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群青幻想  作者: 滄龍 青司
IntervalloⅠ
63/128

戻される

 海守り本部は、夜がまだ薄い灰色を残しているうちから起きていた。


 戸板の隙間に潮の匂いが挟まっている。人の足音。革帯の鳴る音。札を机に置く乾いた音。朝の本部はいつも動くが、今朝の動きは少し違った。速いのではない。戻る場所を探すように、同じ所を何度も踏んでいる。


 廊下の角でニカとすれ違った。


 ニカは報告札を三枚、指で揃えて持っていた。顔は平らだった。だが肩の位置がいつもより高い。息を急がせないようにしている時の立ち方だ。


「当代」


「来ているか」


「夜半に、追加が四件です」


「同じ向きか」


「同じ向きです。水門岬」


 ニカの声は短かった。俺も短く頷いた。


「ヴェラさんは」


「別室です。マリヴェル家の蒼凪様の分も、写しを整えています」


「分かった。戻ってくれ」


「はい、当代」


 ニカは廊下を戻った。歩幅は崩れない。だが角を曲がる寸前だけ、靴底が一つ強く鳴った。


 長机の部屋の戸は開いていた。


 中に蒼凪殿がいた。白と青のローブは旅支度のまま整っている。赤い髪は朝の薄暗さの中でも色を失わない。机の上には夜明けまでの報告札が並んでいた。昨日の倍。束ねられたもの。まだ紐を通されていないもの。角だけ揃えられたもの。


 札の湿りが、部屋の空気を少しだけ変えていた。紙の匂いと、墨の匂いと、潮を吸った木の匂いが混じっている。報告は乾いていなかった。文字にされたあとも、まだ外の水を持ち込んでいる。


「お早うございます、蒼凪殿」


「お早うございます」


 蒼凪殿は札から眼を上げずに返した。指の腹が札の角を押さえる。何枚かを横にずらし、別の束へ入れ替える。その手つきに迷いはない。知らない島の報告を扱っているはずなのに、並べ方だけは本部の者より速かった。


 俺は机の端に立った。革帯を締め直す。潮鎚の留め具に指をかける。抜ける。戻る。音はしない。これでいい。


「読みます」


 蒼凪殿が一枚目を取った。


「内湾の水が、灯り一つ分だけ外へ引いた」


 二枚目。


「干していた網の結びが、ほどけて元の束へ戻った」


 三枚目。


「浜に置いた櫂が、昨日の朝の位置へ戻っていた」


 四枚目。


「祈祷板の吊り紐が、風向きと合わず水門岬側へねじれている」


 その札は別々の字だった。癖が違う。墨の濃さも違う。急いで書いたものもあれば、何度も書き直したように角が濡れているものもあった。だが中に残る言葉は似ていた。戻った。戻されていた。向いていた。


 俺は机の上へ手を置かなかった。


 置けば、札が指先の湿りを吸う。今朝の札はそれだけで重くなる気がした。


「個別の事故ではなく、島の潮筋全体が一つの方角へ寄っています」


 蒼凪殿は札を置いた。


「個別の事故ではありません」


「ええ」


 俺は頷いた。


 潮位札の小鐘が遠くで鳴った。続いて別の方角から短い音が返る。水門岬の上。街の四つ角。桟橋の端。いつもはそれぞれの拍で鳴る音だ。今朝は互いを真似ているようで、どこかが必ずずれていた。


 ずれが気持ち悪い。


 船底に小石が入った時と似ていた。船は進む。だが足の裏にだけ違和感が残る。


「夜明け前に、外海の音が消えました」


 俺は言った。


「岬の家で目を覚ます直前です。数拍だけ、波の音が抜けました」


 蒼凪殿は頷いた。


「私も、宿で筆を止めました。同じ時刻だと思います」


 それで十分だった。


 同じ時間に同じ空白を聞いた。波が鳴らない朝などない。この島では、眠っていても波は背中にある。それが抜けた。誰かに耳を塞がれたのではない。島そのものが息を止めたような静けさだった。


 息を止めたあと、何かが元の音へ戻った。


 その戻り方が、昨日までの波ではなかった。


 俺は革帯から潮位札を出し、机の端に置いた。


「水門岬の下、今日の干潮の底で入ります。準備をお願いします」


「干潮の底まで」


「二刻と少しです」


「では移動しながら、足りない分を詰めましょう」


「ええ」


 蒼凪殿は革鞄を開けた。油紙に包まれた円い物を取り出す。机の上に置く前から、中で金属の薄い震えがした。


 黒い羅針盤だった。


 蓋は閉じている。閉じているのに、針が蓋の下で落ち着かない音を立てていた。蒼凪殿は油紙を解き、蓋を半分だけ開ける。俺は横から覗き込まない。蒼凪殿が見る順に任せた。


「下、です」


 蒼凪殿が言った。


「上ではない、下です。座を求める向きが、立体的になっています」


 俺は頷いた。


 昨日まで、針は水門岬を指した。岬の上の何かを探しているように見えた。だが今は違う。針の先が軸の中で沈み、盤の面から逃げようとしている。地図の上ではなく、地面の下へ行こうとしている。


