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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
115/128

海風の間合い

 木剣が鳴った。


 乾いた音だった。


 音は床ではなく、胸の奥へ先に来る。古い木の匂い。石柱に返る短い反響。汗を含んだ麻の衣が肩へ張りつく感触。踏み込んだ時に足裏が床板の沈みを拾い、膝から腰まで遅れずに力が通った。


 息が途中で折れない。


 胸の内側に、前なら薄く張っていた鈍い膜がない。吸えば入る。吐けば抜ける。その当たり前の道筋が、打ち合いの中では判より早く身体へ伝わった。


 戻っている。


 そう思った瞬間、ヒュウマの木剣が斜めに入った。


 遅いわけではない。むしろ、前より速い。踏み込みの軽さは変わらず、木剣がぶつかる重さだけが一段増している。ロドルとの戦いからこちら、こいつの身体は無駄な硬さを拾わなくなった。力を置く場所がわずかに変わった。人を背に庇う時の癖が、木剣にも残っている。


 俺は受けずに外した。


 腕で弾けば重い。足でずらせば軽い。


 床の上で半歩下がり、剣先をヒュウマの手首へ置く。止めたつもりだった。だが、ヒュウマは止まらなかった。手首を逃がし、肩を沈めてさらに一歩入ってくる。


「また下がる」


 短い声だった。


 息は荒い。だが、言葉は乱れない。


 俺は木剣の腹で受け、衝撃を肘から背中へ流した。前ならそこで肩が鈍った。今は違う。息が通る。胸の内側で詰まるものがない。木剣の重さが、武器ではなく道具に戻っていた。


「逃げじゃない。間合いだ」


 ヒュウマの目が一瞬だけ細くなった。


「なら、もう一歩だけ詰めます」


 来る。


 俺は床を蹴った。ヒュウマの踏み込みと同じ拍ではなく、その半分だけ外側に置く。木剣が肩の前を掠め、風が耳に触れた。こちらの剣先は脇の下へ入る。そこまで読んでいたはずだった。


 ヒュウマは剣を捨てるように手首を返した。


 打ち込みの軌道が折れ、柄がこちらの剣を押さえる。実戦で覚えた動きだ。武器として勝つのではなく、次の人間を守るために相手の道具を止める癖。正しい。だが、修練の木剣ではほんのわずかに遅い。


 俺は柄を滑らせ、足を入れ替えた。


 木が鳴る。


 足裏が床を押し返す。脛の内側、膝、股関節、腰の順に力が戻ってくる。途切れない。身体が自分の重さを思い出し、その重さを持て余さずに次へ渡す。


 ヒュウマの木剣が床に落ちる寸前で、こいつは柄を拾った。指のかかりが早い。海で縄を拾う手だ。落ちる前に、もう戻る場所を探している。


 悪くないな。


 俺はそこまで考え、次の一手をやめた。


 ヒュウマも止まった。


 修練場の空気が、遅れて動く。汗が顎を伝い、床へ落ちた。白帆亭の夜から数日、俺たちは紙の上に出すべきものを出した。カイの聞き取りの受け渡しも済ませた。評議会への閲覧願いも提出した。返事はまだない。こちらが急いでも、扉の向こうで紙がめくられる速度は変わらない。


 あの夜、ヒュウマは屋敷に戻ってから本当に何か食べた。


 厨房が残していた温かい粥を一杯。俺も横で水を飲んだ。食堂の卓にあった話は重かったが、匙の音は軽かった。そういう軽さでしか、人は次の日へ移れない時がある。


「もう一本、行けますか」


 ヒュウマが聞いた。


「行ける」


 答えてから、自分の手の中の木剣を見る。持ち上げる時の重さが、妙に素直だった。負傷してからしばらく、力を出すより先に身体が止めに来ていた。裂ける前に止まる。軋む前に避ける。必要な防御だが、ずっと続けば身体がそれを正しいと覚える。


