手持ちの札
ホテルグロンブル台湾のバー『Seagull』では、今夜もミステリアスなバーテンダーが静かにサービスを行っていた。
アルカイックな微笑みを口元にはき、なめらにシェイカーを振る姿は優雅で洗練されていて、最近増えた女性客たちがちらちらと視線を送っている。だが、当の本人はそんな秋波を一身に浴びていても特に気にすることはなく、常に自然体でサーブに集中し、時折お客様の話しに耳を傾けていた。
「学会の発表でいらっしゃったのですか」
「うん。明後日の発表までに原稿を書き上げないといけないんだけどね。ちょっと息抜き」
カウンター席でふふふといたずらっぽく笑う男性は、大学教授とのことだ。
海帆は、丁寧にステアしたモスコミュールをそっと男性の前に置く。
「お待たせいたしました」
「これこれ、前に飲んだ時に忘れられなくなっちゃってさ。それでまたこのホテルに来ちゃったんだよ」
嬉しそうにグラスを持つ男性に、海帆は微笑んだ。
「ご贔屓にしていただき、ありがとうございます」
スライスした生姜を漬け置きしたウォッカに、辛口のジンジャーエールを注いだSeagullのモスコミュールは、生姜感が際立ってかなり辛口に仕上がっている。そのため男性客から人気が高く、この大学教授のように、これを目当てに来店される方も多い。
「これ人気あるでしょう?」
「そうですね。辛口に作っているので、男性には飲みやすいのかもしれないですね」
穏やかに会話をしながら、海帆は常に周囲に気を配っている。今日は団体旅行客のチェックアウトがあったので、客入りはそんなに多くはない。ほとんどが常連さんだ。お連れさんと談笑したり、物思いにふけっていたり、それぞれの過ごし方を楽しまれてる方が多い。
落ち着いていて、和やかな時間が流れるこの雰囲気が、海帆は好きだ。お客様が満足されていることを感じられて、一人一人に気を配ることができる。
来店のドアベルが鳴った。
珍しい時間のお客様だな、と姿勢を正して入口に向き直った海帆は、そのまま一瞬固まった。
現れたのは、世海だった。
「いらっしゃいませ」
驚きを出さないように、あくまでも自然に声をかけると、世海は無言で頷いてカウンター席の端に座った。
「ここに来るなんて珍しいね」
「なんとなく」
返事をする態度は相変わらず素っ気ないが、興味深そうにバックバーに置かれている酒類に視線を注いでいる。
「何か飲む? ビール?」
「いや……」
少しだけ迷うそぶりを見せた世海は、さっきまで海帆と会話をしていた男性客を見た。
「あれは?」
「ん? モスコミュール。ちょっと辛口だよ」
「じゃ、それで」
かしこまりました、と言いおいて支度に入った海帆は、ふと気が付いてまた世海に声をかけた。
「ボックス席あるけど、そこにする? ここでいいの?」
芸能人の来店で浮足立つ客層ではないが、カウンター席は目立つ。人の視線が気になるのではないかと提案したが、世海は首を横に振った。
「ここでいい」
本人がいいなら、大丈夫か。海帆は改めてモスコミュールの準備に取り掛かった。
グラスを用意し、カットしたライムを絞って入れる。そこに氷を入れて、生姜を漬け置いたウォッカを四分の一ほど注ぎ、その後、辛口ジンジャーエールで満たす。炭酸が抜けないようステアはゆっくりと、氷を持ち上げるようにして混ぜ合わせて、完成。
「お待たせしました」
そっと差し出すと、世海は素直に受け取った。一口すすって無言だったが、目が輝いてる。
あら、及第点をいただけたかしら。
内心、にんまりとガッツポーズをして、海帆は世海に声をかけた。
「今日は遅くなるって聞いてたけど」
「予定が流れた。技術スタッフ側でトラブルがあって」
確か主要キャストと監督・制作陣で会食めいたことをする、と言ってたか。前々から決まっていた予定だったはずだ。