「降りる、ということですね」


「ええ」


「分かりました」


 俺は潮鎚の固定をもう一度確かめた。革の縁に指を入れて、背中の位置を少し下げる。濡れた場所で肩に引っかかると厄介だ。革靴の紐も締め直した。


 戸口でラーゴが札を持って入ってきた。


「当代、追加です」


「机へ。ヴェラさんに写しを」


「了解です」


 ラーゴは俺と蒼凪殿を交互に見た。問わない顔だった。聞くより動く方を選んでいる。


「ラーゴ。先に岩礁へ降りてくれ。ニカと外を見ろ」


「はい」


「奥へは来るな。声が届く場所で待て」


「了解です、当代」


 蒼凪殿は羅針盤を包み直した。俺は戸へ向かう。


 本部の机には札が残った。札は残る。人が出る。そういう朝だった。


──────────────────────────────


 本部の入口を抜けると、街が坂の下に広がっていた。


 海守り本部は突端の上にある。外海と内湾の両方が見える場所だ。普段なら朝の街は先に音で開く。市場へ向かう声。魚箱を置く音。戸を押し開ける音。子供の足音。小舟の櫂が水を切る音。


 今朝は、音が薄かった。


 人はいる。だが街がまだ起きていないように見えた。起きているのに、起きたことを認めていないようだった。


 坂を下り始める。


 籠を担いだ女が道の真ん中を歩いていた。いつもなら市場へ急ぐ人だ。俺は顔を知っている。名を呼べるほどではないが、潮の早い朝には必ず見る。今朝は歩幅が半分だった。籠の縁を一度押さえ、また歩く。中の魚は跳ねない。野菜も揺れない。


 井戸端に、桶が三つ並んでいた。


 女が一人、汲んだ水を桶から捨てていた。捨てた水は石畳を薄く流れ、排水の溝へ落ちる。女はすぐまた井戸へ腕を伸ばし、同じ桶へ水を汲んだ。二度目ではなかった。桶の縁に白い塩が細く残っている。洗い終えた布が腕に掛かっていたが、そこからまだ潮の匂いがしていた。


 女は布を見下ろした。


 困ったように眉を寄せる。怒るでも、泣くでもない。やり直せば済む仕事を、何度やり直せばいいか分からない顔だった。それでも手は動いている。桶を引き寄せる。水を汲む。布を浸す。


 近くの家の前では、若い男が網を広げていた。


 洗ったばかりの網に、朝の光がかかっている。だが結び目のくぼみに薄い塩が戻っていた。男は親指で塩を擦り、白い粉を見て、何も言わずに網を桶へ戻した。桶の水だけが古く見えた。夜からそこにあった水のように、朝の明るさへ馴染んでいない。


 潮位札の小鐘が鳴った。


 通りの人が、一瞬だけ手を止めた。


 誰も祈らない。誰も逃げない。顔だけが上がる。水門岬の方を見る者。街の四つ角を見る者。自分の手元を見る者。音の意味を確かめるように、それぞれが半拍だけ止まり、また作業へ戻った。


 人の声は、そのあと少し遅れて戻った。


 祠の前には老人が立っていた。


 手は合わせていない。頭も下げていない。祠の方を向き、背筋を丸めずに立っている。何かを願う姿ではなかった。何かが戻る場所を空けている姿に見えた。


 祠の吊り紐は風に揺れていなかった。


 それなのに、先だけが水門岬へ向いている。結び目の下に、小さな影ができていた。老人はその影を見ているのか、祠を見ているのか分からなかった。ただ瞬きが少ない。潮位札の小鐘が鳴るたび、肩だけがわずかに落ちる。


 俺は長く見なかった。


 長く見れば、その背中に名前をつけてしまう。今朝は名前をつける朝ではない。動いているものと止まっているものを分ける朝だ。


「鳥が」


 蒼凪殿が言った。


 俺は桟橋を見た。


 海鳥が降りていない。杭の上にも船縁にもいない。屋根に留まり、羽を畳んでいる。海面はそこにある。魚の匂いもある。だが鳥は降りない。餌場を忘れたのではなく、餌場にしていいか測っているようだった。


「漁師の舟も、出ていません」


 俺は言った。


「舫いが解かれていない」


 桟橋には小舟が並んでいた。三艘。四艘。どれも縄が杭に巻かれたままだ。潮に合わせて船腹が擦れる。きしむ音がする。その音だけがやけに大きい。


 普段なら、その音はほかの音に紛れる。水を払う櫂。怒鳴る声。魚箱を蹴る足。今朝は船腹のきしみだけが、街の骨の音のように聞こえた。


 小鐘がもう一度鳴った。


 今度は近い鐘と遠い鐘の間が揃わなかった。近い音が先に切れ、遠い音の端だけが細く残る。桟橋の男が縄を持ったまま顔を上げた。魚箱を運ぶ女が一歩止まった。井戸端の桶の前で、布を絞っていた手が止まった。


