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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
116/127

サルマンディアにゃんにゃん散歩

 朝の薔薇の屋敷は、白い皿の匂いで始まる。


 黒猫は窓台の上で目を開けた。春の光はまだ柔らかい。硝子越しに入ってきて、黒い毛先だけを薄くほどいた。尾の先が一度だけ動く。寝返りを打つには遅い。起きるには早い。そういう中途半端な朝だった。


 眠りの名残は、まだ腹の下に丸く残っている。窓台の石は夜の冷えを抱いたままで、毛の薄いところへひやりと当たった。けれど硝子に寄った背中だけは、朝の光でぬるくほどけていた。


 耳だけが先に働いた。


 廊下の遠くで盆が鳴る。布靴が床板を押す。水差しの中で水がわずかに揺れる。厨房の方からは、焼いた麦と湯気と、まだ切られていない魚の匂いが細く上がっていた。


 その前に、廊下の蝋の匂いがあった。夜のうちに磨かれた床板が、朝の冷えを薄く閉じ込めている。壁沿いには乾いた布の匂いが重なり、客室の扉の隙間からは石鹸と花水の気配が落ちていた。屋敷は人間の手で整えられている。猫には、それが鼻で分かる。


 魚。


 それなら、起きる理由になる。


 黒猫は前脚を伸ばし、爪を窓台の縁にかけた。白い塗装に傷はつけない。つけたら後で誰かが黙って磨く。磨かれるところを見るのは案外退屈だ。だからつけない。


 彼女は音もなく床へ降りた。


 肉球が最初に拾ったのは、磨かれた床板のなめらかさだった。蝋が薄くのった木は、爪を立てなくてもすべらない。次に敷物の端を踏む。織り目が沈み、足裏の毛に乾いた糸が絡む。さらに扉の前の石板へ移ると、そこだけ温度が落ちた。屋敷の朝は、床の継ぎ目ごとに別の顔をしている。


 廊下へ出ると、薔薇の屋敷はもう働いていた。生成りの布が運ばれる。空いた花瓶へ水が入り、朝の茶器が揃えられている。白い壁の陰は涼しく、窓から入る光はまだ床の半分で止まっている。


 黒猫はその光と影の境目を選んで歩く。


 光だけでは目立ちすぎる。影だけでは眠くなる。境目がちょうどいい。誰かが持つ盆の下をくぐる。壁際の花籠に鼻を入れ、廊下に置かれた折り畳み布の上で一度だけ座った。布は柔らかい。柔らかすぎて、すぐ飽きる。


 薔薇の花籠は、外で咲いていた時より人間の匂いが濃かった。切られた茎の青い匂い。濡らした布。花瓶の水。手袋の粉。花は花のままでいるつもりでも、屋敷へ入ると役目の匂いをまとわされる。


 リーナが角を曲がってきた。


 両腕に白いリネンを抱えている。朝のうちに客室へ運ぶ分だろう。髪はきちんとまとめているのに、左のこめかみだけ一束ほど出ていた。黒猫はその足元へ出た。


「フェリ様」


 リーナの声が跳ねた。


 白いリネンが山のように揺れる。黒猫はそこへ前脚をかけ、わざと一枚だけ引いた。布はするりと落ちて、床に白い波を作った。


「お待ちください、今それは洗い上げたばかりで、あの、踏まないでくださいませ」


 黒猫は踏んだ。


 柔らかかった。


 洗い上げの布は、乾いた日向と水桶の底の匂いを半分ずつ持っていた。肉球の形に沈み、離すとゆっくり戻る。踏まれるために置かれていたのではない布ほど、踏むとよく沈む。


「フェリ様」


 リーナは泣きそうな顔でリネンを抱え直す。叱るより先に、どこを畳み直せば元に戻るかを見ている。八か月目の若手メイドは、黒猫相手にも仕事を投げない。


 悪くない。


 黒猫はリネンから降り、尾でリーナの足首をかすめた。リーナは一瞬だけ緩みかけ、すぐに表情を戻す。


「厨房ですか」


 黒猫は返事の代わりに欠伸をした。


「厨房ですね」


 分かるなら早い。


 厨房へ近づくほど、匂いははっきりした。火の入る前の魚、濡れた木箱、塩、香草、洗われたまな板。鍋の湯気はまだ薄く、窓から入る朝の風がそれを横へ流している。


 廊下の床板から厨房前の石へ変わると、肉球に返る音も変わった。木は猫の重さを内側へしまう。石はすぐ返す。敷居の真鍮は冷たく、磨かれた端に朝の灯りが細く乗っていた。黒猫はそこで前脚を止め、厨房の湿った熱を鼻先で量った。


 厨房の入口には、今日の海婚祭支度に回す食材の木札がかかっていた。白い布の下で歌う者たちへ出す軽食。屋敷の客人用の朝食。使用人の賄い。リーナがそれを見て、顔をわずかに強張らせる。


 黒猫は木札を見ない。


 字は食えない。


 彼女は厨房の敷居に座り、まな板の上の魚を見た。小ぶりだが、身は締まっている。目が濁っていない。サルマンディアにいる理由の大半は、こういう魚にある。


 湯気はまだ熱すぎず、鼻の奥へやわらかく入った。まな板の水は拭き取られているが、木目の奥に昨日の魚の記憶が残っている。刃物を置いた台は鉄と油の匂いを持ち、香草の籠だけがそこへ緑の息を混ぜていた。


「フェリ様、そちらはまだ仕込み前でして」


 リーナが後ろから言った。


「魚がまだなら、寝直す」


 黒猫は短く言った。


 リーナの手が止まった。


 猫が喋ることには慣れたはずなのに、朝一番の厨房ではまだ驚きが残る。その驚きが顔に出るのがリーナの良いところだ。屋敷では直した方がいいところでもある。


 湯気が二人の間を横へ抜けた。厨房の奥で鍋蓋が鳴り、誰かが包丁を置いた音が遅れて来る。リーナの視線は魚箱と木札と黒猫を行き来した。


「お、お待ちください。料理長が戻られる前に、切れ端でしたら」


 黒猫は尾をゆっくり振った。


 切れ端。


 眠り直すには足りる。散歩へ出るには足りない。


「一尾」


「一尾は、あの、献立が」


「半分は未来のあたしのもの」


「未来のフェリ様は、できましたら厨房の予定表もご覧くださいませ」


 リーナは言いながら、魚箱の端に置いてあった小さな一尾を選んだ。賄い用だったのか、まだ木札のどこにも行き先が書かれていない魚だった。皿に乗せる。塩をほんのわずかに振り、黒猫の前へ置く。


