とあるバトラーの静かならざる一日
薔薇の魔女の館が四人の客人を迎えてから三日が経った。
ディーノ・ベラルディは朝の鐘より早く目を覚ました。
使用人棟の東窓はまだ淡い。海から上がる光が細く差し込み、白い壁と畳まれたリネンの角を順に撫でていく。遠くで荷車の輪が鳴る。潮の匂い。湿った石の匂い。洗濯場で昨夜干された布の冷えた匂い。
サルマンディアの朝は早い。花屋が水を撒く音も浮いてくる。港へ向かう人足の声もある。婚礼宿の裏口で箱を開ける乾いた音も町の底で弾けた。
けれどエヴァンジェリーネ邸はそれより早く目を開ける。
ディーノは寝台から降りた。足裏に床板の冷たさが触れる。湯で顔を拭く。髪を押さえる。襟を立てる。
鏡の中の自分は二十一歳にしては落ち着いていた。そう映ってほしいと願うあたりがまだ二十一歳なのだと胸の奥で苦くなる。
袖口の皺を伸ばす。靴の艶を見る。手袋の指先にほつれがないか確かめる。
この館に入って三年。住み込みの若いバトラーとしては、そろそろ慣れましたと言ってよい頃合いだった。
けれどディーノはその言葉をまだ口にしたことがない。
薔薇の魔女の館は人を慣れさせるほど単純ではない。
使用人棟を出ると廊下の灯が二つ残っていた。夜番が残した灯だ。ディーノは手順通りにひとつを落とす。もうひとつは残した。
表玄関へ続く角で香炉の灰を見た。昨夜の客用香は燃え切っている。銀の受けに落ちた灰の輪は崩れていなかった。記録札には夜番の小さな字が残る。
大玄関は名士の邸宅の顔をしている。黒い扉。磨かれた真鍮。大理石の床。半公的な場としての静かな圧。
東の応接棟は書類を預かる場所だ。評議会の使いも商会の者も、婚礼宿の支配人もまずそこで肩書を置く。西館は療養の客人を起こさぬよう歩く場所である。庭は婚礼都市が勝手に夢を借りる場所でもあった。
ここは隠れ家ではない。
だが誰でも入れる家でもない。
その違いを間違えないことが、ここで最初に教えられる作法だった。
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朝会は使用人棟の小さな記録室で行われる。
扉を開ける前から紙の匂いがした。古い帳面。新しいインク。蜜蝋。洗い立ての布。長卓の上には人数分の小さな手帳が並ぶ。中央にはその日の記録札が置かれていた。札の端には薄い封蝋の印がある。
長卓の端に執事頭のアルフレッド・ダルマスが立っていた。黒燕尾服と白手袋。大きな影でありながら足音はない。反対側にはメイド長のメリッサが控えている。腰の帳面と封蝋道具が朝の光を鈍く返した。
料理長の御厨透真は厨房から来たばかりだった。白い上着の袖をひとつ折っている。顔は若い。だが包丁を握る人間の目をしていた。火加減と体調と嘘を同じ台の上で見る目だ。
住み込みのバトラーが三人。夜番から引き継ぐ者が二人。西館担当のメイドが四人。扉際に若いフットマンが一人。庭師は通いなのでまだ来ていない。洗濯場の者は鐘の後に合流する。
使用人たちは決められた立ち位置にいた。長卓へ近すぎない。扉を塞がない。上役の視線が一度で巡る距離。
平常。
ディーノは心の中でその言葉を転がした。
この三日、平常という言葉は便利だった。便利だが信用しすぎると足元をさらわれる。
アルフレッドが記録札へ目を落とした。
「西館客人、四名。療養三日目」
低い声が部屋の中をまっすぐ通った。
「凪様。昨夜の睡眠は短め。薬湯は半量。朝食は御厨様の判断に従うこと」
ディーノは手帳に書いた。凪様の名の一字目がわずかに詰まる。すぐに姿勢を直した。
「ヒュウマ様。右肩と脇腹の処置を継続。湯浴みは短時間。介助の際は負荷をかけぬこと」
ペン先が紙を擦った。隣のバトラーの息が短く整う。皆が聞いている。誰も顔を上げすぎない。
「イーリス様。喉に負担をかけぬよう蜂蜜水を常備。庭園使用の希望あり」
メリッサが小さく頷いた。蜂蜜水の壺はすでに温め直されているはずだった。
「シレリオ様。祈祷の時間を妨げぬこと。海鳥の飛来により南側窓と庭園の清掃回数を増やす」
