↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
群青幻想  作者: 滄龍 青司
IntervalloⅠ
60/128

閉じられる

 水平線の手前で、白い帯が横たわっていた。


 最初は霧に見えた。けれど近づくほど、霧ではないと分かった。水面そのものが息を荒くし、泡を細く吐いている。風は弱い。帆を膨らませるほどではない。それなのに海だけが走っていた。


 白い帯は、低い獣の背のように盛り上がっていた。泡。砕けた潮。岩礁の歯に噛まれて跳ねた水。ひとつひとつは軽いのに、重なれば艇の腹を押す力になる。


 舷側に水が当たった。


 板が鈍く鳴る。濡れた木の匂いが上がる。塩と藻と古い縄の匂い。喉の奥に貼りつく味だった。


 帯の向こうに、傾いた影が見えた。


 巡礼小舟だった。


 舳先が岩礁に乗り上げている。半分だけ乗り、半分は海に噛まれていた。舷側は内湾へ傾いて、波がその上を越えていく。越えた水は船内へ落ち、また横から来た水に打たれて白く跳ねた。


 帆は降りていた。だが結びが解け、濡れた布が舷に貼りついている。供物を置く小さな棚が斜めになり、縄で留めた木箱がひとつ欠けていた。油の匂い。濡れた香草。祈りに使う薄い板の破片。


 静かな事故ではなかった。


 遠目には小舟が傾いているだけに見える。近づけば、海がまだその船を壊している途中だと分かる。波はひとつ終わっても、次が来る。岩礁へぶつかり、跳ね返り、戻る水とぶつかって薄く割れる。


「七人、確認」


 ラーゴの声が、隣の艇から飛んだ。


「岩礁にしがみついているのが四人。流されているのが、たぶん三人」


「頭は」


 ヒュウマの声が短く返る。


 当代の声だった。若さはある。だが水の上では、年齢より先に役目が立つ。声が迷えば、腕も迷う。ヒュウマの声は、そこを通らなかった。


「頭は岩礁の上。動きはあります。右腕は使えそうです」


「信徒は」


「老人が一人、岩礁。女が一人、浅瀬の外で浮いています。もう一人は船腹の影です。子供は見えていません」


「水夫見習い」


「見えません。供物箱が流れました。それを追った可能性があります」


 俺は艇尾で膝を沈め、全体を見た。


 岩礁。傾いた巡礼小舟。岩に指をかけた四つの影。浅瀬で揺れる女の頭。船腹の影に白い腕。外側を走る泡の帯。帯の下で水は横へ流れ、表面だけが別の顔をしていた。


 普通の潮ではない。


 外海から押してくる水がある。内湾へ戻ろうとする水がある。二つが岩礁の前で擦れ、ちぎれ、また重なる。水の上に水が走る。泡の下で、さらに別の流れが潜っている。


「ラーゴ、岩礁の側へ寄せろ」


 ヒュウマが言った。


「縄を投げて頭を取れ。漁師の頭が動けるなら、頭から信徒の老人へ渡せ。年配は先」


「了解」


「ニカ、外側を回れ。浅瀬の女を拾ったら、流された方向を確かめろ。水夫見習いの行方が見えれば、すぐ報告しろ」


「了解です」


 二艘の小舟が針路を分けた。


 俺の乗る艇は、岩礁の側へ寄った。櫂が水を噛むたびに、腕へ重さが戻ってくる。水が素直に割れない。櫂の先を横から押し戻し、次の一掻きの角度を狂わせる。


 ラーゴは舳の近くへ立ち、救助縄の輪を作った。


 肩の入り方がよかった。力で投げる姿勢ではない。波の上がり下がりと艇の沈みを待っている。足裏で艇の揺れを読み、腕だけを遅らせている。縄を投げるのが上手いと、昨日聞いた気がする。聞いたのではなく、見ただけかもしれない。


 どちらでもいい。今は届けばいい。


「行きます」


 ラーゴが低く言った。


 輪が飛んだ。


 風はない。けれど泡の帯の上で空気も乱れている。縄の輪は一度、白い飛沫に叩かれて形を歪めた。それでも届いた。岩礁の上の漁師の頭が、片腕を伸ばして掴む。


 年は五十ほど。顔は塩で白い。右肩から先が動く。左腕は岩に押しつけたまま。手の皮は裂けていたが、麻綱を離さなかった。


 頭は自分の腰へ縄を通さない。


 横にいる老人へ先に渡した。老人は頬を岩に擦りつけ、口だけで息をしていた。頭が老人の腰に縄を回す。結びが粗い。だが、ほどけない位置を知っている。


 海守りの指示と、現場の頭の判断が重なった。


「引け」


 ヒュウマが言う。


 ラーゴが腰を落とす。艇が波で持ち上がった拍に合わせ、縄を詰める。老人の身体が岩から剥がれた。悲鳴ではなく、息の抜ける音がした。岩礁が次の波に殴られ、老人の足が白い泡に隠れた。