「こちらで、どうか」


 黒猫は皿へ鼻を近づけた。


 悪くない。


 尾の先がわずかに速く動いた。リーナはそれを見て、ほっとした顔をする。ほっとしてから自分が黒猫の尾で判断していることに気づく。それから慌ててまな板の方へ戻った。


 黒猫は魚を食べた。


 皮の下に朝の海が残っていた。塩は控えめで、身の甘さが先に来る。皿の縁に小骨が当たり、小さな音を立てる。音は厨房の湯気に吸われ、外までは出ない。


 舌に脂がのり、歯の間で身がほどける。魚の冷えは中心にだけ残り、外側は厨房の空気に触れてぬるい。猫の口には、その差がちょうどいい。黒猫は前脚を皿の横へ揃え、逃げない魚を逃がすように細く食べた。


 んふ。


 喉の奥で、満足の笑いが小さく鳴った。


 同じ朝だった。


 白い皿。リーナの忙しい目。厨房の魚。廊下の光。誰かが整えた屋敷の手順。眠っても起きても、たぶん似たような朝は来る。


 それでも、魚の味だけは日ごとに違う。


 黒猫は皿を空にすると、前脚を舐めた。口元の塩を毛の内側へしまい、厨房の窓を見上げる。外では薔薇庭園の向こうに、白い街の屋根が光っていた。


 港の方から、まだ魚市場の声が聞こえるには早い。


 けれど風はもう港へ向いていた。厨房の湯気の下に、潮の筋が一本だけ入る。屋敷の手順で折り畳まれた朝の外側に、街の朝が開きかけている。


 黒猫は窓枠へ跳び上がった。


「フェリ様、どちらへ」


 リーナの声が追いかける。


 黒猫は振り返らない。


 屋敷の朝はもう味わった。


 次は、街の皿だ。


──────────────────────────────


 昼前のサルマンディアは、石畳まで白い。


 黒猫は丘を下り、薔薇の香りが潮の匂いに混ざるところで足を止めた。屋敷の庭の土は柔らかい。街の石は硬い。硬い石の上を歩くと、肉球の下で世界の温度を拾える。


 庭土には水を含んだ暗さがあり、小道の砂利は足裏を細かく鳴らした。坂を下りきる頃には、石の照り返しが腹の下へ入ってくる。日向の石は浅く温かい。軒下の石は冷えている。荷車の車輪が通る中央はざらつき、家の壁際は人間の靴が少ないぶん、猫の足に向いている。


 観光客の足音は軽い。荷役の足音は重い。婚礼支度の男たちは、白布を抱えている時だけ足幅が慎重になる。花屋の娘は水の入った桶を運び、貝飾りを売る少年は日向ばかり選んで立つ。


 黒猫はその全部を、ひとつずつ見上げて通った。


 店先の庇から、貝殻の飾りが乾いた音を落としている。遠くでは鐘ではない金属音が鳴り、港へ向かう道の上を細く渡った。人間の耳には飾りの音だろう。猫の耳には、そこへ紐の擦れる音と、売り子の爪が貝を弾く音まで混じる。


 港寄りの空き地には、干し網と古い樽が置かれていた。外洋港区とラグーン宿泊区の間にある、どちらの顔も半分だけ剥がれた場所だ。観光客は通らない。港の者は急ぎ足で横を抜ける。猫にはちょうどいい。


 干し網は日を吸っていた。昨日の潮と海藻が、乾いた繊維の中で軽くなっている。樽の木は古く、塩と油と魚の脂を何度も吸い、表面だけ日向でぬるんでいた。石の地面は日なたと日陰でくっきり温度が違う。猫は誰に教わらなくても、その境目に集まる。


 すでに集まっていた。


 サバは樽の上にいた。港の猫で、片耳の先が欠けている。魚箱の陰と船具屋の裏を縄張りにしているため、潮と油と古い綱の匂いがする。


 ワタは干し網の下にいた。市場の猫で、白い腹をすぐ見せる。けれど魚屋の親父の足音だけは聞き分ける。市場の皿と、こぼれた切れ端の速さをよく知っている。


 カジは日向の真ん中に座っていた。近くの香油屋で飼われている猫だ。首輪はないが、毛並みが良い。言うことがいくらか世間知らずになる。


 シロは壁際の暗がりにいた。古株の野良で、目の上の毛が白い。歩く時に片脚をわずかに引く。若い猫が高い場所を取り合うのを見て、毎回飽きた顔をする。


 黒猫が空き地へ入ると、猫たちは順に尾を動かした。


 サバは樽から降りない。


 ワタは腹を見せかけて、途中でやめた。


 カジは日向を半分空けた。


 シロだけが目を細める。


 貝飾りの音が、空き地の外を過ぎていった。網の下ではワタの腹毛が風に揺れ、サバの樽の縁では古いささくれが日を返している。猫たちは返事の前に、それぞれ毛づくろいの区切りを待った。


「ボス、遅いぞ!」


 サバが言った。


 黒猫は樽の上へ跳ばず、干し網を支える低い木箱に座った。高すぎる場所は、今日はまだいらない。魚は腹にある。眠気も残っている。


 木箱は樽ほど温かくない。だが網の乾いた匂いが近い。黒猫は前脚を揃え、尾を右へ流した。猫の集会で席の高さは発言の重さと同じではない。けれど見えるものは変わる。


「朝の皿が長かった」


「屋敷の皿は、いつも丸いか」


 カジが聞いた。


「丸いよ。皿はだいたい丸い」


「うちの皿も丸い。丸い皿は逃げないからいい」


「皿が逃げたら、あんたの家は店を畳むね」


 シロが言った。


 カジは真剣に考え込んだ。


 猫の集会は、最初から本題へ入らない。日向の味。新しい膝の柔らかさ。魚屋の手が荒れているか。朝の水が冷たいか。犬の多い通りはどこか。そういう報告を、各自が自分の腹と尾の範囲で持ってくる。


