後ろに立つ
縄が軽くなった。
ラーゴの手の中で、麻の張りが消えた。
切れた感触ではない。切れた縄は、最後に手を打つ。強く引かれていたものがぷつりと消えれば、腕が前へ泳ぐ。肘が抜ける。掌が空を掴む。
今のは違った。
縄は手の中にある。濡れた麻の重さもある。だが外から返ってくるはずの人の重みだけが、すっと抜けていた。
「当代」
ラーゴが呼んだ。声は低い。叫びにしないために、喉の奥で押さえている。よく訓練された声だった。海の上で誰かが叫べば、隣の艇の手まで遅れる。遅れは、別の命に移る。
艇の縁に膝をついた。縄の根元へ手を当てる。麻は水を吸って太くなっている。指の腹で繊維を撫でる。途中までは生きていた。濡れた縄の奥に、まだ向こうへ伸びる線がある。
けれど薄い。
腰の輪に残っているはずの重みがない。切れて途切れた空白ではない。そこにあるのに、届かない空白だった。
軽くなった縄は、切れた縄より悪い。
切れたなら結ぶ。投げる。別の線を作る。手順がある。軽くなった縄は、向こうの手順が見えない。残っている線を捨てるか。持ったまま動くか。判じる前に、手を離せない。
擦り切れたなら、麻が鳴る。岩に噛まれたなら、一度強く引かれてから緩む。蒼凪殿が外したなら、輪の位置が変わる。
どれでもなかった。
外からこちらへ向くものが、消えている。
洞口を見た。岩礁の影の先で、潮が立ち上がっていた。さっきまで裂け目だった口が、灰色の厚みで塞がれている。泡を抱いた水が、岩と岩の間に詰まっていた。潮が息をするたびに、表面が膨らむ。
返り洞の水壁。
聞いたことはある。見るのは初めてだった。
腰を落とす。肩の力を抜く。息を吐く。吐ききらない。半分を残す。次の指示に使う息だった。
「ラーゴ」
「はい」
「縄を放すな。輪は腰だ。蒼凪殿の方に残っている」
ラーゴの指が麻へ食い込む。
「外からの引きは消えた。だが線は生きている。離せば全部失う」
「了解です」
ラーゴは縄を握り直した。引く手ではない。残す手だった。掌の厚みを縄の根元に置いて、腕ではなく腰で止めている。
艇尾へ手を伸ばす。潮鎚は舟底の革帯に固定してあった。今日はただの重しのつもりだった。艇の底を落ち着かせるために積んだ道具だ。使う予定はない。
予定は海の上でよく外れる。
革帯の留め金は二重。濡れると固い。力で外せば音が出る。親指を金具の端へかけた。角度だけ変える。金具の噛み合いが少し浮く。次に人差し指の爪で押す。鉄が鳴る前に、掌で包む。
留め具を鳴らさず外す。
海守り衆の道具は、音を消して使う。ひとつ鳴れば誰かが振り向く。振り向けば別の音を聞き落とす。波。息。縄の擦れ。救助では、それぞれが一つずつ命に繋がる。
革が緩んだ。潮鎚の柄が舟底から離れる。木の柄は水を吸って冷たい。鉄の頭は塩で曇っている。見た目より重い。持つたびに、肩の位置が変わる。
「当代」
別の艇からニカの声が飛んだ。
「外側の信徒、艇に上げました」
「漁師の頭は」
「岩礁の裏です。もう一人拾えば戻せます」
「ニカ、残りを船へ送れ」
声を短くした。長い言葉は、水の音に裂かれる。
「岩礁にしがみついている者の数を確認。流された者は追うな」
「追わない、ですか」
「追わない」
返事の前に、半拍の沈黙があった。ニカは納得していない。だが従う。そういう手をしている。四年半で覚えた。
「了解です」
「ラーゴ、洞口を見ろ。膨らんだら声を出せ。引いたら声を出せ。水の色が変わっても声だ」
