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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
110/128

白煙の席

 車輪が、白い石畳を噛んだ。


 最初に聞こえたのは、荷車の軋みだった。木の輪が石の継ぎ目を越え、湿った溝で低く鳴る。縄が張り、麻の撚り目がこすれ、布に包まれた荷がわずかに沈む。夜の港では音が遠くまで伸びる。けれど白い倉庫街の中では、伸びた音が壁に当たり、すぐに折り畳まれて戻ってきた。


 その戻り方が嫌だった。


 海の開けた場所なら、音は波へ逃げる。ここでは逃げない。車輪のきしみも、人足の靴裏も、誰かが喉の奥で押し殺した咳も、白い壁の間で小さく畳まれて足元へ落ちる。潮の匂いに、濡れた縄と古い油の匂いが混じっていた。鼻の奥に塩が残り、息をするたび舌の端が苦くなる。


 俺たちは港の端から回り込んで、西の仮置き場を見下ろす角にいた。


 さっきまで見ていた灯は遠かった。二つだった灯が三つになる。その三つ目が点いた時、ヴァローが紙束を畳んだ。俺は「行く」と言った。そこからまっすぐ走れば、荷の前に出られたのかもしれない。だが走らなかった。


 走れば、足音で全部が決まる気がした。


 白い倉庫の壁沿いに、海霧が膝の高さで這っていた。霧は冷たく、革靴の縫い目に触れ、脛から上がってくる。港の端で吸った風よりも、ここは重い。水気が石の上に薄く残り、白いはずの石畳を、磨いた骨みたいな色にしていた。


 荷列は南側の倉庫列から出てきた。


 提灯は布に包まれていた。光が直接漏れないよう、薄い布の奥で丸く滲んでいる。三つの灯が前後に並び、その間を人足が歩く。肩に縄を掛ける男。荷車の脇で車輪を押す男。後ろで帳面を持つ男。誰も大きな声を出さない。


 布越しの灯は、息をしているみたいに揺れた。


 光の縁が霧に溶ける。黄色ではなく、少し白く濁った色だった。人足の頬を照らしても表情までは見せない。手だけが浮く。縄を持つ指。帳面を抱える指。荷の角を確かめる指。声がないぶん、手の動きばかりが目に入った。


 夜の荷は、夜に動く。


 あの男の独り言が、喉の奥で戻ってきた。


 名前を呼ぶな。


 ヴァローが紙を開いた。白い保証欄の写し、黒蜜の前借りが記された端紙、搬入刻限の控え。紙は濡れないよう革袋に入っていたのに、出した瞬間、夜の湿気を吸って端がわずかに反った。紙の繊維が空気を飲む小さな音まで聞こえそうだった。


 彼は声を出さず、指だけで刻限を示した。


 三つ目の灯。


 台数。


 西の仮置き場。


 それから、指図書の余白へ指を置いた。


 何も書かれていない白い場所だった。


 名前がない。


 書き漏れではない。書かないことで、誰かの手がそこに入る。ヴァローは何も言わなかった。言わない方が、紙の白さは強く見えた。灯に透けた余白は、夜の倉庫より冷たかった。


 俺の足が、石の上で少し重くなった。


 ヴェスタが低く身を沈めた。青と黄色のバンダナの端が霧で濡れている。彼は荷列ではなく、荷列の横を見ていた。倉庫の戸の開く幅。逃げ道。警備の立ち位置。灯の下に出た時、どこから見られるか。


「風下はこっちだな」


 声は軽いが、目は笑っていない。


「煙を食うなら、勇者様からになる」


「煙」


 俺が聞くと、ヴェスタは肩をすくめた。革の上着が霧をはじき、細い水の筋が袖口へ落ちた。


「白い倉庫で夜に荷を動かす連中が、白く隠す手を持ってねえと思うか」


 ガイウスは数を見ていた。


「人足は八。押しが二。綱が三。帳面が一。後ろに二」


 短い。


 俺は荷列の中の体格を見る。肩の張り方が違う男がいた。腰をかばって歩く男がいた。膝を完全には伸ばせない男も混じっている。治療院の白い長椅子で見た傷の位置が、夜の荷列の中へ移っている。


 服は違う。灯も違う。けれど歩き方は嘘をつかなかった。


「全員、古杭か」


「混じってるな」


 ガイウスはそれだけ言った。


 カイは人の目を見ていた。


「黒蜜を使っている方がいます」


 彼の声は、夜に置くには柔らかすぎた。けれど柔らかいから、余計に逃げられない。


「何人だ」


「三人。いえ、四人かもしれません。眠気が奥へ押し込まれている目があります」


 カイはロザリオへ触れかけて、指を止めた。あの港の端で、祈る言葉をまだ声に出せずに止まった手だ。その手が、今も胸の前で止まっている。指先だけが冷えた空気の中で白くなっていた。