 黒猫は聞いた。


 聞くことにしている。


 サバが後脚で耳の後ろを掻くと、乾いた砂が樽の上へ落ちた。ワタは爪を出さずに網を押し、網目の跡を肉球につけてはまた消した。カジは日向を信じきった顔で胸をふくらませ、シロは半分閉じた目で全員の音を拾っている。


「西の宿の白い膝はよかった」


 ワタが言った。


「白い膝」


「布が白い。膝は柔らかい。魚はない」


「それは低い席だね」


 黒猫は尾をゆっくり振る。


「膝は温かいぞ」


 カジが言った。


「膝は動く」


 シロが返す。


「動く膝は信用が薄い。日向は動かん」


「日向も動くぞ。朝と昼で別の場所に行く!」


 サバが得意そうに言う。


 シロは目を閉じた。


「だから若いのは疲れる」


 黒猫は喉で笑った。


 にひ。


 日向の中で、猫たちの尾がそれぞれの速さで揺れる。干し網には昨日の海藻の匂いが残り、空き地の隅には割れた貝殻が白く乾いている。遠くで白布を張る男たちの声がして、その上を貝飾りの音が薄く渡った。


 海婚祭は近い。


 猫にとって祭は、人間の足が増え、屋台の落とし物が増え、知らない膝が増える日だ。良いことも悪いこともある。子供が追いかけてくる。酔った男が皿を落とす。魚の匂いは増えるが、手を出せない高さの皿も増える。


 風が白布の方から戻るたび、人間の支度の匂いが混ざった。濡らした綱。新しい木杭。磨いた皿。貝殻を通した紐。猫にとってそれらは祭の名前ではない。通れる隙間が減る前触れであり、落ちる食べ物が増える約束でもある。


「白布の下、昨日より低くなった」


 ワタが言った。


「人間が頭をぶつけるか」


 サバが聞く。


「ぶつけない。猫だけ上を通りにくい」


「悪い祭だな」


「悪い祭だ」


 カジが頷く。


 黒猫は空き地の入口を見た。


 白い服の人間が二人、樽を運んで通り過ぎる。商会の者か婚礼の支度か。猫にはどちらでもいい。白い服。重い靴。猫を見ても足を止めない。そういう者たちが、最近港に増えている。


 彼らの靴音は、祭の男たちのものと違った。布を運ぶ足は上を気にする。樽を運ぶ足は下を気にする。けれど今の二人は、横を気にしていない。猫のいる高さに、何も置いていない足だった。


「白い服の連中が増えたね」


 黒猫が言う。


 サバの耳が動いた。


「夜もいる」


「夜」


「箱のところだ」


 サバは港の方を顎で示した。猫の顎なので、人間にはたぶん分からない。猫には分かる。


「どの箱」


「魚がいない桟橋の箱」


 ワタが起き上がった。


「あそこは行かない」


「なぜ」


 黒猫が聞く。


 ワタは腹の毛を舐めてから言った。


「あの桟橋、魚がいない。落ちる切れ端もない。水が皿を閉めてる」


 サバが続ける。


「桟橋の下、魚の腹が光らない。潮が来ても、影だけが多い」


 カジは胸を張った。


「白い服の人間が夜に箱を撫でると、朝の皿が遅れる」


 シロが目を開けた。


「あそこは日向の味が悪い。毛が立つ。魚がいない場所より悪い」


 四匹はそれぞれ違うことを言った。


 港の猫は水の下を言う。市場の猫は皿と切れ端を言う。飼い猫は朝の皿を言う。古株の野良は毛と日向を言う。


 同じ場所を嗅いで、違う腹から報告する。


 黒猫はそれを聞き終え、空き地の低い木箱から干し網の上へ移った。網は浅く沈み、彼女の黒い毛を粗く支えた。見える場所が変わる。空き地の端、港の屋根、白布の揺れ、遠い桟橋へ続く道が、少しずつ一枚の皿に乗る。


 網の繊維が腹の毛へ硬く当たった。日向を吸った縄は、表面だけ乾いて奥に湿りを残している。高くなると貝飾りの音も変わる。遠くの音が上へ抜け、近くの猫の呼吸が下で丸くなる。


