夏威夷潛艇
「はい、今は寝ています。いつも通りのタイミングで迎えに来ても大丈夫だと思います」
世海のマネージャー陳宇翔の安心した声が、電話の向こうから海帆の耳に届く。
世海が泊まっている部屋のリビングソファに座り、ひとしきり宇翔と話しをした後、通話を切った海帆はふうと息を吐いた。
寝室では、世海がぐっすりと眠っている。
海帆を部屋に招き入れた世海は、そのまますぐに寝室へ向かい、ほどなく健やかな寝息を立てて眠りはじめた。
世海は寝つきのいい方ではない。こんなにすぐに眠り込むということは、相当疲れていたのだろう。ただでさえ忙しい身だったのに一体どんなハードワークをしたのか、海帆は薄暗くした寝室の様子を伺いながらため息をついた。
ここ最近、世海はいつもより輪をかけて忙しそうにしており、そのことを海帆は心配していた。ホテルにも帰って来ない日があったので、宇翔に何かあったのかと連絡してみたら、どうしても休みを取りたいから仕事を調整してほしい、そのためなら多少寝なくても大丈夫、と世海に頼まれたと返事があった。
それを聞いた時、海帆は頭を抱えた。無理をするんじゃないかと心配していたが、案の定だ。
バーでの顛末を宇翔に伝え、世海に無茶をさせるなとお願いしたが、改善された様子はなかった。それどころか、ますます悪くなっていく一方で、海帆は世海に連絡を取ったが返事は来ず、ホテルにも帰って来ないから直接会って話すこともできなかった。
あのバーで話しをした日以来、直接顔を合わせたのは今日が初めてだった。
また一つため息をついて、海帆はソファから立ち上がり、部屋を見回す。
世海は几帳面な性格で、あまり散らかしたりはしないのだが、室内はなかなかの荒みようだった。会えない日が続いていた時も、海帆は主のいない部屋で黙々と役割を全うしており、常に居心地よく清潔であるように整えていたが、次の日に来ると再び部屋は今みたいに荒んでおり、それなのに世海の姿はなかった。
一体いつ帰ってきて、いつ出かけていたのだろうか。
さっき見た、世海のクマの浮いた顔を思い出す。
こっちまで気分が落ち込みそうになったので、海帆は手始めに掃除を始めることにした。
眠っているとはいえ、世海は敏感だ。何度か覚醒する時があるのだが、そのたびに海帆の気配を察するとまた眠るので、極力外には出ないと決める。
脱ぎっぱなしの衣類をまとめ、乱れた調度品を整えた後はフロントに連絡し、世海の好みのアメニティとプレス済の衣服を届けてもらうようお願いする。届けられた物を指定の場所に配置し、冷蔵庫の中身も充実させる。ソファテーブルやデスクの上にある書類関係は、あえてそのままにした。明らかに仕事関係のものなので、好き勝手に移動させることはできない。間違って目にしてしまわないように、レターセット等で覆っておく。
やはり世海がいるからか、ここ数日の無人の部屋を整えていた時にはなかった張り合いを感じた。そのままの勢いでバスルームにも着手し、それが終わったら、雑誌ラックに収納する世海の好みのマガジンをどうするか選別を始めた。
映画・ドラマ関係はマスト、ファッション系は大手の物を二、三冊でいいかな。スポーツは興味ないみたいだし。グラビア、いるかな。なんか蕁麻疹起こしそうだけど、興味ないわけじゃないだろうし。でもなんかムチャクチャ怒られそう。
あーでもないこーでもない、と選んでいるところへ、部屋のドアがノックされた。
ドアスコープで来訪者を確認すると、宇翔だった。まだ迎えの時間には早すぎるのに、と首をかしげながら海帆はドアを開ける。
「やあ、ミホさん」
「宇翔さん。こんにちは」
宇翔は小包をぶら下げていた。包装も紙袋も品のいい上質な素材で作られたものなので、どこかの有名ブランドの品だろう。
仕事先への贈答用かな、と海帆は思った。
「エリックはどうですか? 回復しましたか」
「どうでしょう。まだぐっすり寝てますから」
「え、まだ寝てるんですか?」
宇翔は驚いた顔で海帆を見て、それから寝室へ目を向けた。
「本当だ、寝てる。めずらしい」
「疲れがたまっていたんでしょう」
海帆の言葉に、宇翔はいやいやと首を振った。
「これくらい疲れたうちに入りませんよ。『恋するドラァグクイーン』の時は夜の撮影が多かったですから、連日深夜三時~四時まで撮影、なんてざらでした。それでもエリックはぴんぴんしていて、歌とダンスの練習、バラエティ収録やゲイバー勤めをこなしていましたから」
寝かしてあげてほしい、お願いだから。
海帆はあいまいな微笑みを浮かべて黙っている。
まあでも、今回はちょっとやりすぎだったかな~と宇翔は頭をかいた。
「もともとオーバーワーク気味ではあったんです。ほら、この間のスキャンダルでスタッフ陣もターゲットにされたでしょう? 予定が狂ってしまった上に、無理矢理な時間調整をされたりして。でもエリックには他の仕事もありましたから、すり合わせるのが本当に大変だったんです。正直このホテルで毎日寝起きするのが、だんだん時間のロスになっていたんですが、ホテルに帰ることだけはエリックは頑として譲らなくて」
宇翔は苦笑した。
海帆は、なにも言えず黙っていた。仕事用の微笑みは、口元から消えている。