「はい」
「誰も奥へ寄せるな。岩礁からも艇からも潜らせない」
「了解です」
「俺が戻るまで、外はお前たちで持つ」
ラーゴが一度だけ頷いた。短い目が合った。長くは見ない。長く見れば、互いに今言えないものまで見ようとする。今は目で約束を作る場面ではない。手で外を持つ場面だった。
外を離れるなら、外を残して行くしかない。
当代の縄は、艇尾の金具ではない。ラーゴの手だ。ニカの声だ。海守り衆が同じ方向を見ていることだ。それが残るなら、内へ入れる。
潮鎚を右手に落とす。左手は空けたまま、艇の縁を越えた。岩礁の足元へ降りる。水が腿を打った。
初夏の水ではない。洞口の手前だけ、底から戻ったように冷えている。皮膚が縮む。膝が一度固くなる。息を細く吐き、身体の反射を先に逃がした。
足の下は平らではない。藻の滑り。貝殻の縁。小さな穴。蟹の脚が逃げる気配。爪先から置かない。足の指の腹で触る。滑る前に離せる踏み方で進む。
水は腰まで上がった。潮鎚を半身の外へ置く。正面から進めば、水が腹に当たる。半身なら抵抗が逃げる。左肩を少し下げ、右手の鉄を岩へ近づけた。
洞口が目の前にある。灰色の水壁は膨らみ、退き、また膨らむ。表面の泡が丸く盛り上がる。その泡が潰れずに横へ流れる。奥から押してくる水と、外へ戻ろうとする水がぶつかっていた。
岩の口が、海を噛んでいる音だった。
潮鎚を両手で持ち直した。
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潮鎚は振るだけの道具ではない。
重さをぶつけるだけなら、もっと短い柄でいい。もっと広い頭でいい。これは違う。鉄の頭は小さく重く、柄は俺の腕の長さに合わせてある。水の前で足を崩さず、岩へ拍を置くための形だ。
詠唱はない。
声で水に渡すものは持っていない。こちらにあるのは鉄。岩。息。血の温度。手の中で鈍く沈む重みだけだ。
洞口の手前で、足場を探す。右足を岩のくぼみに入れた。左足は少し後ろ。半身。膝を折る。潮鎚の頭を水壁へ向けず、岩床へ向ける。
触れるのは水ではない。岩だ。
水へ直接触れれば、水はこちらの肌を覚える。覚えた水は離す時に重くなる。だから岩へ渡す。岩を通して、水の足元へ届かせる。
鉄の頭を岩床へ置いた。落とさない。叩かない。置く。
低い音がした。外には届かない音だった。だが岩の中では広い。鉄から岩へ、岩から右足の裏へ、足の裏から膝の骨へ、膝から腰へ上がってくる。胸の奥で、自分の心音より少し遅い震えになった。
その震えが、岩の縁へ走る。
水壁の足元で泡が一つ潰れた。潰れた泡の周りだけ、表面の膨らみが止まる。動いていた灰色の頂が、薄い膜を張ったように固まる。次の瞬間、泡の筋が左へ流れた。白い細線が、岩の縁に沿って洞の内側へ走る。
潮は命令では動かない。拍を借りる。
息を一つ渡した。短く吐く。吐いた息をすぐ吸わない。胸の中の重心を半拍だけ遅らせる。こちらが先に動きたがるのを止める。
鉄の頭の下で、岩がもう一度だけ震えた。水壁が膨らもうとして、止まる。止まったのは全体ではない。人ひとり分の幅だけだ。洞口の左の縁。泡が筋状にほどけ、そこだけ水の厚みが薄くなる。水と岩の間に、細い空気の道が見えた。
息を吸う。潮鎚を持ち上げる。右肩から入らない。左肩を先に入れる。半身のまま、水の薄い場所へ滑り込む。冷えが耳の横を切った。水は裂けたというより、耳の後ろで薄い布みたいにめくれた。