「夕飯は食べたの?」
会食が無くなってまっすぐ帰ってきたのではないかと思って聞いてみたら、案の定、世海は首を横に振った。
「なにか食べる? 食事も出してるよ」
「お前が作るの?」
世海の質問に、海帆は苦笑して首を振る。
「ちゃんとプロのシェフが作ったものだよ。心配しないで」
「ふーん」
少し残念そうに店内のメニューをちらっと見て、世海は顔を上げた。
「おすすめは?」
「うーん、シーフードグリルかな。季節の魚介類に、オリーブオイルをかけてオーブンで焼いたもの。おいしいよ。世海くん海鮮料理好きだよね」
「うん」
じゃあ、それで。と言われたので、海帆は注文を伝えに厨房へ向かう。
「王宇さん、シーフードグリルお願いします」
「ミホさん、作れるけどエビは切らしちゃってるんだ。それでもいいかな」
シェフの王宇が申し訳なさそうに言う。
エビは世海の好物だ。どうしようかな、と悩んだが海帆は仕方なく頷いた。
「無いならしょうがないですね。じゃあ、サービスでサーモンとポテトのサンドイッチをプラスしてください」
「はいよ」
イレギュラーな注文をこころよく承諾した王宇は、海帆にいたずらっぽく笑いかけた。
「サービスしてあげるなんて太っ腹だね。ミホさん、大事な人?」
からかい半分の質問に、海帆は営業スマイルで答える。
「そうですね。大事なお客様ですよ」
王宇が料理に取り掛かるのを見届けて、海帆はカウンターへと戻った。
すぐに会計希望のお客様に呼ばれたので、それの対応に入る。会計のタイミングというのは不思議と続くもので、その後も数組の対応をすることになり、その間、世海は一人で飲んでいた。
ひと段落ついて端の席の様子を伺うと、海帆と目が合った世海は、すっとグラスを前にすべらした。
「同じもの?」
問いかけると、無言で頷く。海帆は空いたグラスを受け取り、先ほどと同じ工程で世海のお代わりを準備した。
出来上がったと同時に料理も運ばれてくる。目の前に置かれた皿を見て、世海が首をかしげた。
「これは?」
「スモークサーモンとポテトのサンドイッチ。エビを切らしちゃってたから、これはサービス」
「そう」
短く言って、世海はサンドイッチを頬張る。
またも無言だが、多分、気に入ったのだと思う。そのまま何も言わずに食事を進めるので、とりあえず二杯目のグラスが空くまではそっとしておこう、と適度に距離を取ったところで、テーブル席から飲み物の注文が入った。海帆はシェイカーの準備をして、流れるような動きでカクテルを作り始める。
その様子を、世海はじっと見つめていた。
出来上がったカクテルをサーブすると、すぐに別の注文が入った。海帆は涼しい顔で、手際よくこなしていく。
「忙しそうだな」
一通りの注文を捌いて、後片付けをしているところに世海が声をかけてきた。
「そうでもないよ。昨日までの方が、ホテルに団体客が泊まっていたから忙しかったかな」
最近の慌ただしさを思い出して、海帆は苦笑した。
Seagullの正式なバーテンダーはまだ決まっておらず、海帆とヘルプスタッフで回すのにも限度があり、ここ数日は目の回るような忙しさだった。
人員の補充が急務ではあるが、なかなか決まらないのが現状で、バー業務以外にも仕事がある海帆は少々頭が痛い。
とはいえ、もともと楽天家で能天気な性格でもあるので、忙しすぎて世海のお世話がなかなかできなくて困ったな、ぐらいにしか思っていないが。
(早く新しい人が入ってくれるといいけど)
ぼんやりそんなことを考えていたら、カランッと氷が鳴る音がした。
世海のグラスが空いたのだ。
まだ飲むか?と目線で問うと、世海はいらないと首を横に振り、海帆を見上げる。
「お前、ちゃんとメシ食ってるか?」
