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忙しく、せわしなく、余裕をくれる君

 ホテルグロンブル台湾のイベントホールでは、宴会部門のスタッフ達が忙しそうに働いていた。

 テーブルや椅子などの搬入、照明なども設置されており、大掛かりなセッティングが進行中で、全員がきびきびとそれぞれの役割を担って動いている。

 制服に身を包んだ橘海帆(たちばなみほ)は、忙しく動き回るスタッフの中を、邪魔にならないよう軽やかに避けながら、ここに来た目的の人を探す。

 相手はすぐに見つかった。

(ツァイ)主任」

 数人の集団の中で、てきぱきと指示を出していた人物が、海帆の呼びかけに振り返る。

「ミホさん、来てくれたんだ。こっちから行ったのに」

 明るい色のロングヘア―をアップにし、動きやすいパンツスーツ姿の女性が、にこやかに笑って、海帆に手を振った。

 蔡環真(ツァイ・ホァンジェン)。彼女は、ホテルグロンブル台湾の営業企画部門、企画広報課で主任を任されており、芸能人のような華やかな外見と押し出しの強さで敏腕と知られている。

 歳は、確か海帆と同い年だったはずだ。

「ちょうど、こっちに来る用事があったので。それより、忙しそうですね」

「毎年のことだから、みんな慣れたものだけど。でもやっぱり、気合が入るわ」

 環真はそう笑って、また一頻り近くにいたスタッフに支持を伝えた。

 海帆が所属するル・グロンブルホテル東京は、ホテリエ育成の専門学校を運営しており、ホテルグロンブル台湾を学生の海外研修先として指定している。

 毎年、二年次の学生が十数名、一週間から十日ほどホテルグロンブル台湾に滞在し、海外のホテル事情を学びながら国際的な感覚を身に着けるため、現場研修に取り組む。

 イベントホールの大掛かりな設営は、そんな学生達の研修初日の歓迎式典の準備だった。

「忙しくなりそうですね」

「ええ。毎年いつも、この時期は頭と胃が痛くなるわ。無事に終わった時の解放感の為に耐えてるようなものね」

 豪快に笑いながら、環真はなかなかヘビーなことを言う。

 海帆は苦笑するしかない。

「ミホさんにも、しっかり働いてもらいますよ。初日のスピーチと学生達への指導よろしく!」

 激励され、海帆は苦笑を顔に貼り付けたまま、頷いた。

「がんばります」

 ホテルグロンブル台湾で働く日本人スタッフの代表として、海帆は歓迎式典でのスピーチと学生達の実地指導という大役を任されている。

 教えるのは、主にフロント業務とロールプレイングとフィードバック、語学研修だ。

「後で研修内容のヒアリングをさせてくれる? それをお願いしたかったのよ」

「わかりました。アビーにも手伝って貰いますので、彼女も呼んでいいですか?」

「もちろん」

 海帆は環真と時間を決め、スマホを操作して、アビーと環真宛に、作成したスケジュールの時間と予約したミーティングルームをビジネスチャットで送った。

「それじゃあ、お願いします」

「はーい、よろしくね。あ、そうだ」

 立ち去りかけた海帆に、環真が声をかける。

「そう言えば、あの後エリック・スンとはどうなの?」

 海帆は喉元から変な声が出そうになるのをなんとか堪え、にこやかに笑って振り返った。

「特に何もないですよ」

「あらそうなの。てっきり二人、付き合うのかと思ってたのに」

「…………なぜですか?」

 環真は肩をすくめて笑った。

「なんか二人すごくお似合いだったから」

「……………………」

 なんて返したらいいのか分からず、海帆はあいまいな笑みを貼り付けたまま、会釈をして歩き出した。

 イベントホールのスタッフ達が、すれ違いざま海帆に声をかけてくれる。その一人一人に挨拶を返しながら、海帆は足早にその場を後にした。

 持ち場に戻り、この後のミーティングで環真に見せる研修内容をチェックするため、ノートパソコンを片手にアビーに声をかけた。

 スタッフルームのフリースペースにあるデスクに二人で並んで座り、ノートパソコンを覗き込みながら、しばらく研修内容について話し合う。

 当初、海帆は一人で学生の指導に当たる予定だったのだが、今年はコンシェルジュを希望する学生が多かったので、アビーにヘルプを頼むことにした。

 アビーは最近コンシェルジュの業務に興味を持つようになり、本格的に仕事を覚えようとしているところだったので、喜んで引き受けてくれた。研修プログラムを作成しながら、自身の予習復習にもなり、張り切って事に当たってくれているのだが、いざ日本の学校側とのすり合わせが始まると、難しい顔をすることが多くなった。

