潮の番獣
「来ます」
口にした時には、水はもう違うものになっていた。
重くなったのではない。重さの向きが変わった。旧水門の奥で押し返された水が、壁を叩いて戻る音ではない。長い間底に伏せていた何かの寝返りとして回廊へ届いた。石床の継ぎ目から泡が糸のように上がる。膝の下にあった冷えが、ひと息で骨の間へ差し込んだ。
ヒュウマは潮鎚の柄を握ったまま動かなかった。
動かないことが、すでに選択だった。足幅は広い。右足の爪先がわずかに奥へ向き、左足の踵が石の段差を噛んでいる。逃げるなら逆だ。逃げないならこれでいい。水の中の足首だけで、彼が自分の役目を決めたのが見えた。
俺は灯りを少し落とす。
黒い羅針盤は左手の上で開いたままだ。油紙は盤の下で戻しかけの形に折れている。蓋を閉じれば軽くなるかもしれない。だが閉じれば、針の示す境界を読めなくなる。掌の肉ではなく、骨の芯に針の震えが触れてくる。細い。硬い。まるで内側から爪で叩かれている。
奥の水面が盛り上がった。
波ではない。
水が水のまま、忘れていた形へ戻ろうとしていた。暗い面が内側から押し出される。丸みはない。柱でもない。横に広い。回廊の幅を測るように、薄いものが左右へ伸びていく。灯りの輪は小さく震え、その端を何かが横切った。
膜だった。
巨大なエイに似ていた。
ただし似ているのは遠目の輪郭だけだ。頭がない。前を見るものがない。口で噛むところもない。進むための先端を失ったまま、翼膜だけが異様に発達している。その縁には貝殻の欠片と石片と古い骨が縫い込まれていた。泳ぐたびに擦れ、祈祷板が鱗のように鳴った。
乾いた木の音。
水を吸った骨の音。
貝殻が欠ける白い音。
それらが一つずつ重なり、意味を失った祈りの残響みたいに回廊を満たした。耳で聞いているはずなのに、腹の底が先に理解する。これは獣の唸りではない。古い命令が、まだ音の形を保っている。
腹側に黒い裂け目があった。
口に見える。だが噛むための口ではない。そこは閉じたり開いたりしながら、奥の水を吸い戻していた。濁った半流動のものが吐き出される。すぐ同じ裂け目へ戻る。吐くことと戻すことに違いがない。機能だけが続いている。
頭がないせいで、向きが異様だった。
泳いでいるのに前がない。こちらへ来ているのにこちらを見ていない。腹の裂け目だけが、俺の左手へ角度を合わせていた。顔でも胸でも喉でもない。手そのものでもない。開いた盤の中心へ、暗い穴の焦点が合う。
水位が上がった。
ローブの裾が脚へ貼りつく。布が冷えを吸い、膝から腿へ重く這い上がる。皮膚が冷たいのではない。関節の隙間に水圧が挟まる。息を吸うたび、肺の下側が鈍く押し返された。
俺ではない。
こいつは俺を殺しに来ていない。
俺の手元にあるものを、取り戻しに来ている。
《潮見 / Tideread》を開く。
回廊の水が面として起き上がる。普段なら先に見えるのは石床の傾きだ。水路の癖。足を置ける線。だが今は違った。奥から押す潮がある。出口側から戻る潮がある。そのどちらにも属さない細い筋が、羅針盤へまっすぐ伸びていた。
《滴見 / Droplet Sight》を重ねる。
飛沫の一粒ごとに震えがある。膜の縁から剥がれた泡が、水面へ上がる前にわずかに向きを変える。その震えが盤の内側と揃う。番獣の腹が開くたび、羅針盤の針が小さく打つ。
攻撃はまだしない。
形に惑わされるな。
構造を箱へ書き込む。まず一つ。これは殺しに来たものではない。戻しに来ている。戻すために、邪魔なものを邪魔として押しのける。