「ボスは高い所が好きなだけだろ」


 シロが言った。


 黒猫は網の上で尾を垂らした。


「猫はね、一番よく見える席なんだよ。誰もあたしの分の幕を引かないから」


 猫たちは黙った。


 人間なら、その言葉に意味を探す。幕とは何か。席とは何か。誰が引くのか。そういう面倒なことを考える。


 猫は考えない。


 サバが先に言った。


「じゃあ、魚の箱も見えるか」


「見えるかもね」


「見えたら皿は早くなるか」


 カジが聞く。


「皿はあんたの人間次第」


「じゃあ駄目だ」


 ワタが腹を出した。


「ボスが高い所にいると、下の日向が空く。そこは良い」


 シロはそれだけ言って、目を閉じる。


 受けとしては十分だった。


 黒猫は港の方を見た。


 魚がいない桟橋。


 白い服の連中。


 夜の箱。


 カジがさっき言った箱を撫でる人間の話は、人間の言葉ではない。組織も職名もない。けれど、猫の皿が遅れるくらいには、街のどこかがずれている。


 黒猫は舌で口元の毛を整えた。


 朝の魚の味が、まだ舌に残っている。そこへ別の匂いが混じった。魚ではない。潮でもない。まだ落ちていないものの匂い。


「ふーん。魚が逃げたんじゃなくて、席を替えたのかもね」


 サバが樽の上で立ち上がった。


「席を替えた魚は戻るか!」


「戻らない魚もいる」


 シロが言った。


「戻らない魚は、どこで寝る」


 カジが聞く。


 ワタは腹を見せたまま答えた。


「皿の上」


 全員がしばらく黙った。


 それは、猫にとってはかなり正しい答えだった。


 風が干し網を撫でた。網の目が黒猫の腹の下で鳴り、ワタのひげが揺れる。遠くの白布の下で、人間が笑った。猫たちはその笑いを自分たちの沈黙に入れなかった。


 黒猫は干し網から降りた。足先に網の匂いが残る。彼女は空き地の出口へ向かう。猫たちがそれぞれの距離で見送った。


「どこへ行く、ボス」


 サバが聞く。


「市場」


「魚か」


「魚」


 それ以上の理由は、まだ猫にも言うほどではない。


 黒猫は白い街へ歩き出した。


──────────────────────────────


 魚市場は、昼に近づくほど声が増える。


 外洋から入った魚箱が並び、氷の上で銀の腹が光っていた。水は床石の溝を流れ、魚の鱗、塩、海藻、濡れた縄の匂いが混ざる。声は高く、手は速い。値を言う者、箱を開ける者、包丁を研ぐ者、皿を選ぶ者。すべてが動いている。


 市場の屋根の隙間から落ちる光は、氷を鋭く白くした。鱗はその光を拾って、箱ごとに違う銀を見せる。丸いもの、細いもの、平たいもの。水は魚の腹を撫でたあと、床石の溝へ入り、泡を小さく残して走っていく。


 黒猫は市場の端に座った。


 座るだけで、何人かが見た。


「あ、黒いのが来た」


「今日はまだ盗られてねえぞ」


「盗られる前提で喋るな。あれは見てから選ぶんだ」


 魚屋の親父が笑う。尾のついた小魚を一つ、箱の端へ置いた。くれるわけではない。置いただけだ。置いたものがどこへ行くかは、まだ決まっていない。


 黒猫は動かない。


 人間は、猫が動かないと勝手に動く。


 若い見習いが空の籠を持って通る。足元の水に気づかず滑りかける。籠が傾く。隣の魚屋がそれを支えようとして、氷の箱をわずかに押す。氷の上の小魚が一尾、つるりと滑り、木箱の縁を越える。


 落ちる場所は、黒猫の前。


 魚は濡れた音を立てて石の上に転がった。


 市場の声がふっと止まる。


 黒猫は魚へ鼻を近づけ、ゆっくりと咥えた。


「またそれか」


 親父が肩を揺らす。


「置いたんじゃねえ。落ちたんだ」


「落ちたなら仕方ねえな」


 別の男が言う。


「魚も行き先を選ぶんだろ」


 人間は、そう言って笑う。


 黒猫は魚を咥えたまま市場の細い通路を抜けた。魚の重さは軽い。だが、口元にあると世界の味がはっきりする。彼女は市場の奥で魚を食べ、骨だけを石の溝へ寄せた。


 氷の冷えがまだ魚の表面に残っていた。噛むと冷たい水と脂が舌へ広がる。市場の魚は、屋敷の皿より荒い。塩も手も声も近い。だがその荒さが、昼の腹には合う。


 んふ。


 腹が満ちる。


 そこへ、足早の仲買が来た。


 両手に札を持ち、耳の後ろに筆を挟む。誰かに怒鳴られながら歩いている。目の前を黒猫が横切った。仲買は足を止めない。止めないつもりだった。


 だが、靴紐が箱の割れ目にかかった。


 男は前へつんのめり、札を落とした。札は濡れた床へ散る。そのうち一枚だけが、水に乗って隣の店の前へ流れた。隣の店主が拾い上げ、眉を上げる。


「おい、これ、お前の探してた札じゃねえか」


 仲買は濡れた札を見て、目を見開いた。


 探していた荷札だったらしい。


 その同じ足元で、男の靴紐はほどけ、筆は水路へ落ち、午後の取引に使う墨が一本、魚箱の下へ転がった。男は荷札を握りしめ、落とした筆を見て舌打ちした。


 夕方にはたぶん、彼は筆を失った話をする。


 荷札を拾った幸運は、自分の注意深さだと思う。


 黒猫はそれを見送った。


 人間は片方しか覚えない。幸運は自分の皿に入れ、不運は猫の口元へ置く。黒猫は訂正しない。魚の骨を訂正しても、魚には戻らない。


 市場の反対側から、ヴェスタとガイウスが来た。


 ヴェスタは青と黄色の迷彩柄のバンダナを額に巻いていた。片手に香草の束、もう片手に紙包みの干し魚を持っている。歩きながらも、風の通る隙間と人の流れを拾っている。ガイウスはその横で、魚箱より大きな肩を人混みの邪魔にならない位置へ置いて歩いていた。市場の者たちが自然に道を開ける。


 二人の周りでは、水の流れまでよけるように見えた。ヴェスタの靴は濡れた石の上でも軽く、ガイウスの足は置くたびに床が少し低くなるようだった。魚屋たちは声を落とさないが、通り道だけは勝手に空く。


「ガイウスの兄貴、魚はどれがいい」


「焼けるやつ」


「全部焼けるだろ」


「骨が面倒じゃないやつ」


「山の答えだな、それ」


 ヴェスタが笑う。魚屋へ声をかけようとしたところで、黒猫が通りの中央へ出た。


 ヴェスタの足が止まった。


「お」


 ガイウスも止まる。


「猫だ」


「猫は見りゃ知れる。黒猫だ」


「黒いな」


「月読みの塔のやつ、覚えてるか。黒猫に注意すべし」


 ヴェスタは声を低くした。


 黒猫は市場の水溜まりの横で尾を揺らす。


 水溜まりには、銀の鱗が何枚か浮いていた。黒猫の輪郭がその上で揺れる。ヴェスタは水の中の揺れではなく、尾の先を見ていた。


「注意するほどか」


 ガイウスが聞く。


「読めねえ。読めねえから嫌なんだよ。警告ってのは魚の骨みてえなもんで、口に入るまで分かりづれえ」


「なら足を止めた。足は止まってる」


「兄貴、そういう直解は嫌いじゃねえぜ」


 ヴェスタは黒猫を見下ろした。


 敵意ではない。警戒。かすかな興味。港の風を読む者の目で、黒猫の尾先と市場の流れを見ている。ガイウスは動じない。重い盾を持つ者は、猫が横切っても地面の方を先に信じる。