 今日は違う。


 足裏が先に返事をしている。


「蒼凪さん」


「なんだ」


「今の、昔からの癖ですか」


「どれだ」


「下がるやつです」


「下がるだけなら、昔からだな」


「じゃあ、さっきのは」


「お前の癖を見た。後ろに誰もいないのに、剣で道を塞いだ」


 ヒュウマは片眉をわずかに上げた。


「まずいですか」


「まずくはない。木剣だと遅れる」


「実戦なら」


「役に立つ」


「なら、直しません」


「直さなくていい。使う場所を選べ」


 ヒュウマは頷いた。


 返事の代わりに、木剣を構え直す。肩の高さがわずかに下がった。海風を受ける時の姿勢に近い。屋内なのに、こいつは時々岸に立っているような形になる。


 その時、修練場の入口で足音が止まった。


 大きいのに、よく沈む足音だ。


「終了でございます」


 アルフレッドは戸口に立っていた。黒燕尾服。白手袋。片手には封のない小さな紙片。指導のための杖は持っていない。


 俺は木剣を下ろした。


 ヒュウマも下ろす。


「続きは」


「ございません」


 アルフレッドは静かに言った。


「凪様、ヒュウマ様。水を」


 リーナが後ろから盆を持って入ってきた。水差し二つと、冷えた布。目は仕事の場所にある。だが、こちらの汗と床の木剣を見てから瞳がかすかに忙しくなった。


 見たな。


 俺は何も言わない。


 リーナは水差しを台へ置き、布の端を揃えた。指先が布を押さえる角度だけが、朝の緊張を示している。


 アルフレッドは紙片を開いた。


「本日をもって、傷病者としての対応を終了します。なお、無茶を許可したものではございません」


 言い方は書面の読み上げに近かった。


 ヒュウマが息を吐いた。


 俺は水を一口飲む。喉に冷たさが落ち、腹の奥まで通った。修練場の熱が、そこだけ線を引かれたように下がる。


「客人扱いに戻る、ということか」


「はい。凪様」


「完全に戻ったと見ていいか」


「傷病者としての対応を終了します」


「同じ答えだな」


「必要な答えでございます」


 アルフレッドの金の瞳は動かない。俺の肩、膝、手首を見ていた。言葉は判だが、視線は古い鍛錬の続きだった。昔と違うのは、ここで何かを直せと言わないことだ。今日は判を持って現れただけで、師の顔を出さない。


 それが、思いのほかありがたかった。


 ヒュウマが布で首筋を押さえた。


「蒼凪さん、もう傷病者じゃないなら」


「動ける」


「だから無茶をする、ではないですよね」


「しない」


「今、少し返事が早いです」


「早い方が信用できるだろ」


「場合によります」


 リーナが水差しの持ち手を直しながら、笑いを飲み込んだ顔をした。アルフレッドの瞼がごく浅く下がる。叱るほどではない。記録するほどでもない。屋敷の朝は、そういう細い揺れを飲み込んで回る。


 俺は木剣を壁の棚へ戻した。


 棚の木肌に、使い込まれた柄が当たる。手から離れた瞬間、腕の奥に残っていた重さも遅れて落ちた。


「今日は休みにする」


 ヒュウマがこちらを見る。


「休み」


「返事待ちだ。こちらから扉を叩いても、返事の中身は変わらない」


「街へ出ますか」


「出る」


「二人で?」


「そうだ」


 リーナの手が、布の端で止まった。


 アルフレッドは一度だけ頷いた。


 修練場の窓から、朝の白い光が入っている。遠くで、海婚祭の支度をする鐘が短く鳴った。まだ本番ではない。だが街はもう、そこへ向けて身体を動かしている。


 俺の身体も、今日ようやくその流れに戻った。


──────────────────────────────


 食堂へ上がると、屋敷はすでに次の手順へ移っていた。


 修練場の汗を落とし、替えの衣へ袖を通す。白と青のローブを着ると、布の重さが朝の木剣と違う場所へ乗る。動くための重さではなく、外へ出るための重さだ。


 廊下には焼いた麦の匂いが残っていた。食堂へ近づくにつれ、温かい茶の湯気と果物の酸が混じる。どこかで盆が縁に当たり、陶器の低い音がした。朝の屋敷は静かに見えて、実際には細かな音で詰まっている。