「あちらの先生方の立てた予定に沿うようにすると、うちのスタッフの業務がかなり制限されてしまいますね。特にミホさんは指導役だから、ほとんど付きっきりです」

「そうだね。引率で先生が来てくれるけど、部門ごとの学生に目を配らなきゃいけないから。ずっといてくれるわけじゃないし」

 アビーが心配そうな顔をして、海帆を見た。

「ミホさんが仕事できなくなると、ホテルのお客さんが減っちゃいますよ」

「そんなことはないでしょ」

 海帆は笑ったが、アビーは至極真面目な顔して言った。

「そんなことありますよ。Seagullだって、ミホさんがいなくなってから、売上げが落ちたんですよ。少しだけですけど」

高志浩(ガオジーハオ)さんが、まだ慣れてないだけでしょう。入ったばかりなんだし、もう少し長い目で見ないと」

 ようやく入った正式なバーテンダーの評価を、こんな短期間で決めつけてはいけない。

 まだ不満そうな顔をするアビーを宥め、海帆は研修内容に注意を戻すように促した。

「学校側の希望としては、フロント業務を重視しているから、研修はそっちを充実しておけば問題ないと思うよ。コンシェルジュ研修は、基本はペアだけど、アビーがいてくれたら三人は見ることができるから、それで日程を組んでいけばいいんじゃないかな」

「学生側から不満が出ないですか?」

「例え出たとしても、フロント業務は基本中の基本だから。これが出来て、次のステップアップになるわけだし。フロントとコンシェルジュの業務は密だから、なおさら覚えないと」

 ホテルによっては、コンシェルジュの役割をフロントクラークが担う所もある。グロンブル台湾では、それぞれ独立した業務内容ではあるが、海帆もチェックインやチェックアウト時の忙しい時は、カウンターに立って対応しているので、学んでおいて損になることはない。

 アビーは、しきりに感心しながら、自分のノートパソコンに何やら入力を始めた。

 その間に、海帆は自分宛てに届いたメールや、ビジネスチャットをチェックする。

「ミホさんも、ホテリエの学校を出たんですか? 海外研修やりました?」

 興味津々で質問してくるアビーに、メッセージをチェックしながら海帆は答えた。

「私は大学が畑違いで、就職でこの業界に飛び込んだから、専門的に学んではいないんだ。でも働きながら専門学校の夜学に通わせてもらえて、海外研修も経験しておいた方がいいよって上司が言ってくれたから、行けたよ」

「どこに行ったんですか?」

「カナダ」

「えー、台湾じゃないんですかぁ」

 頬を膨らませるアビーに、海帆は苦笑した。

「台湾は人気があって、希望が通らなかったの。もし行けてたら、そのままグロンブル台湾に就職していたかもね」

「そうだったら、ミホさんは今頃、管理職ですよ。蔡主任みたいな」

「そうかな」

 あんなにパワフルで的確に場を取り仕切る能力が、自分にあるとは思えない。

 基本的に落ち着いていて滅多に動じることがないので、よくリーダーやまとめ役に選ばれることが多いのだが、海帆は考えを巡らせて采配を振るうより、直感を信じて自分で行動するタイプである。

 もし自分に部下ができたとしたら、勝手に動き回る上司に振り回されて大変だろうな、と他人事のように思う。

「そうですよ。絶対にマネージャーになってます。そしたら私、ミホさんの部下でしたね。あ、でも、そうなったら、ミホさんはエリック・スンと付き合って、すぐに結婚してたかもしれないですね」

 どういう予想図なのだろう。海帆は苦笑するしかない。

「なんで結婚?」

「だってエリックって、なんかちょっと保守的じゃないですか、真面目だし。長く付き合って自由に遊ぶ時間にこだわるより、好きな人がいたらすぐに結婚して、精神的に安定した生活を送りたがりそう」

