海風の間合い
木剣が鳴った。
乾いた音だった。
音は床ではなく、胸の奥へ先に来る。古い木の匂い。石柱に返る短い反響。汗を含んだ麻の衣が肩へ張りつく感触。踏み込んだ時に足裏が床板の沈みを拾い、膝から腰まで遅れずに力が通った。
息が途中で折れない。
胸の内側に、前なら薄く張っていた鈍い膜がない。吸えば入る。吐けば抜ける。その当たり前の道筋が、打ち合いの中では判より早く身体へ伝わった。
戻っている。
そう思った瞬間、ヒュウマの木剣が斜めに入った。
遅いわけではない。むしろ、前より速い。踏み込みの軽さは変わらず、木剣がぶつかる重さだけが一段増している。ロドルとの戦いからこちら、こいつの身体は無駄な硬さを拾わなくなった。力を置く場所がわずかに変わった。人を背に庇う時の癖が、木剣にも残っている。
俺は受けずに外した。
腕で弾けば重い。足でずらせば軽い。
床の上で半歩下がり、剣先をヒュウマの手首へ置く。止めたつもりだった。だが、ヒュウマは止まらなかった。手首を逃がし、肩を沈めてさらに一歩入ってくる。
「また下がる」
短い声だった。
息は荒い。だが、言葉は乱れない。
俺は木剣の腹で受け、衝撃を肘から背中へ流した。前ならそこで肩が鈍った。今は違う。息が通る。胸の内側で詰まるものがない。木剣の重さが、武器ではなく道具に戻っていた。
「逃げじゃない。間合いだ」
ヒュウマの目が一瞬だけ細くなった。
「なら、もう一歩だけ詰めます」
来る。
俺は床を蹴った。ヒュウマの踏み込みと同じ拍ではなく、その半分だけ外側に置く。木剣が肩の前を掠め、風が耳に触れた。こちらの剣先は脇の下へ入る。そこまで読んでいたはずだった。
ヒュウマは剣を捨てるように手首を返した。
打ち込みの軌道が折れ、柄がこちらの剣を押さえる。実戦で覚えた動きだ。武器として勝つのではなく、次の人間を守るために相手の道具を止める癖。正しい。だが、修練の木剣ではほんのわずかに遅い。
俺は柄を滑らせ、足を入れ替えた。
木が鳴る。
足裏が床を押し返す。脛の内側、膝、股関節、腰の順に力が戻ってくる。途切れない。身体が自分の重さを思い出し、その重さを持て余さずに次へ渡す。
ヒュウマの木剣が床に落ちる寸前で、こいつは柄を拾った。指のかかりが早い。海で縄を拾う手だ。落ちる前に、もう戻る場所を探している。
悪くないな。
俺はそこまで考え、次の一手をやめた。
ヒュウマも止まった。
修練場の空気が、遅れて動く。汗が顎を伝い、床へ落ちた。白帆亭の夜から数日、俺たちは紙の上に出すべきものを出した。カイの聞き取りの受け渡しも済ませた。評議会への閲覧願いも提出した。返事はまだない。こちらが急いでも、扉の向こうで紙がめくられる速度は変わらない。
あの夜、ヒュウマは屋敷に戻ってから本当に何か食べた。
厨房が残していた温かい粥を一杯。俺も横で水を飲んだ。食堂の卓にあった話は重かったが、匙の音は軽かった。そういう軽さでしか、人は次の日へ移れない時がある。
「もう一本、行けますか」
ヒュウマが聞いた。
「行ける」
答えてから、自分の手の中の木剣を見る。持ち上げる時の重さが、妙に素直だった。負傷してからしばらく、力を出すより先に身体が止めに来ていた。裂ける前に止まる。軋む前に避ける。必要な防御だが、ずっと続けば身体がそれを正しいと覚える。
今日は違う。
足裏が先に返事をしている。
「蒼凪さん」
「なんだ」
「今の、昔からの癖ですか」
「どれだ」
「下がるやつです」
「下がるだけなら、昔からだな」
「じゃあ、さっきのは」
「お前の癖を見た。後ろに誰もいないのに、剣で道を塞いだ」