記録室の空気がかすかに揺れた。
誰も笑わない。
笑わないが、全員が昨日の午後を思い出した。花の庭に海燕が十数羽降りてきた。シレリオ様が噴水のそばで静かに手を合わせていたので、誰も追い払えなかった。結果として庭師見習いのひとりが半泣きで水桶を三つ運んだ。
メリッサが視線だけで場を整えた。
「鳥の落とし物は乾く前に落としてください。葉に残すと傷みます」
「はい」
若いメイドたちが揃って返事をした。返事の高さに緊張が混じる。
「黒猫の所在は」
アルフレッドが言った。
夜番のバトラーが手帳を開く。
「二刻前に西階段。半刻前に厨房前。現在は不明です」
「フェリ様が厨房前にいらした時は」
透真が眉をかすかに上げた。
「焼き魚を下ろす前でした」
「それは所在というより、ご希望の予告でございますね」
メリッサが淡々と言った。
透真はひと呼吸置いて答えた。
「次から小鉢を用意します。塩は抜きます」
「よろしい」
アルフレッドは当然のように頷いた。
黒猫は黒猫である。
だが館の者はフェリ様と呼ぶ。猫の姿の時は言葉を話さない。けれど理解していないわけではない。人が聞き取れないだけだ。その程度のことは、ここに三日もいれば読み取れる。
ディーノは初日にそれを学んだ。
水差しの置き場を変えた時、黒猫がじっと彼を見た。目をそらしてはいけない気がした。ディーノは「失礼いたしました、フェリ様」と言った。黒猫は一度だけ瞬きをした。その後で悠々と窓辺へ移った。
正解だったのかは今も測れない。
ただ翌朝から、フェリ様はディーノの靴を踏まなくなった。
「本日の来客」
アルフレッドの声でディーノは背筋を戻した。
「評議会の使い。土地契約に関する照会とマーレ社関連の確認書類を預かる予定。奥様へは取り次がず東応接棟で受領する」
記録役が頷いた。ペン先が短く鳴る。
「婚礼宿の支配人。庭園の儀礼日程確認。こちらも取り次がない。許可ではなく日程記録であることを明確に」
「承知いたしました」
メリッサが言った。
アルフレッドはそこでディーノを見た。横長の金の瞳が朝の薄明かりの中で細くなる。
「ベラルディ」
「はい」
返事の息がほんのわずか乱れた。
「午前は西館と表玄関を兼ねなさい。客人の状態を見る。来客の肩書を見る。どちらも見落とさぬように」
「承知いたしました」
「見るな。だが見落とすな」
ディーノは一拍置いて頭を下げた。
「はい、執事頭」
「聞くな。だが異変は拾え」
「はい」
この二つはアルフレッドの教えの中でも特に難しい。
使用人は目を使う。耳も使う。けれど覗かない。踏み込まない。客人の秘密を自分のものにしない。必要なものだけを拾い、必要な相手へ渡す。
その境目はいつも細い。
この三日は特に細かった。
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朝食の支度は厨房から先に動き出す。
厨房へ入ると湯気が天井へ薄く広がっていた。銅鍋の底が火で低く鳴る。刻んだ香草の青い匂い。炊いた米の甘い匂い。港から来た白身魚の清潔な匂い。
透真は一つの盆を見てから、別の鍋の蓋をかすかにずらした。
客人四人の膳はそれぞれ違っていた。
サルマンディアの厨房では油と香草を惜しまない料理が好まれる。だが今の西館にそのまま出せるものは少ない。透真は東方の出汁と港町の魚を合わせ、身体が食べられる形へ料理を寄せていた。
ヒュウマ様の盆には白身魚の蒸し物と卵。塩を控えた肉の煮込み。柔らかい根菜。鉄を補うための濃いスープ。器は深めで、片手でも取りやすい位置に匙が置かれている。
凪様の盆には米を崩した柔らかな粥。温かい茶。白身魚のほぐし身。酸味を抑えた果実。小さく見える器にも重さがあった。戻していくための重さだ。
イーリス様には薄く焼いたパンと果実の煮物。蜂蜜水。喉に触らぬよう香辛料は遠ざけられている。杯の縁には小さな布が添えられていた。
シレリオ様には海藻と貝の澄んだ汁。蒸した芋。塩気のある小鉢。湯気の立ち方がほかの盆より早い。海の匂いが淡く残る。
ディーノは盆の違いに負傷の順番を読んだ。