 よく見ているな、海帆は感心してしまった。

 確かに、海帆の幼馴染である孫世海(スンシーハイ)は真面目だ。未だに、なぜ俳優という職業を選んだのだろうか、と不思議に思うほどに。そして責任感があり、情熱的だ。大事なものが出来たら、傍に置いて一心に守るだろう。

 きっと、世海から真心を渡された人は、とても大事にされて幸せになるはずだ。

「エリックがホテルを出ちゃってから、だいぶ経ちましたね。ミホさん、会ったりしてます?」

「会ってないよ。向こうも忙しいし」

「そうなんですね。私、エリックとミホさんが一緒にいるところ見るの、なんか好きでした。特別な感じがして。幼馴染って素敵だなと思ってました」

 残念そうに言うアビーを見て、海帆は改めて、自分と世海の出生に関わる「福の子」の話しはできないなと思った。

 もし話してしまったら、運命だ宿命だ、と騒がれてしまいそうだ。

「蔡主任にも、同じようなこと言われたな」

「そりゃそうですよ。みんな言ってましたよ。もしエリックとミホさんが付き合うことになったら、ホテルスタッフ総出で守り抜いて応援しようって」

 鼻息荒く言うアビーは、なんだかとても頼もしい。

 だが、海帆はここで釘を刺すことにする。

「言っておくけど、私は日本に恋人がいますからね」

「分かってますよぉ」

 アビーが口を尖らせる。

 雑談は、ここまで。

 資料のチェックを再開しようと気を引き締めたところで、ノートパソコンがメッセージを受信した。

 内容を確認し、海帆の顔が少し曇った。

「どうしたんですか?」

 心配そうに問いかけるアビーに微笑みかけて、海帆は嘆息交じりに応えた。

「悪いけど、蔡主任とのミーティング、今日はキャンセルね。ジョナス・リーのイベントが決定したみたい。これから臨時会議が開かれるって。蔡主任も呼ばれてる」

 ジョナス・リーとは、フランスのパティスリーコンクールで上位入賞を果たした、台湾を代表するパティシエで、今までパリで活動をしていたのが帰国することになり、それに際してスイーツイベントを大々的に行う、と告知されていたのである。

 ホテルグロンブル台湾は、そのイベント開催地の候補として挙がっていた。

「ジョナス・リー! え、まさか……」

 絶句するアビーに、海帆は頷いた。

「うん、そのまさか。グロンブル台湾が選ばれたみたい」

 名誉なことであるのに、海帆の顔色は優れない。

 アビーの目が、不安でますます大きくなっていく。

「ま、まさか…………」

「うん。海外研修期間と重なる。バッチリと」

 今日は、長くなりそうだ。

 海帆はため息混じりに、そう覚悟した。


 会議は延びに延びて、寮に帰れたのは、日付が変わる時刻だった。

 会議中にフードデリバリーを頼んでもらえたので、夕飯は済んでいる。海帆は帰宅してすぐシャワールームに直行した。

 シャワーを終えて浴室から出ると、ベッドサイドテーブルに置いたスマホが点滅している。

 手に取って確認すると、仕事のメッセージが数件と、日本から恋人の田辺雄一(たなべゆういち)

 そして、世海から、十を軽く超すメッセージが送られていた。

 通知の多さに驚き、慌てて青い海を泳ぐ黄色い魚のアイコンをタップする。

 未読のメッセージが、つらつらと流れてきた。

 自分の家に帰った世海が出演するドラマは、撮影も終盤に差し掛かっている。これからはドラマの番宣と平行して仕事をしていくことになり、活躍の場がさらに広がっていくだろう。

 世海のチェックアウトから、二人が会うことは無かったのだが、なぜそんなことを海帆が知っているかというと、チェックアウト以降、世海から毎日のようにメッセージが届くようになったからだ。