「その上で休みがほしい、と来ましたからね。休みたい、なんてエリックから聞いたのは初めてです。しかも日付まで指定してきて。無理に決まってるだろ、と怒ったんですが、頼み込まれました。なんでもやるから、て言われて。それでなんとか半日休みをもぎ取ったんです」
思わずため息をついた海帆に、宇翔は笑いかけた。
「ミホさん、今日はずっとこの部屋にいたんですか?」
「はい」
「エリックはずっと寝ていました?」
「そうですね。何回か目を覚ましかけて、でもすぐに寝ました」
そうですかと頷く宇翔に、海帆はなんなんだと目で問いかけた。
「俺、エリックとは長い付き合いですけど、寝ているところを見たことなんて、ほとんどないですよ。警戒心が強くて気配に敏感じゃないですか。どんなに朝早く迎えに来ても必ず起きて待ってるし、たとえ寝ていても、俺の気配を察してすぐに起きてきます」
宇翔は海帆のことを見つめて言った。
「きっとミホさんの事は、すごく信頼しているんですね」
「……………………」
なんて答えたらいいのか。海帆は珍しく言い淀んだ。
宇翔はにっこり笑って、持っていた紙袋を掲げた。
「お土産です」
目を覚ました時、ここ最近味わっていなかった充足感を世海は感じた。
よく寝た、本当に。今何時だ。
サイドテーブルに置いた腕時計を手に取ると、昼をだいぶ回っている。こんなに眠り続けたのは、どのくらいぶりだろう。
ベッドに長々と横たわり、世海は満足げなため息をついた。
寝室は、居心地よく整っている。快適な室温、適度な薄暗さ。煩わしい物音はなく、微かに香るのは世海の好きなアロマ。神経をひりつかせる物はなにもなく、でも何よりも世海の心を落ち着かせているのは、寝室の外に感じる気配だった。
起き上がって、床に足を下ろして室内履きを履く。椅子に掛けてあった上着をゆるく羽織り、寝室のドアを開ける。
海帆はリビングのソファにゆったりと座っていた。膝の上にノートパソコンを置き、おそらく仕事だと思うがなにやら打ち込んでいたが、世海が寝室から出てくると作業を止めて微笑みかけた。
「おはよう。まだ時間あるよ」
「うん、もういい。十分寝た」
そう言って、世海は海帆の隣に座った。
ソファテーブルの上には、見慣れない紙袋が置かれている。
「これは?」
海帆は紙袋を手に取り、中身を取り出す。
夏威夷潛艇。
限定品ぽいイラストボックスに書かれた品名を見て、世海は眉を寄せた。
「買ってきたのか?」
「さっき宇翔さんが来て、くれたの。台北駅に行くことがあったから、わざわざ買って来てくれたんだって」
「そうか。それで、彼は?」
「用があるって言ってまた出かけたよ。時間になったら迎えに来るって」
海帆の言葉に、世海は頷いた。わざわざ買ってくるとは、宇翔は相当海帆を気に入っているのだろう。
今回の騒動の発端となったスイーツを見て、世海はぼそっと呟いた。
「じゃあ、もう行かないのか? 永康街」
感情を出さないように言ったつもりだが、残念そうに聞こえたかもしれない。
海帆は苦笑して、首を横に振った。
「行くよ。約束したじゃん。それに、姉さんからお願いされたのは友達に配るようだから、これじゃ少ないし」
そう言って、海帆は手の平サイズのボックスを開けた。上品な藍色の個包装に包まれたデーツマカダミアが数個現れ、海帆はそのうちの一つを手に取り世海に渡した。
「二人で食べよう。お腹空いたでしょう」
差し出された小さな包みを、世海は受け取った。デーツに挟まれた二粒のマカダミアナッツ、というとてもシンプルな形だ。袋を開けようとしたら、海帆はすでに開けており、素朴な見た目のスイーツを嬉しそうに取り出していた。
白くて女性らしい指に摘ままれてる夏威夷潛艇を見て、世海は考えるより先に動いた。
デーツマカダミアを持つ海帆の手首を優しく取って、自分へと引き寄せると、指の間にある夏威夷潛艇をそのまま口に含む。
少し、ほんの少しだけ、海帆の指先に世海の唇が触れた。
海帆は心底びっくりした顔をした。
世海もそれなりに驚いていた。他人が直接持っている食べ物をそのまま口に入れるなんて、例えドラマの演出でも筋金入りの潔癖症な世海は絶対にしない。
でも、海帆の手にある夏威夷潛艇には、なんの不快感も感じなかった。むしろ、もう一回同じように食べてもいいかもしれない、と思っている自分がいる。
「…………おいしい?」
海帆が聞いてくる。戸惑っていると感じて、世海はそっと握っていた華奢な手首を離した。
「うまいよ」
そう言って、今度は自分が持っている包装を破いて、もう一つ口に放り込んだ。
夏威夷潛艇は美味しかった。デーツのねっとりとした食感とコクのある甘みに、サクッとしたマカダミアナッツの香ばしさがよく合っていた。
カサカサと海帆が包装を開ける。出てきた夏威夷潛艇は世海に差し出されることはなく、海帆の口に運ばれる。
口元をほころばせて、海帆は世海に微笑みかけた。
「おいしいね」
ずっと薄暗い部屋で寝ていたから、いきなり明るいリビングに来たから、きっとそんな事が原因で、世海は眩しくて海帆の笑顔が直視できないのだろう。
ただ、うんと頷いて、世海は残りの夏威夷潛艇を手に取ったのだった。
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