ヒュウマ様がいちばん重い。
次に凪様。
イーリス様とシレリオ様は歩ける。けれど無傷ではない。
器の違いは手当ての違いだった。匙の角度。器の深さ。湯気の量。魚のほぐし方。そういうものが包帯より静かに客人の状態を語っている。
透真の膳は食べさせるためだけのものではなかった。戻る場所を食卓の形にしている。ディーノの胸にはそう刻まれた。
西館の食堂は朝の光がよく入る。
四人は揃って席に着いていた。
最初に目につくのはヒュウマ様だった。身体が大きい。椅子に座っているだけで背筋の強さが伝わる。けれど右肩の動きは慎重だった。袖口の奥に包帯が白く見えた。脇腹をかばうように姿勢を変える瞬間がある。
凪様はその隣にいた。
燃えるような赤い髪が朝の光を含み、輪郭だけが明るく浮く。顔色は昨日よりよい。だが疲労は深い。背筋はまっすぐだった。鍛えられた身体の線は室内着の下にも残っている。それでも身体の奥だけがまだ遠くに置かれているようだった。
イーリス様は食前に指先で喉元に触れていた。薄い金茶の髪が肩で揺れる。視線は穏やかだ。部屋の音を全部拾っているようでもある。
シレリオ様は窓の外を一度見た。手すりに海鳥が一羽止まっている。鳥は首を傾げ、部屋の中を覗くように瞬きをした。
ディーノは盆を置いた。
「おはようございます。ヒュウマ様。凪様。イーリス様。シレリオ様」
「おはようございます」
ヒュウマ様が返した。
敬語はまだ硬い。けれど館の者へ向ける声に棘はない。海辺で人を呼ぶ仕事の声だとディーノの耳が拾う。倒れた者を戻すための声だった。
凪様は小さく頷いた。
「ありがとう、ディーノ」
「恐れ入ります」
名前を覚えられている。
それだけでディーノは手元を乱しそうになった。乱さなかった。三年目の意地である。
透真はやや遅れて食堂に入った。厨房の熱を背中に連れている。
「今朝は胃に残りにくいようにしてあります。海守り殿はまず自分の分を温かいうちに」
ヒュウマ様の視線は凪様の盆に向いていた。
透真はそれを見逃さない。
「凪様の分はこちらで見ています」
「……分かりました」
ヒュウマ様は素直に匙を取った。
凪様は口の端をかすかに緩める。
「過保護が増えた」
「減る要素がないです」
ヒュウマ様は真面目に答えた。
イーリス様が蜂蜜水の杯を持ち上げた。笑いを声にする代わりに目を細める。シレリオ様は海藻の汁へ両手を寄せ、静かに「ありがたい」と言った。
食堂は穏やかだった。
穏やかだが静かではない。
匙が器に触れる音がある。湯気が立つ。窓の外で鳥が鳴く。ヒュウマ様は時々右肩を止める。凪様は粥を半分まで進めてから手を止める。イーリス様はパンを小さく割る。シレリオ様は食前と食後に短く祈る。
ディーノはそのすべてを見過ぎないように見た。
透真は給仕の流れの中で器を見る。食べた量だけではない。匙を持ち替えた回数。手が止まった場所。湯気が消えるまで待った時間。口元へ運ぶ前の迷い。
料理長の観察は優しいようで厳しい。食べられない理由を料理のせいだけにしない。食べられたことを本人の気力だけにも預けない。
食後、透真は戻ってきた盆を確認した。
「凪様、昨日より三口増えています」
「数えていたのか」
「料理長ですので」
凪様は何か言い返そうとしてやめた。ヒュウマ様が自分の器を空にしていたからかもしれない。
「ヒュウマ様も昨日より早いですね」
透真が言った。
ヒュウマ様は一瞬だけ凪様を見た。
「温かいうちにと言われたので」
「よろしいです」
透真は短く頷いた。
ディーノはそれを記録した。食べる量が戻っている。わずかだ。だがそのわずかは、館の朝にとって大きかった。
午前の表玄関は朝食の余韻をすぐに消す。
大理石の床を磨く。来客用の香を薄く焚く。東応接棟の窓を開ける。印章の受けを用意する。銀盆には書類用の白布を敷く。羽根ペン。封蝋の受け。水差し。客用の椅子は三脚だけ出す。多すぎる椅子は長居を招く。
表玄関は館の顔だ。