どうやら心配してくれているらしい。海帆はにっこり微笑んで頷いた。
「食べてるよ。毎日三食しっかりと。外食とかテイクアウトばっかりしてるって母親に言ったら怒られた。だから、この間は冷凍餃子で水餃子を作ったんだけどさ」
台湾の料理はとにかく手軽で安くて美味しいので、海帆はついつい食事を外で済ませてしまうのだが、たまには自炊をしろと母親の美帆子に叱られた。
大概のことはやりこなす自信があるのだが、唯一料理だけは苦手で、正直言うと作るより食べる方に専念したい。とはいえ、叱られた手前、とりあえず作ってみたのだが、出来は可もなく不可もなくといったところだった。
「食べられないこともないんだけど、なんて言うか、自分で作ると味がぼんやりするんだよね。なんか物足りなく感じちゃって」
「食べたい」
「は?」
よく聞き取れなくて世海に顔を向けると、彼は至極真面目な顔でもう一度言った。
「その水餃子、食べたい」
「……………………」
ちゃんと聞いていたか? 私は冷凍餃子で作ったんだぞ。君のお母さんが作る水餃子と同等のクオリティを想像されたら困るぞ。
「もう食べちゃったよ」
心の声を顔には出さず、海帆は微笑んだ。
実を言うとまだ少し残っているのだが、今日帰ったら食べようと思っていたのだから、嘘ではない。
「なんだ……」
世海は少し残念そうに呟いた。口を尖らせてる様子がなんだか幼くて、海帆はついお節介が口に出てしまった。
「そんなに食べたいなら実家に帰ればいいのに。メグさん、いつも世海くんの好きなものを作って待ってるよ」
「うん」
うるさい、てまた怒られるかと思ったが、世海は素直に頷いた。
そして上目遣いで海帆に聞いてきた。
「お前、今度いつうちに来る?」
そう聞かれるとは思っていなかったので少し驚いたが、海帆はグラスを拭きながら答えた。
「今週はもう行ったよ。来週は行けそうにないから、朝番シフトの日と合わせて二回」
「来週、来れないの? なんで?」
海帆は苦笑した。世海の母親の恵君も同じように聞いてきたからだ。
世海も恵君もそうなのだが、海帆が休みのたびに、世海の実家に遊びに行って食事をして帰ってることに、なにも疑問を持っていないのが逆に不思議だ。しかもはそれとは別に、恵君はわざわざ海帆の住む寮まで食事を持って来てくれたり、料理までしてくれる。大変助かるが、海帆は申し訳ない気持ちの方が強かったりする。
「来週の休みは用事があって行けそうにないから」
「用事って?」
「夏威夷潛艇て知ってる?」
海帆が聞くと、世海は頷いた。
「知ってる。食ったことはないけど」
夏威夷潛艇とはデーツでマカダミアナッツを挟んだお菓子の事で、台湾の有名なお菓子なのだが、日本の元アイドルでプロデュース業などもしている女性タレントがSNSで絶賛したこともあり、日本で人気になっているらしい。特に台北発のお菓子屋さんで、厳選した食材で無添加で作ったスイーツを販売する店のものが人気らしく、姉の帆波から、そのお店のを送ってほしい、と名指しで頼まれたのだ。
「台北駅の地下にお店があるのは知ってたんだけど、永康街にもあるらしくて。そっちの方に行って、買い物ついでに散策しようかなと思って」
「一人で?」
「うん」
永康街は台北市にあり、小籠包の有名店や、おしゃれな雑貨店、カフェや茶芸館などが立ち並ぶ、人気の観光スポットだ。台湾に来てから怒涛の仕事量に忙殺され、観光らしい観光をしていなかった海帆は、この機会にちょっと遊びたいと目論んでいる。
「お土産買ってくるよ」
「いらない。それより、俺も一緒に行く」
危うく持っているグラスを落としそうになった。海帆は世海をまじまじと見つめた。
「行くって、一緒に?」
「うん」
なんでもないことのように頷いているが、世海は自分が何を言ってるのか、ちゃんと分かっているのか。