ヒュウマが半歩ずれた。
俺が指示するより早かった。
彼は俺の前に立ったのではない。羅針盤を自分の背後に置く位置を取った。潮鎚の鎚頭を床へ斜めに滑らせる。重いアズリウムが石を噛む。水がその角へ当たり、左右に白い筋を引いて裂けた。
潮鎚は振るうものだと思っていた。
だが今の形は違う。
刃ではない。壁でもない。海水を絡め、角で流れを剥がす。広い面で耐える。殴る前に踏みとどまるための道具。ヒュウマの家に渡ってきた重さは、攻撃の重さではなく支える重さだった。
灯りが揺れた。
水が腕を引いた。手首から先が奥へ持っていかれかける。灯りの輪が下がり、腹の裂け目から外れそうになる。その瞬間、ヒュウマの柄尻が下から入った。灯りそのものには触れない。支える位置だけを整える。
速い。
だが荒くない。
灯りは潰れず、番獣の腹だけを照らし続けた。
名を呼ぶ必要もない動きだった。
先に落ちるものへ手が出る。そういう身体なのだとわかる。
番獣が近づく。
泳ぐというより、水がその形を運んでいた。翼膜の端が壁すれすれを通る。壁に残る祈祷板が一枚ずつ震え、剥がれかけた木片が水中で首を振る。骨片は膜の縫い目で梁のようにずれた。貝殻が石へ触れ、白い傷を水の中へ引いた。
殺意がない。
だから気味が悪い。
番獣は俺たちを獲物として見ていない。怒ってもいない。怨んでもいない。あるべきものをあるべき場所へ返す。その途中に俺の体があるなら、体もまた整理する対象になる。骨。荷物。灯り。足跡。分類の差がない。
「前へ出ます」
ヒュウマが言った。
「半歩まで」
俺は返す。
彼は頷かない。頷く時間を足に使った。潮鎚の柄を握り直し、腰から水へ力を入れる。肩から腕へ振り落とすのではない。足裏で水の厚みを測り、鎚頭が通れる角度を探す。
番獣の翼膜が畳まれかけた。
ヒュウマの潮鎚が膜の縁へ触れる。
衝撃は音より先に皮膚へ来た。水面が白く弾け、頬に塩と泥の冷えが飛ぶ。ヒュウマの両腕が止まる。止まった次の瞬間、打った軌道そのものが戻された。潮鎚は跳ね返るのではなく、振るう前の場所へ押し戻される。
彼の肩が持っていかれた。
肘が遅れる。手首が逆へ折れかける。指の関節が白く浮き、柄の革が軋む。鎚頭は石床を擦って戻り、青白い泡を散らした。アズリウムに絡んだ海水が細く鳴る。金属音ではない。水が喉を絞られたような音だった。
「硬いな」
俺は言った。
「硬いというより、返されます」
ヒュウマの声は低い。
痛みに耐える声ではない。反応を記録する声だ。若いのに、そこは雑ではない。自分の腕の中で起きたことを、位置と向きで掴もうとしている。
膜に打撃の跡は残らなかった。
貝殻の欠片が一つ剥がれた。だがそれすら後方へ流れない。水中で回り、石座のある側へ戻ろうとする。打った事実だけが戻されている。泡も。音も。鎚の軌道も。
俺の灯りが一拍遅れて揺れた。
さっき弾けた水泡が、弾ける前の高さへ引き戻されるように沈む。火の輪郭が歪み、光の縁が奥へ伸びる。水の戻りが光にまで干渉している。単純な防御ではない。起きたことを、起きる前の線へ押し返している。
水の向きが変わる。
羅針盤と番獣の間に細い応答の筋が浮いた。灯りで照らせるものではない。《波境視 / Littoral Sight》が勝手に像を澄ませる。海と世界の触れる場所が、薄く光る皺として立ち上がる。越えてきたものと戻ろうとするものの境が見える。
普段より澄んでいる。