私的な住まいの顔であり、半公的な窓口でもある。サルマンディアの評議会はこの扉を知っている。マーレ社の使いもこの敷居の重さを知っている。婚礼宿の支配人たちは花の庭の名で客を呼ぶ時、ここへ一度は頭を下げに来る。
花の匂いは商売になる。
祝福も意匠も、器の縁も宿帳の表紙も金になる。
だがこの玄関を越えてよいかどうかは別の話だ。
最初に来たのは評議会の使いだった。
肩書を告げて帽子を取る。靴には港の白い砂がついていた。外套の内側には書類筒が二本。一本は土地契約の照会。もう一本はマーレ社の名が入った確認書類だった。
ディーノは書類筒を銀盆で預かった。封蝋は乱れていない。蝋の縁に砂が一粒ついているだけだ。
使いは奥へ視線を流した。
「奥様へ、急ぎとお伝え願えますか」
アルフレッドは穏やかに一礼した。
「奥様へお預かりいたします」
「評議会としても、マーレ社の埋立予定地に関わる照会は」
「奥様へお預かりいたします」
同じ言葉だった。
だが二度目のほうが扉のように響いた。
使いはそこで口を閉じた。帽子を持つ手が下がる。肩書は玄関まで通る。奥様の部屋までは通らない。
奥様を無視できる者はサルマンディアに多くない。評議会もマーレ社も同じだ。だが奥様は政治家ではない。呼べば出てくる存在ではない。場を整え、書類に都合のよい重みを与える存在でもない。
ディーノはこの三年でそれを何度も見てきた。
契約の魔女。
薔薇の魔女。
サルマンディアの婚姻都市としての祝福は、その名を薄く借りている。婚礼宿の看板にも花の意匠がある。菓子屋の包装紙にも同じ意匠は溢れている。馬車の扉にまで金の花を描く者もいる。
けれど本物の庭に入れる者は限られる。
二人目の来客は、その境目を踏み違えそうな顔をしていた。
婚礼宿の支配人である。
肩書だけを名乗った男はよく香る手袋をしていた。外套には上質な糸で薔薇が刺繍されている。笑みは柔らかい。だが目だけが日程表の空白を探していた。
「来月の儀礼日程につきまして、庭園の祝福枠を確認したく」
メリッサが記録帳を開いた。紙の角を揃える指が美しいほど正確だった。
「日程は記録いたします。許可ではございません」
「ええ、もちろん。ただ遠方からのお客様が薔薇の魔女様ゆかりの庭で」
「庭園は祝宴場ではございません」
アルフレッドが言った。
支配人の笑みが薄くなった。
ディーノはその横で茶を注いだ。茶の量は七分。熱すぎず冷ましすぎず。相手に長居をさせない温度。菓子は出さない。水差しは手の届く場所へ置く。椅子は深く座れない角度に引く。
こういう細部をアルフレッドは言葉にしない。
だから見て覚える。
メリッサは封蝋の受けを支配人の前に置いた。契約ではない。記録の確認だけだ。それでも銀の縁が卓に触れた瞬間、男の指先が手袋の内側で固くなった。
庭の花は町の商売を支えている。
だが庭は町の商売のためだけに咲いているわけではない。
その差を守ることも館の仕事だった。
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昼前に西館へ戻ると、庭から弦の音が流れてきた。
イーリス様が木陰に椅子を置き、楽器を抱えていた。歌ってはいない。弦を鳴らす。息を整える。短い音を喉の奥で試す。声はまだ細い。けれど音の置き方は静かに美しい。
「あ」
短い母音が葉に触れて消えた。
次にもう一度。
イーリス様は自分の喉元へ指を当てる。痛みを探す手ではない。声の通り道を探す手だった。蜂蜜水の杯はすぐそばの小卓にある。杯の外側には細かな水滴がついていた。
ディーノは足を止めすぎないようにした。
聞くために来たわけではない。
だが音は勝手に胸の中へ入ってくる。
赤い花。白い石。イーリス様の指先。陽に透ける髪。水差しの表面に震える弦の影。
一枚の絵のようだった。
次の瞬間、頭上で海鳥が鳴いた。
現実に戻る。
シレリオ様は離れた噴水のそばで祈っていた。大きな身体を静かに折り、両手を合わせている。足元には海燕が二羽。石の縁にはカモメが一羽。窓の手すりにはさらに小さな鳥が並んでいる。
シレリオ様の声は低かった。言葉の意味はディーノには測れない。ただ波打ち際の石が転がるような響きがある。鳥たちは騒がず、首を傾げて聞いている。