 黒猫は二人の前をゆっくり横切った。


 ヴェスタの紙包みから干し魚が一枚滑り落ち、黒猫の足元へ来る。同時に、彼の腰の小袋から銅貨が一枚落ち、濡れた石の隙間へ入り込んだ。


 ヴェスタは干し魚と銅貨を見た。


「おい」


 黒猫は干し魚を咥えない。


 ただ、鼻を近づけて匂いを嗅いだだけで離れた。


 濡れた干し魚は、油と紙の匂いが先に立っていた。魚ではある。けれど今の口には、市場の銀の方が残っている。黒猫は嗅ぎ、値をつけ、食べないことにした。


「食わねえのか」


 ガイウスが銅貨を拾い上げた。


「落としたぞ」


「そっちは助かった。干し魚は見捨てられた」


「濡れたからな」


「黒猫、好みが高え」


 黒猫は尾だけで返事をした。


 そこへ、離れた魚屋の庇の下から、白い外套の男がこちらを見ていた。


 ルシアンだった。


 市場の賑わいの中で、彼の白は観光客の服とも教会の旅装ともつく。人懐っこい笑みは薄く、目だけが黒猫の動きを拾っている。目が合った。


 彼は困ったような笑顔で、ほんの小さく会釈した。


 黒猫は鼻をフンと鳴らした。


 それだけで十分だった。


 ヴェスタがその会釈に気づいたかどうかは知れない。ガイウスは魚屋の焼きやすい魚を見ている。市場はすぐに元の声へ戻った。魚が値を呼び、人が手を伸ばし、水が流れる。


 黒猫は市場を抜けた。


 腹には朝の魚と、市場の小魚の味がある。口の端には干し魚の匂いだけが残った。食べなかったものの匂いも、時々は悪くない。


 市場の帰り道、彼女は港へ寄った。


 空き地の猫たちが言っていた桟橋のそばを、一度通る。白い街の石畳はそこだけ薄く湿っていた。外洋港へ向かう荷車の轍が浅く残り、潮の匂いに古い木の匂いが混じる。


 市場の声は背中で遠ざかり、代わりに水の音が増えた。桟橋の板はまだ昼の光を持っているのに、継ぎ目だけは冷たい。荷車の轍にたまった水は揺れず、魚箱を運ぶ者たちもそこでは足を速めない。


 黒猫は桟橋へは降りなかった。


 ただ、道の端で鼻を低くした。


 魚の匂いが薄い。


 水はある。潮もある。だが、魚の腹が水を切る匂いがない。猫の毛が、わずかに立つ。理由はまだいらない。


 黒猫はそれを嗅いで、何も言わずに歩き出した。


 一度目の道は、まだただの道だった。


──────────────────────────────


 夕方の誓約広場には、白布が低く張られていた。


 昼の光を受けた白は、広場の石畳へやわらかい陰を落としている。布の端には小さな貝が結ばれ、風が通るたびに乾いた音を立てた。灯花蝋はまだ火を待っている。婚礼船の花輪を運ぶ男たちが広場の端を通り、塩分け台の白い皿が一枚ずつ拭かれていた。


 夕方の光は、最初は白に近かった。石の上で細かく跳ね、貝の縁を白金に見せる。けれど屋根の傾きが長くなるにつれて、広場の端から橙が混じり始めた。白布は同じ白のまま、内側に温度だけを少しずつ増やしていく。


 黒猫は広場の端で一度座った。


 市場の石は水で濡れていたが、ここは乾いている。乾いた石は、肉球に音を返しやすい。人間の足音も歌の響きも、ここではいっそう細かく拾える。


 白布の下に、イーリスがいた。


 地味な旅装。淡い金茶の髪を束ね、耳を髪と布の陰に半分隠している。小さな弦楽器は膝の上にあり、彼は声だけで節を試していた。まだ本番ではない。通りすがりの者が足を止め、また歩き出す。投げ銭の皿には銅貨が数枚、軽い音で置かれていく。


 歌は海婚祭へ向けた連日の稽古の一景だった。


 白布の下で声が上がり、布を一度通ってから広場へ戻る。高い音は貝飾りに触れ、低い音は石へ沈む。猫の耳には、人間の拍より細かい揺れまで入った。


 低い節は石の目地に吸われた。高い節は白布の下で薄く広がり、吊られた貝の中で乾いた響きに変わる。歌は空に消えるのではなく、広場の床と屋台の柱と人間の袖に、それぞれ別の重さで留まった。


 黒猫は気まぐれに、イーリスの隣へ座った。


 歌い手は歌を止めない。


 ただ、視線だけを一度落とした。


 黒猫と目が合う。


 イーリスは微笑んだ。


 言葉はない。


 それでいい。言葉にされると、席が一つ狭くなる。黒猫は白布の下で尾を足に巻き、歌を聞いた。人間の歌は、終わりがあるから軽い。終わると知っている音は、猫の耳にも入りやすい。


 投げ銭が一枚、皿へ落ちた。


 銅の軽い音。


 イーリスの声が、その音をほんのわずかに避けて次の節へ行く。職人の仕事だ。歌も魚も、扱いのいいものは匂いが似る。


 広場の向こうでは、白布を結ぶ男がひもを引き直していた。隣の女が椅子の数を数え、海神祠の方へ走る少年が招待札の束を抱えている。暦は猫に相談しない。人間が歌い、結び、数え、皿を拭くたびに、少しずつ近づく。


 黒猫は目を細めた。


 座る席を替えると、街の時間が違って見える。


 広場の次は、屋台筋だった。


 夕方の風が湿り始め、揚げ物の匂いと甘い酒の匂いが通りに満ちている。海婚祭前の屋台は、まだ本番の混雑ではない。だが、店の者は皿を多めに用意し、串を多めに刺し、灯の位置を確かめていた。


 油は鍋の中で細かく鳴り、衣の粉の匂いが湯気と一緒に上がる。甘い酒は樽の口からゆっくり広がり、焼いた貝の塩気と混ざった。風は昼より湿っていて、猫のひげに重くかかる。空の色が薄い橙へ傾くほど、屋台の灯はまだ頼りなく見えた。