ヒュウマは片眉をわずかに上げた。
「まずいですか」
「まずくはない。木剣だと遅れる」
「実戦なら」
「役に立つ」
「なら、直しません」
「直さなくていい。使う場所を選べ」
ヒュウマは頷いた。
返事の代わりに、木剣を構え直す。肩の高さがわずかに下がった。海風を受ける時の姿勢に近い。屋内なのに、こいつは時々岸に立っているような形になる。
その時、修練場の入口で足音が止まった。
大きいのに、よく沈む足音だ。
「終了でございます」
アルフレッドは戸口に立っていた。黒燕尾服。白手袋。片手には封のない小さな紙片。指導のための杖は持っていない。
俺は木剣を下ろした。
ヒュウマも下ろす。
「続きは」
「ございません」
アルフレッドは静かに言った。
「凪様、ヒュウマ様。水を」
リーナが後ろから盆を持って入ってきた。水差し二つと、冷えた布。目は仕事の場所にある。だが、こちらの汗と床の木剣を見てから瞳がかすかに忙しくなった。
見たな。
俺は何も言わない。
リーナは水差しを台へ置き、布の端を揃えた。指先が布を押さえる角度だけが、朝の緊張を示している。
アルフレッドは紙片を開いた。
「本日をもって、傷病者としての対応を終了します。なお、無茶を許可したものではございません」
言い方は書面の読み上げに近かった。
ヒュウマが息を吐いた。
俺は水を一口飲む。喉に冷たさが落ち、腹の奥まで通った。修練場の熱が、そこだけ線を引かれたように下がる。
「客人扱いに戻る、ということか」
「はい。凪様」
「完全に戻ったと見ていいか」
「傷病者としての対応を終了します」
「同じ答えだな」
「必要な答えでございます」
アルフレッドの金の瞳は動かない。俺の肩、膝、手首を見ていた。言葉は判だが、視線は古い鍛錬の続きだった。昔と違うのは、ここで何かを直せと言わないことだ。今日は判を持って現れただけで、師の顔を出さない。
それが、思いのほかありがたかった。
ヒュウマが布で首筋を押さえた。
「蒼凪さん、もう傷病者じゃないなら」
「動ける」
「だから無茶をする、ではないですよね」
「しない」
「今、少し返事が早いです」
「早い方が信用できるだろ」
「場合によります」
リーナが水差しの持ち手を直しながら、笑いを飲み込んだ顔をした。アルフレッドの瞼がごく浅く下がる。叱るほどではない。記録するほどでもない。屋敷の朝は、そういう細い揺れを飲み込んで回る。
俺は木剣を壁の棚へ戻した。
棚の木肌に、使い込まれた柄が当たる。手から離れた瞬間、腕の奥に残っていた重さも遅れて落ちた。
「今日は休みにする」
ヒュウマがこちらを見る。
「休み」
「返事待ちだ。こちらから扉を叩いても、返事の中身は変わらない」
「街へ出ますか」
「出る」
「二人で?」
「そうだ」
リーナの手が、布の端で止まった。
アルフレッドは一度だけ頷いた。
修練場の窓から、朝の白い光が入っている。遠くで、海婚祭の支度をする鐘が短く鳴った。まだ本番ではない。だが街はもう、そこへ向けて身体を動かしている。
俺の身体も、今日ようやくその流れに戻った。
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食堂へ上がると、屋敷はすでに次の手順へ移っていた。
修練場の汗を落とし、替えの衣へ袖を通す。白と青のローブを着ると、布の重さが朝の木剣と違う場所へ乗る。動くための重さではなく、外へ出るための重さだ。
廊下には焼いた麦の匂いが残っていた。食堂へ近づくにつれ、温かい茶の湯気と果物の酸が混じる。どこかで盆が縁に当たり、陶器の低い音がした。朝の屋敷は静かに見えて、実際には細かな音で詰まっている。
