雑木に飲まれる
朝の港は、本当に小さかった。
夜の甲板で海を見ていた気配が、まだ皮膚に薄く残っている。俺は明け方に目を覚まし、船室でローブの襟を整え直した。白と青の布は潮気を吸って少し重い。前を開いたまま革ベルトを締め、海溝晶の位置を指で確かめる。胸元のプラチナの首飾りは冷えていた。
昨日は普段より深く眠った。眠りの深さは身体に残る。肩の内側がほどけていて、逆に足の裏だけが船の揺れを覚えていた。南西海域の更に外側へ向かう途中で、この島に寄る。神殿への経由地でもあり、鍛冶場の手がかりの島でもある。眠った分だけ目は冴えていた。
漁船が四隻、係留されている。船板は古い。縁に塩が白く固まり、帆布には何度も縫い直した跡があった。朝の潮は弱く、船腹を叩く音も小さい。港の板敷きには魚の匂いと湿った縄の匂いが混ざっている。大きな港なら人の声で薄まる匂いが、ここではそのまま鼻に残った。
海守り衆の標識を持つ家は港の一番奥に一軒、戸が開いていて中で年配の女が網を繕っていた。針を持つ指は節が太い。網の破れた目を拾い、引き、結び、余った糸を歯で切る。動きに迷いがない。住民は数十人規模、漁業と細い農業で食っている島だ。
地図は持っていない。鍛冶場の跡まで道を聞かなければ進めない。ヒュウマは深い藍と砂色の戦闘服の上から潮鎚の位置を確かめていた。左耳のプラチナのピアスが朝の光を一度拾う。手の甲の擦り傷は薄くなっていたが、まだ完全には消えていない。
俺たちは年配の女に道を尋ねた。女は手を止めて、内陸の谷の入口の方を指した。
「あの林の奥だよ。歩いて、半時もかからん」
「ありがとうございます」
俺は短く礼を返した。ヒュウマは女に頷いた。女は俺たちを順番に見た。視線は短かった。客員賢者の白青のローブと海守り当代の戦闘服を、女は一度ずつ確認して自分の作業に戻った。
その視線には値踏みだけではなく、思い出すような間があった。よそから来た者を見慣れていない島ではない。だが、見慣れている島でもなかった。昔にも同じように外から来た者がいて、何かを尋ね、何かを残していったのだろう。女はそれを口にしない。網の目を一つ戻す方を選んだ。
俺たちは内陸へ向かった。
──────────────────────────────
道は最初は石畳だった。港から集落の中ほどまでは、古い石が狭く敷かれている。石の間には砂が入り、春の草が細く伸びていた。家々の戸は半分だけ開いている。中から人の気配はするが、こちらを見る者は少ない。朝の仕事が先にある島の沈黙だった。
集落を抜けると土の道に変わった。靴底の音が鈍くなる。昨日の夜に降ったのか、土の表面だけが湿っていて下は乾いていた。半時もしないうちに獣道に近くなった。両側の雑木は背が高い。枝はまっすぐ伸びず、隣の枝に押されて曲がっている。蔓が枝から枝へと絡みついて、頭の上を低く塞いでいた。
日の光が斜めに差し込んでくるが、地面まで届かない部分が多い。明るい場所と暗い場所が細く切れていて、歩くたびに足元の色が変わった。乾いた葉。濡れた土。折れた枝。落ちた実の殻。踏むたびに音が違う。
ヒュウマは半歩後ろを歩いていた。護衛の位置だ。俺のローブの裾が枝に引っかかる前に、枝の流れを目で拾っている。言葉はない。言葉がない時の方が、ヒュウマの仕事は分かりやすい。足音は軽いが沈まない。潮鎚を背負っていても、獣道で余計な音を立てなかった。
歩きながら、俺は周囲を読んだ。
雑木は荒れた林だった。間伐の手が入っていない、誰も育てていない、ただ放置されて広がっただけの林。鍛冶場が機能していた頃には、誰かがこの道を整えていたはずだ。職人と二人組が往復した道。職人が消えてからは、誰もこの道を整えていない。