塩が濃い。
肌を撫でる水が重い。冷たいだけではない。皮膚の上に残るぬめりがある。頬の横で泡が弾け、片耳だけ音が遠くなった。
一歩。岩の縁を越える。外の光が背中だけになる。
水壁の向こうでラーゴの声が遠ざかる。艇の軋みも遠ざかる。代わりに、洞の中の音が増えた。水滴。岩の腹で返る小さな波。自分の息が天井に当たって戻る音。
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中は薄暗かった。
天井が低い。首を上げれば額を打つ。岩肌には藻が貼りつき、貝の小さな縁が白く出ている。触らない。触れば音が出る。音が出れば、向こうにこちらの位置を教える。
一歩進む。足が滑る。膝で吸う。潮鎚の頭は右側の岩へ近い位置で持つ。すぐ置ける距離だ。
二歩進む。左手を空ける。水夫見習いを抱える手。誰かの肩を支える手。縄を掴む手。空いた手は仕事が多い。
三歩進む。水音の戻りが遅い。曲がりの向こうに空気がある。広がりがある。耳がそう言った。返り洞の形は、聞いていたものと合う。だが足元は聞いた通りにはならない。ひとつずつ確かめる。
四歩。
一つ目の曲がりが見えた。
岩壁が左へ折れている。その向こうに灰色の光が溜まる。外の光ではない。水面が拾って、洞の腹で薄く伸ばした光だ。
最初に見えたのは、ローブの裾だった。白と青が水を吸って色を沈めている。岩棚の上で円に広がり、その端から水滴が落ちていた。次に赤い髪。濡れて短くまとまり、薄暗い中でも色だけは沈まない。
その下で、手が動いていた。
右手は水夫見習いの足首近く。左手は肩の下。擦過が岩に触れないよう、指の位置を変えている。
水夫見習いは横たわっていた。十三か十四。胸が浅く上下している。濡れた服が肋の動きに貼りつく。足首のあたりに白く剥けた皮膚が見えた。
蒼凪殿は膝をついていた。背中はまっすぐ。肩の線が岩棚の縁と平行。膝の置き方に無駄がない。前へ倒れすぎていない。後ろへ逃げていない。足首を支える手が、呼吸のたびに少しだけ角度を変える。
音を聞く。水夫見習いの浅い息。洞内の水滴。蒼凪殿の呼吸。三つともある。
半秒だけ待った。返事を作れる場所まで声を下げる。
「蒼凪殿、生きていますか」
蒼凪殿の手が止まった。止まったのは一瞬だけだ。水夫見習いの肩を支える左手が、落ちないよう先に固定される。その後で頭がこちらへ向く。
「当代」
声は高くならない。速くもならない。洞の壁に当たっても輪郭が崩れない声だった。
「こちらへは」
「入りました」
それだけ言う。
蒼凪殿は頷かない。だが左手の位置を少しずらした。俺が岩棚へ入る幅を作る。言葉より早い手順だった。
曲がりを抜ける。岩棚の縁へ膝をついた。先に水夫見習いを見る。蒼凪殿ではない。
頬は塩で白い。唇は青い。睫毛に水が溜まり、瞼が浅く震えている。鼻孔の縁が動く。息はある。浅いが通っている。
「意識は」
「あります。声を作る力はありません」
「足は」
「右足首に擦過。皮膚が剥がれています。骨は触れる限り、損傷なし」
「体温」
「下がっています。岩棚へ上げてから震えが続いています」
手首へ指を当てる。脈は速い。だが飛ばない。一、二、三。胸の動きと合わせる。呼吸は浅く、早い。冷えと恐怖の呼吸だった。
足首を見る。擦過の周りに砂がついている。皮膚は薄く剥がれているが、深く裂けてはいない。蒼凪殿の支え方で、傷の面は岩から浮いていた。