 食堂にはアルフレッド、リーナ、ラウリ、イーリスがいた。


 ラウリは大きな椅子に静かに収まっている。収まっているが、椅子の方がいくらか働かされている。イーリスは窓際で喉用の茶を手にしていた。市井の広場へ出る時の薄い旅装に替えている。広場で歌う日なのだろう。屋敷の中にいるのに、すでに通りの風を拾っているような顔だった。


 リーナは俺とヒュウマを見た瞬間、背筋を伸ばした。


「凪様、ヒュウマ様。外出のお支度でしたら、玄関に日除け布と替えの外套をご用意いたします」


「まだ何も言っていない」


「申し訳ございません。ですが、今のお顔は外出のお顔でした」


 ヒュウマがかすかに笑った。


「俺も分かりました」


「お前まで分かるのか」


「分かります。さっき休みにするって言いましたし」


「それは顔ではないな」


「顔もです」


 アルフレッドが食卓の端で紙を閉じた。紙の端が重なり、乾いた音を一つ立てる。


「本日の午餐は軽くいたします。夕刻以降のお戻りを想定してよろしいでしょうか」


「晩は外で取る」


 ヒュウマが俺を見た。


 俺は水を飲んだ。


 まだ言う必要はない。


「外で、ですか」


 リーナの声がわずかに上がった。


「お二人で街へ」


 ラウリが顔を上げた。


「街か。海婚祭の支度なら、俺も見たい。白い布の張り方は島と違うはずだ」


「シレリオ殿」


 イーリスが茶杯を置いた。


 皿の上の湯気が、その声に合わせて細くほどけた。


「本日、貴方は海神祠の方に顔を出すとおっしゃっておりました。海鳥ではなく、ご自身の口で」


 ラウリはひと息考えた。


「言ったな」


「ならば、巨きな三拍子はそちらへ。蒼凪殿とヒュウマ殿の休日に、祭祀官の影が一つ増えると、歌の重心が変わりますので」


「俺は影もでかいからな」


「その通りでございます」


 イーリスは微笑んだ。


 刺しは浅い。だが、場所は正確だった。


 ヒュウマは視線を横へ落とした。笑いを隠す時の顔だ。リーナは盆を持ったまま、どちらへ動くべきか迷っている。アルフレッドは全員を見ずに、全員の位置を把握していた。


「シレリオ様には、祠から戻られた後のお茶を用意いたします」


 リーナが言った。


「茶か。ありがたい」


「ただし、お茶菓子は人数分です」


「人数分」


 ラウリは真剣に繰り返した。


「それは大事だな」


「大事でございます」


 リーナの声は仕事の丁寧さを保っていたが、顔にはかすかに勝った色があった。若い使用人の勝利は、たいてい皿の数でできている。


 イーリスがこちらを見る。


「蒼凪殿、ヒュウマ殿。広場では白布の下で歌を一節、試す予定でございます。もし通りがかりましたら、聴かずに通り過ぎても構いません」


「それは聴けという意味か」


「いいえ。聴かずに通り過ぎても構いません、という意味でございます」


「なら、考える」


「考えられてしまいました」


 ヒュウマが柔らかく言った。


「イーリスさんの歌なら、通りがかれば聴きますよ」


「ヒュウマ殿は、そうおっしゃると思っておりました」


「読まれてますね」


「貴方は読みやすいのではなく、手を伸ばす方角が正直なのでございます」


 ヒュウマは返事に困った顔をした。


 俺は皿に残った果物を一つ口へ運ぶ。酸味がやや強い。朝の汗の後にはちょうどいい。舌の奥に残った水の冷たさと混じり、身体の熱が食堂の時間へ移った。


 リーナは玄関へ走りかけ、途中で歩幅を戻した。メリッサあたりに見られると、走るなと言われるのだろう。生成りのエプロンの紐が小さく揺れる。


「凪様の外套は薄手でよろしいでしょうか。風はありますが、日差しは強くなります。ヒュウマ様は、襟元を少し開けた方が歩きやすいかと」