 誰も大声を出さない。


 ただ、自分の仕事がまだ続けられるか確かめるように、手元へ戻る。


 子供の声がなかった。


 昨日の朝は、本部の坂の途中で子供たちが潮位札の小鐘を真似ていた。口で金属の音を作り、誰が一番似ているか競っていた。今日はいない。家の中にいるのか。親が止めたのか。あるいは子供の方が先に何かを嫌がったのか。


 分からない。


 潮位札の小鐘だけが、遠近で鳴り続けていた。


 水門岬の上。街の四つ角。桟橋の端。もう一つ。どこかで鳴っているはずなのに、場所がすぐには出てこない。音だけがある。場所を持たない音は、街の屋根の上を薄く覆った。


 今日は、潮が読めない朝だ。


 腹の奥でその言葉を置く。声に出す必要はない。だが置かないと、足の裏が迷う。


 蒼凪殿は俺の半歩後ろを歩いていた。


 歩幅は合わせている。だが見る場所は俺と違う。屋根の連なり。内湾の水面。祠の紐。道端の水たまり。蒼凪殿の眼は一つずつ箱に入れるように動く。何をどう入れているかは知らない。知る必要もない。


「水面が、均一ではありません」


 蒼凪殿が小さく言った。


「波の高さですか」


「高さではありません。返り方です」


「返り方」


「ええ。押された後に戻る場所が、普段より固い」


 俺は内湾を見た。俺の目にはただの水面に見えた。だが言われれば、岸壁へ当たった水が戻る時だけ遅い。遅いというより、誰かが後ろから引いている。


「分かりました」


 それ以上は訊かなかった。


 説明を求めれば、蒼凪殿は答える。だが答えを増やしすぎると、今度は足が止まる。俺がやるべきことは道を選ぶことだ。見える範囲を足で確かめることだ。


 坂を下り切る。


 街の半円の道から外れ、岬の岩礁へ向かう細い道へ入る。ここから先は観光の道ではない。濡れた岩と細い足場。海守り衆の若手が訓練で使う道。普段なら朝の見回りで誰かとすれ違う。今朝は誰もいなかった。


 途中の水路に、白い泡が残っていた。


 泡は流れず、水路の角に留まっている。風は海から街へ入っているはずなのに、泡だけが水門岬の方へ細く伸びていた。俺は足を止めずに見た。見るだけにした。


「当代」


 坂の下からラーゴの声が上がった。


 岩礁の方だ。声は落ち着いている。


 俺は片手を上げて返した。蒼凪殿も歩を早める。急がない。だが余分な一拍も置かない。そういう歩き方だった。


──────────────────────────────


 岬の岩礁の足元で、ラーゴとニカが待っていた。


 ラーゴは舫い縄を二本、岩の窪みに掛けていた。片方は俺たちの命綱。もう片方は外へ合図を送るためのものだ。ニカは長い棒を潮溜まりへ差し、水位を測っている。棒の濡れた位置に指を当て、岩へ印をつけていた。


「当代」


 ラーゴが顔を上げる。


「潮、底まであと半刻です」


「水位は」


「奥の潮溜まりが膝上です。底まで落ちれば膝下に入ります」


 ニカが棒を上げた。


「戻り始めは早いと思います。今朝の潮は、引き方が揃っていません」


「了解した。外を頼む」


「はい、当代」


 俺は岩に膝をついた。潮溜まりの縁を覗く。


 水は黒い。深いから黒いのではない。光を返さない黒さだった。水面の下に藻が揺れている。岩の影も見える。だが奥行きだけが読めない。普段ならこの黒さはただの危険だ。足を入れない。それで済む。


 海守り衆はここを「潮を噛む裂け目」と呼んできた。


 子供の頃から聞いていた。立ち入りを禁じるための名だ。昔、誰かが入って戻らなかった。潮が足を噛んで離さなかった。そんな形で伝わっている。細部はない。名だけが残っている。名があれば人は近づかない。それで十分な場所だった。


 俺も四年半、ここを通った。


 水門岬の小鐘を確かめる時。岩礁の縄を張り直す時。若手の足場を見る時。毎日のようにこの上を歩いた。下を見たことはある。だが下へ行くことは考えなかった。禁じられた場所は、見える範囲で危険だと決めていた。


 蒼凪殿が隣に膝をつく。


 革鞄から黒い羅針盤を出し、油紙を解いた。蓋が開く。潮風が盤の縁を舐める。針は今度も沈んでいた。岬の上ではない。潮溜まりの底でもまだ浅い。さらにその下へ、行きたいと言っている。