「外へ出します」
「水壁は」
「一拍、ずらしました。戻る時も同じ所作で開きます」
蒼凪殿の目が潮鎚の頭を一度だけ見た。次に俺の足元を見る。濡れ方を見る。水壁を抜けた角度を測ったのだと思った。顔を見ている目ではない。手順を見ている目だった。
「では、子供を」
「先に」
水夫見習いの背中へ右腕を入れる。蒼凪殿の手が膝の裏を支えている。引き継ぎやすい角度だ。足首の擦過に触れないよう、膝を少し外へ逃がしている。
持ち上げる前に、もう一度だけ蒼凪殿の呼吸を聞いた。
息が上がっていない。だが数が合わない。
ここまで来た。水夫見習いを上げた。水壁が閉じた後に岩棚で保った。向こうから来るものを見ていた。なのに呼吸の深さが、救助後の人間のものではない。
整っている。
整えようとしているのではない。手を動かす場所に、呼吸が先に置かれている。
水夫見習いを抱える。濡れた衣が重い。身体そのものは軽いのに、海水が彼を大人の重さにしている。蒼凪殿の手が離れた瞬間、重さが左腕へ乗った。
岩棚の縁で、かち、と音がした。
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乾いた音だった。
貝殻が岩に触れる音。続いて二度。三度。水の音ではない。海藻が粘る湿った音が、貝殻の後から絡んだ。
水夫見習いを抱えたまま、岩棚の縁を見る。水面から塊が上がっていた。拳ほどの大きさ。割れた貝。蟹の脚の節。海藻の繊維。薄い木札の破片。それらが寄り合い、ひとつの形を作っている。生き物ではない。だが動きは生き物だった。
岩へ前の部分をかける。かち。脚の節が岩に当たる。海藻がぬるりと伸び、貝殻の欠片がそれを支える。水の中でほどけていたものが、岩棚の上でまた締まる。
蒼凪殿の右手が開いた。
「下がってください、当代」
声は近いのに、視線はこちらへ来ない。正面の塊を見ている。指先は水面へ向いている。
詠唱に入る声だった。
正面を見る。次に背後を見る。一拍で足りた。
正面の塊は岩棚へ上がってくる。背後の岩壁でも、濡れた繊維が動いた。黒い藻の筋が岩肌から浮き、蟹の脚の節が壁を伝って下りる。蒼凪殿の真後ろへ回る動きだった。
「境を閉ざし、内と外を分かつ」
水夫見習いを抱えたまま、半歩下がる。岩棚の奥へ置く。足首の擦過が触れないよう、踵を浮かせたまま先に膝裏を下ろす。頬が岩に当たる前に、左掌で受ける。濡れた頬は冷たい。震えが掌に移った。
蒼凪殿の声は続く。
止められない声だ。止めれば、引いた力が戻るのだろう。詳しいことは知らない。だが声を切ってはいけないことだけは分かった。
潮鎚を右手で持ち直す。蒼凪殿の真後ろへ回る。足音を殺す。爪先から置かない。足の外側を岩へ当て、膝を折って体重を吸わせる。肩を開かない。肩を開けば潮鎚の頭が岩に触れ、音が出る。
背後の塊が岩棚の縁へ乗った。海藻の繊維が先に伸びる。次に貝殻の欠片。蟹の脚の節が二本、岩へかかる。蒼凪殿の肩の高さへ上がろうとしていた。
詠唱中の蒼凪殿の後ろを、誰かが持たなければならない。
蒼凪殿の前は、蒼凪殿が断つ。蒼凪殿の後ろは、こちらが持つ。
潮鎚の頭を差し込んだ。打たない。横から入れる。塊と岩棚の触れ目へ、鉄の頭を薄く噛ませる。角度は下から上ではない。外へ剥がす角度だ。手首だけで押せば負ける。腰を半歩沈め、柄を肋の近くで止める。