 荷列の中央に、白布の小箱が三つあった。


 大きくはない。両手で抱えられるくらいの箱を、白い布で包み、縄で固く縛っている。布の端は濡れていない。湿気の強い夜なのに、そこだけ乾いた白が残っていた。箱を持つ男の指は震えていた。寒さではない。疲れでもない。荷を落としてはいけない時の指だった。


 俺は中を考えなかった。


 見えるのは布と縄と指だけだ。それで十分だった。


「荷を壊さない」


 俺は言った。


 言葉にしておかないと、剣を抜く手が先に行く気がした。


「人を殴らない。紙を見える場所に出す」


 ヴァローが頷いた。紙束を俺へ渡すのではなく、自分の胸元で持ち直す。紙は彼の手の中にある方がいい。俺が持てば、剣の柄と同じ場所に力が入る。


「紙は私が出します」


「頼む」


「君は道を塞ぐ」


「分かってる」


 言ってから、言葉が喉に引っかかった。


 分かるな。まだ分からんでいい。


 ブルーノさんの声が戻る。分かったつもりで走るな。あいつらの飯は、軽い正義でこぼれる。


 俺は奥歯を噛んだ。


「分からないまま、塞ぐ」


 ヴァローが一瞬だけ俺を見た。皮肉は来なかった。代わりに、紙束の角を揃える小さな音がした。


 ヴェスタが口の端を上げた。


「悪くねえですね、勇者様」


「丁寧語が雑だ」


「夜の荷場に上等な丁寧語を持ち込むと、足が遅くなるんだよ」


 ガイウスが盾の留め具を外した。音を抑えているのに、黒鋼の重さが空気を変える。革紐が緩み、金具が胸の下で低く鳴った。


 カイが俺の横へ一歩寄った。


「レオン」


「大丈夫だ」


「大丈夫でなくても、前へ出るのは分かっています」


 俺は返事を探した。


 カイは続けなかった。祈りもしなかった。俺の肩の後ろに立つ。それだけで、足場が少しだけ戻った。


 荷列が角を曲がる。


 通り道が見えた。


 白い石畳の中央を、荷の影がゆっくり進んでいる。灯三つ。その下に人の肩。人の腰。人の目。白布の小箱。黒蜜の眠気。紙の余白。


 俺は息を吸った。


 潮と油と湿った麻が、肺の奥へ入った。


 剣の柄には触れなかった。


──────────────────────────────


 灯の下へ出ると、荷列の先頭が止まった。


 止まり方にも音があった。車輪が石の継ぎ目で半分だけ乗り上げ、押していた男の靴底が湿った石をこする。縄を掛けた肩が遅れて止まり、荷の重さが列の中を一つずつ戻っていく。提灯の布が揺れ、滲んだ光が人足たちの頬をなぞった。


 俺は名乗らなかった。


 勇者一行のレオン・ソルです、と言えば、相手は俺の名を受け取る。受け取った名で、次の手順が始まる。ブルーノさんは名を呼ぶなと言った。夜番は名を呼ばれるのを嫌う。なら、俺も最初から名を出さない。


 白い石畳の中央に立つ。


 荷車の前輪が俺の三歩手前で止まった。押していた男の肩が揺れる。縄を掛けた男が、反射で後ろを見る。帳面を持つ男が灯を下げた。紙を挟んだ板が、彼の胸に押しつけられている。


 指図書は、あの胸の板の中にある。


 俺は両手を見える位置に置いた。


「この搬入の指図書を見せてほしい」


 声は思ったより低かった。


 人足たちの間に、小さな揺れが走った。勇者の顔を知っている者がいた。白い旅装、深紅のサッシュ、聖剣。街で見られる顔だ。だが荷の通り道で、夜に、剣を抜かずに立つ勇者を見たことはないはずだった。


 誰かが息を止めた。そのせいで、荷車の軸の小さなきしみが急に大きく聞こえた。


「手順の確認だ。荷には触れない。人にも触れない」


 ヴァローが俺の後ろから紙束を出した。見える高さ。灯の中。白い保証欄の写しが、同じ白い光の中に出た。


「こちらの写しと照合します」


 ヴァローの声は静かだった。


 帳面の男が何か言おうとした。喉が動き、舌が歯の裏で止まる。けれど先に、列の中の一人と目が合った。


 マルコだ。


 腰をかばう男は、荷車の反対側にいた。昨日より顔色が悪い。目の奥に、眠気を押し込んだ黒い光がある。俺を見た瞬間、口が開きかけた。名前を呼ぶな、と叫んだ口だ。


 俺は呼ばなかった。


 視線だけをそのまま浴びる。


 男の喉が動き、声は出なかった。


 奥の倉庫の扉が開いた。


 音は小さかった。蝶番に油が差してある。だが荷列の揺れが止まった。人足たちが一斉に振り返る。帳面の男は紙板を胸から少し離し、すぐに戻した。提灯を持つ腕が硬くなり、布越しの灯が一度だけ大きく揺れた。


 俺も見た。


 白いスーツの男が出てきた。


 最初に見えたのは靴だった。黒革の靴。白い石畳、白い倉庫、白い灯の中で、その靴だけが地に沈んでいるように見えた。靴音は軽くない。踏む場所を選んでいるのに、選んだ場所へ確実に重さを置く音だった。