食堂にはアルフレッド、リーナ、ラウリ、イーリスがいた。
ラウリは大きな椅子に静かに収まっている。収まっているが、椅子の方がいくらか働かされている。イーリスは窓際で喉用の茶を手にしていた。市井の広場へ出る時の薄い旅装に替えている。広場で歌う日なのだろう。屋敷の中にいるのに、すでに通りの風を拾っているような顔だった。
リーナは俺とヒュウマを見た瞬間、背筋を伸ばした。
「凪様、ヒュウマ様。外出のお支度でしたら、玄関に日除け布と替えの外套をご用意いたします」
「まだ何も言っていない」
「申し訳ございません。ですが、今のお顔は外出のお顔でした」
ヒュウマがかすかに笑った。
「俺も分かりました」
「お前まで分かるのか」
「分かります。さっき休みにするって言いましたし」
「それは顔ではないな」
「顔もです」
アルフレッドが食卓の端で紙を閉じた。紙の端が重なり、乾いた音を一つ立てる。
「本日の午餐は軽くいたします。夕刻以降のお戻りを想定してよろしいでしょうか」
「晩は外で取る」
ヒュウマが俺を見た。
俺は水を飲んだ。
まだ言う必要はない。
「外で、ですか」
リーナの声がわずかに上がった。
「お二人で街へ」
ラウリが顔を上げた。
「街か。海婚祭の支度なら、俺も見たい。白い布の張り方は島と違うはずだ」
「シレリオ殿」
イーリスが茶杯を置いた。
皿の上の湯気が、その声に合わせて細くほどけた。
「本日、貴方は海神祠の方に顔を出すとおっしゃっておりました。海鳥ではなく、ご自身の口で」
ラウリはひと息考えた。
「言ったな」
「ならば、巨きな三拍子はそちらへ。蒼凪殿とヒュウマ殿の休日に、祭祀官の影が一つ増えると、歌の重心が変わりますので」
「俺は影もでかいからな」
「その通りでございます」
イーリスは微笑んだ。
刺しは浅い。だが、場所は正確だった。
ヒュウマは視線を横へ落とした。笑いを隠す時の顔だ。リーナは盆を持ったまま、どちらへ動くべきか迷っている。アルフレッドは全員を見ずに、全員の位置を把握していた。
「シレリオ様には、祠から戻られた後のお茶を用意いたします」
リーナが言った。
「茶か。ありがたい」
「ただし、お茶菓子は人数分です」
「人数分」
ラウリは真剣に繰り返した。
「それは大事だな」
「大事でございます」
リーナの声は仕事の丁寧さを保っていたが、顔にはかすかに勝った色があった。若い使用人の勝利は、たいてい皿の数でできている。
イーリスがこちらを見る。
「蒼凪殿、ヒュウマ殿。広場では白布の下で歌を一節、試す予定でございます。もし通りがかりましたら、聴かずに通り過ぎても構いません」
「それは聴けという意味か」
「いいえ。聴かずに通り過ぎても構いません、という意味でございます」
「なら、考える」
「考えられてしまいました」
ヒュウマが柔らかく言った。
「イーリスさんの歌なら、通りがかれば聴きますよ」
「ヒュウマ殿は、そうおっしゃると思っておりました」
「読まれてますね」
「貴方は読みやすいのではなく、手を伸ばす方角が正直なのでございます」
ヒュウマは返事に困った顔をした。
俺は皿に残った果物を一つ口へ運ぶ。酸味がやや強い。朝の汗の後にはちょうどいい。舌の奥に残った水の冷たさと混じり、身体の熱が食堂の時間へ移った。
リーナは玄関へ走りかけ、途中で歩幅を戻した。メリッサあたりに見られると、走るなと言われるのだろう。生成りのエプロンの紐が小さく揺れる。
「凪様の外套は薄手でよろしいでしょうか。風はありますが、日差しは強くなります。ヒュウマ様は、襟元を少し開けた方が歩きやすいかと」