澄みすぎている。
理由は後でいい。今は観測だけを取る。
「オルラ・リネア。漂着物、第一線」
舌の上へ塔の音が落ちる。
「残響を上げろ。原本方位を示せ ── 《漂着応答 / Drift Response》」
船乗りの号令に似た古語が、水面を低く叩いた。祈りではない。返事を乞う声でもない。港で積荷を検める時の、短い命令に近い。
白真珠の塔の魔法は、本来なら体の奥を軋ませない。水底から何かを引き上げる感触はあっても、骨の芯へ針を入れられるような重さはない。だが今回は違った。番獣に残る記録が、沈殿した鉛みたいに重い。
越えてきた記録が開く。
揃いすぎていた。
流れ着いたものには欠けがある。割れた順序。濡れた時間。別れた場所。複数の事故が混じり、輪郭はいつも乱れる。だが番獣の記録は整っていた。誰かが後から並べ直したように、すべてが同じ方角へ向いている。
座へ戻るはずだったもの。
戻る動作だけを与えられたもの。
けれど座を示す目を失い、回廊の水を巡り続けていたもの。
水位が膝上へ来る。
白いローブが脚に吸いつく。青い縁取りは水を含んで暗く沈み、足を上げるたび遅れて引く。布が一歩を重くする。冷えが腿の内側へ入り、呼吸の幅を削った。
ヒュウマは潮鎚の角度を変えた。
今度は打たない。
鎚頭の広い面を水へ差し込み、流れを押す。水に肩などない。だが彼の足裏は水の肩を測っていた。どこで押せば崩れないか。どこで踏めば滑らないか。彼は見えない骨格へ手を置くように、潮鎚の角を沈める。
番獣の腹が開く。
羅針盤へ向かう線が太くなる。
ヒュウマは一度だけ深く息をした。胸が下がり、肩の力が抜ける。視線は番獣ではなく床の水へ落ちた。潮鎚の柄へ額が触れそうなほどわずかに伏せる。問いを投げたのだとわかる。
詠唱ではない。呼吸と所作だけで、水へ聞いている。
石の下に溜まっていた水が応じた。
澄んだ返事ではない。泥と木粉と石灰を含んだ震えが、鎚頭から柄へ上がる。ヒュウマの右肩がわずかに強張った。右手の握りが深くなる。聞くことにも負荷がある。
「──濁っています」
「言える範囲でいい」
「目が、ない。戻りたい。座が、ない。……そういう、感触です。言葉ではないので、正確には言えません」
十分だ。
箱へ二つ目を入れる。羅針盤は目だ。目を得れば、番獣は座を見つける。
見つけた後はどうなる。
回廊ごと返される。水門の下にある古い場所へ、今ここにあるものすべてが流路として扱われる。俺たちの足場も灯りも。開いた羅針盤も。入ってきた事実さえも。殺されるのではない。戻される。結果として、生きている形を保てないだけだ。
番獣が翼膜を広げた。
広すぎる。
回廊の幅を超えているはずの膜が、水中で薄く曲がって壁に沿う。貝殻の縁が石を引っ掻いた。骨片が梁のようにずれ、祈祷板が膜の縁で鳴る。水面が持ち上がり、俺の腿を越える。
羅針盤が手の中で浮きかけた。
水が手首の下へ入り、左腕の重心が外れる。俺は指を盤の縁へ食い込ませ、右手で灯りを持ち上げた。羅針盤の針が強く震える。小さな震えではない。中で硬いものが、帰るべき方角を叩いている。
番獣は近づくほど輪郭を失った。
恐ろしさは形が見えることではなかった。形がどこまで水と同じものか見えてしまうことだ。膜の表面は肉ではない。水に薄い皮を張り、そこへ骨と貝殻と板を縫い込んでいる。内側では石片が沈まず流れる。腹の穴は空洞ではなく、暗い水の層が何枚も重なっていた。
右足が滑った。