 人足たちは道を開けるのが遅れなかった。開けるというより、身体が先にその幅を知っていた。帳面の男が半歩下がり、灯を持つ男が肘を引く。誰も命じられていないのに、荷列の中心に一本の空いた線ができた。


 次に白いリネンの裾。夜の海霧の中でも湿りを寄せつけていない。薄灰のシャツ。胸元の銀の家紋ピン。袖口に潮真珠のカフスが光る。手は白革の手袋に包まれている。握手をするための手にも、血を触るための手にも見えた。


 黒髪は後ろへ撫でつけられ、髪油が灯を拾っていた。顔立ちは整っている。よく笑う商人の顔だ。観光港の表通りで客に道を教えれば、誰も疑わないだろう。


 けれど目の奥だけ、温度が違った。


 笑うための筋肉は顔に残っている。だがその奥の暗い鳶色は、笑う場所から半歩だけ引いている。怒鳴らない。眉も大きく動かない。怒りを顔の上へ出さず、目の奥へ落としている。


 背が高い。


 ただ高いのではない。肩が広く、首が太い。リネンの下の前腕が強い。荷を担いだ時期のある身体だった。白いスーツはその厚みを隠しているのではなく、収めている。鳥が翼を畳むように、肩線が夜の灯を受けて広がって見えた。


 腰には白革の鞘があった。


 装飾だけなら、婚礼用の儀礼剣にも見える。白い鞘、潮真珠の柄頭、青緑の鍔。だが厚い。不自然に厚い。そこだけ、祝いの道具ではない重さを持っている。


 ヴァローの視線が、その鞘に一瞬留まった。


 それだけだった。


 言葉はない。俺も聞かなかった。聞けば、余計な何かを今夜の中へ引き込む。


 視界の端に、白い外套の影が一度だけ動いた。倉庫の角、灯の届かない場所。誰かがいる。だが荷列の前の男が近すぎて、俺の目はすぐに戻った。


 白いスーツの男は、俺の正面で止まった。


 彼が止まっただけで、人足たちの呼吸がさらに低くなった。灯の布が揺れ、白い壁に落ちた影が細く伸びる。帳面の男は背筋を直した。直したあと、自分の肩が上がりすぎていることに気づいたように、少しだけ顎を引いた。


「勇者殿。そこは荷の通り道だ」


 声は低く、よく通った。


 俺は首を横に振った。


「人が壊れる道だ」


 荷列の中で誰かが息を飲んだ。帳面の男の手が動く。ヴェスタの足が半歩ずれ、逃げ道を塞がない位置へ移る。ガイウスは重盾をまだ下ろさない。カイは人足の側を見ている。


 男は俺を見ていた。


「壊れた人間を、港は捨てる。私は拾う。順序を間違えないでいただきたい」


 その言葉は、きれいだった。


 拾う。


 捨てるより、ずっといい言葉だ。飯が出る。寝床がある。借金取りが来ない。昨日、腰をかばう男が言っていた言葉が並ぶ。それを全部、白い手袋で拾うと言われたら、俺の方が悪い場所に立っているように見える。


 剣を抜けば早い。


 荷列の前で、白いスーツの男を力で退かせる。勇者の聖剣を見せれば、人足は下がるかもしれない。帳面の男は紙を出すかもしれない。


 けれど剣で急げば、払うのはあの人たちだ。


 俺は聖剣に触れなかった。


「剣で急げば、あの人たちが払う。だから抜かない」


 白いスーツの男は、そこで初めて少しだけ口の端を上げた。


 笑いではない。値段を見た時の顔に近かった。


「名乗りもせず、剣も抜かず、荷の前に立つ。勇者殿は、礼を省くのがお好きですか」


 男は上着の胸に手を当て、浅く礼をした。


「シローネ商会サルマンディア支部、ルッカ・ヴァレンティ。この道の荷は、私の預かりです」


 名乗りは整っていた。


 俺は名を伏せて立っている。この男は名を出して立つ。名前を消される者たちの列の前で、その差が一番冷たかった。


「礼より先に、指図書を見せてほしい」


「順序を飛ばしています」


「飛ばされてる人がいる」


 俺の言葉は短かった。


 短くしかならなかった。


 ルッカは白革の手袋の指を一本ずつ外し始めた。


 右手。親指。人差し指。中指。革が皮膚から離れる音が、荷車の軋みよりはっきり聞こえた。人足の誰かが瞬きをした。帳面の男は目を下げた。提灯の灯が布の奥で細く震えた。


 外された手袋の下から出た手は、商人の手ではなかった。手の甲に古い裂傷があり、指の節が硬い。剣の柄を握ってきた手。荷も、首も、同じ重さとして知っている手。


 手袋を左手に持ち替える。


「では、手順をやり直しましょう」


 ルッカは白鞘へ手を置いた。


「勇者殿が道を空ける。荷は倉庫へ入る。紙は明日の朝、席で見る。それが港の順序です」


「今夜見る」


「許可は」


「人が壊れてる」


「裁きには資格がいる」


 彼の声は変わらない。


 鞘から、白い刃が抜けた。


 刃は思ったより厚かった。片刃。短めのカトラスにも、処刑刀にも見える。灯に触れた鋼は白く光らない。むしろ灯を薄く押し返し、重さだけを前へ出してくる。抜かれた瞬間、近くの人足たちが一歩分だけ息を引いた。