美しい。
そして午後の窓拭きが増える。
ディーノは心の中だけでそう付け足した。
庭師見習いがこちらを見た。助けを求める目だった。昨日の水桶三つが相当こたえたのだろう。
ディーノは小さく頷いた。
後で水桶をひとつ持とう。
その時、黒猫が花の根元を歩いてきた。
つややかな黒い毛並みが赤い影をまとっている。フェリ様はイーリス様の足元を通る。シレリオ様の祈りの輪を避け、噴水の縁に飛び乗った。それからディーノを見た。
「おはようございます、フェリ様」
もう昼に近かったが、最初に会った時の挨拶である。
フェリ様は返事をしない。
ただ尾の先だけを揺らした。
近くにいた若いメイドが声にならない声で小さく喜んだ。メリッサに見られたら叱られる顔である。黒猫はそれも読み取っているように目を細めた。
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昼食は全員が西館の小食堂で取った。
朝より軽い。
魚と香草の団子を浮かべた澄まし汁。薄いパン。海藻の和え物。蜂蜜を溶かした水。凪様には小さな粥が三口分だけ添えられていた。
透真は料理を出す前にディーノへ言った。
「戻ってきた器だけ見ないでください」
「はい」
「手が止まった場所も見てください。何で止まったかは器だけでは分からないので」
「承知しました」
料理長の言葉としては不思議だった。
だがディーノの手帳には残る言葉だった。
ヒュウマ様は汁を飲む時に右肩を動かさないようにしていた。凪様は粥の湯気が薄くなってから手を伸ばす。イーリス様は蜂蜜水を先に飲む。シレリオ様は海藻を見て表情を柔らかくする。
器は結果だ。
手は途中を教える。
そして食べる場所があることを身体に思い出させる。
昼食の終わりに、凪様は三口分の粥を二口半まで進めた。残りの半口は匙の上で止まる。やがて器へ戻った。
ヒュウマ様が何か言いかけた。
透真が先に水を置いた。
「残して構いません。次で増やします」
凪様は透真を見てから小さく頷いた。
「悪くないな」
「明日は変えます」
「任せる」
その短い遣り取りに、ヒュウマ様の肩がわずかに下がった。安堵は声にならない。だが呼吸の長さに出る。
ディーノはそれも手帳へ書くべきか迷った。書かないことにした。代わりに器の戻りと水差しの量だけを記録した。
午後は湯浴みの支度が入った。
西館の浴室は客人用としては広い。白い石と深い浴槽があり、湯の香りには薔薇ではなく薬草を混ぜる。香りが強いと傷に障る者もいる。透真の指示で今日は温度も低めだった。
湯桶を並べる。新しい布を積む。包帯を種類ごとに分ける。着替えの室内着を温める。水差しを浴室の外へ二つ。椅子を一脚。もう一脚は離す。支える者が座るためではなく、支えられる者が座るまでの逃げ場だ。
ディーノは手順を声に出さず確認した。
湯気が白い石に触れて戻る。布が湿りを含む前に置き直す。薬草の匂いは苦く、かすかに甘い。傷に触れる湯の匂いは食堂の湯気とは違って重かった。
ヒュウマ様は先に浴室の手前へ来ていた。上衣を脱いだところで、右肩から脇腹にかけて包帯が走っている。布の下の身体は若い男のものだった。鍛えられていて熱がある。傷のせいで動きは制限されているのに、立っているだけで人を支える側の重さがあった。
ディーノは視線を置きすぎないようにした。
置かなすぎてもいけない。
傷の滲み。動きの悪さ。湯気にあたった時の顔色。必要なものは見る。
見てはいけないものは見ない。
「ベラルディ」
背後からアルフレッドの声がした。
「はい」
「目ではなく手順を動かしなさい」
「失礼いたしました」
ディーノは布を置く順番を直した。手が熱い。湯気のせいだけではなかった。
そのすぐ後で凪様が入ってきた。
薄い室内着の合わせ目から鎖骨の影が見えた。髪は緩く結ばれており、首筋に赤い毛先がかかっている。顔色には疲労が残っていた。だが身体そのものは薄くない。高い肩。胸の厚み。布の下で落ちる腕の重さ。長身の男が力を抑えて立っている圧があった。弱いとは違う。古い刃のように触れれば切れそうな気配があった。