 その中で、明らかに量の違う二人がいた。


 サラは外套の裾を軽くつまんでいた。片手に揚げ魚、もう片手に蜜菓子を持っている。蜂蜜色の髪は帽子の下へ押し込まれているが、歩き方は隠れていない。隠れる気に途中で飽きた女優の歩き方だった。


 ラウリはその横で、紙包みを三つ持っていた。巨きな手に包みが小さく見える。だが、彼は一つずつ丁寧に扱う。食べる前にわずかに目を伏せる。


「ラウリん、次は貝の焼いたやつ」


「さっき魚を食べた」


「魚と貝は別の幕」


「腹では同じところに行く」


「そこを分けるのが演出なの」


「なら、貝も行く」


 サラは満足そうに笑った。


 黒猫は屋台の陰からそれを見た。


 んふ。


 食べる者は読みやすい。皿の前では、嘘の形が減る。サラは舞台の言葉で食べ、ラウリは礼を置いて食べる。どちらも量が多い。どちらも残さない。


 サラの揚げ魚からは、衣の熱と白身の匂いが立っていた。ラウリの紙包みは、蒸気で内側がしっとりしている。彼が包みを傾けるたび、油の小さな光が紙の端に移った。黒猫の鼻はそれを追い、足はまだ動かない。


 いくらか離れたところに、エレオノーラがいた。


 薄灰の上着。きっちりまとめた髪。手には革板と、鎖のついた小さな時計。彼女は屋台筋の入口から二人を見つけた。時計を開き、閉じた。顔は丁寧なままだが、目元だけに疲れがある。


「サラ様」


 声は穏やかだった。


 サラは揚げ魚をかじったまま振り返る。


「ノーラ、ちょうどいいところ。これ、衣が軽い」


「本日の水上劇場は、衣ではなく幕が軽くなる時刻です」


「上手いこと言うじゃん」


「嬉しくございません」


 エレオノーラはもう一度時計を見た。


 二度目。


 黒猫は数えた。


 サラは貝の串をラウリから一本受け取り、エレオノーラへも差し出す。


「食べな。怒るとき、空腹だと声が硬くなるよ」


「私は怒っておりません。確認に参りました」


「怒ってない確認の声だね」


「サラ様」


 ラウリが真面目に言った。


「貝はうまい」


 エレオノーラはラウリを見る。


「シレリオ様、巻き込まれておいでですか」


「食っている」


「それは、巻き込まれている方の返答でございます」


 サラが笑った。


「ラウリん、ほら、もう共犯扱い」


「共に食ったなら、そうかもしれん」


「いいね、今日の相手役は強い」


 エレオノーラは息を整え、時計を閉じた。


 三度目は見ない。


 見ない代わりに、予定の方が近づいてくる。黒猫の耳にもその圧が乗った。猫の皿が遅れる時の、厨房の足音に似ている。人間は時間にも皿を持たせる。


 屋台の灯が一つずつ入っていく。


 夜ではない。まだ夕方の金が残っている。だが灯花蝋の小さな火が屋台の布庇を内側から温め、白布の広場へ向かう人の流れがわずかに変わった。


 火が入ると、油の匂いは輪郭を変えた。甘い酒は濃くなり、焼いた貝の殻は熱で乾いた音を立てる。通りの端では、風が湿ったまま冷え始めていた。黒猫の背の毛は、昼の熱と夜の冷えの境目を一本ずつ覚えた。


 黒猫は屋台筋を抜ける。広場へ戻る足で、例の桟橋のそばの道をもう一度通った。


 二度目だった。


 白い石の継ぎ目は昼より冷えていた。潮の匂いはある。魚の匂いは、やはり薄い。桟橋の下から水が柱へ当たり、低い音を返している。


 夕方の橙は桟橋の奥まで入らない。荷の隙間だけが早く暗くなり、白い服の者たちが通ったらしい足跡が湿った石に残っていた。黒猫はそこへ鼻を寄せず、足裏だけで読んだ。


 黒猫は足を止めない。


 二度目の道は、まだ誰のものでもない。


 けれど肉球は、石の継ぎ目を覚えた。


──────────────────────────────


 港の倉庫の高い荷の上で、黒髪の女は足を揺らしていた。


 そこへ来る前、夜の道は三度、黒猫の肉球を覚えた。市場帰りに一度。屋台筋から広場へ戻る足で一度。そして、夜になってから一度。


 三度通った道は、夜にはあたしの目の色をしている。


 黒猫だったものがどこで女になったのか、誰も見ていない。見る順番が来なかった。港の若衆は持ち場を替え、灯を持つ者は袖に飛んだ火粉を払うために目を外し、倉庫の鍵を確かめる者は帳簿の端を落として拾った。起きてもおかしくないことばかりが、少しずつ同じ方へ傾いた。


 倉庫の内側は、すえた匂いで満ちていた。


 湿った木箱。古い麻布。油。海水を吸った縄。乾ききらない紙。荷の間に置かれた火明かりは、白い布で囲われた箱の縁だけを浮かび上がらせている。外の水音は壁で鈍る。時々、桟橋の柱が軋む音だけが奥へ入った。


 すえた匂いは一枚ではない。木箱は古い水を抱え、麻布は人の手と埃を溜めている。油は床の低いところで重く、縄は潮を吸ったまま乾ききらず、紙は濡れた後に無理に寝かされた匂いがした。倉庫という腹の中で、それらが別々に腐らず同じ空気へ沈んでいる。


 音は少なかった。


 少ない音が、かえって圧になる。火が芯を食うかすかな音。革靴が床板を押す音。誰かの喉が乾いて動く音。話していない時間の方が長く、その長さが荷の上まで積もっていた。


 女は黒い短外套をまとい、荷の上に片膝を立てて座っていた。黒髪は肩甲骨のあたりでまっすぐ落ち、毛先だけがわずかに跳ねる。首には細い銀鎖。小さな黒曜石の飾りが、火明かりを受けずに沈んでいる。