「ありがとうございます」


 ヒュウマが答える。


「ローブはそのままでいい」


 俺が言うと、リーナは一瞬だけ俺の前を見た。ローブの合わせ、首飾り、袖口。商家の娘の目と、屋敷のメイドの目が同時に働いている。


「承知いたしました。では、襟元だけ整えます」


「乱れているか」


「乱れておりません。ただ、街が華やかですので」


「華やかさに合わせる必要があるのか」


 リーナはわずかに迷い、真面目に答えた。


「華やかな通りでは、整っている方が目立ちません」


 悪くない答えだった。


「任せる」


 リーナの顔がわずかに明るくなる。


 ヒュウマは襟を直されながら、こちらを見ていた。俺の首元にリーナの手が伸びると、視線が一瞬だけ止まる。止まったが、何も言わない。言わないことを選んだ顔だった。


 俺は気づかないふりをした。


 玄関には、薄手の外套と日除け布が用意されていた。扉を開けると、外の白い光が廊下へ入る。丘の下に街が見えた。白い屋根、青い水路、風を受ける布。遠くで貝飾りが鳴っている。


 アルフレッドが扉の横に立つ。


「凪様。ヒュウマ様。お戻りの時刻は問いません。ただし、夜風で冷えぬよう」


「分かった」


「ヒュウマ様」


「はい」


「凪様が食事を残された場合は」


「見ます」


 俺はヒュウマを見た。


「役目が増えたな」


「増えてません。元からです」


 ラウリが後ろで頷いた。


「飯を見る者は大事だ」


 イーリスが茶杯を持ち直す。


「では、今日の歌の題は、飯を見る者と見られる者、でございますね」


「やめろ」


 俺が言うと、イーリスは楽しそうに目を細めた。


 ヒュウマが扉の外へ先に出る。海からの風が黒髪を撫で、左耳の小さな飾りを一瞬だけ光らせた。朝の白い光の中では、まだ淡い。


 俺も外へ出た。


 背後で扉が静かに閉まる。


 屋敷の中の涼しさが離れ、サルマンディアの春の光が身体の上に乗った。


──────────────────────────────


 丘を下りる道は、朝より昼に近かった。


 白い石畳が光を返し、目を細めないと遠くがかすかに滲む。海からの風は乾いているのに、塩の匂いだけは濡れていた。薔薇の庭を抜けると、街の音が段階を追って増える。荷車の軋み、宿の女将の声、布を張る男たちの掛け声、貝飾りの乾いた音。


 ヒュウマは半歩先へ出ない。


 横にいる。


 白帆亭からの夜道と同じ距離だ。あの時は灯が背中にあった。今日は光が前から来る。影は後ろへ落ち、二人分の輪郭が石畳の上で揺れた。


 ラグーン宿泊区へ入ると、海婚祭の支度は夜よりはっきり見えた。


 軒から軒へ渡された白い軒布が、昼の光の中で帆のように膨らんでいる。端には小さな貝が結ばれ、風が通るたびに高い音を立てた。子供が下から手を伸ばし、母親に手首を引かれて笑っている。宿の男たちは梯子の上で結び目を直し、誰かが下から張りを見ている。


 白い布越しの光は、石畳へ斑になって落ちた。明るいところは目に刺さるほど白く、影のところは海の色を薄く混ぜた灰になる。職人の手が上で結び、下で別の手が引き、張り具合が一呼吸ごとに変わる。祝うための白は、近くで見ると結び目と指の跡でできていた。


 もう一つの通りでは、灯花蝋を設置していた。


 まだ火は入っていない。青白い蝋の芯が、白い硝子の覆いの中で細く立っている。職人が一つずつ高さを合わせ、隣の若い男が台座のぐらつきを直す。夜になれば灯るものが、昼の光の中では小さな沈黙に見えた。


 職人の親指には、蝋の粉が薄くついていた。台座を回す手は速くない。左右から見て、膝を折ってもう一度見る。低い位置のものほど、直す手間は地味だ。だが、一つ傾けば夜の列はそこで乱れる。