「ありがとうございます」
ヒュウマが答える。
「ローブはそのままでいい」
俺が言うと、リーナは一瞬だけ俺の前を見た。ローブの合わせ、首飾り、袖口。商家の娘の目と、屋敷のメイドの目が同時に働いている。
「承知いたしました。では、襟元だけ整えます」
「乱れているか」
「乱れておりません。ただ、街が華やかですので」
「華やかさに合わせる必要があるのか」
リーナはわずかに迷い、真面目に答えた。
「華やかな通りでは、整っている方が目立ちません」
悪くない答えだった。
「任せる」
リーナの顔がわずかに明るくなる。
ヒュウマは襟を直されながら、こちらを見ていた。俺の首元にリーナの手が伸びると、視線が一瞬だけ止まる。止まったが、何も言わない。言わないことを選んだ顔だった。
俺は気づかないふりをした。
玄関には、薄手の外套と日除け布が用意されていた。扉を開けると、外の白い光が廊下へ入る。丘の下に街が見えた。白い屋根、青い水路、風を受ける布。遠くで貝飾りが鳴っている。
アルフレッドが扉の横に立つ。
「凪様。ヒュウマ様。お戻りの時刻は問いません。ただし、夜風で冷えぬよう」
「分かった」
「ヒュウマ様」
「はい」
「凪様が食事を残された場合は」
「見ます」
俺はヒュウマを見た。
「役目が増えたな」
「増えてません。元からです」
ラウリが後ろで頷いた。
「飯を見る者は大事だ」
イーリスが茶杯を持ち直す。
「では、今日の歌の題は、飯を見る者と見られる者、でございますね」
「やめろ」
俺が言うと、イーリスは楽しそうに目を細めた。
ヒュウマが扉の外へ先に出る。海からの風が黒髪を撫で、左耳の小さな飾りを一瞬だけ光らせた。朝の白い光の中では、まだ淡い。
俺も外へ出た。
背後で扉が静かに閉まる。
屋敷の中の涼しさが離れ、サルマンディアの春の光が身体の上に乗った。
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丘を下りる道は、朝より昼に近かった。
白い石畳が光を返し、目を細めないと遠くがかすかに滲む。海からの風は乾いているのに、塩の匂いだけは濡れていた。薔薇の庭を抜けると、街の音が段階を追って増える。荷車の軋み、宿の女将の声、布を張る男たちの掛け声、貝飾りの乾いた音。
ヒュウマは半歩先へ出ない。
横にいる。
白帆亭からの夜道と同じ距離だ。あの時は灯が背中にあった。今日は光が前から来る。影は後ろへ落ち、二人分の輪郭が石畳の上で揺れた。
ラグーン宿泊区へ入ると、海婚祭の支度は夜よりはっきり見えた。
軒から軒へ渡された白い軒布が、昼の光の中で帆のように膨らんでいる。端には小さな貝が結ばれ、風が通るたびに高い音を立てた。子供が下から手を伸ばし、母親に手首を引かれて笑っている。宿の男たちは梯子の上で結び目を直し、誰かが下から張りを見ている。
白い布越しの光は、石畳へ斑になって落ちた。明るいところは目に刺さるほど白く、影のところは海の色を薄く混ぜた灰になる。職人の手が上で結び、下で別の手が引き、張り具合が一呼吸ごとに変わる。祝うための白は、近くで見ると結び目と指の跡でできていた。
もう一つの通りでは、灯花蝋を設置していた。
まだ火は入っていない。青白い蝋の芯が、白い硝子の覆いの中で細く立っている。職人が一つずつ高さを合わせ、隣の若い男が台座のぐらつきを直す。夜になれば灯るものが、昼の光の中では小さな沈黙に見えた。
