 朝起きてガラス瓶に入れたアワビとサザエの貝殻を取り出すと、少し表面が輝いていたので貝殻を水で洗い流し(やすり)で少し表面を磨いていくと真珠層が現れ、虹色に反射して輝いていた。

 (思ったよりも良い感じで、漬ける時間が長かったのか孔があいている場所もあるけど成功だな)


 塩素系洗剤にアワビやサザエのような真珠層を持つ貝殻を塩素系洗剤に入れると、貝殻の主成分のカルシウムが溶けて少し磨くと真珠層の表面が出てきれいな輝きが出ることをSNSでバズっていたので知っていた。

 なぜこんな事をしているかというと椎茸などの金策は結果が出るまでに1年以上の時間がかかるため、最短でこの時代に簡単に真似されない事を考えた結果が貝殻を塩素による漂白であった。


 次は昨日煮沸して冷ましておいた瓶に椎茸の菌糸を入れて瓶は押入れの暗所に入れて保管しておく。うまく菌糸が培養できれば、容器は壺や(かめ)などの容器でもいいので町に行ったとき買ってこようと思う。

 (培養がうまくいけば、ほだ木はナラ類・カシ・クヌギだけど木の種類は専門職の木こりに任せるとして、太さが10cmぐらいで長さが90cmぐらいだから尺貫法だと、太さが3寸に長さが3尺だったなメモっておこう。)

 日常的に使わない尺貫法は頭の中でいちいち計算しないと変換できないので、紙に記入しておくことにする。


 (あと準備できそうなのは蘭引ぐらいか。粘土で作るとしてこのあたりだと明石で瓦を作っていたから明石に行けばいいんだろうけど、暑い中歩いて明石まで行くのは辛いからまた今度だな。明石の粘土でダメなら平木で蝋石から作ればいいだけだしな)

 蘭引とは江戸時代にポルトガルから伝来した陶器で作られた蒸留装置で、焼酎などの蒸留酒を作ったり花などの精油に使われた物だった。


 播磨国では古くは須恵器と呼ばれる陶器が多く作られていたが時間が経つと脆くなるという欠点から、鎌倉時代末ごろになると現代で日本六古窯(にほんろっこよう)と呼ばれる備前焼・越前焼・瀬戸焼・常滑焼・設樂焼・丹波焼の焼き物に市場を奪われていき室町時代には生産されなくなっていた。

 16世紀に大和国の瓦大工橘朝臣国次の一族が播磨に移住して別所家の仕事や播磨国の寺の瓦などの仕事を引き受けていた。

 (蒸留装置は焼酎を作る以外にも必要として、燃料は節約するなら石炭も必要だな。この辺りだと摂津の妙法寺周辺か、淡路の倭文あたりだったはず。石炭は亜炭でも製塩の燃料として使えるから、森のないこの地域だと薪なんかの燃料にも苦労するから急がないとな。摂津はこの時代は荒木村重が一職支配者だったから、商人か誰かに頼んで炭鉱掘る許可か掘ってもらわないとな)

 信長は足利義昭を京から追補すると大坂本願寺などを除いた摂津の国人衆や地侍に対する軍事指揮権である一職支配者としての立場を与えていた。


 まだ時間も経っておらず午前中だが家でできることは特にないが、夏の暑い日に外に出る性格でもないので部屋の冷房を聞かせて本や論文などの必要な知識を紙に写していく。

 (たまに海に行って魚と貝殻を確保しつつ城からの連絡待ちかな、今後の予定として涼しくなったら井戸掘って西側から入植を進めていかないとな東側は地下水の水位が低いからたしか入植がかなり遅かったから)

 大輔は、城からの連絡が来るまで数日だらけた日々を過ごしていく。



 播磨国美嚢郡三木城に馬に乗る武士たちが入城していく、先日織田信長との初対面を終えて帰ってきた別所長治を含めた一行であった。

 長治は旅の疲れもあったが装束を変えると城に勤める主だった侍達を集め評定を開き上座に座ると、下座に座る者達に向かい。

 「此度は尾張守様と初めて会い、今後別所家中は尾張守様に忠節を誓うと申してきた。我らが憎き敵である浦上宗景が宇喜田直家に攻められ、もう持たぬという話だ。摂津一職支配者の荒木信濃守殿が浦上の後詰であったが本願寺の動きもあり動かなかったことで、三村を滅ぼした毛利が支援を行っていることもあって信濃守殿が動くと大きな戦となる可能性もあって尾張守様が動かぬように言いつけておるのも知れぬがな」