「夜に来たら、だいぶ違いそうですね」


 ヒュウマが言った。


「ああ」


「白帆亭の帰りに見た布、もうここまで来てます」


「街の方が早いな」


「人が多いですから」


「人が多いだけなら、絡まる」


 ヒュウマは布を見上げた。


「結ぶ人がいるから、ですか」


「そうだな」


 その先の桟橋では、婚礼船の艤装が進んでいた。


 大きな船ではない。ラグーンの浅瀬をゆっくり回るための、白く塗られた小舟だ。船縁には薄い布が巻かれ、舳先に花輪を取り付ける職人は角度を何度も確かめている。船頭らしい老人が櫂を磨き、若い二人が甲板に敷く布を広げていた。


 布を広げる手は、祝いの支度というより帆を扱う手つきだった。片方が皺を逃がし、片方が端を押さえる。老人の櫂を磨く手には長い癖があり、木目に逆らわない。花輪を持つ職人の指だけが慎重で、花を傷めない力の抜き方を知っていた。


 それだけで十分だった。


 見せるための支度ではある。だが、手は実務の手だ。結ぶ。置く。磨く。高さを合わせる。祝祭は気分だけでは近づかない。誰かが梯子に上がり、誰かが蝋の台座を直し、誰かが船の布を伸ばす。


 暦は、そうやって進む。


 俺たちは通りを抜け、誓約広場の手前にある小さな香油屋へ入った。買うつもりはなかったが、ヒュウマが足を止めた。店先の棚に並ぶ小瓶を見たというより、その奥の発送札を見たのだろう。


 店の女主人は、俺たちを見るとすぐに商売の目になった。


「お客様、祝祭前の香油でしたら、海風に残りすぎないものがよろしいですよ。お二人で使われるなら、同じ瓶より香りをずらす方が品が出ます」


 ヒュウマはそこで短く止まった。


 俺は何も言わない。


「今日は香油ではなく、発送のことで」


 ヒュウマが答えた。


「発送でしたら、薔薇塩のお店は向かいでございます。贈り物でしたら、そちらの方が日持ちします」


 女主人は笑って、向かいの小さな店を示した。訂正はしなかった。こちらが何者かを当てる気もなさそうだった。商売の目は、関係より財布と用件を先に見る。だから楽な時もある。


 向かいの薔薇塩の店は、白い木箱が壁一面に積まれていた。


 薔薇の香りは強くない。乾いた塩の匂いの奥に、花と香草が薄く混じる。木箱からは陽に干した板の匂いがした。帳面の墨は新しく、棚の奥でまだ黒く湿っている。店先には婚礼用の小皿や祝い布も並んでいたが、ヒュウマはそこへ手を出さなかった。俺も見なかった。


 店主は年配の男で、発送帳を手元に置いていた。


「贈答用ですか」


「はい。母さん宛てでお願いします」


 ヒュウマは宛名を言った。


 店主は筆を取る。手早い。慣れている。筆先が紙をなぞるたび、発送帳のページがわずかに沈む。


「薔薇を強くしたものと、香草を強くしたものがございますが」


「長く使える方で」


「では、香草を。料理にも清めにも使えます。小箱を二つ、同じ荷にまとめますか」


 ヒュウマは俺を見た。


 選ぶ目ではない。確認する目だ。


「お前の荷だ」


 俺は言った。


「分かりました。一箱で」


「承りました。発送は本日中に船便へ回します。祝祭前は荷が増えますので、控えはお持ちください」


 店主は小さな札を渡した。


 ヒュウマはそれを受け取り、丁寧に礼を言った。塩は卓に置かれない。試すことも、分けることもない。白い箱は店の奥へ運ばれ、こちらの手から離れた。


 それでよかった。


 店を出ると、広場から歌が聞こえた。


 イーリスの声ではない。若い歌い手たちの稽古だ。白布の下、海辺の階段で、三人が節を合わせている。音はまだ揃っていない。誰かの声がわずかに先に出て、別の声が追いつく。通り過ぎる観光客が足を止め、物見の目で眺めていた。