ヒュウマ様が自然に一歩寄った。
「蒼凪さん、足元」
「分かっている」
「分かっている人の歩き方ではありません」
「三日前よりはましだ」
「三日前と比べないでください」
会話は静かだった。
けれど距離が近い。
近すぎるのに乱れていない。互いの呼吸の置き場を知っている距離だった。片方が動く前に、もう片方が空間を空ける。肩を貸すというより、倒れないための場所を先に置いている。
湯気の中で二人が並ぶと、入口の白い石が狭く見えた。ヒュウマ様の若い熱と、凪様の抑えた重さが別の種類の男の身体としてそこにあった。
ディーノは布を整えながら、耳に入ってしまった声を記録しないことにした。
メリッサが浴室の外から顔を出した。
「ディーノ」
「はい、メイド長」
「替えの包帯は二組多く。水差しも忘れずに」
「はい」
「それから」
メリッサは目を細めた。
「記録は視線ではなく手で残しなさい」
「……承知いたしました」
叱られた。
完全に叱られた。
ただヒュウマ様も凪様も気づかないふりをしてくれた。大人である。年齢の話ではない。
湯浴みの支度には妙な圧がある。
肌に近い布。傷の熱。湯気で柔らかくなる声。水を含んだ髪の重さ。手を伸ばせば支えられる距離。けれど使用人はその近さへ入らない。入るのは手順だけだ。湯桶を置く。布を渡す。包帯を替える。必要が終われば退く。
見ないが見落とさない。
聞かないが異変は拾う。
ディーノはその二つを浴室の湯気の中で何度も噛み直した。
湯浴みの後、二人は疲れていた。
ヒュウマ様は顔色を変えないようにしていた。だが右肩の動きが重い。凪様は廊下の途中で一度だけ壁に手をついた。石壁に指が触れた音は小さい。それでもディーノの耳に入った。
前に出すぎない位置で控える。
ヒュウマ様が支える。
凪様が短く礼を言う。
その声は小さかった。
ディーノは水差しを持ったまま、二歩後ろの距離を保った。近づけば失礼になる。離れれば役に立たない。夜番より難しい昼の距離だった。
夕食前、ディーノは東応接棟へ戻った。
午前に預かった書類の返答はまだ出ていない。奥様は午後のほとんどを契約室で過ごしていた。アルフレッドが一度だけ中へ入り、すぐに出てきた。
扉が開いた時、古い紙と薔薇の香りが廊下へ流れた。蜜蝋の甘さも混じっている。封蝋が温められた匂いだ。ディーノは奥を見なかった。
見てはいけないものがこの館にはある。
それを知っていることも使用人の教育の一部だった。
夕食は本館の食堂で全員が一緒に取った。
奥様は上座に座り、片肘をついて楽しそうに客人たちを眺めていた。金の髪が灯火を受けて艶めく。杯を持つ指には薔薇の細工の指輪が光っていた。アルフレッドは背後に控える。メリッサは給仕を統括している。透真は厨房と食堂を行き来し、戻る器の重さを目で量っていた。
昼よりは華やかだが、まだ療養食の線を越えない。
魚の柔らかな蒸し物にサルマンディア産の小粒のオリーブを刻んだソース。鶏の出汁で炊いた米。薬草を使った温野菜。喉のための梨の煮物。海藻を練り込んだ薄い焼き物。香りはある。だが強すぎない。
奥様は杯を持ち上げた。
「三日目にして、ようやく食卓らしくなってきたな」
「奥様、食卓は初日から整えております」
透真が静かに言った。
「くっくっく。器の話ではない。顔の話よ」
凪様は返事をしなかった。
代わりに粥ではなく炊いた米を一口食べた。
奥様の目が楽しそうに細くなる。アルフレッドの瞼がかすかに下がった。
ヒュウマ様は今夜、自分の膳を先に進めていた。
ディーノの指が手帳の縁を押さえる。
透真は料理で追っている。メリッサは給仕の流れで拾っている。アルフレッドは扉の影まで含めて見ている。奥様は見た上で何も言わない。
イーリス様は梨の煮物を口にして目を丸くした。
「これは、喉に優しいですね」
「蜂蜜は控えめにしております。練習の後でも重くならないように」
透真が言った。
「ありがとうございます。おかげで明日の声が欲張れそうでございます」