 下には白い服の男たちがいた。


 ひとりは白い服がよく馴染んでいる。肩が広く、黒い靴だけが床へ沈む。手袋は白い。葉巻を口元で転がし、煙を細く吐く。その煙は倉庫の湿気に触れて、すぐに重くなる。


 もうひとりは黒髪の若いのだった。白い服がまだどこか借り物に見える。立つ場所は正確で、出口と荷の隙間を何度も目で数えている。だが、その目の奥にある若さまでは隠しきれていない。


 若衆が二人。


 ひとりは灯を持ち、ひとりは白布の小箱の封を外している。火は荷から離され、布の端へ影が落ちない位置に置かれていた。手順だけは丁寧だった。少なくとも、火を道具として扱う者たちの手順だ。


 火明かりはまっすぐに立たない。倉庫の湿気と人の呼吸に押されて、芯の先で細く揺れた。揺れは白い手袋の甲へ走り、床の濡れたところで止まる。男たちはそれを気にしないふりで見ていた。


「開けろ」


 煙を転がす男が言った。


 若衆が布を外す。


 木箱の内側に、さらに白い包みがあった。油紙。薄い緩衝材。古い封蝋の跡。若いのが一歩近づき、息を止めた。


 最後の布が外された。


 中にあったのは、硝子塊だった。


 透明には見えない。濁りを含んで火明かりを飲み、内側で鈍く返す。遠目には、大きな滴が固まったもののようにも見える。けれど、その中で何かが丸まっている。


 それだけだった。


 女は荷の上から見下ろした。


 近づかない。


 細部は見えない。見える距離に行く必要もない。硝子塊と、その中で丸まっている何か。猫の目には、それで足りる。


 若衆のひとりが息をのんだ。


 黒髪の若いのも、短く息をのんだ。喉だけが動く。白い服の男は、のまない。葉巻の煙を口の中で転がし、硝子塊を見ている。値札のない荷を見る目だった。


 その目だけが火より動かなかった。若衆の灯は揺れ、若いのの肩はわずかに硬くなる。床板は黙っていた。倉庫の外の水さえ、ここへ入る前に力を失っている。


「カポ。これは、売る棚に置く物ですか」


 若いのの声は整っていた。


 軽口はない。報告の形に近い。けれど、問いの底には薄い怖さがあった。


 煙の男はわずかに顎を下げた。


「値は高い。買う手がないだけだ」


 若衆の灯が小さく揺れた。


「禁制の古物ですかい」


 灯を持つ若衆が聞く。声は若いのより粗い。


「その棚だ」


 煙の男は言った。


「マガモノの棚に置くには、顔が良すぎますぜ」


 別の若衆が、声を落として言う。


 黒髪の若いのが視線だけでその男を制した。カポの前で余計な口を叩くな、という目だ。若衆は肩をすくめ、布の端を持ち直す。


「俗称は」


 若いのが聞く。


「硝子の赤子」


 煙の男は短く答えた。


 その名が倉庫の湿った空気へ置かれた。


 硝子の赤子。


 女はその音を舌の上で転がさない。ただ聞いた。人間は見たものへ名をつける。名をつけると、置く棚が少し決まる。棚が決まると、値の話ができる。


 けれど、まだ落ちていない賽に値札を貼るのは難しい。


 女の瞳が、火明かりの上で一度だけ金緑を含んだ。


「買い手なしで、このまま置きますか」


 若いのが続ける。


「今はな」


 煙の男は葉巻を灰皿へ置いた。灰は白く、崩れずに残った。


「危なすぎる。買う者は欲を出す。出した欲に値がつく前に、手を引く」


「危ないと知っている相手は買わない」


「知らない相手には売らない。売った後で騒がれる荷は安い」


「なら、しまうだけですか」


「しまうのも商売だ」


 白い服の男の声には、感情が少ない。怒りも喜びもない。荷を荷として扱う温度だ。だからこそ、下にいる若いのの息の乱れが目立つ。


 女は荷の上で、肘を膝に置いた。


 硝子塊の周りの空気が、魚のいない桟橋と同じ匂いを持っている。魚は逃げたのではない。席を替えたのかもしれない。では、これは何の席を占めているのか。


 まだ、言葉はいらない。


 沈黙が倉庫の板を重くした。若衆が布を持つ手を替えた時、麻の擦れる音だけが大きく聞こえた。火の揺れが白布の端を舐め、すぐ離れる。誰も咳をしない。葉巻の煙でさえ、喉へ入る前に湿気へ捕まる。


 煙が動いた。


 さっきまで低くたまっていた葉巻の煙が、ひと筋だけ上へ引かれる。荷の上、女のいた場所へ。湿った倉庫で、その流れは少しだけ不自然だった。


 煙を転がす男が顔を上げた。


 女はいない。


 高く積まれた荷の上には、麻布の影と、置きっぱなしの細い埃だけがあった。黒い外套も、黒髪も、銀鎖もない。


 若衆が男の視線を追った。


「どうしました、カポ」


 男は答えない。


 目を細める。火明かりの届かない高みを見る。荷の隙間、梁、壁の影。そこには誰もいない。


 灯を持つ若衆が胸を張った。


「ここには猫一匹入る事はできませんぜ」


 その言葉は、倉庫の床で少し軽く響いた。


 黒髪の若いのが、ほんのわずかに口元を引いた。笑いではない。緊張の端がほどけただけだ。


 煙の男は何も言わなかった。


 葉巻を取り、火の先を見た。煙はまた低く流れ始めている。さっきの流れはもうない。なかったことにできる程度の違和感だ。だが、消えたわけではない。


「包め」


 男は言った。


 若衆が動く。


 白布が硝子塊を覆う。火明かりは布の上で止まり、中のものは見えなくなる。若いのは布のたるみを確認し、箱の内側へ緩衝材を戻した。手順はわずかに速い。息をのんだことを、手の速さで隠している。