林は嘘をつかない。人が手を入れれば、枝の切り口が残る。荷を運べば、道の真ん中が固くなる。雨の日も晴れの日も同じ場所を踏めば、草はそこを避ける。今の道はそれを忘れかけていた。完全に消えたわけではないが、覚えている力が弱い。
鍛冶場に通う道なら、金属や炭や食料が動く。重いものは同じ線を使う。線が残る。ここに残る線は細い。廃業の後に誰かがたまに来た程度だ。商いの道ではなく、思い出か確認の道。あるいは何かを探しに来る道。
「蒼凪さん」
「ん」
ヒュウマが低く呼んだ。俺は足を止めた。
「足元に、古い金具です」
ヒュウマが立ち止まって、足元の落ち葉を掻き分けた。錆びた金具が一つ、土に半分埋まって出てきた。輪の一部が欠けている。釘ではない。鍛冶場で使う材料の一部、運搬中に落としたものだろう。薄い赤錆の下に黒い地が見える。
ヒュウマは金具を取り上げた。指先で泥を落とし、布で包んでから腰の小袋に入れた。腰の小袋は応急処置の道具を入れるものだが、小物を一時的に収めるにも向いている。動作は丁寧で、拾った物を証拠として扱う手つきだった。
「持っていきます」
「ああ」
俺たちはまた歩き始めた。
その金具が何かを決めるのは後でいい。今は場所と並べる。落ちていた位置。土に埋まった深さ。錆び方。運搬中に落ちたのか、壊れたものを捨てたのか。道の上の小さな点は、廃墟の点と重ねた時に意味を持つことがある。
風は林の上を抜けていた。枝の下まではほとんど降りてこない。空気は少し湿っていて、土と古い木の匂いが濃い。海から半時も離れていないのに、ここでは波の音が聞こえなかった。島の内側に入り込むとはそういうことだ。外の海が一度消える。
──────────────────────────────
廃墟は、谷の入口にあった。
林が急に切れたわけではない。雑木の密度が少し薄くなり、足元の石が増え、蔓の間に人工の直線が混じった。そこから先が敷地だった。最初に見えたのは石組みだった。鍛冶場の壁の半分が倒れて、蔓に絡まれている。石の重なりはまだ頑丈な部分と、外へ腹を割るように崩れた部分に分かれていた。
屋根の梁は落ちて、夏草の中に沈んでいた。黒く煤けた面が一部だけ残っている。雨を吸って膨らみ、乾いて割れた木の匂いがした。元の建物の輪郭は、地面に石組みが残っている範囲でしか分からない。鍛冶場としては大きくない。だが一人の職人が炉を持ち、弟子か家族の手を借りて仕事をするには足りる広さだった。
職人の家は鍛冶場の隣に建っていたはずだ。家の方は壁が二面残るだけで、戸口は半分傾いていた。戸板はない。柱の根元に蟻の道が走り、古い敷居には細い草が並んでいる。家の中に残っている生活の形はほとんど消えていた。竈の跡らしい石の囲いと、壁際の棚だったものだけが分かる。
雑木が、すべてを飲み込んでいた。
飲み込むというのは、壊すことと違う。石は残る。梁も残る。家紋も残る。だがそこにあったはずの順序が失われる。道具を置いた場所。朝に火を入れた場所。夕方に戸を閉めた手の高さ。そういうものが葉と苔と蔓の下で同じ濃さになる。
俺はローブの裾を払って、敷地の中に入った。裾の端が湿った草を撫でる。ヒュウマは入口の脇に立って、辺りを見回している。護衛の姿勢のままだが、敵がいる雰囲気はない。ヒュウマも分かっているはずだ。分かっていても位置を崩さない。それが護衛の仕事だ。
俺は鍛冶場の中央に立った。
炉の跡が、石組みの中央に残っていた。石は黒く焼けて、内側に苔が生えている。炉の口は蔓と落ち葉で半分埋まっていた。鍛冶場の心臓が、林の底に沈んでいるように見えた。俺は屈んで、苔を払った。指の腹に湿り気がつく。黒い石のざらつきがその下から戻ってくる。