力を抜いたわけではない。足首を包む水が、踏み込んだ一歩をなかったことにする。石床は動いていない。俺の足だけが、入口側へ丁寧に押し戻された。敵意のない手で襟を正されるような不快さがある。
「当代殿!」
「はい」
彼の潮鎚も戻されかけていた。柄が掌の中でずれる。鎚頭が石座側へ吸われる。武器ではなく、元の場所へ返すべき荷として扱われている。
俺は息を短く切った。
「《無光 / Lightless》」
浅く宣告する。
詩は使わない。指先から黒が落ち、水面へ墨の点ができる。点は番獣の前で沈み、裂け目の縁へ細く広がった。
効きは浅い。
番獣に普通の目はない。暗さは視界を奪うものだ。腹の裂け目は視ていない。応答だけを追っている。黒は水へ溶け、穴の輪郭をほんの少し鈍らせただけだった。
だが黒が深い。
微細な規模で落としたはずの《無光》が、底のない孔みたいに沈んでいく。回廊の水がそこを避ける。俺の意図より深く馴染む。馴染みすぎて、指先の感覚が一瞬遅れた。
ヒュウマが近い。
その事実だけを置く。
「《海震 / Undersea Quake》」
これも浅く留める。
領域の下へ微弱な湿りを敷く。低い震えを石床へ流す。足場を壊すためではない。戻そうとする流れの底を探るためだ。
湿りが広がりすぎた。
回廊の幅だけでよかった。だが震えは石組みの下へ細く伸び、水門の奥まで触れようとする。俺の背骨にも同じ震えが返った。懐の海溝晶が布越しに冷たく明滅する。
制御を失ったわけではない。
ただ開きやすい。
今は理由を考えない。整理できないものは箱に入れる。蓋を閉じる。戦闘中に開けない。
番獣の腹がまた開く。
裂け目の内側から濁ったものが伸びた。手ではない。舌でもない。泥と水と祭祀の残りが混じった筋だ。狙いは俺ではなく羅針盤だ。筋が動くたび、羅針盤の針が中から応じる。
ヒュウマが潮鎚を半回転させた。
判断が速い。
彼は振り抜かなかった。柄を軸に鎚頭を返し、広い面ではなく角を床へ向ける。アズリウムの角が石床の継ぎ目へ入った。鈍い音が水中で潰れ、次に振動が足裏から上がる。
潮鎚が杭になった。
流れがそこへぶつかる。水が白く立つ。ヒュウマの右肩が一度沈んだ。痺れが入ったのが見える。彼は歯を食いしばらない。代わりに息を細く吐き、余分な力を抜いて流す。若さだけなら、ここで力で押し返したはずだ。
俺の体が入口側へ流れる。
水が腰の下をさらう。灯りが低くなる。肩が石壁に擦れた。熱い線が走る。冷水の中で、血の温度だけが妙に鮮やかだった。視界が一瞬歪む。痛みは遅れて来た。
ヒュウマの左手が肩を支えた。
強くない。押し返しもしない。落ちる前の位置へ戻すだけだ。足裏が石を捉える。灯りの輪が番獣の腹へ戻る。
支え方は静かだ。
救われた者を止めない。支えた痕跡だけ残す。
「砕きません」
ヒュウマが言った。
「なぜだ」
「襲っている感じが薄いです。帰ろうとしているだけに近い」
さっき水へ聞いた時の残響だろう。
俺は番獣の腹を見る。裂け目は開いている。感情はない。戻す機能だけがある。頭も翼膜も本体ではない。腹の穴さえ本体ではない。
三つ目。
本体は戻す機能そのものだ。
番獣の膜が波打つ。
横ではなく上へ持ち上がった。水位が急に腰へ届く。冷えが腹へ刺さり、呼吸が浅くなる。濡れた布が胸に貼りつき、肺の動きまで邪魔をする。
祈祷板が一斉に傾いた。
壁に残っていた板が石座側へ向く。見えない手が根元を揃えたようだった。古い木が軋み、文字の跡が水に剥がれる。黒い粉が細く散り、すぐに流れへ戻される。
