proof
【proof】
王都から遠く離れた辺境の街に爵位は男爵、名をアドルフ・フォン・グゼルという貴族がいた。彼は最愛の愛娘カタリーナと何人かの使用人と共に街外れの小高い丘にある屋敷に住んでいる。
グゼル男爵は非常に博識な男で、自分の研究を行う傍ら、屋敷には神学者や数学者を客人として家に招き研究のための支援を行っているのであった。
「はぁ……」
そしてその屋敷の一室。男爵に客人として招かれ早二年。深いため息を吐きつつもある野望に燃え、今も机に向かい数式を弄っている男がいる。
名をレオンハルトと言う。王都の大学で学問を習うも成績が振るわず中退し、男爵の噂を聞いて食扶持を得るためにここにやって来たのであった。もちろん、中退したなどと言ったら客人として招かれないことは百も承知であった。そのためレオンハルトは偽の卒業証書を用意し、屋敷を訪れた。
そしてレオンハルトはこの時、恋をした。
絹のような金髪に宝石のように煌めく双眸。13という幼い歳ながらもドレスの布地をこれでもかと言わんばかりに突っ張らせる胸。お淑やかに振る舞いながらも時折見せる純粋無垢な笑顔。それまで生意気な町娘やスレた娼婦としか遊んだことがなかったレオンハルトにとって、グゼル男爵の娘カタリーナはまさに天使のような存在であった。レオンハルトの言う嘘八百の武勇伝や、本当なのかも分からない怪しい知識を真剣な眼差しでカタリーナが聞く。そのような奇妙な関係が二人の中にできつつあった。
「レオンハルト様、今少しよろしいですか?」
夜。時計の短針は10を指している時間。ドアのノックされる音と共にドア越しに聞こえてきたカタリーナの声。
「少し待って! 今開けます」
ベッドから跳ね起き、姿見で髪型と服装を急いで整えドアを開けるレオンハルト。そこにはネグリジェ姿のカタリーナが胸に手を当てて立っていた。上から羽織物をしてはいるものの、純朴な少女のその妖艶な姿に、レオンハルトは目のやり場に困る。
「そ、それでどうなされたのですか? こんな遅くに」
チラリと視線をカタリーナに戻すと、彼女は俯き、何やらもじもじとしていた。
「すみません。ただ、ちょっと星がきれいで。それで、よろしければレオンハルト様もご一緒にどうかなって」
こちらを窺うように少しだけ目線を上げる。レオンハルトにとって、彼女と親しくなる絶好の機会である上に、このような仕草を見て断れるはずもなかった。
「ええ、私で良ければ喜んでお供いたしましょう」
二階の廊下を歩き、突き当りから屋敷の屋上へ上る。屋上に通じるドアを開けた瞬間、心地よい夜風と共に二人の前には満天の星空が飛び込んできた。
「まぁ、素敵!」
トタトタと駆け出すカタリーナを、後ろからゆっくりと付いていく。無邪気な幼子のようにはしゃぎ、くるっと回るとネグリジェの裾がふわりと浮きあがる。
普段の貴族としてのお淑やかな振る舞いからは想像もできないほどのはしゃぎ様に、思わず顔が綻ぶ。カタリーナも貴族である前に、13歳の女の子なのだ。
そんな姿を見守っていると、すっかり興奮気味の様相で、
「レオンハルト様、早くこちらにいらして! すごく綺麗でしてよ!」
いつもの気品に溢れた様子はどこ吹く風というように、レオンハルトを呼ぶのであった。
カタリーナの横に並ぶレオンハルト。そこからは澄み切った空に輝く星々と、眼下に広がる街の明かりが見えた。
「綺麗ですね」
「えぇ。なんだか幸せな気分」
ぽつりと呟くカタリーナ。自分と一緒にいる今この時を、そのように言ってくれることに、レオンハルトは堪らない嬉しさを感じる。
「カタリーナ様、その……よろしければ私の事は、レオンとお呼びください。そ、その方が呼びやすいですし」
きょとんとした表情で、レオンハルトを見つめるカタリーナ。その眼は大きく見開かれている。
嬉しさの余り自分の中で盛り上がってしまい、つい言ってしまったことを後悔する。変に思われてしまっただろうかと、今更考えてもしょうがないことをもんもんと思考する。