「もう一度」


 ヒュウマが言った。


 ラーゴの肩が沈む。濡れた麻が軋む。舷側を越えた水が、艇の床を流れて俺の足首に当たった。冷たい。


 俺は外側へ眼を送った。


 ニカの艇が浅瀬の女へ回り込む。ニカは舳先に片膝をつき、細い身体を低く置いていた。飛び込む前から、戻る角度を決めている。あの身の軽さは、水に入るためのものだ。陸で速いだけではない。


 波が舳先を叩いた。


 ニカは揺れない。片手で舷を掴み、もう片方の手を水面へ伸ばす。女の頭は波間で消え、次の白い泡の向こうに出た。声は聞こえない。口が動いているだけだ。


 俺は巡礼小舟の側へ視線を戻した。


 欠けた供物棚。流れた木箱。水夫見習い。


 供物箱を追ったなら、どちらへ流されたか。


 返り潮は岩礁の外側から内側へ吸い込まれている。だが吸い込まれ方が細い。広く引くのではない。線になる。泡の帯から一本だけ、濃い筋が抜けていく。


 岩礁の影の向こうに、暗い裂け目があった。


 返り洞だった。


──────────────────────────────


 潮の引いた時間だけ、洞口が現れる。


 そう聞いていた。岩礁の裏側、水面の少し下に細い穴が開く。普段はただの海蝕洞に見える。迷い潮の時だけ、戻り潮が出口で壁のように立つ。入った者は出られない。


 海守り衆の若手なら誰でも知っていると、昨日の朝の出動で耳にした。耳にしたつもりだった。俺の知識ではない。借りた知識だ。借りた知識は、使う時に必ず値を測る。


 俺は艇尾で姿勢を直した。


 洞口まで三十歩を少し超える。水面から見える岩の線は、途中で二度途切れていた。足場があるかどうかは、行かなければ分からない。岩礁の影で水は濃く見えた。緑と青の間に、灰色が一筋混ざっている。


 泡の帯が洞口へ絞られている。


 細い。嫌な細さだ。大きなものを飲み込む流れではない。小さなものを選んで運ぶ流れに見える。供物箱。腕。息の残った子供。


 波が岩へ当たった。


 返った水が艇の側面を叩く。艇が横にずれる。ラーゴが舷を蹴って戻す。ヒュウマは老人の腕を取って艇へ引き上げていた。老人の脚が舷に当たり、鈍い音がした。


「息は」


「あります」


 ラーゴが答える。


「頭、次だ」


「了解」


 俺は洞口から視線を外さない。


 その帯の中で、小さな影が揺れた。


 人の頭ほどではない。角のある木の形。供物箱の蓋か。あるいは、箱に繋がった縄の端か。判じる前に、それは泡の下へ沈み、暗い裂け目の方へ引かれた。


「ニカ」


 俺はもう一艘へ声を送った。


「外側の女、優先お願いします。洞口の方は、俺が見ます」


 ニカはこちらを一拍見た。


 返事は短い頷きだった。すぐに身体を倒し、舷から半身を水へ入れる。波が肩を越えた。顔は沈まない。手が女の衣を掴み、次の拍で引き寄せる。


 潜るのが速い。


 入るまでが速いのではない。水を怖がる時間がない。どこまで入れば戻れるかを身体が知っている。


 俺は《滴見》を入れた。


 水面の細かい乱れを読む。表の波ではなく、その下の動き。滴の端がどちらへ引かれ、どの拍で途切れ、どの場所でまた繋がるか。手のひらを開き、風ではなく水の拍を拾う。


 普通の戻り潮なら、線は内湾へ広がる。


 今日は違う。


 流れの線が洞口の手前で折れている。折れた先は、細く暗い。岩に沿っているのではない。洞の内側へ吸われている。海蝕洞の口にただ水が入るのとは違う。内部で何かが流れを受け、また引いている。