「上ではない、下です」


 蒼凪殿は言った。


「ええ」


 俺は岩棚の側面を指した。


「ここから入ります。ただし上から潮溜まりへ落ちる場所ではありません」


「別口が」


「岩棚の下です」


 俺は腹ばいに近い姿勢で腕を伸ばした。岩棚は潮溜まりに張り出している。上から覗くと水面しか見えない。だが身体を低くし、手を下へ回すと岩の側面に切れ目がある。


 人ひとり分の横穴。


 海から削られた穴ではない。縁が妙にまっすぐだ。潮と藻で隠れ、上からは絶対に見えない。岩棚の下へ身体を入れない限り、そこに穴があることさえ分からない。


 覗き込む姿勢では駄目だった。


 腹を岩に預け、肘を先に入れ、肩を斜めに落とす。上から見ている俺の身体は、ほとんど岩へ貼りついているはずだ。海守り衆がここを確認した時も、たぶん同じことをしていない。立って見た。しゃがんで見た。危ないと判断した。それで十分だった。


「この位置から下を見るのは、四年半で初めてだ」


 声に出してから、自分の言葉の重さを感じた。


 四年半。俺は上を歩いていた。小鐘を見て、潮位札を見て、岩の滑りを確かめていた。下は危ない場所だと知っていた。だから考えなかった。危険を避ける知恵は、時々その先にあるものまで隠す。


 蒼凪殿は何も言わなかった。


 沈黙が軽かった。慰めでもない。驚きでもない。俺が今見つけた位置を、そのまま事実として受け取る沈黙だった。


「ラーゴ」


 俺は岩棚の上を振り返った。


「入る。時間は一刻。潮の戻り前に出る」


「了解です」


「誰も奥へ寄せるな。俺たちの声が荒れても、合図まで入るな」


 ラーゴの眉が少しだけ動いた。


「了解しました」


「ニカ。水位が戻り始めたら、すぐ声を上げろ。早すぎても構わない」


「はい、当代」


 俺は革帯と潮鎚を確かめた。留め具。縄。短刀。小袋。いらないものはない。足を岩棚の影へ滑らせる。片手で濡れた岩を掴み、身体を横穴へ入れた。


 岩が肩に擦れる。冷たい。潮の水が腰まで来る。服の革が水を吸い、重くなる。呼吸を浅くすると胸が岩に当たらない。こういう場所では大きく息をしない。身体を場所に合わせる。


 足裏の下で藻が潰れた。


 ぬめりが靴底と石の間に入る。踏み込めば滑る。力を抜けば流される。膝を少し外へ開き、重心を岩の方へ寄せる。潮鎚の柄が背中で岩に触れそうになったので、肩をさらに低くした。上にいる時の当代の身体では入れない。役目も肩書きも、岩棚の下では幅を取るだけだった。


 横穴の奥に石段が見えた。


 暗い中で、段の縁だけが白く浮いている。五段か六段。水に洗われているのに角が残っている。自然の洞ではない。人の手が入っている。


 蒼凪殿が後ろから入ってきた。ローブの裾を片手で押さえ、岩に触れない角度で身体を通す。無駄な動きがなかった。


「下ります」


「お願いします」


 俺は最初の石段へ足を置いた。石はぬめっていた。だが沈まない。二歩目。三歩目。背中の外光が削れていく。潮の音が後ろへ回る。


──────────────────────────────


 石段を下りると、空気が変わった。


 海の匂いではない。長く水を含んだ石の匂い。古い灰の匂い。閉じられた場所にだけ残る、乾かない空気の匂い。鼻の奥が少し重くなる。息を吸うたび、喉に石粉の薄さが触れた。


 外海の音は背中だけになった。


 さっきまで身体の左右にあった波音が、石段を下りた瞬間に後ろへ押し込まれる。音が遠いのではない。背中側の一枚だけに残っている。前には足音しかない。


 一歩ごとに、音が返る。


 俺の靴底が石へ触れる。湿った音が壁に当たり、少し遅れて戻ってくる。蒼凪殿の足音は軽い。だが軽い音も、ここでは同じように濡れて返った。回廊は足音を覚え、少しだけ遅れて差し戻してくる。


「灯りを出します」


 蒼凪殿が言った。


 革鞄から油布に包んだ小さな灯りを取り出す。火が入る。細い炎だった。派手に燃えない。だが壁の輪郭を拾うには十分だった。炎が揺れるたび、回廊の石目が細く動いた。


 回廊は曲がっていた。


 肩幅二人分。天井は低い。俺が手を伸ばせば指が届く。壁は石で組まれている。海蝕洞の丸い凹凸ではない。直線。直角。削った跡。誰かがここを通るために作った場所だ。


 壁に祈祷板が埋め込まれていた。


 腰の高さに、一定の間隔で並んでいる。木ではなく、薄い石か焼いた土の板だ。表面は摩耗し、文字は読めない。線の始まりと終わりだけが残っている。意味ではなく、配置だけが残っていた。