鉄が貝殻に触れた。かつ、と短い音。塊が岩から浮く。海藻の繊維が伸びた。湿った糸が潮鎚の頭へ巻きつく。引き戻す。繊維がきしむ。ちぎれた端が、塩水を飛ばした。
「戻らぬ線を刻め」
蒼凪殿の声が洞に広がる。正面の塊が、岩棚の上でたわむ。水面の縁が、薄く切られるように揺れた。蒼凪殿の右手が線を引く。左手は空いている。だが振り返らない。
背後の塊を水へ落とす。落ちたはずのものが、水中でまた固まる。貝殻が内側へ寄り、脚の節が外へ開く。別の影も岩壁から降りてくる。洞の暗がりで、硬いものが岩を撫でる音が増えた。
水夫見習いが小さく息を吸う。見に行かない。左手だけ伸ばし、彼の肩を岩棚の奥へもう一寸押す。動かすのではない。転がらないように止める。
「断ち切る ── 《断絶境界 / Cut Boundary》」
蒼凪殿の声が終わった。
正面の塊から、まとまりが抜けた。貝殻の欠片が別々に震える。蟹の脚の節が向きを失う。海藻の繊維がほどける。ひとつだった輪郭が、ただの濡れた残骸に戻って水へ崩れた。
蒼凪殿の右手が下りる。振り向く前の一拍。その一拍で、岩壁から降りていた影が肩へ届いた。
潮鎚を横へ振る。打ち砕くには近すぎる。剥がす。塊の縁へ鉄の頭を当て、蒼凪殿の肩から外へ押す。海藻の繊維が薄く伸びる。塊は剥がれた。
同時に、別の繊維が俺の肩へ触れた。
革の上を何かが横へ流れた。冷たい。次にぬるい。その下で皮膚が刺された。細い線が熱を持つ。肩の奥が一度だけ跳ねた。
血を見る時間はなかった。詠唱が続いていた。
終わった詠唱の余韻がまだ水を押している。蒼凪殿の手が次の形へ入りかけている。正面は崩れたが、背後の水中でまた音がする。
潮鎚を引き戻す。塊を水へ落とす。落ちた場所へ鉄の頭を押し込み、岩棚から距離を取らせる。砕くより離す。いま必要なのは、倒すことではない。出口までの幅だ。
蒼凪殿が振り向いた。
「当代」
「肩は擦れただけです」
「血が」
「見ません。後で見ます」
蒼凪殿の目が肩へ落ちた。一拍だけ。血の量。動く範囲。潮鎚を持てるか。そこだけ測って、すぐ前へ戻る。
「外へ」
「はい」
水夫見習いを抱え直す。蒼凪殿が膝の裏へ手を入れた。足首の擦過を避ける。俺の右手は肩と背中を支える。二人で持つ角度になると、彼の重さが半分になった。重さが消えたのではない。流れる場所ができた。
蒼凪殿の腰の縄は、まだ生きている。薄い麻の線が外へ伸びている。ラーゴの手まで続いているはずだ。
守る相手ではない。今は、守れば動ける相手だ。
その言葉は、動いた後で腹の底に落ちた。
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出口は同じ場所にある。
だが同じではない。
片腕に水夫見習いの重さがある。背後に蒼凪殿の足音がある。肩の革の下に熱い線がある。息は入る時より短い。
潮鎚の頭を岩床へ置く。打たない。置く。今度は少し遅く置く。入る時と同じ拍では水が合わない。重さが増えた分、こちらの息も遅れている。ならば水にも同じだけ遅れてもらう。
鉄が岩に触れた。
低い音。
入る時より沈んだ音だった。岩を通る震えが足裏へ返る。右足から膝へ上がり、肩の傷で一度途切れたように感じる。息を詰めず、細く吐いた。
水壁の表面が膨らむ。すぐには止まらない。泡が盛り上がり、頂がこちらへ倒れかける。半拍遅れて、泡の筋が左へ流れた。白い線が岩の縁に沿う。薄い場所が生まれる。