 洞の中で、別の拍がある。


 泡の帯の手前で、影がもう一度見えた。


 人だった。


 肩が水面に出ている。頭は半分沈み、半分出ている。髪が額に貼りつき、口が水を噛んでいる。腕は動いているが、泳いでいる動きではない。水を掻く力が抜けかけている。


 十三か、十四。大きくても十五には届かない。


 水夫見習い。


 供物箱は、その横で浮き沈みしていた。蓋の端に祈祷板の紐が絡み、箱の角が波にぶつかって回る。水夫見習いは箱へ手を伸ばす。伸ばした分だけ、身体が洞口へ引かれる。


「箱が」


 誰かが巡礼小舟の方で叫んだ。


「祖父の供物が」


 その声で、水夫見習いの肩が跳ねた。聞こえたかどうかは分からない。だが腕がもう一度動いた。箱へ向かう。自分の呼吸より先に、箱を選ぶ動きだった。


 俺はヒュウマの艇を見た。


 ヒュウマは岩礁の頭を引き上げている最中だった。老人は艇の底に横たえられ、咳をしている。頭は縄を掴んだまま、まだ半身が岩にある。ラーゴは縄の管理から手を離せない。ニカは浅瀬の女を抱え、艇へ戻る途中だ。


 外の救助は、まだ終わっていない。


 俺だけが、艇尾で動ける。


 それは役割ではなく、配置だった。配置は感情より強い。動ける者が動く。動けない者は動かない。単純な箱に入れる。


 水夫見習いの頭が、一度沈んだ。


 次に出た時、口から泡が漏れた。箱の角が洞口の暗がりへ消える。水夫見習いも、同じ線へ乗った。


 俺は艇の腹を回り、当代の艇へ届く声を作った。


「当代」


「蒼凪殿」


 ヒュウマの視線が一拍だけこちらへ来た。


「水夫見習いの位置を取りました」


「どこです」


「洞口の手前です。奥ではありません。一つ目の曲がりの手前で止まる可能性が高い」


「呼吸は」


「あります。弱い。腕の力は残っていません」


「距離」


「艇から三十歩ほど。流れは洞の内側へ細く吸われています。普通の戻り潮ではありません」


 ヒュウマは一拍、置いた。


 その間に、岩礁の頭が艇へ上がった。濡れた身体が板に当たり、艇が沈む。ラーゴが重心を戻す。老人の咳がまた出る。ニカの艇では女が引き上げられ、胸を押されていた。


 ヒュウマの視線が洞口へ行く。


 次にラーゴへ。ニカへ。巡礼小舟へ。俺へ。


 判断の順序が見えた。速いが、雑ではない。救えるものから救うという単純さではなかった。今ここで誰が何を失えば、次の救助が崩れるかを見ている。


「入りますか」


 ヒュウマが訊いた。


 俺は答えた。


「観測者なら、入れます。位置を取って戻ります」


「船上では、私の指示に従う約束でした」


「はい」


「では指示します。洞口から、一つ目の曲がりまで。十数える間だけ。救助ではなく、位置を取って戻ってください」


「承知しました」


「縄を離さないでください、蒼凪殿」


「離しません」


 ヒュウマは一度だけ頷いた。


 年若い当代の頷きではない。海上で人を入れる者の頷きだった。入る者の命を許可の中へ置く。許可を出した側も、同じ重さを持つ。


「ラーゴ、艇を寄せろ。蒼凪殿の腰縄を持て」


「了解」


 ラーゴがすぐ動いた。


 濡れた足で艇の縁を踏み、舳先を岩礁の影へ振る。櫂の音が苦しい。水は櫂を噛み、すぐに吐かない。引き抜く時に粘る。舷側へ跳ねた水が、ラーゴの頬を打った。


 ヒュウマは俺へ短く言った。


「戻る場所は、こちらです」


「はい」


「十です」


「承知しています」


 言葉はそれだけで足りた。


──────────────────────────────


 俺は艇尾から立ち上がった。


 ローブの裾を絞る。白と青の布から水が落ちた。前は元から開いている。余計な布だけをまとめ、動く場所を残す。胸の内側の海図の写しは、油布に包んで押し込んだまま。濡れても使えるが、浮力にはならない。


 革の鞄は艇尾の油布の下へ入れた。短い刃は残す。だが抜くためではない。岩に引っかかった時に、布か縄を切るためだ。使わない方がいい道具ほど、場所を決めておく。


 ラーゴが腰縄を差し出した。


 太い麻だった。塩で固く、表面は毛羽立っている。手に取ると、砂が噛んでいた。濡れた繊維の匂いがする。古い救助の匂いだ。汗。塩。乾いては濡れた麻。


 俺は輪を見た。


 輪の大きさ。結び目の向き。引かれた時に締まる側。戻る時にほどけない側。海守り衆の道具は、飾りが少ない。必要なところだけが太い。


 俺はその輪を腰に通した。


 手首ではなく、腰に通した。戻るための結び方だった。


 手首なら、掴む意志を外に見せやすい。だが水は意志を見ない。引かれた時、肩から外れる。洞内で横から押されれば、腕が先に持っていかれる。腰なら身体ごと引かれる。骨盤で受け、足で返せる。