 白い影の下で、歌い手の手が膝の上に置かれている。声を追うたび、指先だけが拍を取りかけて止まる。合わせようとする身体は、耳より先に動くらしい。


 その中の一人が、俺たちを見た。


 見られた理由は分かる。


 俺のローブか、ヒュウマの耳飾りか、二人で歩く距離か。どれでもいい。物見の目はすぐに別のものへ移った。歌い手の声、白布、船の花輪。サルマンディアでは、見られるものが多すぎる。


「蒼凪さん」


「なんだ」


「母さん、たぶん喜びます」


「そうか」


「海守りの家に、薔薇塩って変ですかね」


「塩は海にも台所にも要る。変ではない」


「なら、いいです」


 話はそこで止まった。


 母の話を厚くする日ではない。ヒュウマもそれを分かっていた。札を革の小袋へ入れ、外套の内側にしまう。それだけで、家の方角は十分だった。


 誓約広場の端に、珊瑚硝子の細工を並べた露店があった。職人は手元の小さな灯花蝋の覆いを磨いている。俺たちが前を通ると、彼は顔を上げた。目は職人の値踏みだった。客の身なりではなく、首元と耳元、身につけた金属の質を見る目だ。


 磨く手は止まらない。硝子を支える指は太いのに、縁をなぞる力は細い。白い光が覆いの曲面で割れ、薄青や白緑の色へ散る。


「お客様、灯の覆いでしたら、揃いの色もあります。お連れ様と同じ棚へ置くなら、薄青が無難です」


 ヒュウマが困った顔をする。


「相方です」


「では、なおさら。別々の部屋でも、同じ灯なら帰る場所を間違えません」


 職人は本気で言っていた。


 俺は棚の灯花蝋の覆いを見た。薄青の硝子。白緑の硝子。金の粉を散らしたもの。どれも悪くない。だが今日は買わない。夜の店の手配がある。俺の買い物は、すでに済んでいる。


「今日は見ます」


 ヒュウマが言った。


「見るのも祝祭のうちです」


 職人はまた磨く作業へ戻った。


 俺たちは広場を抜けた。


 昼の光は白から淡い金へ傾き始めている。白布の影が石畳に揺れ、まだ火の入っていない灯花蝋は夕方を待つように並んでいる。海婚祭は誰の都合も待たない。俺たちが休んでも、街は結ぶ。磨く。立てる。声を合わせる。


 ヒュウマは横を歩いていた。


「夕方まで、まだありますね」


「ある」


「どこへ行きますか」


「少し歩く。食うのは夜だ」


「はい」


「食い歩きはしないぞ」


 ヒュウマは笑った。


「ラウリさんじゃないですから」


「ラウリなら、もう三軒は寄っている」


「たぶん、四軒です」


「それは祈祷に間に合わないな」


「祈祷の前に飯は大事だ、と言いそうです」


 言いそうだった。


 俺はわずかに口元を緩めた。笑ったわけではない。だが、ヒュウマはそれを見て何も言わずに前を向いた。


 海からの風が通り、貝飾りが一斉に鳴った。


──────────────────────────────


 夜の店は、誓約広場から一本外れた水路沿いにあった。


 名は、潮灯亭という。


 派手な店ではない。外壁は白く、窓枠は灰青。看板も小さい。入口の灯花蝋は二つだけで、客を呼ぶというより戻る場所を示すために燃えていた。水路に面した窓からは、広場の灯が斜めに見える。白布は夜の風で低く揺れ、貝の音は昼より遠い。