 板の縁には、指で撫でたような丸みがあった。


 長い時間、ここを通る誰かが触れたのかもしれない。水が触れただけなら、もっと均一に削れる。だが摩耗は片側に寄っていた。右手で触れる高さ。祈るためか、確かめるためか、通るたびにそこへ指を置いたのか。


 蒼凪殿が一枚目の前で足を止めた。


 手は触れない。指の腹を祈祷板の少し手前に置き、空気の上をなぞる。文字を読む動きではない。距離を測る動きだった。板と板の間隔。床との高さ。曲がり角からの位置。そういうものを拾っている。


 蒼凪殿の手が、止まる時がある。


 配置を読むときだ。


 何を読んでいるかは、訊かない。


 訊けば、蒼凪殿は答えるだろう。だが答えの中に、俺が持つべきではないものが混じることもある。今は仕事だ。仕事の範囲で共有されるものだけを受け取ればいい。


 俺は自分の足元を見た。


 岩棚の入口で靴底に挟まった小石が一つ、革紐の近くに残っていた。濡れて白くなっている。俺はそれを拾い、回廊の床の小さな窪みに置いた。目印になる。戻る道を見失う広さではないが、ここは普通の道ではない。


 蒼凪殿が二歩進む。俺も後ろへ続いた。


「灯りを、もう少し前へ」


「ええ」


 灯りが前へ伸びる。二枚目の祈祷板。三枚目。炎が板の割れ目を照らす。割れ目の中に黒い水が薄く光っていた。


 その時、後ろで音がした。


 かち、と小さな音。


 乾いた石が別の石に触れた音だった。


 俺は振り返った。


 小石がなかった。


 さっき置いた窪みは空だ。代わりに石段の二段目の縁に、同じ小石が乗っている。最初に靴底から離れた場所だ。俺が意識して置いた場所ではない。


 蒼凪殿も振り返っていた。灯りが石段へ向く。小石の影が段の縁で短く伸びる。


「動いた小石が、戻されています」


 蒼凪殿が言った。


 俺は喉の奥で息を止めた。言葉を選ぶ。


「運ばれたのではない、ですね」


「ええ。元へ。誰かが、運ぶのではなく、戻している」


 蒼凪殿の声は低い。決めつける声ではない。見たものをそのまま床に置く声だ。


 俺は石段の小石を見た。小石には水の筋がついていない。転がった跡もない。誰かがつまみ上げた気配もない。ただ、あるべき場所を思い出したように戻っている。


 俺はもう一つ小石を拾った。今度は壁際の欠けた石だ。指で重さを確かめ、回廊の別の窪みに置く。最初より奥。石段の縁から離れた場所。


「見ます」


「はい」


 二歩進む。


 蒼凪殿が灯りを上げる。三枚目の祈祷板の前で手が止まった。ほんの一拍。だが長い一拍だった。俺はその手を見て、すぐ足元へ視線を戻した。


 小石はなかった。


 石段の二段目を見る。そこに小石が二つあった。最初の小石と、今置いた小石。どちらも同じ縁に並んでいる。雑に置かれたのではない。隣同士の間隔が揃っていた。


「戻る場所が、入口側に設定されている」


 俺は言った。


「今見える範囲では、そうです」


 蒼凪殿が答える。


「ただし入口そのものではありません。最初にここへ入った時の位置に近い」


「持ち込んだものを、元の位置へ戻す」


「その仮説で進めます」


 仮説。蒼凪殿はそう言わなかったが、声はその位置にあった。俺は頷き、潮鎚の柄へ指をかけた。まだ抜かない。抜くには早い。だが掌の中で位置を覚えさせる。


 回廊の奥から、湿った風が来た。


 海の風ではない。壁の内側から押される風だ。灯りの炎が手前へ倒れる。戻る。もう一度倒れる。息をしているような動きだった。


──────────────────────────────


「当代」


 蒼凪殿の声が落ちた。


 短い呼びかけだった。だがその一音で、俺の足裏が決まった。


「当代」


 もう一度。


「壁から、水が出ます」


 俺は床の目地へ眼を落とした。


 回廊の石は隙間なく敷かれているように見えた。だが目地がある。細い線。長く水を吸って黒くなった線。その線から、水が滲み始めていた。


 水は下へ落ちない。


 奥から手前へ流れている。重さに逆らうのではなく、別の命令を聞いているように。目地の中を逆に走り、俺たちの足元へ集まってくる。


 足首に冷えが来る前に、匂いが来た。


 藻の匂い。裂けた祈祷板の粉っぽい匂い。ずっと水に沈んでいたものが、いま初めて空気へ上がった匂いだ。俺は息を浅くした。匂いを避けるためではない。腹を固めるためだ。


 藻の細片が出た。


 続いて、祈祷板の欠片が水に乗って出てくる。薄い。爪ほどの欠片。文字の線の一部らしい傷がある。それが藻に絡む。絡んだもの同士がさらに撚れる。


 細い縄になった。


 水。藻。祈祷板の欠片。三つが床の窪みで一本にまとまり、濡れた音を立てずに立ち上がる。生き物のようではなかった。手順のようだった。決まった場所で決まった形を作るもの。