 昨日の朝、桟橋で見た結びと同じだった。


 若い海守りが麻綱を肩から腰へ通し、船縁に膝をかけていた。あの時はただの所作に見えた。今は理由が分かる。所作には、理由が後から追いつくことがある。


「結び目、確認します」


 ラーゴが言った。


「お願いします」


 ラーゴの指は太い。爪の間に塩が白く溜まっている。だが結び目を触る動きは細かかった。隙間に指を入れ、麻の締まりを見る。濡れて膨らんだ繊維を押し、引く向きを変える。


「息を吐いてください」


 俺は短く息を吐いた。


 ラーゴがそこで一度締めた。腹ではなく腰骨の位置へ縄が落ちる。苦しくない。だが逃げない。


「これで離れません」


「お願いします」


「当代の合図で引きます」


「分かりました」


 ヒュウマが横から見ていた。


 視線は俺の身体ではなく、結び目と海面と洞口を順に測っている。公的な仕事の視線だった。俺もそれで十分だった。


「ニカ、外側は」


「女の息、戻りました。もう一人を拾いに行けます」


 遠くからニカの声が返る。


「行け。無理に深追いするな」


「了解です」


 俺は艇の縁に足をかけた。


 波がちょうど舷を叩いた。冷たい水が足首へ来る。次の拍で、俺は岩礁の足元の水へ降りた。


 水は冷たかった。


 初夏の海ではない。洞口の近くだけ、温度が下がっている。深い場所から戻った水だ。皮膚が一度縮む。筋肉が反射で固くなる。息を吐いて、腰を落とした。


 深さは腰まで。


 だが底が信用できない。岩は平らではなく、藻で覆われている。足の指の腹で凹凸を探す。右足の親指が貝殻の縁を踏んだ。すぐに外す。鋭い。切れば水中で遅れる。


 波が膝の裏を横から叩いた。


 水の力は、重さではなく角度で来る。前からなら受けられる。横からなら足を抜かれる。俺は半身に構え、洞口へ向かって足を置いた。胸の奥で心拍が一度大きくなる。次で下げる。


「縄、出します」


 ラーゴの声。


「お願いします」


 麻の線が腰から伸びる。


 五歩。


 岩礁の影が濃くなる。陽の熱が消え、海の匂いが湿った岩の匂いへ変わる。


 十歩。


 艇が背後で上下する。縄の張りが少し変わる。ラーゴは余分な弛みを出さない。張りすぎてもいない。俺の歩幅を読んでいる。


 十五歩。


 水が腹へ当たる。冷たさの奥に、細い引きがある。洞口へ向かう力だ。足を浮かせれば持っていかれる。足を置き続ければ、進める。


 水夫見習いの姿は、もう見えない。


 洞口に吸われた。そう判断するしかない。


「蒼凪殿」


 ヒュウマの声が背後から来た。


「数えます」


「はい」


「一」


 数え始めた。


 俺は洞口へ身を低くした。


──────────────────────────────


 仕事は三つに分けられる。


 入る。見る。戻る。


 それ以上はしない。


 そう決めれば、危険は形を持つ。形を持つものは扱える。形を持たないものは、扱う前に飲まれる。


 俺は洞口の手前で《潮見》を入れた。


 流れを見る。音を見る。水の肌に出る細かな皺を見る。洞の内側は外より一段強い。入り口の幅は人一人分。左に岩棚が続く。右はすぐ落ちている。水位は腰。次の大きな波で胸まで来る。


 一つ目の曲がりまで十歩前後。


 戻るなら七歩で戻れる。子供を抱えれば九歩。水が増えれば、数ではなく重さになる。


「二」


 ヒュウマの声が外で続く。


 俺は洞口を抜けた。


 中は薄暗い。


 光は背後からだけ入る。洞の天井は低く、濡れた岩が近い。首を起こせば額を打つ。岩肌には藻が貼りつき、貝の小さな縁が点々と出ていた。指で触れると、ぬめりと硬さが同時に返る。


 波が背後から入った。


 洞内で音が膨らむ。外では水が岩を叩く音だった。中では水音が壁に当たり、天井へ跳ね、足元から戻ってくる。ひとつの波が三つの音になる。低い響き。乾いた擦れ。奥で遅れて返る細い泡の音。