 「我ら別所家中は東播磨を固め、毛利との戦に備え尾張守様に臣従しておらぬ置塩赤松・佐用赤松・龍野赤松・英賀の三木を尾張守様の元に連れて来るように言われておる。三木(英賀)と佐用赤松の家老宇野は一向宗に心酔しておるという話で英賀と佐用が本願寺に呼応すると置塩と龍野も敵方になる可能性がある。まずは文を出すゆえそらからとなろう」

 長治は別所吉親の方向に顔を向け「よいな山城守よ、別所家は尾張様につく」と言うと。


 「それが良いですな、我ら家中一丸となって尾張様に尽くしましょう」

 まさかの発言に表情に参加した者達からざわめきが生じる。この時皆が思ったことは成り上がりの織田信長という男に家中で一番嫌っていた吉親が、まさか織田信長に付くと言って心の変化に全員が動揺していた。

 「おっ、おっ叔父上、本当によいのだな?」まさか吉親の口から信長に付くという言葉が出ると思っていなかった長治は動揺していた。


 「政を蔑ろにして大恩ある尾張守様に弓引き、六角・武田・朝倉・三好・浅井・荻野(赤井)・本願寺に向けさせ戦を作り出す公方を儂は認めぬ。それに先の長篠の戦では尾張様の軍勢が多くの火縄を用いて武田を屠っておる。武田が受けた傷はは数年で回復できぬという話だ」


 「まさか5日ほどしか経っておらぬのに戦の内容を知っているとは、さすがは山城守殿だ」「さすがは山城守殿だ、よくぞ言ってくれた」と評定に参加した者達が声を上げていきヒートアップしていくと、「少しは落ち着かんか、大殿(うるさ)くして申し訳ありませぬ」

 「儂の代わりに、主水正(もんどのかみ)(別所重宗)すまぬな。では我ら別所家は毛利との戦に向け各々(おのおの)準備を怠らぬように」





 評定の後、長治・吉親・重宗・三宅治忠・淡河定範が別の部屋に集まり話し合っていた。

 三宅忠治は家老の一人で、淡河定範の妻は長治の父長勝の妹を娶り別所家中の政務を取り仕切っていた。

 「叔父上よどういった心境の変化があったのだ。先日儂が織田様に会いに行くと言ったときはあれほど反対しておったのに、数日帰ってこぬだけで全く違う意見を言っておるではないか。狐にでも憑かれたか」

 「長治の申す通りよ兄上、なんぞ悪い物でも食うて腹でも壊したか」


 今日帰って来たばかりの二人からの問いに吉親が口を開こうとすると、定範が「ここは儂に言わせてくれ」と言って遮る。

 「先日たしか月初めの一日のことだったか、城に見慣れぬ建物があると報告があってな。儂と三宅殿含めて手が空いている者おらぬので吉親殿が向かわれたのよ。その時から何か変わった感じがしていたの」


 「おぬし達にも黙っていたのは悪かったのだが、一日のことだが報告を受けて行ってみると初めて見る建物でな、その建物の主とも会うたのだが六尺(181.8cm)ほどの大きな男が住んでおってなこの世とは思えぬ物をいくつも持っておった。その者が言うには400年ほどの先の播磨から来たとその者が言うたのよ」


 「叔父上よ、やはり憑かれておるのではない?」人の話を遮るでないと長治を注意して、吉親は話を続ける。

 「この先の話をその男から聞いたのよ、織田と本願寺が再び戦い毛利は織田と戦うことになり上杉(上杉謙信)や武田も織田を囲むのだが、上杉は天正五年の末に亡くなり越後では家督争いで織田との戦ところではなくなり、武田は浅間山という大きな山があるそうなんじゃがこれが天正十年に噴火すると武田は戦もできずに亡びてしまうそうじゃ」

 「それは東国の話であろう、我ら別所家や毛利はどうなるのじゃ叔父上」

 「少し待て、丹波守護代家の内藤と国人の宇津がおるであろう、船井と桑田二郡の支配権が細川(藤孝)に与えられておったのだが内藤と宇津が従ぬということで明智(光秀)に討伐の命令が出ていることは知っているか?明智が丹波に入ると丹波の生野に攻め込んでおる荻野(赤井)が敵に回ってな明智が荻野の籠る黒井城を攻めて囲んだのじゃが明智に従って兵を出していた波多野殿が年が明けると、明智の後ろを突くいて明智勢は崩れて丹波から逃げ帰るそうじゃ」