「下がってください、蒼凪殿」


 俺は言った。


 蒼凪殿は半歩下がる。灯りは下げない。縄の動きを見ている。必要な分だけ観察している。俺は蒼凪殿の前へ出た。


 縄は俺を狙わなかった。


 蒼凪殿の足首へ伸びる。白と青のローブの裾に触れ、足首の周りを一度だけ回る。締め上げない。皮膚を切らない。動きを止めるためでもない。


 入口側へ引いた。


 殺しに来ていない。連れ戻しに来ている。


 腹の中で言葉が冷たく立った。


 俺は潮鎚を抜いた。留め具は鳴らさない。柄が掌へ落ちる。鉄の頭が重い。重さが助けになる。俺は一歩下がるのではなく、床へ落とした。


 潮鎚の頭を岩床に置く。


 打つのではない。支点にする。


 柄を両手で押さえ、体重を乗せた。鉄の頭が目地の段差に噛む。靴底も床に噛ませる。膝を少し曲げ、腰を落とす。引く力を腕で受けない。床へ流す。前に立つ時の力ではない。後ろに立つ時の力だ。あの時に借りた拍を、今度は床から借りる。


 腹に力を入れる。肩は上げない。


 肩で受けると、腕が負ける。腕が負ければ、潮鎚が浮く。潮鎚が浮けば、支点が消える。だから腹を落とす。足裏を広げる。濡れた石を靴底で掴むように、踵と親指の付け根へ同じ重さをかける。


「蒼凪殿。俺の後ろへ」


 蒼凪殿はローブを引かせたまま、俺の背後へ半歩寄った。無理に外そうとしない。縄を乱さない。こちらの支点に合わせて身体の重心を置く。


 縄は引いた。だが蒼凪殿の身体はそれ以上動かない。俺の腕に力が来る。肩ではなく腹で受ける。潮鎚の柄が少し鳴った。まだ持つ。


 蒼凪殿の右手が開いた。


「《断絶境界 / Cut Boundary》」


 短い宣告だった。


 詩はない。長い声もない。指先が、縄と床の目地の間を指す。触れない。けれど空気の中に細い線が引かれた。灯りの炎が一瞬だけ横へ倒れ、戻る。


 縄が床から離れた。


 入口側へ引く力が消える。ローブの裾にかかっていた輪がゆるむ。藻と祈祷板の欠片は、縄の形を保てなくなった。水が抜ける。細片が落ちる。床へばらばらに散る。


 俺は潮鎚を持ち上げた。


 振り下ろす。だが叩き潰す音を出さない。結び目の中央へ重さを置く。鉄の頭が濡れた塊を押し広げる。藻が薄く広がる。祈祷板の欠片が床を擦る。水が目地へ戻る。


 縄は静かにほどけた。


 勝ったという感覚はなかった。相手が倒れたのでもない。何かの手順が中断され、床だけが元の濡れ方へ戻っていく。濡れた石。黒い目地。薄い藻の匂い。それだけが残った。


 俺は息を一度吐いた。


 吐いてから、吸う。胸ではなく腹に入れる。肩を上げない。潮鎚の柄から手を離す前に、床の噛み方を確かめる。


 蒼凪殿も息を整えていた。ローブの裾に傷はない。足首にも血はない。灯りはまだ消えていない。


「これは末端です」


 蒼凪殿が言った。


「水門下の異常が、古い手順だけを漏らしている。そういう類のものです」


「ええ」


 俺は答えた。


 敵が殺す意思ではなく、配置を戻す動きだった。


 それだけを内側に書き留める。結論にはしない。結論にした瞬間、次の動きが見えなくなる。ここはまだ入口だ。


「進めますか」


 蒼凪殿が訊いた。


「潮の戻りまで、少しあります」


「なら進みます。奥を見てから出る」


「分かりました」


 俺は潮鎚を戻した。留め具を確かめる。さきほどの水で革が少し重い。だが抜ける。問題ない。


 床の目地は静かだった。


 静かすぎるほどだった。


──────────────────────────────


 俺たちは奥へ進んだ。


 回廊の曲がりを一つ抜けると、天井が急に高くなった。低い場所から広い場所へ出たせいで、胸の中の空気が一つ余る。灯りの炎が上へ伸び、天井の影に消えた。


 そこに、空の石座があった。


 祭壇ではなかった。


 祈るための高さではない。何かを置くための窪みだけがある。円い台座。中央に浅い穴。穴の縁は長い時間で滑らかになっている。水が触れた跡もある。だが今は何も置かれていない。