「今です」
蒼凪殿が短く言った。声は押さえられている。だが乱れていない。
水夫見習いの頭を胸の方へ寄せる。水を被らせない角度にする。蒼凪殿の手が膝裏を支え、俺の腕が肩を抱く。
半身で入る。
水が耳の横で裂ける。
冷たさが傷へ入った。肩の奥が白くなるような痛み。歯を噛まない。噛めば首が固くなる。首が固くなれば、腕の角度が落ちる。
外の光が背中から正面へ回った。
水壁を抜けると、岩礁の足元の水が腿を揺らした。冷たい。だが洞口の内側ほど重くない。戻った潮は少し薄くなっている。
ラーゴの声がすぐ近い。
「当代」
「ラーゴ。受けろ」
水夫見習いの肩を渡す。ラーゴは腕だけで受けない。膝を入れ、腰で重さを逃がす。彼の頭が落ちないよう、ニカが後ろから布を入れた。
「呼吸あります」
「足首、擦過。冷えている。布と湯袋。岩礁の上で待て」
「了解です」
蒼凪殿が水から上がる。ローブが水を吸って重くなっている。裾が岩に貼りつく。蒼凪殿は直さない。必要な場所を通るためにだけ、足で布を避ける。装いを整える手間を、ここに置かない歩き方だった。
「箱」
水夫見習いが呟いた。声というより、息の形だった。
ラーゴが顔を上げる。
「箱、ですか」
水夫見習いの指が動いた。濡れた掌が岩の上を探る。眼の焦点は合っていない。だが指先だけが、洞口の方へ伸びる。
「供物」
喉が鳴った。
振り向く。洞口の手前、岩礁の影の水面に木箱が浮いていた。半分は岩に引っかかり、半分は水に揺れている。蓋は閉じている。紐は水を吸って黒く見え、木の角は波に削れて白くなっていた。
箱を見る。水夫見習いを見る。彼の指はまだ動いている。拾おうとしている手ではない。渡さなければならないと覚えている手だった。
「先に、お前だ」
声を荒げない。洞内で荒げた声は戻ってくる。戻った声は、痛みの中の人間を余計に揺らす。
「箱はこちらで拾う」
水夫見習いの眼がこちらへ寄った。焦点はまだ揺れている。だが一度、頷いた。
「ラーゴ」
「はい」
「鉤を入れろ、外から箱だけ拾え。誰も水へ入れるな」
洞口へ向いて声を投げる。振り向かない。水夫見習いから目を切りすぎないためだ。
「了解です」
ラーゴが艇から長い鉤を出した。先端が水へ沈む。波に押されて一度外れる。二度目で紐を拾った。引き上げる時、箱の角が岩に当たる。鈍い木の音。その中で、薄い金属音が震えた。
小さい音だった。
針のようなものが、木の底で迷っている音。
俺はその音を覚えた。朝に聞いた漁師の話が、頭の端で形を戻す。定まらない針。岬。外海。内湾。どれもまだ、材料ではなく影だった。
洞奥へ目を向ける。曲がりの向こうの壁に、薄い板が一枚見えた。水を吸って黒く濡れている。祈祷板だ。岩に貼りつき、取りに来る手を待っているようだった。
行かない。
順番がある。
人を出す。冷えを止める。外の数を戻す。箱を拾う。残ったものは、残ったまま置く。
──────────────────────────────
岩礁の上で応急処置に入った。
水夫見習いを平らな場所へ移す。ラーゴが背中を支える。ニカが布を広げる。布は乾いているが、潮気を含んで少し重い。湯袋が岩へ置かれた音は、鈍く柔らかかった。
蒼凪殿は少し離れた場所に立った。洞口が見える位置だ。口は閉じている。腰の縄を自分でほどき、輪をラーゴの方へ戻す。指は震えていない。ほどいた後も、洞口から目を離さない。