 「それは真ですか叔父上!」

 「落ち着け長治、兄上の申すことは先の話で本当のことはわからぬ。そうだな兄上」

 波多野が明智の敵になると聞くと長治は動揺し、吉親に問う。長治の妻照子は波多野秀治の妹で義兄上が織田と敵対することに驚いていた。

 「それで織田は丹波攻めを一旦諦めるのじゃが、大坂本願寺に籠る一向宗どもに毛利が兵糧を入れようと船団を組んで織田と毛利が海で戦うのじゃが織田は敗れ大坂に兵糧が入れられ本願寺も一息つくのじゃ。そうなると織田は陸から西に進もうと羽柴を総大将にして我ら播磨衆に摂津州を率いて向かうのじゃ」

 吉親が口ごもり始め、続きが気になる長治が「早く話してくだされ」とせかすと。


 「本当は言いたくないのじゃが、加古川城で評定を行うのだが儂と羽柴が仲違いして儂が長治を説得して別所家は毛利に付くことに変わってな、その後、荒木も我らに同調して毛利に付くのじゃが丹波・摂津・播磨と毛利に付いた全ての勢力は滅ぼされてしまうのじゃ」

 「叔父上が話を聞いた男が法螺を吹いておるだけではないのか」

 「儂も始め聞いた時はそう思ったのじゃが、先ほども言ったがあの男が持つものはこの世の物とは思えぬばかりででお主らも男の屋敷に行けばわかる」


 「男が言うには先のことは変化するから男の言ったとおりの事が本当に起こるかどうかはわからぬという話じゃが、数日先は起こる可能性はあるという話じゃ。昨日の七月四日に織田家の者から何人か任官されるはずじゃ」

 松井友閑が宮内卿法印、武井夕庵が二位法印、明智光秀が惟任の姓と日向守、梁田広正が別喜右近、丹羽長秀が惟住の姓に任官や賜姓(しせい)されたことを伝える。


 「その男の話が本当かどうかはわからなぬが、男の伝えた話が本当か確認してから行動したほうがいいじゃろ」

 「わかった。男の話が本当であれば男に会うとして、名は何というのじゃ?」

 「佐藤大輔という名じゃ、見たのはあの男だけで他の者は見ておらぬので家族や嫁はおらぬはずじゃ。年は30手前といったところかの」

 「佐藤の話が本当か確かめるために、何人か京に送って確認が取れれば佐藤に会うとするか。どのような男が今から合うのが楽しみじゃな」


 「あまり期待せぬほうがいいぞ、酒と書物を読むことが好きなようじゃが。戦のない世から来たとかで喧嘩などはしたことはあるそうじゃが、初陣の経験などはないそうじゃ」


七月三日の任官に関しては公家の日記から他に、村井貞勝が長門守、塙直正が原田備中守、羽柴秀吉が筑前守が確実とあり、不確かなものが滝川一益で伊予守で任官したのはほぼ間違いないようですが畿内周辺では伊予守を使いますが、東国など京より離れると以前から使っていた左近や左近将監を使います。

柴田の修理亮と佐久間の右衛門尉はこの時より前から貰っている可能性が高いと、谷口克広の信長の司令官にあります。




荒木村重が摂津守を名乗るようになるのは文書では天正三年九月二十五日付となっているので、この時点では信濃守としています。

八月の越前攻めに荒木も信長公記に名前がありますが、このとき荒木は畿内から動いていないので信長公記の誤りとされています。

天正三年九月に播磨奥郡に行き播磨国衆の人質を徴発することを命じられる信長公記にはあり、米田氏文書・細川家文書には村重が小寺政職らの人質を徴し、浦上宗景の居城天神山城に兵糧を入れ、十月上旬に帰順とあります。

天神山城落城は備前軍記などで天正五年とありますが、岸田裕之氏の研究によって天正三年九月と確定しています。


中世播磨の陶器の資料とかを調べたときに、近隣の備前はわかりますが離れた尾張の常滑が多くあったりするので、常滑焼の影響力と織田の力の源だったというのも調べると初めて知ることが多かったりします。

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