 空であることが、形になっていた。


 何もないのではない。何かがあった場所だけが、長い時間をかけて残っている。窪みの底には薄い水が溜まっていた。灯りが触れると、水は光らず、ただ暗さの表面だけを返した。


 周りの壁には祈祷板が輪のように埋め込まれていた。


 五枚。いや六枚。欠けたものを数えればもう一枚あったかもしれない。輪の中心に石座がある。板の文字は読めない。だが全部が同じ高さで、同じ間隔を保っている。外から見れば壊れている。中の並びはまだ壊れていない。


 蒼凪殿が石座の前で止まった。


 手は伸ばさない。


 そのまま、止まる。


 一拍。二拍。灯りの炎が小さく揺れる。蒼凪殿の手は石座の縁から少し離れたところで止まっていた。触れれば分かるものがあるのかもしれない。触れないから分かるものもあるのかもしれない。


 沈黙が、さきほどまでと違った。


 回廊の沈黙は濡れていた。足音を吸い、遅れて返す沈黙だった。ここは違う。音が広がらない。石座のまわりだけ、空気が厚く、動きにくい。俺が息を吸う音さえ、石座の縁で止まる気がした。


 俺は訊かなかった。


 ここで訊くことは、仕事の助けにならない。蒼凪殿が言うべきものなら言う。言わないなら、今は言葉にしないものだ。


 蒼凪殿は革鞄から黒い羅針盤を出した。


 油紙を解く。蓋を開ける。灯りが盤の縁に映る。針は軸の中央で一度止まった。今朝からずっと下へ沈もうとしていた針が、石座の上では止まる。


 止まったのは長くなかった。


 次の瞬間、針が動いた。


 ゆっくり。だが迷わない。水門岬の下ではない。岬を越え、環礁の奥へ向く。内湾と外海を分けるその先。島の水が最後に折れる方角。


「環礁奥」


 蒼凪殿は短く言った。


「座から、さらに奥の方角へ針が動きました」


 俺は頷いた。


 言葉が喉に引っかかる。潮の名に似た響きが頭の奥をかすめた。俺はそれを舌に乗せなかった。今は音を追う時ではない。針の向きだけを見る時だ。


 その時、壁の奥で音がした。


 水が、一度だけ重く返る音。


 波が壁を叩いたのではない。潮が穴へ入った音でもない。岩の向こうで、大きな水の塊が身じろぎしたような音だった。回廊の空気が一瞬だけ押され、灯りの炎が低くなる。


 俺は壁を見た。


 蒼凪殿も同じ壁を見ていた。


 壁は動かない。石座も動かない。祈祷板もただ埋まっているだけだ。だがさきほどの縄とは、桁が違う。こちらへ伸びてきたわけではない。触れられたわけでもない。それでも、身体の芯が一度だけ冷えた。


 起きた、と言うべきか、こちらを見た、と言うべきか。


 判じる材料はない。だが大きさだけは分かる。さきほど床の目地から出た縄は、古い手順の漏れだった。今の音は違う。手順ではない。奥にあるものの重さだ。


 入口側で音が変わった。


 波が横穴の口へ戻り始めた時の音だ。背中側の空気が湿る。外から細い声が届く。


「当代。水位、戻り始めました」


 ニカの声だった。遠いがはっきりしている。良い声の出し方だ。恐れを混ぜず、情報だけを通している。


 俺は壁から眼を離さなかった。


 蒼凪殿も離さなかった。だが二人とも、ここに残る選択肢が消えたことは分かっていた。今は見るために来た。入るためではない。


「今入る場所ではない」


 俺は言った。


「同意です」


 蒼凪殿が答えた。


「次に入るための条件を、整える必要があります」


「ええ」


 俺は潮鎚の位置を直した。


 蒼凪殿は羅針盤の蓋を閉じなかった。油紙を戻しかけた指が止まる。針は環礁奥を指したまま、盤の中で細かく震えていた。まだ反転しているわけではない。別のものを示しているわけでもない。ただ、向きだけを変えずにいる。


 石座に背を向ける。


 背中を向けた瞬間、肩甲骨の間に冷たいものが残った。見られているような感覚ではない。戻される場所を測られているような感覚だ。俺は足を速めず、同じ歩幅で戻った。


 回廊を戻る間、小石は見なかった。


 戻されているなら戻されたままでいい。俺たちがどこへ何を置いたかを、こちらから確かめてやる必要はない。確かめる行為そのものが、こちらの癖になる。癖は次に読まれる。


 さきほどの床の目地は静かだった。


 ただ水の匂いが少し濃くなっている。石が湿りを増している。潮の戻りが近い。横穴が閉じるまでの時間が、背中の音で分かる。


「足元」


 蒼凪殿が短く言った。


「見ています」


 段差の手前で足を置き直す。石段は行きより濡れていた。水が縁を舐め始めている。俺は先に上がり、岩の側面を掴む。蒼凪殿が続く。


 外の光が、穴の向こうで細く揺れていた。


 俺はその光へ向かった。


 一段上る。二段。三段。


 足首に冷たい水が来た。


 行きに下りた時の水ではない。外から満ちてくる潮なら、出口側で泡が潰れ、奥へ押されるはずがない。だが泡は俺たちの方を避けて、回廊の奥へ流れていた。灯りの反射だけが、水面の上を逆向きに走る。