水夫見習いの横へ膝をつく。濡れた服を胸の上で外す。塩で硬くなった襟元を、指の腹でほどく。強く引かない。冷えた皮膚は傷つきやすい。布が肌から離れる時、薄い水音がした。
「ニカ、布」
「はい、当代」
布を受け取り、胸の水を押さえる。拭くのではない。押さえて吸わせる。皮膚を削らないためだ。
「ラーゴ、湯袋。腋へ二つ。胸の上には置くな」
「了解です」
湯袋が腋の下へ入る。水夫見習いの震えが、少しだけ変わった。大きく震えるのではなく、小刻みに戻る。戻った震えは悪くない。身体が温度を探し始めている。
「足首、見ます」
水夫見習いは頷かない。だが足を動かさない。
右足首を持ち上げる。擦過の面に岩の砂がついている。薄く剥がれた皮膚が赤い。骨の線を指で触る。段差はない。熱もまだ深くない。
「塩水。薄めで」
「はい」
ニカが器を差し出す。少しずつ流す。水夫見習いの喉が鳴った。肩に力が入る。ラーゴが背中を支え、倒れないようにする。
「息を吐け」
彼は吐いた。浅い息だったが、出た。
処置の音が岩礁に並ぶ。布が擦れる音。湯袋が動く音。ニカが器を置く音。ラーゴの短い返事。水夫見習いの呼吸。
蒼凪殿だけは、音を出していなかった。
洞口を見続けている。水壁はもうない。裂け目は細く戻り、波が普通に出入りしている。さっきまであった灰色の厚みが、嘘のように消えていた。
だが蒼凪殿の沈黙は、終わった場所を見る沈黙ではなかった。
何かを測っている。
そう見えた。
「供物箱、ここへ」
ラーゴが箱を岩の上へ置いた。木から水が滴る。角に貝の欠片がついている。蓋の紐は濡れて膨らみ、指ではほどけそうにない。
事故物は当代が開ける。
手当ての布をラーゴへ預ける。短刀を抜く。刃は紐を切るだけの角度に立てる。木を傷つけない。中のものを押さえない。
濡れた紐に刃を当てる。ぷつ、と音がした。濡れた繊維が切れる音は小さい。だがその音で、ニカの手が止まった。湯袋を押さえていたラーゴの指も止まる。水夫見習いの呼吸だけが、少し遅れて続いた。
蓋の端を持つ。木の角は削れて丸い。水を吸って重い。指の腹に、濡れた木のざらつきが残る。
持ち上げる。
中の匂いが出た。濡れた香草。水を吸った祈祷板の小片。古い木。塩。供物の匂いが、海水に負けて沈んでいる。
底に円い金属があった。黒く見える。錆と水で色が沈んでいる。縁は傷だらけで、文字は削れてほとんど読めない。中央に細い軸があり、その上で針が一本、ゆっくり回っていた。
羅針盤だった。
蓋を岩礁の縁へ置く。置いた音で、ニカが息を止めた。ラーゴの手が湯袋の上で固まった。水夫見習いの呼吸は、湯袋の温度に引かれてかすかに続いている。
針を見る。
息を止める。
吐かない。吐けば、針の動きに自分の体温が混じる気がした。
針は外海の方角を指しかけた。止まらない。細い先端が震え、軸の周りで戻る。次に内湾へ向かう。そこでも止まらない。針の先が水に濡れた光を拾い、箱の底に細い影を落とす。
岬の足元を指しかける。
また戻る。
風の音が落ちた気がした。次に、遠くの艇が岩に当たる音が遠くなる。水夫見習いの息も、耳の奥で小さくなる。残ったのは針が軸の上で擦れる、ほとんど聞こえない音だけだった。
針はゆっくり止まった。
水門岬。
島の内側。内湾の奥。海守り本部の足元にある岩の鼻先。潮位札の鐘が下げられている場所。
そこを指して、動かなくなった。