炉の内側の焼けの色を見る。表面の焼けが、内側まで深く達していない。長い年月の雨で薄れた分を差し引いても、熱の入り方が浅い。最後に火を入れた時に温度が上がりきる前に止めた、という色だった。火床の端に残る灰も均一ではない。燃え切った灰の白さではなく、途中で湿りを噛んだ灰の鈍さ。
廃業の数日前ではない。職人が順に道具を片づけ、火を弱め、炉を閉じた色ではなかった。最後の火入れは廃業の少し前に、中途半端に止められている。
急に廃業した、ということだ。あるいは廃業ではなく、急に止まった。
炉の脇には割れた鉗子の先が落ちていた。完全に朽ちていて使い物にはならない。だが置き方が不自然だった。仕舞われたのではなく、落ちたまま残った形。仕事場には仕事場の片づけ方がある。これはその外にある。
俺は立ち上がった。
戸口の柱に、家伝の家紋が刻まれていた。半分は苔に飲まれている。俺は苔を払った。緑の下から線が出てくる。家紋が出てきた。鍛冶場の伝統的な紋、特に異常はない。職人の家の家紋が、鍛冶場の戸口に刻まれているというだけだ。
それでも苔の下から家紋が出てくるのを見ると、家が「ある」ということを思い出す。雑木は家紋を飲んでいた。家紋の下にあるはずの職人の意志は、もう読めない。
ただ線の深さは読める。浅く飾っただけの刻みではなかった。刃を入れた時の迷いが少ない。外から見せるためだけではなく、自分が毎朝見るために刻んだ線だ。戸口を通るたびに、職人はこの家紋の横を通った。炉に火を入れる朝も、客を迎える昼も、戸を閉める夜も。
鍛冶場の隅に、鉄屑が落ちていた。
俺は近づいて、鉄屑の一つを拾った。小指ほどの長さしかない。表面は錆びているが、錆びの下にまだ硬さが残っていた。指で表面を撫でる。地金の縞が薄く見える。角度を変えると、縞が一瞬だけ浮く。細く、均一で、ところどころ波の目が乱れる。
海産特殊金属、青みを帯びている。刃の芯に海の青が沈んでいる。波が一瞬だけ金属の中に閉じ込められたような色。その記憶が指先で戻る。岩場の腕利きの男の刀、詰所の倉庫で見た刀身、すべて同じ縞だった。同じ青み。同じ材質。同じ海の底から取り出したものを、別の手が別の形にした光。
同じ手だ。
ここで打たれた。完成品は持ち去られている。試作の屑だけが、雑木に紛れて残っている。それでも、縞は嘘をつかない。
俺は別の鉄片も拾った。形は違う。片方は薄く延ばされ、片方は途中で切られている。どちらも完成品の破片ではない。試した跡だ。温度。硬さ。曲がり方。刃にする前に確かめた痕跡。職人は材料を見ていた。材料に見返されながら、何度も打ったはずだ。
完成したものはない。持ち去られたのか、最初からここに残されなかったのか。少なくともこの場にあるのは屑だけだ。屑は軽く見られる。だから残る。残るものほど、時々よく喋る。
ヒュウマは入口脇から周囲を見ていた。俺が鉄屑を布に包むのを見ても、何も言わない。視線だけが一度下りる。海守りの戦闘服の肩に、林から落ちた小さな葉がついていた。本人は気づいていない。気づいていても今は払わないだろう。
廃墟の周辺を、もう少し歩いた。地面に薄く残る足跡、最近のものは少ない。苔の上に踏まれた跡があり、古い草が一方向に倒れている。年に数回、誰かが訪れている。定期的ではない、思いつきのような訪問。あるいは年ごとの用事。誰が、何のために、まだ分からない。
職人の妻子が墓参りに戻るという話は、先に別の口から聞いていた。島の名まで淀みなく出た情報だった。ここに残る足跡がそれと合うかは、長に確認すればいい。既知の情報は現地で輪郭を得る。文字や人づての話は乾いている。土についた跡は湿っている。
俺は敷地の端まで出た。谷の入口は日が入りにくい。風は上を通るだけで、廃墟の中には淀みが残る。鍛冶場としては悪くない場所だ。火を扱うなら風は強すぎない方がいい。水も近いはずだ。音も集落へ届きにくい。仕事に向く場所は、隠し事にも向く。