番獣が羅針盤との距離を詰める。
ヒュウマが先に拍を作った。
「蒼凪殿、ここで!」
短い声だった。
若さはまだ底に残っている。だがその下に、当代として立ってきた年月が沈んでいた。命令を待つ声ではない。ここから先は通さないという線を引く声だった。
彼は潮鎚を石床へ打ち込んだ。
杭としての打撃。
水が跳ね、俺の頬を打つ。鎚頭が床へ沈むほど噛む。両足が開く。膝が沈む。受けた潮は背後へ逃がさない。左右へ裂く。壁へ当てる。戻ってくる力まで角で折る。
俺はその拍に乗る。
「顕現せよ、大海の底 ── 《海震 / Undersea Quake》」
通常の詠唱で開く。
規模は最小。領域は回廊の幅だけ。床を持ち上げるのではない。足場を底へ縫いつける。潮鎚の杭を中心に、石がそこにあるべき重さを思い出す。
噛み合った。
異様なほど噛み合った。
ヒュウマの杭があるから《海震》は広がらない。俺単独なら水門の下へ引かれた震えが、アズリウムの角で折れて回廊へ戻る。荒さがない。むしろ精度が高い。足裏の石が、濡れたまま確かな床になる。
理由には踏み込まない。
整理できない。
それでいい。
番獣の腹側が開いた。
黒い裂け目が横に裂ける。丸ではない。石座に残る窪みと同じ形だ。欠けた場所。羅針盤を嵌めるための空白。盤の中の針がそこへ呼ばれている。
確信へ移る。
中心を得れば、戻す機能は座を見つける。中心を得なければ、戻す機能は自分自身へ向かう。切るべきは肉ではない。膜でもない。羅針盤と番獣の間で、目になろうとする接続だ。
ヒュウマの姿勢は矛盾を抱えていた。
壊すな。通すな。
その二つを一つの構えにしている。鎚頭は床を噛み、柄は番獣へ向く。打ち砕く角度ではない。扉を閉めたまま押さえる角度だ。
番獣が体を捨て始めた。
翼膜の外縁から祈祷板と骨片が流れ出す。形を保つための縫い目を解き、すべてを腹の裂け目へ寄せている。膜は薄くなり、内側にあった骨が水中で白く見えた。貝殻の破片が回転し、灯りを細い光で返す。
羅針盤が掌の上で震えた。
一度だけ大きく。
その震えは肋骨へ響いた。針の軸と番獣の裂け目が同じ黒さで鳴る。耳では聞こえない。水圧として胸骨へ当たる。心臓の拍が一つずれる。
まずい。
取り込まれれば目になる。
目を得た番獣は座を見る。座を見た戻す機能は、回廊全体を流路へ変える。ここにあるものは順序よく返される。生きていることも例外にならない。
ヒュウマが右肩で水を受けた。
潮鎚の柄が軋む。右肩が軽く落ちる。痺れが強くなったのだろう。それでも手は離れない。鎚頭の上で水が泡立ち、彼の腰まで白く跳ねた。
番獣の裂け目が開いた盤へ伸びる。
──────────────────────────────
俺は海溝晶を取り出した。
掌に乗せる。冷たい。だがこの冷たさは回廊の水ではない。もっと深い場所の冷えだ。結晶の中で暗さが一段沈む。指先の血が引き、肩の擦り傷の熱が遠のいた。
長詠唱は体に合わない。
今の俺には重い。使えば息が落ちる。視界が白む。それでも切る対象は番獣そのものではない。羅針盤が目になる瞬間の接続。そこだけだ。箱に入れられるものは、そこまでで足りる。
箱に入らないものは見ない。
今は意味を取らない。
確信して切る。
息を吸う。
半分しか入らない。濡れたローブが胸を押さえている。水位は腰を越え、腹に冷たさが刺さる。灯りが揺れる。ヒュウマの背が視界の端にある。潮鎚の杭がある。回廊の幅が決まっている。