彼にとっては莫大な時間のように思われた数秒が経ち、カタリーナは耳まで真っ赤になりながら小さく、
「……レ、レオン様」
と呟くのだった。
思わず、小さく拳を握る。ただ同時に、無性にどうしようもない気持ちになってしまう。この自分の中に膨らんだ、やり場のないモノをどう扱ってよいのか分からなくなる。
「少し、冷えてきましたね。もう中に戻りましょうか」
このまま彼女と一緒にいてはどうにかなってしまいそうな気がして、レオンハルトはカタリーナに中に入るように提案する。
「……いえ、もう少しだけ。もう少しだけこうしていたいのです」
そう言って、ほんの少しではあるが肩の当たる位置まで近づいてきたカタリーナ。突然のことに、ビクッと体を震わせてしまう。布越しに伝わる彼女の体温に、どぎまぎする。
「で、では私の上着を着てください。お体に障ります」
そう言って彼女に自分の上着を掛けてやる。彼女はそれでギュッと自分の体を包み込んだ。
その日の夜、レオンハルトが興奮のあまり寝付けなかったのは言うまでもない。
こういった細やかな幸せを積み重ねた時間が過ぎ、一日一日が短く感じられ、時間は速度を持って流れていった。
何とか男爵とカタリーナに気に入られようと努力し、特にカタリーナとは毎日親しく話す仲にまで進展した。
屋敷を訪れて半年が経った頃。屋敷の庭をカタリーナと二人で散歩していた時だった。
二人の仲は最早食客と主人の関係に収まるものではなくなっていた。お互いがお互いのことを好いているのではと、微かにではあるが確信めいたものがレオンハルトの中にはあった。
――今こそ、想いを伝える時ではなかろうか……。
庭園に咲き誇るガーベラの花たちを、屈み込んで愛でているカタリーナ。その横顔を見ていると、緊張というよりも不思議なことに幸福を感じられるのであった。この後の展開を考えても不安は全くなく、幸せな日々がこれから始まるという風に思えた。
「カタリーナ。少し話したいことがあるんだ」
カタリーナは立ち上がり、こちらを振り返る。自分がこれから言うことが予想できているようで、少し緊張しているようだった。
「はい、レオン様」
しかしその眼は真っ直ぐにレオンハルトを見据え、頬は微かに赤らみ、カタリーナは微笑んでいた。胸の前で軽く手を握り、次の言葉を待つ。
「好きだ」
これまでも女性に告白をすることは何度もあった。
「私に、君を幸せにさせて欲しい」
しかし、これほどまでに幸福を感じたことはなかった。
――さすがにいざ言うとなると緊張したな。
カタリーナは両手で口を覆い、目線を少しだけ下に逸らした。
「……はい。私もレオン様のこと、ずっと前からお慕い申し上げておりました」
恥らいながらも、しかしはっきりとカタリーナは言った。
良い返事に安堵する。そしてカタリーナと結ばれることにおいて重要なもう一つの条件を思い出す。
教会の御触れ。
“人間は1から9の数字を生まれつき持ち合わせ、無意識に他人と足して10になることをのぞんでいる。”
「そうだ、カタリーナ。君の数字は何だい?」
これから始まる生活を夢見て、レオンハルトは普段にないくらい浮かれていた。
「私は5だ」
それ故か、カタリーナの表情が凍りついたことに気が付かなかった。
「どうしたんだい? 黙ってしまって」
いや、うっすらと、もしかしたらと思いはしたかもしれない。
「なに、10に足らないというなら妾を貰えばいい。あ、でも心配はしないで欲しい。もちろん、私が愛しているのは君だけだよ、カタリーナ――」
しかし、そんな事実を認めるわけにはいかなかった。認めたく、なかった。
「……6」
震えながら、彼女は言葉をこぼした。みるみるうちにその目には大粒の涙が溢れ、頬を伝い流れ落ちていく。
非常な現実に、絶望、愕然とする。
「……」