 俺は足を止めた。


 止めた瞬間、水がもう一段上がった。段を一つずつ舐める。急流ではない。静かだ。静かなまま、俺たちが戻るための段だけを塞いでいく。


「蒼凪殿」


「見ています」


 蒼凪殿の声は近い。灯りを下げず、羅針盤も閉じない。片手で盤を支え、もう片方でローブの裾を押さえている。油紙は濡れていない。なのに羅針盤の包みだけが、手の中で重くなっているように見えた。


「これは満ち潮ですか」


 俺は訊いた。


「いいえ」


 蒼凪殿が答えた。


「外の潮ではありません。通路の形をなぞって、戻されています」


 戻されている。


 その言葉が、石段の湿りと重なった。


 俺は後ろを見た。回廊の奥。空の石座のある方。水の泡が外へ逃げず、奥へ細く流れている。灯りの線も、蒼凪殿の手の中の針も、同じ向きを示していた。


「戻る先が、外ではない」


「ええ。出口側だけが先に塞がれています」


 水は脛に近づいていた。


 冷たい。冷たさが靴の縫い目から入り、膝の裏へ上がる。だが流速は強くない。押し倒す水ではない。こちらを殺す水ではない。ただ、戻る道を消す水だ。


 撤退は、遅くなかった。


 俺はそう判断した。石座を見た。針を見た。水位を聞いた。今入る場所ではないと決めた。判断は正しかった。けれど正しい判断のあとで、現実が待ってくれるとは限らない。


 俺は潮鎚の柄へ手をかけた。


 その瞬間、柄が手の中で沈んだ。


 重くなったのではない。奥へ残ろうとした。俺の腕は外へ向いている。潮鎚だけが半拍遅れて、回廊の奥に置かれたままになろうとする。肩が引かれるほどではない。だがはっきり分かる。人ではなく、道具が呼ばれている。


 蒼凪殿の羅針盤も同じだった。


 油紙は湿っていない。盤にも水は触れていない。それでも蒼凪殿の手首が一度だけ下がった。蒼凪殿は蓋を閉じなかった。閉じれば軽くなるかもしれない。だが閉じれば、針の示す境界を読めなくなる。


「当代」


「はい」


「人を引いてはいません。装備だけが、奥へ残ろうとしています」


「分かりました」


 俺は水から足を抜かなかった。抜けば上がれるかもしれない。だが次の段も水が舐めている。出口へ進めば、狭い横穴で水に背を押される。蒼凪殿を先に出しても、外で塞がれる。どちらも遅い。


 撤退の判断は正しかった。


 だが現実の方が先に動いた。


「撤退路を捨てます」


 俺は言った。


「迎撃支点を取る。蒼凪殿、針を閉じずに読んでください」


「承知しました」


 蒼凪殿は俺の横へ並んだ。背後ではない。前でもない。横だ。灯りと羅針盤が同じ高さに置かれる。針は奥を指している。水は出口から来ている。二つは逆に見える。だが同じものを示している。


 戻るものは、俺たちではない。


 俺は潮鎚を抜いた。


 振り上げない。打ち込まない。鉄の頭を石段の上へ置く。杭のように。だが杭として使うにはまだ足りない。ここでは初動だけでいい。鉄の重さを床へ渡し、身体の重心を水に持っていかれないようにする。


 柄が沈む。


 俺は両手で押さえた。水が段の縁を越え、潮鎚の頭に触れる。鉄が低く鳴った。水音ではない。石の奥で返った音だ。


「境目が、二つあります」


 蒼凪殿が言った。


「出口側の水。奥へ戻る針。その間に、こちらが置かれています」


「切れますか」


「今は読みます。切るなら、次の拍です」


「分かりました」


 俺は息を吸った。


 外のニカの声はもう届かない。ラーゴの縄の音も聞こえない。出口側から戻った水が、音の通り道を先に塞いだ。横穴の外は近い。だが近いだけだ。行ける場所ではなくなっていた。


 奥で、水が返った。


 一度目より重い。


 壁の奥ではない。回廊全体の下で、何かが大きく向きを変えたような音だった。灯りの炎が倒れ、羅針盤の針が震え、潮鎚の柄が俺の掌の中でさらに沈む。


 俺は膝を落とした。


 逃げるためではない。立つためだ。


 蒼凪殿の声が横で低く整った。


「来ます」


 出口の潮が、戻った。


 針は、奥を指した。


 壁の向こうで、水がもう一度重く返った。

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