職人の親指には、蝋の粉が薄くついていた。台座を回す手は速くない。左右から見て、膝を折ってもう一度見る。低い位置のものほど、直す手間は地味だ。だが、一つ傾けば夜の列はそこで乱れる。
「夜に来たら、だいぶ違いそうですね」
ヒュウマが言った。
「ああ」
「白帆亭の帰りに見た布、もうここまで来てます」
「街の方が早いな」
「人が多いですから」
「人が多いだけなら、絡まる」
ヒュウマは布を見上げた。
「結ぶ人がいるから、ですか」
「そうだな」
その先の桟橋では、婚礼船の艤装が進んでいた。
大きな船ではない。ラグーンの浅瀬をゆっくり回るための、白く塗られた小舟だ。船縁には薄い布が巻かれ、舳先に花輪を取り付ける職人は角度を何度も確かめている。船頭らしい老人が櫂を磨き、若い二人が甲板に敷く布を広げていた。
布を広げる手は、祝いの支度というより帆を扱う手つきだった。片方が皺を逃がし、片方が端を押さえる。老人の櫂を磨く手には長い癖があり、木目に逆らわない。花輪を持つ職人の指だけが慎重で、花を傷めない力の抜き方を知っていた。
それだけで十分だった。
見せるための支度ではある。だが、手は実務の手だ。結ぶ。置く。磨く。高さを合わせる。祝祭は気分だけでは近づかない。誰かが梯子に上がり、誰かが蝋の台座を直し、誰かが船の布を伸ばす。
暦は、そうやって進む。
俺たちは通りを抜け、誓約広場の手前にある小さな香油屋へ入った。買うつもりはなかったが、ヒュウマが足を止めた。店先の棚に並ぶ小瓶を見たというより、その奥の発送札を見たのだろう。
店の女主人は、俺たちを見るとすぐに商売の目になった。
「お客様、祝祭前の香油でしたら、海風に残りすぎないものがよろしいですよ。お二人で使われるなら、同じ瓶より香りをずらす方が品が出ます」
ヒュウマはそこで短く止まった。
俺は何も言わない。
「今日は香油ではなく、発送のことで」
ヒュウマが答えた。
「発送でしたら、薔薇塩のお店は向かいでございます。贈り物でしたら、そちらの方が日持ちします」
女主人は笑って、向かいの小さな店を示した。訂正はしなかった。こちらが何者かを当てる気もなさそうだった。商売の目は、関係より財布と用件を先に見る。だから楽な時もある。
向かいの薔薇塩の店は、白い木箱が壁一面に積まれていた。
薔薇の香りは強くない。乾いた塩の匂いの奥に、花と香草が薄く混じる。木箱からは陽に干した板の匂いがした。帳面の墨は新しく、棚の奥でまだ黒く湿っている。店先には婚礼用の小皿や祝い布も並んでいたが、ヒュウマはそこへ手を出さなかった。俺も見なかった。
店主は年配の男で、発送帳を手元に置いていた。
「贈答用ですか」
「はい。母さん宛てでお願いします」
ヒュウマは宛名を言った。
店主は筆を取る。手早い。慣れている。筆先が紙をなぞるたび、発送帳のページがわずかに沈む。
「薔薇を強くしたものと、香草を強くしたものがございますが」
「長く使える方で」
「では、香草を。料理にも清めにも使えます。小箱を二つ、同じ荷にまとめますか」
ヒュウマは俺を見た。
選ぶ目ではない。確認する目だ。
「お前の荷だ」
俺は言った。
「分かりました。一箱で」
「承りました。発送は本日中に船便へ回します。祝祭前は荷が増えますので、控えはお持ちください」
店主は小さな札を渡した。
ヒュウマはそれを受け取り、丁寧に礼を言った。塩は卓に置かれない。試すことも、分けることもない。白い箱は店の奥へ運ばれ、こちらの手から離れた。
それでよかった。
店を出ると、広場から歌が聞こえた。
イーリスの声ではない。若い歌い手たちの稽古だ。白布の下、海辺の階段で、三人が節を合わせている。音はまだ揃っていない。誰かの声がわずかに先に出て、別の声が追いつく。通り過ぎる観光客が足を止め、物見の目で眺めていた。