 俺はそこで初めて聖剣を抜いた。


 白銀の刃が夜に出る。光はまだ纏わせない。炎もない。ただの剣として構える。柄の革が手のひらに馴染む。その馴染み方が、今は少しだけ怖かった。


 ルッカの目が、俺の剣先ではなく足を見た。


「立つなら、足の値も払っていただく」


 白い刃が、ゆっくり上がった。


──────────────────────────────


 最初の一撃は、技に見えなかった。


 ただ重かった。


 ルッカが踏み込み、白い刃が斜めに落ちる。速すぎるわけではない。だが落ちる場所が逃げにくい。俺が剣を立てれば、手首へ重さが残る。下がれば荷車へ近づく。横へ逃げれば人足の列へ押し出される。


 受けるしかない。


 聖剣の刃で受けた瞬間、肘の内側が痺れた。


 金属の音は高くない。石の床に袋入りの砂を落としたような、低く詰まった音が腕の骨へ入る。白い刃は薄くない。押し切るための重さがある。俺の剣は折れない。だが俺の手首は剣ほど強くない。


 足が半歩沈む。


 石畳の冷たさが靴底を越えて膝へ来た。


「重い!」


 ヴェスタの声が飛ぶ。


 俺は返事をしない。息が武器に食われている。


 ルッカの刃が戻る。戻りも速い。重い剣を扱っているのに、腕だけで振っていない。背中、腰、足。荷を担いできた身体が、剣の重さをまとめて運んでいる。


 二撃目は下から来た。


「下!」


 ガイウスの声。


 俺は膝を落とし、刃を斜めに逃がした。白い刃が聖剣の腹を滑り、火花を一つ散らす。火花はすぐに湿気へ呑まれた。


 三撃目は首ではなく、剣を握る手の外側へ入ってきた。


 俺は手を引く。刃が手袋の表面を掠めた。革が裂ける。皮膚までは行かない。だが指先に冷たい痺れが走った。自分の指がまだ柄を握っているか、一瞬だけ分からなくなる。


「型が兵じゃねえ」


 ガイウスが言った。


 ルッカの刃と俺の剣先が一度離れる。間合いが切れた。夜気が刃と刃の間へ入り、煙でもない白い息がそこに浮いた。


 ガイウスは重盾を前へ下ろしながら、低く続ける。


「処刑人の型だ」


 その一言で、俺の背筋が冷えた。


 兵の剣は相手を倒す。冒険者の剣は相手を止める。今の刃は違う。相手のどこを残せば喋るか、どこを断てば働けなくなるかを知っている。治療院で見た肩。腰。膝。手首。それぞれが、白い刃の先に繋がった。