6以下の数字、例えば4などであれば1の女を妾にしてしまえば良いと軽く考えていた。カタリーナの数字が1,2,3,4,5の内どれかであれば良かった。5/9という最大値の確率が外れてしまい、レオンハルトは教会の言う神とやらを呪った。
敬虔な信徒である男爵はきっと、足して10にならない二人の婚約を認めてはくれないだろう。そこでレオンハルトは考えた。中退という結果に終わってしまったけれども、曲がりなりにも大学で学問を学んだ身である。これまで自分が学んできた数学の知識を使って、何とか5+6を10にしようと決心した。
それからというもの、食事の時以外はずっと部屋に籠り数字を弄っているのであった。しかし5+6を10にするなどできるはずもなく、それから一年という月日が流れた。
「……もうこんな時間か」
部屋にある振り子時計を見ると、もうじき夕食の時間であった。レオンハルトは鉛筆を机に置くとぐっと背伸びをした。思わず声が漏れる。
鏡で服装を整え部屋を出ると、向かいの部屋からも一人の男がちょうど出てきたところだった。
「やぁ、レオンハルト君。数字の研究は捗っていますか?」
皮肉めいた口調でレオンハルトにこう尋ねるこの男は、男爵が招いている客人の一人で名をヨハンと言った。神学者であり、レオンハルトと同じ王都にある大学に籍を置いていた。レオンハルトと違い大学を卒業して、今は生まれ故郷が近いこの地で神学の研究をしている。
レオンハルトは宗教家の科学を侮蔑する態度や、神の威を借りて人を支配しようとするくせ、偽善を説く姿が気に喰わなかった。
「君も敬虔な信徒であるならば、もっと世の人の為ひいては神の為役に立つことをしてはどうだね。そんなに一生懸命数字を扱っていったい何になるというのだ」
「私にはヨハン殿と違って数字を扱うことにしか能がないので、これぐらいしか我らが父に貢献できることはないのですよ」
愛想笑いを見せるレオンハルトに、ヨハンは面白くなさそうな顔をする。
(まったく気に喰わない奴だよ、君は)
特に会話をすることもなく、若干の険悪ムードの中二人は食堂へ向かう。
重厚な扉を開けると、中にはすでにグゼル男爵とカタリーナが食事の席に付いており双子のメイド姉妹がちょうど長テーブルに食事を並べているところだった。
男爵とカタリーナに挨拶をし、二人は席に着く。上座に男爵が座りその右隣にカタリーナそして下座側が客人たちの席であった。レオンハルトとヨハンが向かい合って座る。視界の左端にカタリーナの視線を感じたレオンハルトは横目に見やる。すると、カタリーナは小さく微笑んだ。レオンハルトも、男爵や目の前のヨハンに気付かれないように笑顔でそれに応える。グゼル男爵はともかく、ヨハンに気付かれると面倒なのだ。
「フラウ・カタリーナ。少し髪型をお変えになられましたか? 非常にお似合いですよ」
大仰な口調でカタリーナを褒めるヨハン。本人はさり気なく言っているつもりなのだろうが、カタリーナに気があるであろうことはレオンハルトには容易に気が付いていた。だからなるべく、ヨハンを刺激しないようにレオンハルトは努めていた。ムキになられてちょっかいを掛けられるのが嫌なのだ。
「そうなのですよ。お褒め頂いて嬉しいですわ」
ヨハンと嬉しそうに話すカタリーナ。レオンハルトにはカタリーナが他の男と、それも自分がこの世で一番気に喰わない男と楽しそうに会話することが我慢ならなかった。
そこで二人の会話に入ろうと口を開らきかけたとき、食堂の扉が開かれる。そこにはこの屋敷に招かれている女性物理学者、ザロメ・アビガイルの姿があった。とある事情があって、男爵の研究の雑務を任されている。
「申し訳ありません。少しうたた寝をしていたもので」
ボサボサの頭に、羽織ものは一つボタンを掛け間違っている。女の身だしなみとしてはあまりにもみっともないその姿に男爵は頭を抱えた。そんな男爵の気持ちもつゆ知らず、ちょこちょこと走りながらレオンハルトの隣の席に座ろうとする。傍に控えていた老執事が椅子を引くと小さくお辞儀をして席に着いた。その際に老執事が耳元で何やら小さく囁くと、ザロメは顔を真っ赤にして掛け間違っていたボタンを直した。