 俺はこういう店が好きだ。


 誇張が少ない。皿の白さ、硝子の厚み、給仕の歩幅、窓の高さ。見せる場所と見せない場所が分かれている。灯が料理を照らしすぎず、人の顔を暗くしすぎない。


 ヒュウマは入口で短く止まった。


「予約してたんですか」


「していた」


「いつですか」


「朝より前」


「今日、休みにするって決める前ですよね」


「休みにできる可能性はあった」


「段取りだけ先に進めるの、蒼凪さんらしいです」


「悪いか」


「悪くないです。少し、悔しいだけです」


「悔しい」


「俺が先に礼をする余地が減ります」


 それは計算に入っていなかった。


 俺は店の扉へ手をかける。


「今日は俺の礼だ」


 ヒュウマはそれ以上聞かなかった。


 中へ入ると、給仕が静かに礼をした。席は水路側の窓際だった。卓布は白ではなく、薄い灰。皿の縁には青い線が一本だけ入っている。品書きは短い。魚、貝、野菜、果実。祝祭前の店らしく、祝いの品を押し出すことはしていない。


 それでいい。


 席に着く時、ヒュウマの左耳のプラチナが灯を受けた。同じ灯の下で、俺の首元のプラチナの首飾りも低く光る。二つの光は揃っているわけではない。形も場所も違う。ただ、同じ金属が同じ橙を拾った。


 一度だけ見れば足りる。


 給仕が水を置き、今日の献立を簡潔に告げた。


 前の皿は白身魚の冷製。潮の香りを残した貝のだし。焼いた春野菜。主の魚は皮を強く焼き、身は軽く蒸してある。最後に果実と薄い焼き菓子。


 ヒュウマは一つずつ礼を言った。


 食事は静かに進んだ。


 昼の街では、白い光が全部を外へ押し出していた。夜の店では、音が内側へ戻ってくる。皿を置く音。水路の揺れ。窓の外で灯花蝋の芯が鳴る小さな音。遠くの広場の笑い声。どれも、ここまで来る頃には角が取れている。


 魚は正確だった。


 塩は強すぎない。香草も前へ出ない。皮の焦げた香りが舌の横へ残り、後から水の冷たさで消える。派手ではない。だが、戻る場所を知っている味だった。


 焼いた春野菜は、外だけが熱を持っていた。噛むと内側の水分が残っていて、苦みが舌へ薄く広がる。皿の温度はすぐに下がらない。水を飲むと、硝子の厚みごと冷たさが指に移った。


 ヒュウマは皿を見て、かすかに目を細めた。


「美味しいです」


「そうか」


「蒼凪さんが選ぶ店だなって、思いました」


「どういう意味だ」


「余計なものが少ないです。でも、寂しくない」


 俺は水を飲んだ。


「悪くない評価だな」


「評価じゃないです」


「確認か」


「今日は、感想です」


 それなら受け取るしかない。


 皿が二つ下げられ、卓の上に小さな空きができた。給仕が次の皿までの間を置く。窓の外では、灯花蝋の列が水面に揺れていた。昼に見た職人たちの手が、今は光になって並んでいる。


 俺は指先を卓の縁に置いた。


 言うなら、ここだ。


 段取りは済ませてある。店も選んだ。席も選んだ。食事の順も悪くない。だが、詫びは段取りで済まない。そこだけが、朝からずっと口の内側に残っていた。


「ヒュウマ」


「はい」


「今日の店は、礼だ。あと、詫びだ」


 ヒュウマの手が止まった。


 すぐには答えない。


 止まった手は逃げるためではなく、受ける場所を探すためのものだった。


 俺は続けた。


「俺は、お前に話していないことがある」


 水路の音がした。


 過去の中身は言わない。俺が今渡すべきなのは説明ではない。理由でもない。事実だけだ。


「先に、別の口から聞く形にした。俺が話さなかった」


 ヒュウマは視線を落とした。


 責める顔ではない。だが、平気な顔でもない。


 そのことに、ひと呼吸遅れて気づく。


 名前は渡した。けれど、過去は渡していなかった。別の人の口から聞いた夜がある。別の席で、他人へ向けて言った言葉もある。俺は必要なものを箱に入れ、必要な時だけ開けて、それで済むと思っていた。