 ルッカはガイウスを一瞥した。


「良い盾をお持ちだ」


「褒めてる声じゃねえな」


「評価です。値段は、まだつけません」


 ルッカは俺へ戻る。


「名前より先に飯を出す。私の順序はそこからです、勇者殿」


「飯で縛ってる」


 俺は言った。


 言った瞬間、言葉の足りなさが喉に残った。


 飯は必要だ。寝床も必要だ。薬代も必要だ。俺はそれを否定できない。否定したら、昨日の男の問いに戻る。俺の妹の薬代は、誰が払う。俺は答えを持っていない。


 ルッカは、その足りなさを見逃さなかった。


「縛らずに食わせられる方は、港では長生きしません」


「だから、壊していいのか」


「壊れた後に捨てる方々よりは、親切です」


 俺は返せなかった。


 剣先が来た。


「右!」


 ヴェスタ。


「盾!」


 カイの声が短く硬くなる。


 ガイウスの重盾が横から入った。白い刃を正面で受けるのではなく、俺の剣に残った重さを外へ逃がす。盾の縁が石を擦り、火花が湿った床で消えた。


 ルッカはそこで鞘を使った。


 白革の鞘が低く走り、俺の膝の外側を狙う。剣ではなく鞘。刃を受けた俺の姿勢の遅れへ、別の重さを差し込む。


「跳べ!」


 ヴェスタの声。


 俺は跳ばない。跳べば荷列へ背中を見せる。


 代わりに左足を半歩引き、鞘の先をすねで受けた。痛みが走る。骨までは行かない。だが膝の力が一瞬抜ける。息が歯の間から漏れた。


 ルッカの目が細くなる。


「立ちますか」


「立つ」


「なら、次です」


 彼の左手が腰の脇へ動いた。


 小さな袋が指の間で裂けた。投げるのではない。白革の手が袋の口を潰し、刃の背が布をなぞる。黒い粒が、濡れた石畳の上へ薄く撒かれた。


 火薬の匂いより先に、ヴェスタの息の置き方が変わった。


 ルッカの刃が、撒いた粒の上をかすめて来る。剣先が聖剣の腹に当たる寸前、白鞘の金具が鍔の下で擦れ、火花が一つ落ちた。


 黒い粒が爆ぜた。


 斬撃と同時だった。


 受けたはずの聖剣が、内側から殴られた。白い刃は止めた。止めたのに、衝撃だけが剣越しに肘へ抜ける。受けが受けにならない。腕の中で骨の位置が一瞬ずれた気がした。


 音が倉庫の壁にぶつかった。


 胸の内側を拳で叩かれたみたいだった。耳が一瞬詰まり、世界の縁だけが遠くなる。熱は短い。肌の表面を薄く舐めて、すぐに湿った冷気へ戻る。けれど喉の奥に焦げた味が残った。


 白煙があとから広がる。


 火は荷の側へ行かない。壁際で、石畳の上で、俺とルッカの間を斜めに裂く。熱より先に匂いが来た。焦げた布。火薬。湿った塩。視界が白く潰れる。


「煙だ!」


 カイが人足の方へ走る。


「下がってください。荷から離れて!」


 丁寧な声が、短く切れている。人足たちは動けない。荷を置けば叱られる。逃げれば名を見られる。カイはその迷いの間へ身体を入れた。手で押すのではなく、進む先を示す。柔らかい手順で人を動かす。


 ガイウスは荷車の横へ入った。


 爆発の衝撃で、後ろの荷車が斜めに揺れている。白布の小箱は遠い。火の欠片は届かない。それでも荷列の綱が緩みかけ、人足の一人が反射で支えようとした。


「触るな」


 ガイウスが盾の縁で車輪を止めた。


「腰を入れろ。荷じゃなく車を押せ」


 人足が従う。重盾と男の腰で、荷列の傾きが止まった。


 白煙の向こうで、ルッカの切っ先が来る。


 俺は見えないまま受けた。刃と刃が触れた瞬間、白い刃の根元から黒い粒が落ちた。手元から投げたのではない。剣の腹に沿わせて運ばれていた粉だった。ルッカは押し切らず、聖剣の腹へ刃の背を噛ませる。


 火花が、二人の刃の間で散った。


 爆ぜる音が、受けの中に入った。


 腕が痺れる。音は煙の中で鈍くなっていた。近いのに遠い。自分の呼吸だけが、口の中で大きく鳴る。次の瞬間、足元へ撒かれていた黒い粒が鳴ろうとして、湿気に潰れた。鈍い咳みたいな音だけで、火は立ち上がらなかった。


 不発。


 ルッカの表情は変わらない。見えたのは一瞬だけだが、彼は火が立たないことを怒らなかった。火が出なかった場所を、最初から予定に含めていたように、すぐに刃の角度を変える。


 火が出なければ、煙を使う。


 煙が足りなければ、足場を使う。


 手順が切れない。


「左!」


 ヴェスタ。


 俺は左へずれる。白煙の中で、黒い靴が一瞬見えた。靴だけが地に沈んでいる。そこへ斬り込もうとして、足を止めた。


「レオン、火はなしだ。向こうが薪まで並べてる」


 ヴェスタの声が、煙の切れ目から飛んだ。


 俺の喉まで上がっていた炎の詠唱が止まる。


 倉庫の壁際。油の染み。乾いた縄。古い木箱。火が走れば、払う者の顔も見えないままだ。俺の炎は荷場全体を明るくできる。だが明るくすることと、守ることは違う。


 俺は炎を捨てた。


 ルッカの剣先が、そこへ来る。


「まだ選べますか」


「選ぶ」


 刃を受ける。腕が重い。煙が目に入る。まぶたの裏が焼けるみたいに痛む。喉が熱い。剣の柄が汗で滑る。握り直すたび、裂けた手袋の縁が指へ食い込んだ。


 間合いが切れた。


 白煙の中で、ルッカの声だけが整っている。


「拾う手が白いと、不審ですか。汚れが見えるぶん、親切だと思いますが」


 俺は咳を押さえた。


「飯を出す手が、喉に鎖を掛けてる」


「鎖が嫌なら、外せるだけの飯を先に用意することです」


「それが、ない奴は」


「私の席へ来る」


 短い。


 きれいに戻る。


 俺は、そのきれいさが嫌だった。けれど嫌だと言うだけでは、荷列の男たちは明日の朝に食えない。舌の上に煙の苦さが残り、言葉がそこへ貼りついた。


 煙の向こうで、腰をかばう男が咳き込んだ。


 俺は名を呼ばなかった。


──────────────────────────────


 白煙は壁際だけでなく、足元にも溜まっていた。


 霧と煙が混じる。白い石畳と白い倉庫と白い煙が一つになり、距離が消える。ルッカの黒い靴だけが、ときどき地面から浮かぶように見えた。あれを追うと遅れる。彼は靴を見せたい時に見せている。