「ヒュウマ」
「はい」
「集落に戻ろう。一度、住民の話を聞きたい」
「分かりました」
ヒュウマはすぐに頷いた。質問はしなかった。俺が炉と家紋と鉄屑を見たことを、ヒュウマは見ている。今の段階で説明を求めるより、島の口から出る言葉を先に聞く方が早いと分かっている。
──────────────────────────────
集落に戻る道は、来た時より明るく感じた。雑木の濃さは変わらない。ただ廃墟を出たことで、林の重さが背中の方に移っただけだ。
背中に移ったものは軽くならない。前にある時は押し分ける。後ろに回ると見えなくなる。見えなくなった分だけ、首の後ろで重くなる。ヒュウマは同じ歩幅でついてくる。時折、足元の枝を避ける音だけがした。
集落に近づくと、海の匂いが戻ってきた。最初は薄く、次に縄と魚の匂いが混ざる。家々の屋根が見える。畑の端で干された網が揺れていた。港の方から木槌の音がする。船員たちが船板を直しているのだろう。
港に近い宿屋兼商店の前で、俺は足を止めた。年配の男が一人、戸口の前で椅子に座って煙管をくわえている。火は点いていない。吸うためではなく、手と口の置き場として持っている。情報屋の老人と同じ姿勢だが、別の人間だ。あの老人のような市の匂いはしない。こちらは島の湿度を含んでいる。
年配の男は俺たちを見て、煙管を口から離した。目は細い。俺のローブを見て、次にヒュウマの戦闘服を見た。最後に潮鎚の柄を一瞬だけ見る。その順番で、用件を組み立てた顔になった。
「客員賢者さんかね」
「そうです」
「碇島の長だ。話があるなら聞こう」
長は俺たちを家の中に通した。宿屋兼商店の前を通る時、棚には干した魚と粗い塩の袋が並んでいた。奥には酒瓶が数本だけある。島の外から入る物は少ない。必要なものだけを置く店だった。
土間の奥に小さな火鉢があって、その前に円座が三つ並んでいる。火鉢の火は弱い。灰の中に赤が少し残っている程度だ。煙の匂いは薄く、茶葉の匂いの方が勝っていた。妻らしい女が茶を運んできて、それから奥に下がった。足音が静かで、こちらを見すぎない。見ないことも客への扱いの一つだ。
長は俺たちと向かい合って座った。煙管は膝の近くに置かれている。火は点いていないまま。ヒュウマは俺の斜め後ろではなく、横に座った。長の話を聞く者としての位置だ。護衛の意識は消していない。肩の角度だけが少し開いている。
「鍛冶場のことだろう」
「ええ」
長は頷いた。最初から分かっていた、という顔だった。よそから来た客員賢者と海守り当代が連れ立って来る用件は、この島では一つしかない。長の声には驚きがなかった。驚く時期はとっくに過ぎたのだろう。
「何が知りたい」
「廃業の経緯を」
長は煙管を膝の脇に置いた。それから、火鉢の灰を見た。指先で灰をならすわけではない。ただ見る。言葉を選ぶ時に、正面の顔ではなく灰を見る人間は多い。灰は返事をしない。だから口に出す前の言葉を置きやすい。
「あの職人のところには、定期的に客が来ていた」
「客」
「二人組だった。いつも二人で来ていた。一人は背の高い男、もう一人は小柄な男。フードを被っていた。顔は誰も覚えていない」
「商売の客ですか」
「商売人ではない雰囲気だった。ただ、職人とは長く話していたな。何度も来ていた」
俺は頷いた。
背の高い男と小柄な男。二人で来る。顔を残さない。フードを被る。商売の荷を持つわけではない。職人と長く話す。注文というより、指示か相談か確認に近い。島の住民が覚えているのは輪郭だけだ。顔はない。名前もない。
長は続けた。
「あの二人組、こちらの言葉も話したが、二人だけで話す時は別の言葉を使っていた。わしが一度、配達で鍛冶場に行った時に聞いた」
「別の言葉」