声は喉より深い場所から出た。
「境を閉ざし、内と外を分かつ」
最初の句が水へ沈んだ。
海溝晶が掌の上で深海色を明滅させる。番獣の腹の裂け目が開ききる。黒い羅針盤が盤の中で硬く打った。内と外。こちら側と向こう側。持ち帰るものと、持ち帰られてはならないもの。その差が水面に細い皺として立つ。
「戻らぬ線を刻め」
二つ目の句で肺の下が空になった。
声は続いている。だが呼吸はもう足りていない。灯りの輪が小さくなる。ヒュウマの肩だけが視界の端に残る。潮鎚の杭が鳴った。アズリウムが石床へさらに噛み、戻ろうとする潮の背骨を止める。俺はその一拍に刃のない線を置く。
「断ち切る──《断絶境界 / Cut Boundary》」
最後の句で三つの拍が重なった。
羅針盤。番獣。俺の掌。三つが同じ場所へ引かれ、同じ瞬間にずれた。視界の縁が白く飛ぶ。石壁の祈祷板が消える。残ったのはヒュウマの背の線だけだ。声が落ちる。肺の下半分が空になる。
切った。
音はなかった。
何かが裂ける響きもない。水の中で、もう繋がらないと決まっただけだ。その決定が回廊へ広がる。冷たい線が羅針盤と番獣の間を横切った。線は見えない。だが水はそこを越えられない。
番獣の翼膜が止まる。
一拍だけ。
腹の裂け目は目を得る寸前で空のまま残った。内側の水流が逆向きになる。吐き出していた濁りが戻る。戻す対象を失い、吸い戻す動きだけが残った。
俺の膝が抜けかける。
水が腰にあるため倒れない。だが体の内側が先に沈む。喉が閉じる。海溝晶を握る指が痺れる。灯りの輪が小さくなる。
ヒュウマの手が肩に置かれた。
「──一拍だけ」
触れた瞬間、足りない呼吸がこちらへ渡った。
呼吸の輪郭が、こちらへ一拍だけ繋ぎ直される。空気が肺へ流れ込むのではない。呼吸という動作そのものを、ヒュウマの側から借りる。胸が一度だけ上がる。心臓の拍が戻る。白く飛んでいた視界の端に石壁が戻った。
ヒュウマの膝が沈む。
水の中で重さを引き取った。肩の擦過傷から血が薄く流れる。深くはない。だが彼は自分の呼吸を削っている。連続で使えるものではない。俺はそれを記録する。
「足りた。追うな」
「はい」
ヒュウマは追撃しなかった。
潮鎚を振り上げない。戻るものを通さず、壊さずに見送る構えを取る。水を押さえ、番獣の畳まれ方を急がせない。砕くべきではないという感触が、鎚の角度に出ていた。
──────────────────────────────
番獣の翼膜が内側へ折れ始めた。
崩壊ではない。
戻す機能が対象を失った。中心を得られなかった機能は、自分自身を戻す対象として扱い始める。俺が倒したのではない。接続を断っただけだ。残りは、番獣が自分の機能を自分へ向けている。
翼膜の縁から祈祷板が一枚ずつ外れた。
水底へ落ちない。石床の隙間へ向かう。木片は水の中で回転しながら、古い位置を探すように傾きを変えた。板同士が触れる。乾いた音ではない。水を吸った木が、小さく座へ収まる音だった。
骨片は泳ぐのをやめる。
白い欠片が膜から抜け、水中で止まった。次に床下へ吸い込まれる。石の継ぎ目が骨を飲むたび、細い泡が上がる。命の名残ではない。組み込まれていた部品が外れていく音だ。
貝殻は最後まで光った。
灯りの輪を受けて、白と青の薄い反射を返す。ひとつ。ふたつ。みっつ。割れた縁が回転し、順番に古い水の下へ戻っていく。水音が変わった。押し寄せる音ではない。片づけられていく音だ。
腹の裂け目から濁った水が出なくなる。