「三」


 一歩。


 足の下の岩が滑る。俺は膝を曲げ、重心を落とす。手は岩壁へ触れない。触れれば、指を持っていかれる場所がある。見えるところだけを使う。


 二歩。


 腰の縄が背後で軽く張る。ラーゴの手元が遠い。だが張りは生きている。外とまだ繋がっている。


 三歩。


 水が横へ走った。洞の奥から戻る水ではない。側面の小さな割れ目から来た流れだ。冷たい。膝の外を叩き、足首を揺らす。


「四」


 俺は息を短く吸った。


 洞の匂いは濃い。古い潮。乾ききらない祈祷板。蟹の殻。岩の腹に残った海藻。人の匂いも少しある。恐怖で浅くなった息は、水に触れるとすぐ分かる。


 四歩。


 五歩。


 水音の戻りが遅い。


 奥に空気の溜まりがある。あるいは曲がりの向こうに広がりがある。返り洞はただの穴ではない。何度も水が削り、戻り、また削った形だ。外からは口しか見えない。中では、別の構造が口を待っている。


「五」


 水夫見習いの呼吸を拾った。


 耳ではない。《滴見》の先に、浅い震えが出た。水面の乱れが規則を持つ。胸が上がり、落ちる。落ちる時に痛みがある。肩か足か。呼吸は続いている。


 六歩。


 七歩。


 岩の左側が少し高くなった。足場になる。俺はそこへ爪先を置く。濡れた藻がずれる。足を戻さず、体重を細くかける。


「六」


 一つ目の曲がりが見えた。


 岩壁が左へ折れている。その向こうに、灰色の光が溜まっていた。外の光ではない。水面が拾った薄い反射だ。その中に、平らな岩棚があった。


 水夫見習いはそこにいた。


 横向きに倒れている。濡れた服が胸に貼りつき、肋の動きが見える。肩は震えている。眼は開いていた。俺を見ているのではない。何かを見ようとして、焦点が追いついていない。


「七」


 俺は曲がりの手前で止まった。


 一つ目の曲がりまで。


 指示の範囲は、ここまでだ。


 俺は声を作った。


「聞こえますか」


 水夫見習いの唇が動いた。


 声はない。水が喉に入っている。


「こちらを見てください。動かないでください」


 それで目が少し動いた。


 生きている。


 足首に、何かが貼りついていた。


──────────────────────────────


 最初は、海藻に見えた。


 岩棚の縁から這い上がった藻が、水夫見習いの足首に絡んでいる。海藻なら引けば取れる。絡み方を見て、逆へ回せばいい。急がなければ皮膚は残る。


 だが違った。


 近づくと、形が一つではなかった。


 拳ほどの塊だった。貝殻の欠片。蟹の脚の節。濡れた海藻の繊維。薄い木札の破片。祈りの文字が削れた板。小さな石。細い骨に見える白い筋。


 それらが寄り合い、ひとつの輪郭を作っていた。


 縛られているのではない。糸で繋がっているのでもない。海藻が湿った指のように他の破片を抱え、貝殻が外側の硬さを作り、蟹の脚がところどころで角度を変える。木札の欠片は、外皮のように貼りついている。


 表面が動いた。


 呼吸ではない。脈でもない。外へ崩れそうなものを、内側から押し戻している動きだった。形を保つために、形のないものが働いている。


 水夫見習いの足首の皮膚が、そこへ吸われていた。


 締めつけているのではない。噛んでもいない。触れた場所だけが薄く持ち上がり、赤い輪になっている。温かい肉へ寄っている。岩よりも柔らかいものを選び、そこへ面を増やしている。


 貝殻同士が触れた。


 かち、と乾いた音がした。すぐに海藻の粘りが音を飲む。蟹の脚の節が一本だけ曲がる。曲がる向きが、他と揃っていない。生きた蟹の動きではない。だがただ流される欠片でもない。


 水中で、別の同じような影が岩の縁にいた。


 小さい。まだ拳ほどにも満たない。貝殻の白が一瞬見え、すぐ藻の影に隠れる。岩から水夫見習いへ向かう線がある。温度に寄っているのか。息に寄っているのか。血に寄っているのか。