朝の記録が頭に戻る。漁師の伝聞。針が定まらないという話。岬の足元。外海。内湾。古物商カルダの名。別の品かもしれない。同じ品かもしれない。
材料は足りない。
針は北を知らなかった。
島の水門岬だけを、知っていた。
──────────────────────────────
蓋を戻す。
紐は結ばない。きつく閉じれば、中の針を潰す気がした。蓋は軽く乗せるだけにする。風で外れないよう、角に小さな石を置いた。
処置の音が戻らない。
ニカは布を持ったまま箱を見ている。ラーゴは湯袋の上に手を置いたまま、動かない。水夫見習いの浅い息だけが、岩礁の上に残っている。
蒼凪殿を見る。
蒼凪殿はまだ洞口を見ていた。口は閉じている。肩も動かない。けれど目の中に、岩棚の上で水夫見習いを支えていた時にはなかった硬さがあった。洞口そのものではなく、その奥にある見えない線を見ているようだった。
追わない。
「蒼凪殿」
声を作る。
蒼凪殿の頭がこちらへ向いた。
「肩、後で見せてください」
「擦過です」
「分かりました」
それだけでいい。
蒼凪殿はこちらへ歩いた。供物箱の前で膝をつく。蓋には触れない。上から一度だけ、針の方角を見る。手を出さない距離で止まる。
「水門岬、です」
短い確認だった。
「ええ」
「北では、ありません」
「北では、ない場所を、針が知っている」
それ以上は言わない。言葉を増やすと、まだ別々に持つべき判断が一本に撚られる。濡れた縄は、撚りを間違えればよく切れる。
蒼凪殿は頷かなかった。
代わりに洞口をもう一度見た。その視線に引かれて、俺も細い裂け目を見る。
暗い奥に、さっき見た板があった。岩棚の壁の一段奥。水を吸って黒く濡れた薄い祈祷板が一枚、岩に貼りついている。塩で白くなるはずの木が、そうならずに沈んでいる。
取りに行かない。
時間がない。
水夫見習いを艇へ移す。岩礁の足元を片付ける。漁船を内湾へ戻す。海守り本部へ報告する。順番がある仕事は、順番で進める。
残ったものは、残ったまま置く。
洞は開いた。
人は戻った。
板だけが、奥で濡れていた。
──────────────────────────────
立ち上がる。
水夫見習いの呼吸は少し戻っている。湯袋を入れた腋の下で、震えが半分まで落ちていた。ニカが艇の縁へ布を敷く。ラーゴが背中を支える。移す段取りはできている。
「当代」
ラーゴが俺の肩を見た。
「血が」
「分かっている」
「あとで、見させてください」
「いい」
肩の革の下は湿っている。血は多くない。塩水で洗い、布で押さえれば足りる。今すぐ見るほどではない。
供物箱を見る。蓋の下で、針はまだ水門岬を指している。蓋を閉じていても分かる気がした。木の中で、細い金属がひとつの方角に張っている。
蒼凪殿が横へ来た。
二人とも口を開かない。
遠くで艇が揺れた。縄が岩に擦れる。ニカが水夫見習いの肩を支え、ラーゴが足を入れる。救助の音が戻り始めた。
「当代、内湾へ戻ります」
ラーゴが言った。
「ええ。先に子供だ」
「了解です」
潮鎚を肩へ戻す。艇に革帯を置いてきたままだ。鉄の重みが直接肩に乗る。擦れた場所が痛む。痛みは細い。動ける。
岩礁の上で、もう一度だけ洞口を見た。水は普通の顔をしている。だが普通に戻ったものほど、後で重くなることがある。
人は戻った。
箱も、戻った。
針だけが、別の場所へ、戻ろうとしていた。




