見捨てるお色気枠
明くる日の朝、俺は寝ぼけ眼をこすりながら登校していた。
昨日の夜は何だか、なかなか寝付けなかった。この一ヶ月、三津島クロエという人が常に隣にいて、それなり以上に楽しく忙しく、ハチャメチャ(死語)な日常を暮らしていて常に充実していたためか、ここ最近は帰ったら割とバタンキューが当たり前だった。
たった一日、たった一日会わなかっただけで、人は睡眠のリズムさえも狂うし、たった一日だけ会わなかっただけで人の生活リズムを崩せるほどに眩しく、アグレッシブな人も、世の中にはいるのだ。
三津島クロエって、みんなの人気者って、芸能人って凄いんだな……と、今更ながらに己の戦友のバイタリティの凄まじさに舌を巻く気分で、俺が生あくびをした、その時だった。
「ウオオオー、零宮おはよう! 昨日はちゃんと私で抜いて寝たかぁ――!!」
――どう考えても早朝一発目に発すべき言葉ではない言葉を発しながら、ボフン! と俺の後頭部に、妙に温かくていい匂いがするエアバッグのような物体が押しつけられた。
「おお、おはようクロエ。けれど朝の一発目でそういうシモいことを人前で訊ねるのは――」
俺の後頭部を完全に飲み込んだ三津島クロエをやんわり引き剥がし、苦笑しながら振り返った、その瞬間。
ざわっ――と、俺の全身が不快な波動に包まれ、皮膚が泡立った。
「ん? どうしたの零宮?」
――あれ、なんかおかしいぞ。
ラブコメ漫画のヒロインとして、俺の戦友がそれなり以上に可愛いのは知ってたけど、ここまで、こんなにも可愛かったっけ?
な、なんか、光り輝かんばかりに眩しく見えるぞ――?
「えっ」
「えっ」
「く、クロエ、なんかお前、今日おかしくないか? えっえっ、何? どうしたの?」
「アンタこそどうしたのよ? 鳩が豆鉄砲喰らったような顔して。体調悪いの?」
「い、いや、多少寝不足ではあるけれど、そんな事実は――」
っていうか、改めて見るとこの人、物凄い容姿だな。
いくら銀髪の北欧ハーフであるからといって、ここまで限りなく完璧に近い容姿を持った人間がいるものだろうか。
っていうか、手足長ッ。髪綺麗。目でっか。それ以上に、胸デッッッッッカ。
これ、自分で自分の爪先とか絶対見えないだろ。普段階段とかどうやって降りてんだ?
そういえばつい一昨日、俺、この爆乳を素手で触ったんだよな?
いや、触ったどころか、掴んだよね? この二本の腕で。
いや、掴んだというか、好き勝手に揉みしだいたんだよな?
めちゃめちゃ柔らかくて、温かくて、重くて、掴みきれないほど大きくて。
えっえっ、一昨日の俺、マジでそんな罪深いことを――?
そう思うと――何だか急に頭に血が上り、猛烈な羞恥心と罪悪感が頭の中でごちゃまぜになった。
猛烈に顔面が熱くなり、堪らず三津島クロエから顔ごと目を逸らすと、三津島クロエが慌てて身体を寄せてきた。
「えっ、ぜ、零宮? どうしたの、顔が真っ赤っ赤、い、いや、赤黒いよ? 体調悪いの?」
瞬間、俺の胸板に三津島クロエの爆乳がむにょんとばかりに押しつけられ、うわッ――!? と悲鳴を上げた俺は咄嗟に飛び退った。
「ぜ、零宮ってば――本当にどうしたの? 大丈夫なん?」
「……な、なんだろう、俺も訳がわからねぇ。と、とりあえずクロエ。な、なんかわかんないんだけど……ちょっと俺に近寄らないでくれるか?」
「なぁにを言ってるの。ま、体調不良じゃないならいいでしょ。ホラ、一緒に登校!」
言うが早いか、三津島クロエはいつものように俺の左腕を取り、その国宝級の間に埋めた。
ただそれだけで、まるで電気椅子に座らされたように俺の全身が激しく感電した。
三津島クロエに隠れて大きく息を吸ったり吐いたりしても、ドッドッ……と胸板を突き破らんばかりに収縮を繰り返す心臓の鼓動は全く治まらなかった。
なんだろう、寝不足で体調が悪いのだろうか。
前世重い心臓病を患っていたために、全く俺のいうことを聞かなくなった心臓のことが心配だった。
仕方なく、俺は死ぬ思いですぐ隣りにいる三津島クロエを視界に入れないように全力で首を捻じ曲げ、肘の辺りに感じる柔らかさと温かさを全力で無視しながら、覚束ない足取りで歩き出した。
「零宮、どうしたん? 首とかおかしくしたんか? 前見て歩かないと危ないよ?」