「世海くん、そんな簡単に言って。休み取れるの?」
これまでの彼の多忙ぶりを目の当たりにしてきた海帆としては、世海が希望日に休みを取ることなんて到底できそうもないと思っていたのだが。
「なんのために今まで大人しく仕事をしてきたと思ってるんだ。休みぐらい取れる。一日中でなくてもいいんだし」
そう言ってうそぶく世海を、海帆は心配になって見た。
世海は少しムキになって言いつのった。
「それに、俺は車がある。買い物するんだったら、車があった方がいいだろ」
確かにそうだけど。無理して強がってるのではないかと正直思った。だが、世海の頑固そうな顔を見て、海帆はそれ以上言うのは控えることにした。
「じゃあ、木曜日ね。本当に大丈夫?」
「うん」
力強く頷く世海を不安そうに見つめながら、海帆はよろしくねと言った。
休日の木曜日。
支度をしている海帆のスマホに、世海からメッセージが届いた。
―少しだけ遅れる―
それを読んでしばらく熟考し、海帆は急いで寮の部屋を出てホテルへと向かった。
就業中のホテルスタッフへの挨拶もそこそこに、世海が泊まっている部屋へ直行し、ドアをノックする。
世海はしばらく出てこなかったが、ようやくドアを開けて海帆を見ると、イライラしたように髪をかき上げた。
「メール送っただろ」
「見たよ。だから来た。今日の予定はキャンセルしよう」
それを聞いて世海はしばらく唖然として、そして猛烈に怒りだした。
「なに言ってるんだ、前から決めていただろ。少し遅れたぐらいで……」
「別に今日行かなきゃいけないわけじゃないし。次の機会にしよう」
「勝手に決めるなよ」
「だから今言いに来てるの。メールじゃ絶対納得しないだろうから」
そう言って、海帆は世海の目を見つめた。
「世海くん、ここ数日寝てないでしょ。見ればわかる。ホテルにも帰って来ない日もあったし」
クマが濃く浮き出た世海の顔を見て、海帆は呆れた。
「寝た方がいいよ、世海くん。ていうか寝るべき。しかも今日も仕事あるんでしょ?」
「夕方からだ。それまでに帰ればいい」
「ダメだよ」
きっぱりと海帆は言った。
「睡眠不足を甘く見ちゃいけない。寝れる時には寝るべき。夕方まで時間あるんだったら、そうしなよ」
「勝手に決めるな。お前になんの権利があって……」
「これは、もともと私が立てていた予定。だから言わせてもらう」
海帆は両手を腰に当てた。
「世海くんの個人的な予定だったら、何も言わないよ。でも、今回は私が最初に立てていた予定に、世海くんが合わせることになったんでしょ。そのために無理をさせたんだから、私にも責任がある」
頑固に口を引き結んでいる世海に、諭すように海帆は言った。
「世海くん。一緒に行こう、て言ってもらえたのは嬉しかった。でも、無理はしてほしくない。世海くんが私に合わせるのは難しいと思う」
「でも……」
「話は最後まで聞いて。世海くんが無理だったら、私が合わせればいいんだよ」
そう言って、海帆は頑固な幼馴染を見上げた。
「休みの予定が立ったら、教えて。そしたら私が休日を合わせる。で、一緒に行こう」
海帆の提案に、頑なだった世海の表情がは考えこむものになった。
なんでこんな簡単なことを、すぐに思いつかなかったのだろうか。海帆は先日の自分を叱り飛ばしたい。
「でも、俺が寝たら、君は一人で永康街に行くんだろ?」
世海が拗ねたように言う。気になるのはそこなのか、と海帆はため息をついた。
「行かないよ。世海くんが寝ている間、ここにいる。仕事へ行く時間になったら起こしてあげるから」
勢いで言ってしまったが、どうやら世海を納得させることができたようだ。
世海はゆっくりと体を開いて、海帆を室内へ招き入れたのだった。