「欲張る量はメリッサさんに確認してください」
イーリス様はにこりとした。
「語りを預ける相手がメイド長とは、なかなか歌になる構図でございます」
メリッサは淡々と杯を置いた。
「歌にする前に飲み切ってくださいませ」
その場の空気が柔らかくなる。
シレリオ様は海藻を練り込んだ焼き物を見ていた。
「海の香りがする」
「強すぎましたか」
「いいえ。落ち着きます」
その言葉に透真は安心した顔をした。
奥様は愉快そうに笑った。
「妾の館に海鳥が押し寄せる理由が見えた気がするな」
「申し訳ありません」
シレリオ様が本当に申し訳なさそうに言った。
「よい。庭師が若返る」
庭師見習いは若いままです、とディーノは心の中で言った。
もちろん口には出さない。
食後の器は朝より軽かった。
ヒュウマ様の器は空。凪様の椀もほとんど空だった。イーリス様の蜂蜜水は二杯。シレリオ様の海藻の小鉢もきれいに戻っている。
透真は戻ってきた膳を見て、すぐに明日の献立を考えている顔になった。料理長とはたぶんそういう生き物なのだ。
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夜番に入る頃、館はようやく静かになる。
静かになるだけで眠るわけではない。
大玄関の灯を落とす。東応接棟の窓を確認する。契約室の前を通る時は足音を半分にする。西館へ向かう廊下では水差しと薬湯の残量を見て回る。
夜の館には昼とは違う手順がある。
扉は閉め切らない。けれど開け放たない。椅子は壁へ寄せすぎない。誰かが夜中に座る場所を必要とするからだ。廊下の灯は全部落とさない。光が強いと眠る者を起こす。暗すぎると足元を奪う。
水差しの首に布を巻く。音を立てないためだ。杯は二つ置く。ひとつで足りる部屋にも二つ置く。夜に誰かが来ることは、異変とは限らない。
聞かない距離がある。
夜番はそれを守る仕事でもあった。
黒猫は西階段の三段目にいた。
フェリ様は前足を揃え、闇の中に座っている。灯の端だけが瞳に入り、金とも緑ともつかない光になっていた。
「こんばんは、フェリ様」
ディーノは小声で言った。
返事はない。
尾だけがゆっくり一度動いた。
そのまま通り過ぎようとするとフェリ様が立ち上がった。音もなく先を歩く。西館の廊下を曲がる。凪様の部屋の前で止まる。
扉の下から灯りが漏れていた。
中から低い声が二つした。
内容までは聞こえない。
聞こえない距離で止まるのが正しい。
ディーノは扉の前に置かれた水差しを見た。空に近い。小さな卓には杯が二つ。椅子も二脚、向かい合うように動いている。片方には毛布がかけられていた。もう片方の脚は床に浅い跡を残している。
低い声は途切れたり重なったりした。
笑い声ではない。争う声でもない。夜の底で手を伸ばす時の声だった。誰かを起こす声ではない。誰かが眠れるようになるまで隣に置く声だ。
夜は長い。
けれど今夜のその部屋に異変はなかった。誰かを呼ぶほどではない。
ディーノは新しい水差しに替えた。古い水差しを持ち上げる時、硝子の底が受けに触れないよう布を挟む。小さな音ひとつが夜には大きい。
フェリ様がそれを見届ける。
「これでよろしいでしょうか」
黒猫は瞬きをした。
たぶん、よろしいのだろう。
廊下の灯をひとつ落とす。
館は静かだった。
だが平穏とは少し違った。
薔薇の魔女の館は契約を預かる。客を選び、傷を癒やす。町の噂を玄関で止める。鳥の落とし物を片づける。蜂蜜水を温め、湯の温度を測る。黒猫の小鉢から塩を抜く。
封蝋を見る。布を替える。器を戻す。椅子を二脚置く。水差しを満たす。声の聞こえない距離を守る。
そのすべてが一日の仕事だった。
ディーノ・ベラルディは手帳を閉じた。
明日の朝会で報告することは多い。
凪様の食事量は増えた。
ヒュウマ様はまだ右肩をかばう。
イーリス様の声は昨日より澄んでいた。
シレリオ様の鳥は南窓をまた汚した。
フェリ様は焼き魚を望んでいる。
そしてこの館は今日も眠らない。
ただ、眠る者のために静かになる。