白い影の下で、歌い手の手が膝の上に置かれている。声を追うたび、指先だけが拍を取りかけて止まる。合わせようとする身体は、耳より先に動くらしい。
その中の一人が、俺たちを見た。
見られた理由は分かる。
俺のローブか、ヒュウマの耳飾りか、二人で歩く距離か。どれでもいい。物見の目はすぐに別のものへ移った。歌い手の声、白布、船の花輪。サルマンディアでは、見られるものが多すぎる。
「蒼凪さん」
「なんだ」
「母さん、たぶん喜びます」
「そうか」
「海守りの家に、薔薇塩って変ですかね」
「塩は海にも台所にも要る。変ではない」
「なら、いいです」
話はそこで止まった。
母の話を厚くする日ではない。ヒュウマもそれを分かっていた。札を革の小袋へ入れ、外套の内側にしまう。それだけで、家の方角は十分だった。
誓約広場の端に、珊瑚硝子の細工を並べた露店があった。職人は手元の小さな灯花蝋の覆いを磨いている。俺たちが前を通ると、彼は顔を上げた。目は職人の値踏みだった。客の身なりではなく、首元と耳元、身につけた金属の質を見る目だ。
磨く手は止まらない。硝子を支える指は太いのに、縁をなぞる力は細い。白い光が覆いの曲面で割れ、薄青や白緑の色へ散る。
「お客様、灯の覆いでしたら、揃いの色もあります。お連れ様と同じ棚へ置くなら、薄青が無難です」
ヒュウマが困った顔をする。
「相方です」
「では、なおさら。別々の部屋でも、同じ灯なら帰る場所を間違えません」
職人は本気で言っていた。
俺は棚の灯花蝋の覆いを見た。薄青の硝子。白緑の硝子。金の粉を散らしたもの。どれも悪くない。だが今日は買わない。夜の店の手配がある。俺の買い物は、すでに済んでいる。
「今日は見ます」
ヒュウマが言った。
「見るのも祝祭のうちです」
職人はまた磨く作業へ戻った。
俺たちは広場を抜けた。
昼の光は白から淡い金へ傾き始めている。白布の影が石畳に揺れ、まだ火の入っていない灯花蝋は夕方を待つように並んでいる。海婚祭は誰の都合も待たない。俺たちが休んでも、街は結ぶ。磨く。立てる。声を合わせる。
ヒュウマは横を歩いていた。
「夕方まで、まだありますね」
「ある」
「どこへ行きますか」
「少し歩く。食うのは夜だ」
「はい」
「食い歩きはしないぞ」
ヒュウマは笑った。
「ラウリさんじゃないですから」
「ラウリなら、もう三軒は寄っている」
「たぶん、四軒です」
「それは祈祷に間に合わないな」
「祈祷の前に飯は大事だ、と言いそうです」
言いそうだった。
俺はわずかに口元を緩めた。笑ったわけではない。だが、ヒュウマはそれを見て何も言わずに前を向いた。
海からの風が通り、貝飾りが一斉に鳴った。
──────────────────────────────
夜の店は、誓約広場から一本外れた水路沿いにあった。
名は、潮灯亭という。
派手な店ではない。外壁は白く、窓枠は灰青。看板も小さい。入口の灯花蝋は二つだけで、客を呼ぶというより戻る場所を示すために燃えていた。水路に面した窓からは、広場の灯が斜めに見える。白布は夜の風で低く揺れ、貝の音は昼より遠い。
俺はこういう店が好きだ。
誇張が少ない。皿の白さ、硝子の厚み、給仕の歩幅、窓の高さ。見せる場所と見せない場所が分かれている。灯が料理を照らしすぎず、人の顔を暗くしすぎない。
ヒュウマは入口で短く止まった。
「予約してたんですか」
「していた」
「いつですか」
「朝より前」
「今日、休みにするって決める前ですよね」