 煙には味があった。


 舌に苦く、鼻の奥に塩辛い。吸い込むと喉が縮み、胸の内側で息が浅く割れる。目を開けているだけで涙が滲む。だが拭う手はない。柄を握る右手は汗で濡れ、左手は剣の腹へ添えるたび白い煙の湿りを拾った。


 ヴァローが煙の外で紙束を片手に下げたまま、短杖を出さずに立っていた。魔法の詠唱ではない。彼は火薬袋が置かれた場所を見ている。白煙の流れ、壁際の油染み、石畳の継ぎ目、倉庫扉の下の隙間。視線が動くたび、彼の指が紙束の角を叩く。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 数えている。


 ヴェスタは俺の左後ろにいた。足音が軽い。煙の薄い場所だけを踏んで、濃い場所には入らない。風を読むのではなく、煙の重さを読むように動く。


「勇者様、三歩先は燃える床だ」


 声は、刃が離れた瞬間に来た。


「右へ逃げるな。左半歩、次で下がれ」


 長い指示だ。打ち合いの中では言えない。だから彼は言える一拍を待っていた。俺は頷く代わりに足を置く。左半歩。次の刃を受ける。下がる。


 ルッカの白い刃が、俺を右へ誘う。


 右に行けば、さっき火の立たなかった黒い粒の上へ入る。湿気で不発だった粉を、彼は捨てていない。次の火で使う気だ。


 俺は左へ戻る。


 ヴェスタが低く沈んだのは、その戻りに合わせてだった。


 煙の薄いところだけを縫って、俺の左後ろから影が滑る。曲刀ではない。腰の短剣だ。膝裏を狙う高さから入り、最後に手首へ切っ先を上げる。倒す一撃ではない。俺へ落ちる圧を一拍だけ散らすための一手だった。


 ルッカの刃は俺へ来たままだった。


 彼は手順を崩さない。半歩だけ外し、白鞘の尻で短剣の腹を払う。刃の線は俺から逸れない。鞘だけがヴェスタをいなし、白い刃だけが俺を数えている。


 俺は受けた。腕が沈む。


 あの男は、二つの刃を同じ手順の中で数えていた。


 ヴェスタは舌打ちもしない。払われた短剣を追わず、膝を畳んだまま煙の薄い側へ抜ける。踏み込みより退き際が速かった。


 ルッカの目が一度だけ、ヴェスタへ向いた。


「良い足場読みだ」


 ヴェスタが笑った。


「褒めるなら前払いで頼むぜ」


「支払いは後ほど」


 切っ先が返る。


「伏せて!」


 カイの声。


 人足の一人が煙の中で立ちすぎていた。俺の背後でガイウスが盾を動かす。重盾の縁が石を噛み、煙の中に黒い壁が立つ。ルッカの刃は俺へ来ている。だが火薬の線は、人足の足元をかすめる位置へ押し込まれている。


 配置で戦っている。


 剣だけではない。火薬だけでもない。倉庫街の白い壁、湿った石畳、風下、油染み、荷列の恐れ、俺が荷を壊せないこと。全部を刃の先に置いている。


 俺はルッカへ踏み込んだ。


 近づけば、火薬の線から外れる。けれど白い刃の重さは近いほど強い。剣と剣がぶつかる。聖剣が押される。俺の肩が沈む。ルッカの顔が近い。煙が彼の襟に薄くかかり、白い布の輪郭をぼかした。


 目の奥の温度が低い。


「勇者殿の順序は」


 彼が言う。


「紙、人、荷。そう見えます」


 俺は歯を食いしばる。


「違う」


「では」


「……俺は、飯の代わりを持ってない」


 言った瞬間、刃の重さが一拍だけ止まった。


 勝った言葉ではなかった。


 負けを認める言葉だった。飯の代わりを持っていない。寝床の代わりも、薬代の代わりも、明日の仕事の代わりも持っていない。俺にあるのは聖剣と、紙と、ここに立つ身体だけだ。


 ルッカの目が、ほんの少しだけ変わる。


 値段をつけられないものを見る目だった。


「なら、なぜ立つ」


 答えようとした。


 けれど煙の奥で爆ぜる音がした。


 問答は、そこで欠けた。


 右腕に痺れが走る。さっきの重打が遅れて戻ったように、肘から指先まで感覚が薄くなる。言葉も薄くなる。喉が熱い。目が痛い。ルッカの刃が離れ、白煙の中で大きく引かれた。


 煙の内側の音が、一段低くなる。


 人足の咳も、荷車のきしみも、ヴェスタの靴音も、遠い布の向こうで鳴っているみたいだった。俺の右手だけが近い。柄を握る指の鈍さだけが、やけに近かった。


「第一刑——断手」


 短い宣告だった。


 説明ではない。


 白い刃が、俺の手首の高さへ来る。


 さっきまでの重打と違う。大きい。剣の重さを全部、武器を持つ手へ落とす振りだった。受ければ手首ごと持っていかれる。下がれば背後の人足へ線が開く。横へ逃げれば荷列の綱へぶつかる。


