虚数
【虚数】
――虚数を使おう。
部屋に戻ったレオンハルトは、さっそくペンを走らせていた。しかしそれは計算ではなくこれからの算段をまとめるためであった。
虚数はその昔、ある数学者が定義した存在しない数字で、
i=√(-1)
と定義される。しかし、あまりにも実用性のない数字だということで、これまで学会では否定的に考えられてきた。王都の大学にいたときも、さらりと紹介されただけで講義でも特に深くは取り扱われなかった。研究者も少なく、学生からも不人気の分野だったわけだが、今のレオンハルトにとってはまさに天からの助けだった。
以前教会の教えでは、双子というのは忌み嫌われる存在だった。現在はそうでもないが、やはり今でも双子だという理由で差別するものは多い。それ故か、教会の“人間は1から9の数字を生まれつき持ち合わせ、無意識に他人と足して10になることをのぞんでいる”という啓示に基づく数字は双子には割り振られていないと、レオンハルトは推測した。
――双子を虚数と虚数の対で、掛け合わせれば-1だと証明することができれば…… 5+6-1で10になる。
しかし、ここまで考えてレオンハルトには分かっていた。要するにこじ付けに過ぎないのだ。そもそも教会がそう定義したわけでもないし、“他人と足して10になることをのぞんでいる”とあるのに双子の場合だけ乗算になるというのは、理論としては脆弱だった。
――でも、やるしかない。
何としてもカタリーナと結ばれるために、レオンハルトにはこれを教会の教えだということにしなくてはならなかった。
――そのためには、やっぱりあいつを利用するしかないか。
次の日の昼下がり、レオンハルトは男爵とヨハンを誘い庭先で紅茶を飲んでいた。
「しかし珍しいな、君がお茶に誘うだなんて」
「偶には外にでないと頭が凝り固まってしまいますので。そこで旦那様やヨハン殿とゆっくり語らいたいなと思いまして。ご迷惑だったでしょうか?」
「いやいや、滅相もない。王国一の大学を出た君からのお誘いを受けれるとは、光栄だよ」
ご機嫌に笑う男爵を他所に、心の中でヨハンはレオンハルトの態度に訝しんでいた。
(何を企んでいる。君は自分から他人を茶に誘うような人間ではないだろう? それもよりによってなぜ、私を呼んだのか……)
ヨハンはそうは思いつつも、三人は他愛もない話を繰り広げる。だが依然としてヨハンの心には物言えぬ心地悪さがあった。
日も傾き始め、そろそろお開きかという時になりレオンハルトはふと思いついたかのように二人に尋ねた。
「そういえば、“人間は1から9の数字を生まれつき持ち合わせ、無意識に他人と足して10になることをのぞんでいる”と言いますが、双子の数字とはどのように定義されているのでしょう?」
「どうしたのですか急に。君がこのようなことを話題に出すだなんて珍しい」
必ず何かしらの意図がある。そう、ヨハンは思った。
すると男爵はニヤニヤしながらレオンに言う。
「もしやレオンハルト君。うちのメイドを嫁に欲しいのかな?」
(いや、それはない)
レオンハルトがカタリーナに想いを寄せているのは、確実と言ってもいいほどにヨハンは確信していた。
「いえいえ、ただ疑問に思っただけなのです。数学者としての、好奇心というものですよ」
笑いながらそう言うレオンハルトに、ヨハンはどうしてもわざとらしさを感じられずにはいられなかった。何かを誤魔化しているようで。
「まぁ、嘘かホントかはいずれわかるとして。どうなのかね、ヨハン君。神学者としての君の意見を聞きたい」
レオンハルトの発言に、何かしら裏があると思いあまり気乗りはしない。しかし自分の方を向いて尋ねてくる男爵に対して、ヨハンは答えざるを得なかった。
「そうですね、現在教会において双子に数字は定められていませんね」
(用心のためにも、あまり下手なことは言えませんね)
「元来、男性は一度に一人の子供の父親にしかなれないため、双子のうち一人は妻の不貞による結果か、精霊の仕業と恐れられていましたから。そのことから双子に関する事柄について言及していることは少ないです」
「それでは、双子に数字は存在しないということなのですね?」
ごく自然に聞き返してくるレオンハルト。その素振りからは何も感じられない。
「いえ、私はそれを断定することはできません。実際には存在し、それを教会が定義していないもしくは定義できていないだけかもしれない」
(とにかく、この男の言うことを肯定してはいけない。おそらく、いや、絶対に。私の事を好いているはずもないのに、私を茶に誘いあまつさえこのようなことを話題に挙げるなど。必ず何か考えがあるはずだ)
「……なるほど。いやはや、聡明な神学者であるヨハン殿にも分からないことがあるのですね」
自然に振る舞ってはいるものの、明らかに自分の事を煽るような物言いに気が高ぶってしまうヨハン。
(いや、これはきっと私を苛立たせ情報を引き出そうとしているのだ。つまり、この選択は正しいということ)
「ええ、私自身まだまだ修行の身でありますからね」
それだけ言い、席を立つヨハン。
(挑発に乗ってはいけない。変な事を言ってしまわないうちに、さっさと席を外そう)
「それではそろそろ、私は失礼いたします。やらなくてはならないことが山積みですので」
足早に歩いていくその後ろ姿を見て、レオンハルトは微かに笑みを浮かべるのであった。
ヨハンに双子の数字は存在していないということ。そしてそれを自分とヨハン以外の第三者の前で言わせること。この二つが双子を虚数だとこじつけるために必要な要素だった。ヨハンにこじつけだと言われようと、そもそも教会において定義されていない事柄である。ようするに何かしらの論理性を成り立たせてしまえば、今の状況であれば男爵もきっと自分の理論を後押ししてカタリーナとの結婚を認めてくれる。そう考えての行動であった。
――後はどういう風にこのことを伝えるかということだけだな。
二年という長い年月を経て、ようやくレオンハルトの夢が成就しつつあった。