「休みにできる可能性はあった」
「段取りだけ先に進めるの、蒼凪さんらしいです」
「悪いか」
「悪くないです。少し、悔しいだけです」
「悔しい」
「俺が先に礼をする余地が減ります」
それは計算に入っていなかった。
俺は店の扉へ手をかける。
「今日は俺の礼だ」
ヒュウマはそれ以上聞かなかった。
中へ入ると、給仕が静かに礼をした。席は水路側の窓際だった。卓布は白ではなく、薄い灰。皿の縁には青い線が一本だけ入っている。品書きは短い。魚、貝、野菜、果実。祝祭前の店らしく、祝いの品を押し出すことはしていない。
それでいい。
席に着く時、ヒュウマの左耳のプラチナが灯を受けた。同じ灯の下で、俺の首元のプラチナの首飾りも低く光る。二つの光は揃っているわけではない。形も場所も違う。ただ、同じ金属が同じ橙を拾った。
一度だけ見れば足りる。
給仕が水を置き、今日の献立を簡潔に告げた。
前の皿は白身魚の冷製。潮の香りを残した貝のだし。焼いた春野菜。主の魚は皮を強く焼き、身は軽く蒸してある。最後に果実と薄い焼き菓子。
ヒュウマは一つずつ礼を言った。
食事は静かに進んだ。
昼の街では、白い光が全部を外へ押し出していた。夜の店では、音が内側へ戻ってくる。皿を置く音。水路の揺れ。窓の外で灯花蝋の芯が鳴る小さな音。遠くの広場の笑い声。どれも、ここまで来る頃には角が取れている。
魚は正確だった。
塩は強すぎない。香草も前へ出ない。皮の焦げた香りが舌の横へ残り、後から水の冷たさで消える。派手ではない。だが、戻る場所を知っている味だった。
焼いた春野菜は、外だけが熱を持っていた。噛むと内側の水分が残っていて、苦みが舌へ薄く広がる。皿の温度はすぐに下がらない。水を飲むと、硝子の厚みごと冷たさが指に移った。
ヒュウマは皿を見て、かすかに目を細めた。
「美味しいです」
「そうか」
「蒼凪さんが選ぶ店だなって、思いました」
「どういう意味だ」
「余計なものが少ないです。でも、寂しくない」
俺は水を飲んだ。
「悪くない評価だな」
「評価じゃないです」
「確認か」
「今日は、感想です」
それなら受け取るしかない。
皿が二つ下げられ、卓の上に小さな空きができた。給仕が次の皿までの間を置く。窓の外では、灯花蝋の列が水面に揺れていた。昼に見た職人たちの手が、今は光になって並んでいる。
俺は指先を卓の縁に置いた。
言うなら、ここだ。
段取りは済ませてある。店も選んだ。席も選んだ。食事の順も悪くない。だが、詫びは段取りで済まない。そこだけが、朝からずっと口の内側に残っていた。
「ヒュウマ」
「はい」
「今日の店は、礼だ。あと、詫びだ」
ヒュウマの手が止まった。
すぐには答えない。
止まった手は逃げるためではなく、受ける場所を探すためのものだった。
俺は続けた。
「俺は、お前に話していないことがある」
水路の音がした。
過去の中身は言わない。俺が今渡すべきなのは説明ではない。理由でもない。事実だけだ。
「先に、別の口から聞く形にした。俺が話さなかった」
ヒュウマは視線を落とした。
責める顔ではない。だが、平気な顔でもない。
そのことに、ひと呼吸遅れて気づく。
名前は渡した。けれど、過去は渡していなかった。別の人の口から聞いた夜がある。別の席で、他人へ向けて言った言葉もある。俺は必要なものを箱に入れ、必要な時だけ開けて、それで済むと思っていた。
エヴァの声が、昔の部屋の奥から一言だけ戻る。
人の心は棚ではない。
そうだった。
棚ではない。箱でもない。渡す時だけ開け、渡したら閉じるものではない。
俺は朝の修練場を思い出す。