 エヴァの声が、昔の部屋の奥から一言だけ戻る。


 人の心は棚ではない。


 そうだった。


 棚ではない。箱でもない。渡す時だけ開け、渡したら閉じるものではない。


 俺は朝の修練場を思い出す。


 ヒュウマが踏み込んだ。俺は下がった。あの時は間合いだった。剣を置くための距離だった。だが、同じ言葉で自分の沈黙まで整えたことがある。


 それは違う。


「あれは間合いじゃなかった。俺が逃げていた」


 言ってから、息が一つ遅れた。


 ヒュウマは顔を上げた。


 俺は視線を逸らさない。


「今、全部は話さない」


「はい」


「話せる形にまだなっていない。だが、それを理由に、お前へ渡さないままにしていいわけではない」


 ヒュウマの唇がわずかに動いた。何かを言いかけて、止めた。待っている。こちらが最後まで言うのを待っている。


 それが、痛い。


「いつか全部、俺の口から話す。今は、そこまでだ」


 店の中は静かだった。


 給仕は遠い席にいる。こちらを見ていない。窓の外で、白布が夜風を孕んで低く膨らむ。灯花蝋の火が一つ、細く揺れた。


 ヒュウマはすぐには答えなかった。


 水の杯へ手を伸ばし、触れるだけで戻す。指先がわずかに冷えているのが見えた。俺はそこまで見て、見すぎるのをやめる。今は観測する場ではない。


「待ちます、蒼凪さんが話せるまで。平気なわけじゃないですけど、待てます」


 声は穏やかだった。


 穏やかだから、言葉の中身だけが残った。


 平気なわけじゃない。


 それを一度だけ入れてきた。責めではない。説明でもない。待つという言葉が、我慢の別名ではないことを、こいつはそこで示した。


 俺は頷いた。


「分かった」


 ヒュウマは小さく息を吐いた。


「俺も、分かったって言えばよかったですね」


「どちらでもいい」


「よくないです。たぶん」


「なら、次に言え」


「はい」


 卓の空気がわずかに戻った。


 重いものを置いたあと、すぐ軽くなるわけではない。だが、息はできる。皿が下げられた後の卓のように、空いた場所だけが残る。そこへ次の皿を置けるかどうかは、別の時間の仕事だ。


 給仕が間を見て、次の皿を運んできた。


 魚の主皿だった。


 ヒュウマは礼を言った。声はわずかに低い。だが、食べる手は止めなかった。俺も食べた。味は変わらなかった。変わらないことが、今はよかった。


 皮は強く焼かれているのに、身は乾いていない。箸を入れると白い湯気が遅れて上がり、香草の匂いが灯の熱に溶ける。水はまだ冷たい。喉を通るたび、言い終えた言葉の熱だけを拾って下げていく。


 食事の終わりに、薄い焼き菓子と果実が出た。甘さは控えめで、果実の酸味が先に来る。ヒュウマは一口食べ、わずかに目を伏せた。


「これ、昼の白い通りより、夜に合いますね」


「そうだな」


「蒼凪さんがここを選んだ理由、少し分かりました」


「全部ではなくていい」


「はい」


 最後の水が足された。


 店の灯は橙に深まり、窓の外の灯花蝋は水路の上で低く揺れている。広場から笑い声が上がり、すぐ遠くなった。昼に見た白布は、夜には影の白さになっている。


 ヒュウマが席を立った。


 急ではない。椅子を引く音も小さい。だが、こちらへ来ることは分かった。俺の横まで来て、わずかに止まる。


 朝なら、俺は半歩下がって間合いを作った。


 今は下がらない。


 ヒュウマの肩が近づく。灯の下で左耳のプラチナがまた小さく光る。俺の首元にも同じ色が戻る。近い。だが、詰められているのではない。こちらが逃げないだけで、距離の意味は変わる。


 体温が届く距離だった。


 肩と肩の間に、夜の店の空気が細く残っている。水路から来る冷えは窓で弱まり、卓の上の橙だけが肌に乗る。金属は熱を持たない。ただ、灯の色を拾って戻す。


 ヒュウマは何も言わなかった。


 俺も言わない。


 言葉は、もう足りていた。


 窓の外で一つ灯花蝋が消え、その隣の灯だけが低く燃えていた。

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