 判じるには時間が足りない。


「痛みますか」


 俺は水夫見習いへ言った。


 彼は喉を震わせた。声にならない。だが首が少し動く。痛む。恐れている。足を引けば、もっと貼りつくと身体が知っている。


「剥がします。動かないでください」


 俺は右手を開いた。


 《断絶境界》。


 自他の境界を、ひとつだけ断つ。


 刃ではない。力で引き剥がすものでもない。関係を切る。触れているという事実の、片側だけを消す。水夫見習いの皮膚と、貼りついた塊の表面。そこに線を入れる。


 線は目に見えない。


 だが水が一拍だけ静かになった。


 貝殻の欠片が震える。海藻の繊維が水の中でほどける。蟹の脚の節が、いっせいに別々の向きへ開いた。塊が足首から離れる。皮膚は赤く残った。血は多くない。だが表面を何かに持ち上げられた跡があった。


 水夫見習いが息を吸った。


 それが悲鳴になりかける前に、俺は肩を押さえた。


「息をしてください。声は出さなくていい」


 塊は岩棚の縁へ落ちた。


 落ちる時も、形を失わなかった。貝殻が岩を擦る。蟹の脚が水を掻く。海藻の繊維が遅れて伸び、また縮む。水の中へ沈む寸前、木札の欠片が一枚だけこちらを向いた。祈りの線が削れていた。


 生き物ではない。だが、生きている。


 俺はその言葉を、腹の中で冷たく置いた。


 水夫見習いを抱える。


 身体は軽い。軽すぎる。濡れた衣だけが重い。十三か十四の身体は、海水を吸うと急に人の重さになる。左腕を背中へ回し、右手で膝の裏を取る。足首の傷が岩に触れないよう角度を変える。


「動けますか」


 俺は訊いた。


 水夫見習いは、ぼんやりと俺を見た。


 眼の焦点が少し戻る。唇が震える。寒さか、恐怖か、両方か。


「箱」


「箱は後です。先に出ます」


「箱、が」


 水夫見習いは弱く首を振った。


 視線が岩棚の縁へ向かう。


 そこに供物箱があった。


 半分水に浮き、半分岩へ引っかかっている。蓋は閉じていた。紐が濡れ、木の角が波に削られている。小さな板片が張りつき、祈りに使う紙が水で糊のようになっていた。


 箱の中で、音がした。


 金属が木の中で震える音。


 薄い。だが規則がある。針がどこかへ向こうとして、向けずに震えているような音だった。北を向かない針音。水音の隙間で、かすかに鳴る。


 俺はそれを拾った。


 意味は置く。今は拾わない。箱の中身を確かめる時間はない。音に名前を与える時間もない。


「手を胸の前へ」


 俺は水夫見習いに言った。


「掴めるなら、俺のローブを掴んでください。離しても構いません。こちらで支えます」


 水夫見習いの指が、俺のローブの端を掴んだ。


 弱い。だが意識はある。


 外でヒュウマの数がどこまで進んだか、もう正確には聞こえない。洞内の音が厚くなっていた。波が奥へ入り、岩へぶつかり、戻る。その戻りがさっきより強い。水位が上がっている。


 俺は岩棚から水の縁へ戻りかけた。


 その時だった。


──────────────────────────────


 奥で、音がした。


 岩の向こう。一つ目の曲がりのさらに奥。水ではない。波が岩を叩く音でもない。


 小さな手が、石を掻く音。


 爪が岩に触れ、一度滑り、止まる。軽い音だった。だが軽さの中に、体重が乗っていた。誰かが落ちないように指をかけ、かけ損ねた音に似ていた。


 俺は止まった。


 腰の縄は背後で張っている。水夫見習いは俺の腕の中にいる。十数える間だけ。救助ではなく、位置を取って戻る。指示は明確だった。明確な指示は、現場で命を減らさないためにある。


 曲がりの奥に、もう一人いるのか。


 巡礼者の子供か。船腹の影にいた誰かか。あるいは反響か。箱の中の金属音が岩に当たり、手の音に聞こえただけか。


 判じる時間は、ない。


 水夫見習いの呼吸が俺の胸に当たる。浅い。冷たい。これ以上遅れれば、こちらを失う。見えない一人を追って、見えている一人を落とすのは、仕事ではない。


 戻る。


 そう決めた。


 だが、暗がりの向こうで、もう一度、小さな手が一度滑った。


 箱の外へ、何かが落ちる音もした。


 俺の足が止まった。


 心拍が一度だけ、強く打つ。喉の奥が乾く。海水の匂いの中で、鉄の味がした気がした。俺は水夫見習いを抱え直し、身体の向きを奥へずらした。


 半歩だった。


 奥へ行くための一歩ではない。見るための半歩。曲がりの向こうへ視線を通すために、右足の爪先だけを内側へ向けた。左足は岩棚の縁に残っている。腰の縄もまだ張っている。水夫見習いの重さは左腕にあり、右手は壁に触れていない。