「い、いや……ご、ごめん。なっ、なんかお前を視界に入れたくなくてさ……」
「は? 何よそれ、失礼ね。私が邪魔ってこと?」
「い、いや、そうじゃなくて。その、あの、ごめん。ちょっと今、直視できないというか……」
俺がブツクサというと、ほぇ? と呆気に取られたような声を発した。
「なっ、なんだろうな……俺、今日ちょっとおかしいわ。なっ、なんというか、無理なんだ。お前が視界に入ると、なんだか急に心臓がしんどくなるんだよ。ごめんな、失礼なこと言って。けど俺、やっぱり前世のトラウマがあるから……」
俺のしどろもどろの弁明を、隣の三津島クロエが驚いたように聞いているのが雰囲気でわかる。
一体何の激白なんだ……と俺の方も己の今しがたの発言に呆れてしまっていると、急に、三津島クロエが俺の左腕を離し、俺の正面に回った。
んむ? と反射的に視線を上げようとすると、俺の両頬に三津島クロエの掌が添えられ、ぐいっと上を向かされた。
ぎょっとしたのと同時に、三津島クロエの真剣な表情がすぐ間近に迫り、俺の心臓が突き破らんばかりの勢いで胸板を叩いた。
「く、クロエ……!?」
「零宮、私を見なさい」
「だっ、だから……! うわ、ちょ、近い近い近い! はっ、離れ……!」
「離れない。……どう零宮? 私の顔が見えるとちゃんとしんどくなる? 胸が苦しい? 体温は熱くなるの?」
「う……! くっ、苦しいし熱い! 心臓も破裂しそうだって! たっ、頼むから勘弁してくれ……!」
俺が懇願すると、三津島クロエはじーっと俺の顔を見つめた後、ふん、と鼻を鳴らして俺を解放した。
途端に膝から力が抜け、俺はその場にしゃがみ込んでしまった。
俺が右手を心臓の真上に添えて、新品になった心臓の調子を心配していると、三津島クロエがなにかを確信したような表情で俺を見下ろした。
「あぁ、そっか……零宮って前世、重い心臓病だったんだっけ? なるほど、《《それでか》》」
「だっ、だから、それは嘘じゃない、嘘じゃないんだって。俺、心臓だけはマジでダメなんだ。せっかく新品になったから大事にしたいんだよ。頼むよ……」
「ふーん、そうなんだ。ま、今まで私とこれだけ深く付き合っておいて、今更って感じだけどね」
三津島クロエが何だかサバサバとした口調で言うなり、俺を置いて歩き出した。
え? と俺がちょっと驚くと、三津島クロエがちらりと顔だけで俺を振り返った。
「何してるん? さっさと立って歩かないと遅刻するんだからね」
妙に冷たい口調でそう言い放ち、三津島クロエは俺を放置したまま、早足で歩き去っていった。
瞬間的に、俺の胸に信じられないぐらい凍てついた風が吹きつけて、さっきまでドカドカとうるさかった心臓が急速に冷却された。
アレ? 俺、三津島クロエに見捨てられた――?
そう考えると、地面に突如として穴が空き、その下に口を開けた無明の奈落に真っ逆さまに落ちていくような、途方もないような絶望感が全身を満たした。
俺は立ち上がろうとしたけれど、あまりの絶望に、膝に力が入らなかった。
朝の爽やかな通学路が、折り重なる友軍の死体とちぎれた手足、飛び出した内臓が散乱する、密林の戦場に変わってゆく気さえした。
敵軍が放った直撃弾により陣地の味方は全滅し、俺は着弾とともに飛んできた金属片によって酷く足を負傷し、立ち上がって逃げることが出来なくなった。
それなのに、それだというのに――今まで肩を支え合って立ち、乏しい水と食料を分け合い、きっと生きて帰ろうと互いを励まし合っていた戦友が、冷たく俺に背中を向けて去ってゆこうとしている。
ま、待ってくれ。俺を置いていかないでくれ。
俺、お前に見捨てられたら、また寂しいぼっちに逆戻りしてしまう。
い、いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。
俺、お前にだけは見捨てられたくない、見捨てられたくないんだ。
頼むよ、戦友。俺を担いで逃げてくれ。
俺、お前に見捨てられたら、死んじまうだろ――。
声を限りに叫んでみても、戦友はついぞ振り返ることすらなく、俺の絶叫は虚しく密林にこだまするばかりだった。
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