「買い手がつくまでしまっておけ」


 煙の男が言った。


「承知しました、カポ」


 若いのが答える。


 若衆が箱を閉じる。釘は打たない。封は仮のまま、倉庫内の奥へ運ぶだけだ。搬入ではない。動くのは倉庫の中だけ。木箱の底が床を擦り、鈍い音を立てる。


 その音は短く終わらなかった。床板の湿ったところを通るたびに、低く引っかかる。若衆の靴音はそれに合わせて乱れ、すぐに整えられる。火は置かれた場所から動かず、白い服だけが揺れた。


 外では水が桟橋を叩いていた。


 魚の気配はない。


 倉庫の高い荷の上には、誰もいなかった。


 ただ、麻布の端に黒い毛が一本だけ残っていた。火明かりに照らされる前に、湿った風がそれを荷の隙間へ落とした。


──────────────────────────────


 夜更けの薔薇の屋敷は、昼より広い。


 黒猫は丘を上り、薔薇庭園の暗がりを抜けた。夜の薔薇は香りだけが濃く、花の形は暗がりに沈んでいる。足元の土は昼の熱を失い、肉球に冷たさを返した。


 庭の小道には、昼の人間の足音がもう残っていない。代わりに、葉から落ちる水の気配と、遠い港の息だけがあった。薔薇の香りは夜になると低くなる。猫の鼻には、花より土と枝の方が近かった。


 屋敷の窓には、まだ灯がいくつか残っていた。


 表の灯。廊下の灯。奥の部屋に落ちる低い灯。人間の一日は終わる前に、火を小さくしていく。猫の一日は、火が小さくなった後にやや長い。


 黒猫は玄関を使わない。


 窓台へ上がり、壁の細い縁を歩く。屋敷の西側へ回った。そこには夜番の通る扉がある。扉の前で黒猫は座り、尾で床石を一度叩いた。


 夜の床石は、港の石よりよく冷えていた。丘の上の空気は潮を薄め、薔薇と蝋と古い壁の匂いを混ぜている。屋敷は眠っていても、手入れされたものの静けさを持っていた。


 中で足音が止まる。


 若いバトラーの足音だった。


 扉が静かに開く。


 ディーノが立っていた。黒のバトラー服。白手袋。眠気は目に出ていないが、夜番の静けさが肩に乗っている。彼は黒猫を見下ろし、驚かない顔をした。驚かないように訓練された顔だ。


「フェリ様。お戻りですか」


 黒猫は入らない。


 扉の前で尾をもう一度動かす。


 ディーノは視線を廊下の奥へ流した。見ない礼儀と、見落とさない職務。その間で、若い目が正しい扉を選ぶ。


「シレリオ様のお部屋でございますね」


 黒猫は欠伸をした。


「承知いたしました」


 ディーノは燭台を片手に、廊下を進む。黒猫はその半歩後ろを歩いた。屋敷の夜は、昼より音が少ない。少ないからこそ、遠い部屋の紙の音、湯の冷める音、誰かが椅子を引く音がよく聞こえる。


 昼に踏んだ廊下は、夜には別の床だった。蝋の匂いは冷え、布の匂いは戸の向こうへ引っ込んでいる。燭台の火が進むたび、壁の白さが一歩ぶんだけ浮かび、すぐ後ろで沈んだ。黒猫の足音はない。ディーノの靴音だけが、屋敷に許された音として続く。


 報告する相手は、屋敷の奥にいる。


 気配だけはあった。


 けれど黒猫はそちらへ行かない。今日見たものは、まだ誰かの皿へ出すには早い。魚も賽も、出す時を間違えると味が落ちる。


 ディーノはラウリの部屋の前で止まった。


 短く戸を叩く。返事はない。中からは大きな寝息だけが聞こえる。深く、安定した音だった。海の中で眠る大きな生き物のような寝息。黒猫の耳がわずかに動いた。


「失礼いたします」


 ディーノは小声で言い、扉を開けた。


 部屋は薄暗い。


 ラウリは大きな寝台の上で眠っていた。寝具の片側が浅く沈み、黒髪が枕の上へ広がっている。昼の屋台であれだけ食べた腹も、眠るとただ温かい丘のようだった。首元の飾りは外され、椅子の背に濃紺のローブが掛かっている。


 部屋の空気は、廊下より丸かった。毛布に残る体温が、夜気を押し返している。窓の隙間から入る冷えは床の近くに沈み、寝台の上だけが別の季節のように温かい。ラウリの寝息は深く、部屋の暗さをゆっくり上下させていた。


 黒猫は部屋へ入った。


 ディーノは扉の横に立ったまま、見すぎない。だが、黒猫が寝台へ上がるために踏み台が必要かどうかは見落とさない。若いバトラーの手が、わずかに椅子の位置へ動いた。


 黒猫は自分で跳んだ。


 寝台の端へ乗り、毛布の山を越え、ラウリの脇へ潜り込む。温かい。魚市場の石より、広場の白布の影より、倉庫の荷の上より、ずっと温かい。


 毛布の外側は夜の冷えを持っていた。内側へ進むほど、ラウリの体温が厚くなる。腹の下に柔らかい沈みがあり、背中には布の重みがかかる。猫の体はその温度勾配をすばやく読み、いちばん良い場所へ丸く収まった。


 ラウリは眠ったまま、わずかに腕を動かした。


 黒猫を捕まえるでもなく、押しのけるでもない。そこにいる温度を、眠りの中で受け入れる動きだった。


 黒猫は丸くなった。


 腹の内側に、朝の魚と、市場の魚と、屋台の油と、倉庫のすえた匂いが少しずつ残っている。硝子塊の中で丸まっていた何かの形は、思い出そうとすると遠くなる。遠いままでいい。


 遠いものほど、よく見える席がある。


 ディーノが扉を閉めた。


 足音が廊下を遠ざかる。


 屋敷はまた静かになった。だが昼のように空ではない。遠い部屋の灯が落ちる音、壁の中で木が冷えて鳴る音、庭の葉から水が離れる音。夜の屋敷は、黙っているものほどよく聞こえる。


 黒猫は目を閉じかけた。けれど閉じきらない。片耳だけが、夜の屋敷の静けさの中で別の方角を拾っている。


 ラウリの寝息に腹を預けた黒猫の片耳だけが、まだ港の方を向いていた。

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