 俺は前へ入った。


 刃の根元へ潜る。聖剣で受けない。白い刃の外側へ、刃の腹を滑らせる。ヴェスタの言った左半歩が残っていた。その足場に、今度は俺の身体を入れる。


 白い刃が空を切った。


 空振り。


 重い剣は、外れた後に一拍を要求した。ルッカの肩と腰が、姿勢を戻すためにわずかに止まる。そこが好機だった。俺が踏み込めば、胴へ届く。聖剣なら届く。


 だが、その空振りの剣先が足元に残っていた火薬袋を裂いた。


 火薬の黒い粒が石畳へ弧を描いて散る。湿気を吸った袋ではない。乾いた袋だった。ルッカが姿勢を戻すために引いた白鞘の金具が、石の継ぎ目を噛んだ。


 火花が横へ跳ねた。


 火は荷の方へ行かない。だが白煙の流れと火花の向きに押され、爆ぜる線が人足の側へ逸れる。


 腰をかばう男が、その線上にいた。


 ルッカの目が動いた。


 一瞬、人足を測った。


 次に、荷列の白い布へ動いた。


 彼の刃が先に押さえたのは、荷車の綱だった。爆ぜる線で緩みかけた車輪止めを、剣の背で叩き、白布の小箱を積んだ荷車の傾きを止める。手順は速い。間違ってはいない。荷も守られる。列も崩れない。


 ただ、順序が見えた。


 人足より先に、荷だった。


 その違和感が胸に刺さる前に、俺は叫んでいた。


「そこの、腰の男——伏せろ!」


 名前は呼ばなかった。


 男の目が開く。遅い。黒蜜の眠気が身体を鈍らせている。カイが横から飛び込んだ。神官服の白い袖が煙の中で広がる。押し倒すのではなく、肩を抱いて低く落とす。


 ガイウスの重盾がその前へ入った。


「伏せろ」


 低い声。


 爆ぜた。


 白い火と音が盾の面を叩く。耳の穴が詰まり、胸の奥が一瞬へこんだ。熱は短い。けれど短いぶん、皮膚の上を細い刃物みたいに走った。煙が濃い。ガイウスの肩が沈む。カイの背中に細かな煤が落ちる。腰をかばう男は石畳に伏せたまま、両腕で頭を抱えていた。


 生きている。


 荷も壊れていない。


 人も殴っていない。


 俺の周りは、白煙で何も見えない。


 ここで見えなければ、次の刃が来る。ルッカは姿勢を戻す。火薬の線も読めない。人足がどこにいるかも分からない。


 俺は聖剣の柄を握り直した。


 炎ではない。


 剣の中にある白い光だけを呼ぶ。


「Lævateinn ── 《暁光 / Dawn Light》」


 聖剣が白く開いた。


 広がりすぎない。広げられない。剣の届く範囲だけ、俺の腕の長さと踏み込みの半径だけ、白煙の粒が光を拾って割れる。倉庫街全体は晴れない。遠くは白いままだ。だが俺の足元と、ガイウスの盾と、カイの背中と、伏せた男の肩が見えた。


 ルッカの靴も見えた。


 黒い靴は、俺の二歩先で止まっていた。


 彼は刃を戻している途中だった。白いスーツの裾に煤がつき、前髪が一房落ちている。整っていた顔の輪郭が、その一房で少し崩れた。名士の顔の奥にあるものが、一瞬だけ外へ出る。


 凶暴さ。


 だが怒鳴らない。


 ルッカがもう一度刃を上げる。


 その前に、別の声が通った。


「ここで勇者とシローネ商会支部が刃を交えたまま夜を越せば、明日の朝には港全体が敵味方を決めることになります」


 白煙の外からだった。


 白い外套の男が、灯の下へ出ていた。ルシアン・セーヴァ。剣も盾も携えている。だが剣は抜いていない。抜かずに、道の横に立っている。彼の白はルッカの白とも、カイの白とも違う。逃げ道の端へ置かれた標識みたいに、静かにそこにあった。


 ルッカの刃が止まる。


 俺も剣を上げたまま止まった。


 煙の中で、止まった刃だけが息をしていないように見えた。


 ルシアンは軽く息を吐いた。


「はい、そこまで。港は朝が早いんです」


 誰も笑わなかった。


 だが刃は動かなかった。


──────────────────────────────


 白煙は少しずつ低くなった。


 霧と混じり、石畳の上に薄く広がっていく。倉庫の白い壁は煤でところどころ灰を帯びていた。荷車は止まっている。白布の小箱は開いていない。火も届いていない。人足たちは互いの顔を見ていた。誰も倒れていない。


 熱が引いたあと、冷えだけが残った。


 濡れた石畳に落ちた煤は、指で触れればすぐ崩れそうなのに、そこにあるだけで妙に重かった。霧が戻り、煙のにおいを薄めていく。さっきまで肺の奥に刺さっていた苦さが、今度は舌の裏で冷たく残った。