 とりとめのないメッセージが多いが、仕事に関するものもあり、今日の仕事の成果、所感、今後出演する番組の情報などもあった。

 言外に、余さず全部チェックしろ、という圧を感じる。

 事細かに説明してくれる文章を読んで、海帆はマメだなあと感心した。

 世海は口数は少ないのに、こういったメッセージは、かなり頻繁に送ってくる。

 いわゆる、筆まめと言うのか。

 内容を丁寧に読み、返信を作成する。

 長文ではあるが、無駄に長い印象は受けない。伝えたいことを残さず知らせたい気持ちが伝わって、こちらも真面目に読まなければ、という気持ちになる。

 返信を送信し、仕事の方のメッセージに取り掛かってしばらく、受信の通知音が鳴った。

 確認すると、世海から画像が送られてきた。

 なぜか青いジャージ姿で、全身ずぶ濡れになっている。髪の毛から雫が滴り落ちるほど濡れているのに、最上級のキメ顔とキメポーズで写真に撮られていた。

 不覚にも、海帆は笑ってしまった。

 今夜は、番宣を兼ねてバラエティ番組でコントをすると言っていたから、収録は滞りなく進んだのだろう。

 かっこいいねと送ったら、どんな状況下でも俳優であることは忘れない、と返ってきて、また笑ってしまった。

 風邪をひかないようにと送り、仕事のメッセージの続きに取り掛かる。

 ほとんどが海外研修とスイーツイベントについての内容だった。明日、またミーティングがあるらしい。ここ最近は、ホテル業務よりも会議やちょっとした打合せなどに駆り出されることが多くなった。

 Seagullの仕事も、今では入ることもない。

 待望の正式なバーテンダーがようやく入ったから、というのもあるが、海帆の方が忙しくなってきて、バー業務まで手が回らなくなったのだ。

 もともと臨時でやっていた仕事だったので、通常業務に戻ったということなのだが、Seagullでの仕事は好きだった。

 バーテンダーは大学時代以来だったが、カウンターに立って店内に気を配り、お客様の嗜好を探りながらサーブをするのが楽しかった。

 もう来なくてもいいのか、とカウンターを最後にした時、何とも言えない寂しさを感じて、立ち去りがたかったことを覚えている。

 小さくため息をついて、お知らせのメッセージに了解の返事をした。

 そして、雄一のメッセージをタップする。

 恋人の雄一も、忙しくしているようだ。

 今は関西へ転勤して、東京での仕事の違いに、なんとか順応しようと頑張っているらしい。ホテルマンは出張が多い。海帆も大阪のホテルに勤務したことがあるが、関西の人は地元愛が強く自己成長意欲も高いので、慣れるまで時間がかかったことがある。特に営業職では、コスト意識やスピード感の強い営業が求められる傾向があるので、東京のやり方では通用しないことがあるのだろう。

 海帆は自分が経験して得た教訓などを、一つ二つ入力し、励ましとくれぐれも体調管理をしっかり、と返信をした。

 そこまでやって、海帆はベッドに仰向けに寝転がった。

 なんだか今日はすごく疲れた。肌の手入れはしたが、寝る前のストレッチはまだしていない。

 今日はもう寝ちゃおうかな、とサイドテーブルに置かれたスタンドライトの明かりを消そうとした時、また通知音が鳴った。

 もう寝るから明日見ようと思ったが、スマホをテーブルに置こうとして、画面に指が触れてしまった。

 そして現れた画像に、目を奪われた。

 温かそうな湯気を立てるマグカップと、一般的な風邪薬の薬包紙の画像だった。

 しばらくの間その画像を見つめ、海帆はふっと微笑んだ。

 どうやら、世海の風邪の予防策は万全のようだ。

 シュッ、とまたメッセージが入る。

ーお前も風邪ひくなよー

 短い文章なのに、その前にアップされたマグカップと風邪薬の画像のような暖かさを感じて、無性に温かいものが飲みたくなってきた。

 起き上がって湯を沸かし、ホットレモンの粉末を準備する。

 マグカップなみなみにお湯を注ぎ、ベッドヘッドに腰かけてゆっくりと飲み始めた。

 知らない間に体が冷めていたのか、温かさが全身をめぐって、普段の活力が戻ってきたようだ。床にヨガマットを敷き、日課のストレッチを始める。

 回数ではなく、時間をたっぷり取って体を伸ばすと、じんわりと温まり、肌がしっとりしてくる。

 やると決めたことを、きちんとこなしたら、いつもの余裕が戻ってきて、海帆は満足して眠りにつくことができた。

読んでいただき、ありがとうございます。

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