「……さて、皆そろったところで食事としよう」
グゼル男爵のその言葉で、一同神への祈りをささげる。祈りが終わったところで、各々食事に手を付け始めた。
「ところでレオンハルト君、研究の方はどうだね。進んでいるかい?」
スープに手を付けつつ、自然とカタリーナと話すにはどうしたら良いだろうかと話のネタを考えていたレオンハルトに男爵が尋ねる。
「ええ。まぁそれなりに、と言ったところです。中々難しいものでして」
「ほう。王都の大学を出た君を悩ませるとはいったいどんなものなのか非常に興味深いな。是非話を聞かせてくれないか」
まさかカタリーナと結婚する為に5+6を10にする計算をしているなどと言えるはずもない。
内心焦るレオンハルト。そこでカタリーナが口を開く。
「お父様。数学のお話をお二人がしてしまっては他の方々が退屈してしまいますわ。もっと楽しいお話をしましょ」
「ははは、それもそうだな」
愉快そうに笑う男爵。カタリーナの方を見ると、彼女はレオンハルトに向かってウィンクをした。
カタリーナのウィンクにドキッとする反面、男爵やヨハン他の使用人たちに今のことを見られていなかったか心配になり、さり気なく周りを見渡す。とりあえず誰も気づいてはいない様子で、レオンハルトは胸を撫で下ろした。
「しかし、そんなに一日中部屋にいては体を悪くするぞ。どうだね、今度私と剣技の試合をしては。これでも若い頃は中々の腕だったのだよ。大学の剣技大会で優勝した君の腕前を拝見したいものだな」
もちろん、レオンハルトは大学の剣技大会など一度も出たことなどない。カタリーナに聞かせた出鱈目な武勇伝の一つであった。
「あはは、しかししばらく一年の時に出場して以来ですからね。それからはずっと学問に勤しんでいたもので。もう体が動かないかもしれません。それに旦那様と剣を交えるなど恐れ多いです」
「そんな気を使うことなどないのだよ。カタリーナもレオンハルト君の剣捌きを見てみたいだろ?」
「ええ、是非一度お目にかかりたいですわ」
目をキラキラと輝かせ、尊敬の眼差しで見てくるカタリーナにレオンハルトは良心が痛んだ。
「では機会があれば、その時は。お手柔らかにお願いします」
レオンハルトには、もはやこう言うしかなかった。
「いやはや、若いころの血が騒ぐ。昔の感を思い出すために、じいに稽古を付けてもらわなくてわな。可愛い娘の前で負けるわけにはいかん」
「お言葉ですが旦那様。老いぼれが相手では稽古になりますまい」
高笑いする老執事とグゼル男爵。レオンハルトは早く食事を終わらせて部屋に戻りたい一心であった。
食事も早々に済ませ、引き止める男爵に研究がいいところだと嘘を吐き食堂を後にする。今はいち早くあの場を離れたかった。
ちょうど階段を上ろうとしたとき、メイド姉妹がベッドメイキングを終え降りてくるところだった。
――双子か。
ぺこりと頭を下げ、道を譲る双子に片手を上げ横を通り過ぎようとしたとき、ある考えがレオンハルトの頭を過った。
階段の途中で歩みを止め、後ろ振り返る。そこには自分達が何かしただろうかと怯える双子の姿が。
「あ、あの申し訳ございません。何か私達失礼を――」
「いや、違うんだ。ちょっと思い付いてね。お前たち、数字は何と何だい?」
レオンハルトがそう尋ねると、双子は一瞬驚いた表情になり次第に二人とも顔を赤らめ始めた。レオンハルトの問いに、姉の方が答える。
「え、えっとレオンハルト様。私たち双子には数字は無いのです」
この時代において、異性に数字を尋ねるというのは愛の告白に等しい行為であった。
「そっか。わかった」
それを意識することなく尋ね、それだけ言うと、レオンハルトは再び階段を上り始めた。不思議そうな顔をする二人をしり目に。