吐いて戻す動きが消えた。吸い戻す方向だけになる。裂け目の内側に重なっていた暗い層が、奥へ奥へ折り畳まれていく。黒は薄くならない。古い水門の下へ、深さのまま収まっていく。
すべてが回廊の下へ向かう。
本来の座の方へ。
順序を持って畳まれていく。
沈むのではない。
畳まれる。
その言葉が近い。
番獣は断末魔を上げなかった。殺意がなかったものに、最後だけ感情が生まれることもない。翼膜が裂ける音はない。水が引く音。祈祷板が座へ戻る音。骨片が石の隙間へ収まる音。それだけが回廊に残った。
最後の翼膜の縁が水面の下へ消える。
腹の裂け目だけが残った。黒い穴は目を得ないまま開いている。しばらく水面の下で震え、やがて横に閉じた。閉じた場所には泡も血も残らない。水だけがあった。
水位が引き始める。
腰の圧が消える。次に腹の冷えが退く。腿の重さが下がり、膝へ戻る。濡れたローブは重さだけを残して貼りついた。水が膝へ戻った時、遅れて膝の力が抜けかけた。
俺は踏みとどまる。
海溝晶を握る手はまだ震えている。
《潮見》で確かめる。
番獣は死んでいない。
本来の座がある場所に輪郭が畳まれている。形は失った。機能は残っている。座にいる限り、再び目を求めて動き出す可能性はある。完全な討伐ではない。封じたとも言い切れない。番獣が自分の戻す機能で、自分自身を座へ返した。
俺は接続を切っただけだ。
──────────────────────────────
回廊へ静けさが戻るまで、しばらく誰も動かなかった。
灯りの火は小さくなっている。油が揺れたせいで芯が片寄った。角度を直そうとして、指先がまだ震えていることに気づく。海溝晶を懐へ戻す。布の内側へ入れるだけの動きに、いつもより時間がかかった。
肩の擦り傷が熱を戻した。
水が引いたため、血の線が皮膚に残っている。深くはない。だが擦れた場所が脈に合わせて疼く。長詠唱の反動は傷より内側にあった。肺の下が重い。声を出すと、喉の奥に深い水が残っているような感覚がある。
ヒュウマは潮鎚を床に噛ませたまま立っていた。
右肩を一度だけ回す。痺れが残っている動きだ。皮膚に細い擦過傷がある。血は薄い。膝にかかった重さも抜けきっていない。それでも立ち方は崩れていない。彼の足裏は、まだ水の残りの向きを測っている。
「歩けますか」
「歩けます。蒼凪殿は」
「擦過傷だけです」
「擦過傷だけです」
それで足りた。
俺は左手の羅針盤を確かめる。盤は濡れていない。下に敷いた油紙の端だけが冷たい。蓋は閉じない。今はそれ以上読む必要がない。事実だけでいい。
羅針盤の針が一度大きく振れた。
盤の中で硬い音がする。針は回らない。片側へ大きく振れ、中心へ戻った。そのまま止まる。軸が黒く深まっていた。黒が濃くなったのではない。奥行きが増した。
意味は取らない。
針が止まった。
軸が黒く深まった。
その二つだけ記録する。
敵の構造は捉えた。だがヒュウマが近くにいる時だけ、海への通りが良くなった理由は箱に入らない。入らないものを無理に押し込めば、次の判断を誤る。
俺は盤の縁を押さえたまま息を整えた。
ヒュウマが潮鎚の柄へ両手を戻す。床に噛んだ鎚頭はすぐに抜けない。彼は力任せに引かず、石の継ぎ目に沿って角度を変える。アズリウムが低く鳴った。水が鎚頭から剥がれ、石床へ落ちる。
石座の水音だけが残る。
俺の指が盤の縁を押さえる。
ヒュウマの潮鎚が床から抜ける。
灯りの輪が奥ではなく出口へ向かっていった。