「中央大陸の言葉だと、後で街の商人に聞いた」
俺は短く頷いた。ヒュウマの方は見なかった。中央大陸の言葉、という情報の重さはヒュウマにも届いているはずだ。海洋同盟内の出来事として処理してきた異教徒集団が、別の地理を持つ可能性。海洋同盟の中だけで完結する組織ではない、ということ。
言葉は足跡より長く残る場合がある。聞いた者が意味を知らなくても、響きの違いは残る。島の長が後で街の商人に確かめたなら、その時点で不審はあった。だが不審は証拠ではない。小さな島では、証拠にならない不審を口に出しすぎると人を傷つける。
長が指を折って数え始めた。
「定期的に来始めたのは、何年前だったか」
長の指が、ゆっくり動いた。節の太い指だった。漁をする手ではないが、帳面だけをめくってきた手でもない。島の物事を数え、季節と結び、誰がいつ何をしたかを覚える手だ。
「あれは、サルヴァトーレ家の若いの、お前さんが当代になる少し前だ」
俺はヒュウマの方を見ないようにした。視野の端で、ヒュウマの右手が一度だけ動いた。潮鎚の柄に触れて、それから手を戻した。長は気づかなかった。俺は気づいた。気づいたが、何も言わなかった。
六年前。ヒュウマが12歳になる年。父が亡くなった年。
時期が、一致する。
一致は答えではない。だが無視できる偶然でもない。海の上で別々に見えていた浮標が、同じ潮に乗って動いていると分かった時の感覚に近い。まだ綱は見えない。見えないが、動きだけが先に揃う。
長は指を折るのをやめて、煙管を取り直した。
「あの職人、廃業する少し前から、なんだか元気がなかった」
「元気が」
「断りたい依頼がある、と妻に話していた、と妻が後で言っていた。詳しいことは、妻も聞かなかったらしい」
「断ったあとは」
「断った後、二人組は来なくなった」
長はそこで、少しだけ止まった。煙管を手の中で一度回した。火の点いていない煙管の先が、灰の上で小さく揺れる。言葉を軽くするための仕草ではない。重いまま置くための仕草だった。
「その代わり、職人もある朝家を出てから、戻らなかった」
長は俺を見た。長の言葉は「戻らなかった」で止まった。続きはない。長は「廃業した」とは言わなかった、「行方不明になった」とも言わなかった。「戻らなかった」とだけ言った。
俺は長の言葉の隙間を読んだ。
長は職人が消されたと思っている。それを言葉にしない理由がある。島の中で職人の妻子が他の島に移ってからも、長は「行方不明」「廃業」と言い続けてきた。皆そう言っている。皆、口に出さない。それが島の長の役目で、島の住民の暗黙の合意だ。長は俺に、自分の疑念を全部は渡さない。「戻らなかった」までで、止める。
それは優しさでもある。臆病とは違う。小さな島で生きている者は、言葉がどこまで届くかを知っている。妻子が戻ってくる年に一度の墓参りで、誰かが余計な言葉を投げれば、それはまた傷になる。長は疑いを持ったまま、島が壊れない言い方を選んできた。
「妻子は」
「他の島に移った。年に一度、墓参りに戻ってくる程度だ」
俺はその島の名を確認した。長は短く答えた。先に聞いていた名と一致した。情報屋の老人が淀みなく言った名と同じだった。乾いた情報が、ここで少し湿った。妻子が移った先は作り話ではない。墓参りに戻る足跡も、廃墟の周辺に残っていたものの一部と見ていい。
「鍛冶場は」
「誰も買い手がつかなかった。雑木に飲まれていった」
「二人組はその後」
「廃業以来、一度も島で見ていない」
俺は頷いた。長も頷いた。話はそこで終わった。
終わった後の沈黙に、茶の湯気だけが残った。長の妻は奥にいる。姿は見えないが、器を置く小さな音がした。長は煙管を持ったまま、火を点けない。点ければ煙が出る。煙が出れば時間が伸びる。伸ばす必要はないと長は判断している。