 ただ、半歩だった。


 その半歩で、洞の入り口の音が変わった。


 外から来る波の音が、急に低くなった。次に、詰まった。水が空気を押し潰す音。泡が逃げ場を失う音。洞口で何かが立ち上がる音。


 光が細くなる。


 背後が暗くなる。


 水壁が立った。


 外の戻り潮が洞口で逆流に変わり、入り口の幅いっぱいを塞いだ。水が壁になるところを、俺は振り向きながら見た。透明ではない。泡を含んだ灰色の壁。岩の口に詰まり、こちらへ体重をかけてくる。


 腰の縄が急に重くなった。


 ラーゴが引いた重さではない。人の腕の重さではなかった。水そのものが麻の線を掴み、洞口の壁へ押しつけている。張力が腰へ来る。骨盤に当たり、背骨の奥へ響く。


 俺は踏ん張った。


 水夫見習いを落とさないため、膝を沈める。足元の岩が滑る。右足の下で藻が剥がれた。すぐ左足へ重さを逃がす。水が腿を越える。冷たいという感覚が、痛みに変わる。


「当代、潮が」


 外の声が聞こえた。


 ラーゴの声だった。


 遠い。水の向こうにある声。洞口の壁で潰され、細くなって届く。次の言葉は聞こえなかった。外ではヒュウマが何かを言っているはずだ。だが水音が全部を食った。


 縄が一拍だけ、強く引かれた。


 外からだ。


 ラーゴか、ヒュウマか。どちらでもいい。引こうとしている。戻そうとしている。約束の線はまだ生きている。


 次の拍で、重さが抜けた。


 切れたのかと思った。


 だが腰には輪の重みがある。麻はまだ俺の身体にある。背後へ伸びている感触も少しある。ただ外からの張りが消えた。水壁の中で力が分かれたのか。さっきの塊と同じようなものが麻へ貼りつき、引きを吸っているのか。判じる材料が足りない。


 足元で、かち、と音がした。


 水の下。貝殻の触れる音。


 俺は視線だけを落とした。


 岩の縁に、さっき落とした塊がいた。いや、同じものかどうかは分からない。似た形が水の中で動いていた。海藻の繊維が岩に絡み、蟹の脚の節が麻の線へ触れようとしている。


 温かい身体だけではない。


 縄にも寄る。動くもの。外と内を繋ぐもの。張っている線に寄る。


 俺は水夫見習いを抱えたまま、岩棚の方へ後退した。


 一歩。


 水が押す。背後の水壁から戻った力が、洞内へ満ちている。波ではない。満ちてくる重さだ。


 二歩。


 水夫見習いが喉を鳴らす。俺のローブを掴む指が滑る。俺は抱え直す。


「大丈夫です。落としません」


 声は低く出した。


 三歩。


 岩棚へ戻る。水面はさっきより高い。岩棚の縁まで上がっていた。水が平らな場所を舐める。供物箱は見えない。音だけがする。金属が木の中で震える音。北を向かない針音。


 入り口は閉じた。


 外の声は、もうほとんど届かない。


──────────────────────────────


 俺は岩棚の上に水夫見習いを横たえた。


 腰の縄に手をかける。


 縄は腰に通っている。離してはいない。約束は守った。だが戻る道の方が、先に閉じた。


 水夫見習いの呼吸を確かめる。浅い。だが続いている。唇は青い。頬に塩が白く残り、睫毛に水滴が溜まっていた。足首の赤い輪は濡れたまま。皮膚の縁が、薄く剥がれた形で残っている。


「動かないでくれ。少しの間、ここで待つ」


 俺はそれだけ言った。


 水夫見習いは頷いた。一度だけだった。


 洞内の音が変わっている。


 外の波が直接入ってこない分、静かになったのではない。逆だった。閉じた水が中で逃げ場を探し、壁の隙間を鳴らしている。低い音。細い音。泡が岩の穴を抜ける音。どれも近く聞こえる。


 岩棚の下で、小さな影が動いた。


 ひとつではない。


 貝殻の白。海藻の黒い緑。蟹の脚の節。祈りの板の欠片。水中でそれらがばらばらに見え、次の拍でひとつの輪郭になる。群れではない。一個でもない。数えると、数えたそばから数が変わる。


 三つ。四つ。奥からさらに二つ。


 岩の縁を伝っている。速くはない。だが止まらない。水に流されている動きではなく、岩を選んで進む動きだった。乾いた貝殻の音が、水音の隙間に混じる。かち。かち。そこへ海藻の粘る音が絡む。