ヒュウマが踏み込んだ。俺は下がった。あの時は間合いだった。剣を置くための距離だった。だが、同じ言葉で自分の沈黙まで整えたことがある。
それは違う。
「あれは間合いじゃなかった。俺が逃げていた」
言ってから、息が一つ遅れた。
ヒュウマは顔を上げた。
俺は視線を逸らさない。
「今、全部は話さない」
「はい」
「話せる形にまだなっていない。だが、それを理由に、お前へ渡さないままにしていいわけではない」
ヒュウマの唇がわずかに動いた。何かを言いかけて、止めた。待っている。こちらが最後まで言うのを待っている。
それが、痛い。
「いつか全部、俺の口から話す。今は、そこまでだ」
店の中は静かだった。
給仕は遠い席にいる。こちらを見ていない。窓の外で、白布が夜風を孕んで低く膨らむ。灯花蝋の火が一つ、細く揺れた。
ヒュウマはすぐには答えなかった。
水の杯へ手を伸ばし、触れるだけで戻す。指先がわずかに冷えているのが見えた。俺はそこまで見て、見すぎるのをやめる。今は観測する場ではない。
「待ちます、蒼凪さんが話せるまで。平気なわけじゃないですけど、待てます」
声は穏やかだった。
穏やかだから、言葉の中身だけが残った。
平気なわけじゃない。
それを一度だけ入れてきた。責めではない。説明でもない。待つという言葉が、我慢の別名ではないことを、こいつはそこで示した。
俺は頷いた。
「分かった」
ヒュウマは小さく息を吐いた。
「俺も、分かったって言えばよかったですね」
「どちらでもいい」
「よくないです。たぶん」
「なら、次に言え」
「はい」
卓の空気がわずかに戻った。
重いものを置いたあと、すぐ軽くなるわけではない。だが、息はできる。皿が下げられた後の卓のように、空いた場所だけが残る。そこへ次の皿を置けるかどうかは、別の時間の仕事だ。
給仕が間を見て、次の皿を運んできた。
魚の主皿だった。
ヒュウマは礼を言った。声はわずかに低い。だが、食べる手は止めなかった。俺も食べた。味は変わらなかった。変わらないことが、今はよかった。
皮は強く焼かれているのに、身は乾いていない。箸を入れると白い湯気が遅れて上がり、香草の匂いが灯の熱に溶ける。水はまだ冷たい。喉を通るたび、言い終えた言葉の熱だけを拾って下げていく。
食事の終わりに、薄い焼き菓子と果実が出た。甘さは控えめで、果実の酸味が先に来る。ヒュウマは一口食べ、わずかに目を伏せた。
「これ、昼の白い通りより、夜に合いますね」
「そうだな」
「蒼凪さんがここを選んだ理由、少し分かりました」
「全部ではなくていい」
「はい」
最後の水が足された。
店の灯は橙に深まり、窓の外の灯花蝋は水路の上で低く揺れている。広場から笑い声が上がり、すぐ遠くなった。昼に見た白布は、夜には影の白さになっている。
ヒュウマが席を立った。
急ではない。椅子を引く音も小さい。だが、こちらへ来ることは分かった。俺の横まで来て、わずかに止まる。
朝なら、俺は半歩下がって間合いを作った。
今は下がらない。
ヒュウマの肩が近づく。灯の下で左耳のプラチナがまた小さく光る。俺の首元にも同じ色が戻る。近い。だが、詰められているのではない。こちらが逃げないだけで、距離の意味は変わる。
体温が届く距離だった。
肩と肩の間に、夜の店の空気が細く残っている。水路から来る冷えは窓で弱まり、卓の上の橙だけが肌に乗る。金属は熱を持たない。ただ、灯の色を拾って戻す。
ヒュウマは何も言わなかった。
俺も言わない。
言葉は、もう足りていた。
窓の外で一つ灯花蝋が消え、その隣の灯だけが低く燃えていた。