俺は長に銅貨を一枚置いた。長は受け取って、煙管をまた口にくわえた。火は点けないまま。茶は半分飲んだ。渋みが舌に残る。島の茶は濃くない。薄いが熱い。ヒュウマも自分の茶を飲み干した。器を置く音が静かだった。
長の妻に挨拶をして、家を出た。外の光はさっきより高い。港の木槌の音は止んでいた。船板の補修が終わったのかもしれない。潮の匂いは変わらない。だが俺の中で、港の位置が少し変わっていた。出入り口ではなく、島が黙っているものの縁に見えた。
──────────────────────────────
集落を出てから、俺はもう一度、廃墟まで戻った。ヒュウマは黙ってついてきた。
二度目の道は短く感じる。足が覚えたからではない。読むべきものが絞られたからだ。最初は全体を見る。次は必要なものを見る。雑木は同じように頭上を塞いでいるが、俺の目は枝ではなく道の端を拾っていた。年に一度の墓参り。思いつきの訪問。二人組が消えた後の空白。
ヒュウマは余計なことを聞かなかった。長の家で動いた右手は、今は静かだ。潮鎚の柄に触れた時の短い動きが、俺の視野の端にまだ残っている。聞けば答えるかもしれない。答えないかもしれない。どちらにせよ、今の問いではない。
廃墟の戸口の家紋を、もう一度見た。苔を払った部分は湿って黒くなっている。線の奥に入り込んだ緑までは取り切れない。家紋は、職人の意志を全部は語らない。だが家紋の彫りの深さと刻みの線の癖を、俺は今もう一度読んだ。
最後に家紋を補修した手は、躊躇いがなかった。刃の入る角度が揃っている。古い線をなぞるだけなら、もっと浅くていい。ここにはわざわざ深く入れ直した跡があった。職人は自分の家紋を最後まで誇りに思っていた、と読める。誇りに思いながら、依頼を断った。それが何の依頼かは分からない。だが断ることが、自分の家紋を守ることだったのだろう。
それでも、職人は戻らなかった。
炉の前に立つ。苔を払った石は、さっきより黒く見えた。火の色はない。だが途中で止まった熱の形だけが残る。依頼を断った後、二人組は来なくなった。職人もある朝家を出て戻らなかった。最後の火入れは中途半端に止まっている。順番を並べても、誰が何をしたかまでは見えない。
俺は鉄屑を包んだ布をもう一度開いた。光の角度を変える。青みが薄く返る。岩場の男の刀と詰所の刀身が頭の中で重なる。刃の形は違う。使われた場面も違う。だが地金の縞は同じ場所を指す。職人の手がここにあり、完成品は外へ出た。外へ出たものは人の手を傷つけた。
長の話で、二人組には高さの差があると分かった。顔は残らない。言葉は中央大陸に繋がる。訪問は定期的だった。職人は元気を失い、断りたい依頼があった。断った後に来なくなり、職人も戻らなかった。ここまでで輪郭は増える。輪郭が増えるほど、中心の空洞もはっきりする。
俺は廃墟の中で、もう一度立ち止まった。雑木も蔓も苔も、何も変わっていない。長の言葉が増えた、地金の縞の確認が増えた、二人組の輪郭が増えた、時期の一致が増えた。点は増えた。だが繋ぐ筋は、まだ見えない。
先日、詰所の倉庫の戸口で、ヤコウさんが言った言葉が頭の隅で鳴った。
「輪郭だけだ」
俺はあの時、布に刀を戻しながら「ああ。中身がない」と返した。
あの時の輪郭が、今この島で広がった。中身は、まだ手に入らない。
倉庫の戸口には朝の光が差していた。ヤコウさんの背中の輪郭が白く取られていた。末端は知らない。職人は消えた。鍛冶場は廃墟。上は隠れている。あの時に並べた箱の中身は、今も空のままだ。ただ箱の数だけが増えた。
空の箱は役に立たないわけではない。形がそろえば、入るはずのものの大きさが分かる。重さの見当もつく。だが今はまだ、指を入れても底に触れない。焦って名前を入れれば、後で間違える。間違えた名前は次の観察を濁す。