 水の中だけではなかった。


 湿った岩壁にも影があった。海藻の繊維が岩肌へ貼りつき、蟹の脚の節がゆっくり向きを変える。木札の破片が外側へ出たり、内側へ沈んだりする。形を作り直しながら近づいてくる。


 内側で外側を保とうとしている。


 その動きが、見ているだけで喉に残る。生き物なら、目がある。口がある。腹がある。逃げるか、襲うか、迷うか。だがこれは違う。部分だけがあり、中心が見えない。中心がないのに、こちらへ来る。


 俺は水夫見習いを背中で庇い、岩棚の壁を背に立った。


 水は足首まで上がっている。次の満ちで膝へ来るかもしれない。洞口は水壁で閉じている。腰縄はまだある。だが外からの張りは薄い。麻の線は水の中で時々震え、すぐに沈む。


 俺は右手を開いた。


 《断絶境界》は使える。だが数が多い。ひとつずつなら断てる。触れた瞬間に線を切れる。だが全部を相手にする場所ではない。ここは狭い。水夫見習いが後ろにいる。足場は濡れている。


 整理する。


 人。水。出口。縄。寄ってくるもの。


 人を守る。出口を見る。縄を残す。名前のないものには、まだ名前を与えない。名前を与えれば、理解した気になる。理解していないものに名前を与えるのは危ない。


 外で何かが鳴った。


 たぶん、岩に当たった櫂か、艇の舷だ。声はない。ヒュウマは外で動いている。ラーゴは縄を探っている。ニカは残る救助を進めている。そうでなければならない。俺がそう思う必要はない。彼らはそう動く。


 水夫見習いが小さく言った。


「箱」


「今は見ません」


 俺は答えた。


「あなたを出すのが先です」


「でも」


「後です」


 語気は荒くしなかった。


 荒い声は、洞内で戻ってくる。怖がらせるだけだ。短い言葉でいい。水夫見習いの指が岩棚を掴む。震えは止まらない。だが呼吸は少しだけ整った。


 供物箱の音が、またした。


 金属が木の中で震える音。


 水の向こうで、北を向かない針音が薄く鳴る。さっきより近い気がした。箱が流れてきているのか。あるいは音だけが反響しているのか。暗がりの奥では、まだ何かが動いたように見える。


 俺は見ない。


 今は、見ない。


 見れば足が動く。足が動けば、背中の子供が開く。開けば、岩の縁を伝ってきたものが入る。順番を違えれば、全部を失う。


 入る。見る。戻る。


 三つのうち、戻るがまだ終わっていない。


 俺は腰縄を一度引いた。


 反応は薄い。だが完全には死んでいない。水壁の向こうで、微かな張りが返る。外に手がある。外に意志がある。それだけは分かる。


 足元の影が近づいた。


 貝殻の欠片が岩棚の縁へかかった。俺は右手を落とす。《断絶境界》を細く使う。貼りつく前に、岩と塊の触れを断つ。塊が一瞬だけ浮き、水へ戻る。蟹の脚の節が空を掻いた。


 もう一つが左から来る。


 それは俺の足ではなく、水夫見習いの足首の赤い跡へ向かっていた。温かい場所を覚えているのか。傷の縁を覚えているのか。俺は踵を半歩ずらし、進路を塞ぐ。


 貝殻が俺の足の甲へ触れた。


 冷たい。次に、ぬるい。海藻の繊維が皮膚へ寄る。俺は境界を断つ。触れた事実だけを切る。塊は水の中へ落ちたが、すぐにまた形を作る。


 面倒だな。


 心の中でだけ言った。


 声にする必要はない。


 洞口の水壁が低く唸った。


 閉じたものは、開く時にも音を立てる。まだ開かない。だが水は動いている。永久に閉じる壁ではない。潮には拍がある。拍を読めば、戻る場所がある。


 俺は息を整えた。


 冷えた水に足を取られないよう、膝を少し曲げる。背中で水夫見習いの位置を感じる。右手は開いたまま。左手で腰縄を押さえる。外から張りが来れば、その瞬間に使う。


 水面に、また影が増えた。


 岩の縁を伝って、岩棚の方へ寄り始めている。さっきより多い。奥から来るものもいる。壁から降りてくるものもいる。ばらばらの欠片が、ばらばらのまま同じ方向へ向かう。


 生き物ではない。


 だが、生きている。


 俺は水夫見習いを背に置き、洞の口があった方を見た。


 入る。見る。戻る。


 三つの仕事の真ん中で、俺は半歩だけ前へ出た。


 その半歩で、洞は閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。