ヒュウマが入口の外で待っている。背中の潮鎚は林の暗がりの中でも形が分かる。彼は廃墟を急かさない。自分の父の年と同じところに長の言葉が置かれても、今は俺の調査が終わるのを待っている。そういうところがある。自分の中で何かが動いていても、役目を先に立てる。
俺は家紋に残った苔を指で少し払った。線は出る。だが意志は戻らない。戻らないものを戻すことはできない。できるのは、残った線を読むことだけだ。
「行こう」
「ええ」
俺たちは廃墟を背にした。
帰り道で、林はまた背中に回った。風が少しだけ下りてきて、蔓の先を揺らした。俺は振り返らなかった。振り返らなくても、谷の入口の影と家紋の線は頭に残っている。残ったものを乱さないように歩く。
──────────────────────────────
港まで戻ると、若手の船員たちは船板の補修を終えていた。新しい板の色だけが少し明るい。古い板の灰色の中に、削ったばかりの木の色が細く入っている。艫からリオンが俺たちに頷いた。朝より顔に潮の乾いた跡が増えていた。
「ヒュウマさん、出航は」
「いつでも」
リオンは頷いて、若手たちに指示を出した。綱が外される。帆が少し鳴る。港の女は海守り衆の家の前でまだ網を繕っていた。こちらを見たかどうか分からない。針を持つ手は止まらなかった。
ヒュウマは船の手すりに右手を添えて、海の方を見ていた。海は穏やかだった。今日の海は、昨日の海より静かだ。波の上に春の光が薄く乗っている。島の影を離れれば、風も少し変わるだろう。船の腹が岸を離れる前の短い揺れが、足元から上がってきた。
俺はヒュウマの横顔を一瞬だけ見た。
ヒュウマは何も言わない。海を見ている。手すりの上でヒュウマの指が一度だけ動いた、それから止まった。長の家で潮鎚の柄に触れた時と同じ動きの、もう少し小さい版だった。
俺は何も聞かなかった。
聞きたいことがなかったのではない。聞かないことが、今は適切だった。ヒュウマの中で、長の言葉と父の死の時期が勝手に並び始めている。並び始めたものを、俺が言葉で動かしてしまうのは違う。ヒュウマが自分で並べる時間を、ヒュウマに渡す。
昨夜の甲板で、ヒュウマは海を見ていたはずだ。俺が眠っている間、海守りは海を見る。それが彼の仕事で、彼の息の仕方でもある。今は海を見ているようで、たぶん別のものも見ている。十二歳になる年。父が亡くなった年。その近くに二人組の訪問が置かれた。俺が置いたのではない。長の指が置いた。
雑木は、ここだけではない。
俺は内心でそう思った。次の島でも、その次の島でも、雑木は増えていく。鍛冶場の島で四つ点が増えた、輪郭は広がった、中身はまだ手に入らない。だが雑木の数が増えるたびに、輪郭の総量は増える。総量が一定の量を超えれば、繋ぐ筋が浮かんでくる瞬間がある。それまで、点を増やし続ける。
読む目と海を守る息は、同じものではない。俺は線を探す。ヒュウマは波と人の動きを拾う。別の機能が同じ船に乗っている。悪くない配置だ。今はそれでいい。踏み込みすぎれば、まだ柔らかいものを潰す。
船が港を離れた。
雑木に飲まれた島が、海の向こうに小さくなっていった。林の濃い緑が距離が遠くなるほど一塊になり、谷の入口の影が見えなくなり、最後には島全体の輪郭だけが残った。家紋も炉も鉄屑も見えない。見えないものの方が、頭の中では濃く残る。
港の四隻の漁船が小さくなる。海守り衆の標識を持つ家も、年配の女の手元も、長の火の点いていない煙管も遠ざかる。島は何も言わない。言わないまま、雑木の緑だけをこちらに向けている。
「悪くないな」
俺は短く言った。
「ええ」
ヒュウマが返した。声は普段より低かった。低かったが、揺れていなかった。
船は西へ進んだ。次の港まで、半日。