 カイが腰をかばう男の手首を取った。


「息をしてください。ゆっくりです」


 男は咳き込みながら頷いた。俺の方を見た。名を呼ばれなかったことを、分かっている目だった。俺は何も言わない。言えば、また名前の方へ行く気がした。


 ガイウスは盾を下ろした。盾の面に煤がついている。腕を一度振り、痛みを確かめる。折れてはいない。だが肩は重そうだった。盾の縁から、小さな煤の筋が石畳へ落ちた。


 ヴェスタの左頬に細い擦り傷があった。煙の中で飛んだ石か、火薬袋の布片か。彼は指で触れる。血を見て、舌打ちする。


「顔に傷は安くねえんだけどな」


「生きているなら請求できます」


 カイが言う。


「神官の兄ちゃん、急に商売を覚えたな」


「今夜は覚えることが多いので」


 ヴァローは紙束をまだ掲げていた。白い保証欄の写しは、灯の下にある。見える場所に出ている。帳面の男はその紙から目を離せない。人足たちも見ている。紙は戦場の真ん中で、白く湿っていた。


 紙の端が少し波打っている。湿気と煙を吸っても、そこに書かれたものと書かれていない場所は消えない。帳面の男の喉が動き、彼は何も言わなかった。


 ルッカが剣を収めた。


 白い刃が鞘へ戻る音は、思ったより静かだった。手袋はまだ左手に持ったまま。右手の節に煤がついている。彼はそれを見て、すぐには拭かなかった。落ちた前髪を指で戻し、白いリネンの襟を整える。


 それだけで、さっき見えた凶暴さは服の下へ戻った。


 白革の手袋の中で、指が革をこする音がした。薄く、乾いた音だった。夜の湿りの中で、その音だけが妙に新しかった。


「今夜の便は止める」


 ルッカは帳面の男へ言った。


 帳面の男が顔を上げる。


「カポ」


「手順に不備が出た」


 敗北を認める言い方ではなかった。


 俺たちが勝った、という言い方でもない。彼自身が裁定した。自分の手順の中で止めた。だから荷列は彼の命令で戻る。人足たちは命令に従えばいい。


「荷は戻せ。倉庫へ。指図書は明朝、差し替える」


 人足たちが動き出した。


 搬入ではない。


 戻している。


 荷車の向きが変わる。白布の小箱を積んだ荷は、倉庫の奥へ戻される。誰も箱を開かない。誰も荷を落とさない。ガイウスが最後まで車輪の線を見ていた。ヴェスタは煙の残りを見ている。カイは人足の息を一人ずつ確認している。


 止めたのは、今夜の一列だけだ。


 明日の列は、まだどこかにある。


 ルッカが俺へ向き直った。


「勇者殿。次は荷の前ではなく、席を用意しましょう」


 俺は聖剣を鞘へ戻した。


 右腕に痺れが残っている。柄から指を離す時、指先が一瞬遅れた。革の裂け目に汗が冷えている。手を開くと、掌の線に煤が入り込んでいた。


「席で済む話なら、最初からそうしている」


「席を壊してから座る方は多い。私は、順序を整えただけです」


 ルシアンが間に入るように一歩だけ進んだ。


「お二人とも、席の壊し方から相談しないでください」


 今度は、ヴェスタが小さく息を漏らした。


 ルッカはルシアンを見る。知っている相手を見る目だった。敵でも客でもない。少なくとも、今この場で切る相手ではない。


「白猟官殿。今夜は、よく歩かれる」


「夜回りです。寝る前に出口を確認しないと落ち着かなくて」


「出口はありましたか」


「今、作ったところです」


 ルッカはそれ以上言わなかった。


 白革の手袋を右手にはめ直す。指を一本ずつ収める。煤のついた節が、白い革の中へ隠れていく。最後に手首を整え、黒い靴を白い石畳へ置いた。


「紙は明朝、席で」


 俺は答えなかった。


 ルッカは踵を返す。人足の間を通る時、彼らの足元を踏まない。けれど優しさではない。そこに置くべき重さを間違えない歩き方だった。


 白いスーツの背中が、倉庫の灯の中へ消える。


 ルシアンはそれを見送ってから、俺へ顔を向けた。


「レオン君、腕は」


「痺れてる。動く」


「なら、今はそれで十分です。明日の席で、もう少し高い言葉を使ってください」


「高い言葉は苦手だ」


「でしょうね」


 ヴァローが紙束を下ろした。


「明朝の席とやらで、紙の余白が増えないことを祈りたいですね」


 カイがそこで、ようやくロザリオへ触れた。


 人足たちは全員、立っている。腰をかばう男も、カイに支えられながら立ち上がった。火傷はない。切られてもいない。荷車も壊れていない。


 カイは目を閉じた。


「光神のご加護を」


 短い祈りだった。


 声に出た。


 港の端で飲み込んだ祈りが、ここでようやく外へ出た。長い祈祷ではない。誰かを説く言葉でもない。ただ、今夜ここで息が残ったことを、短く置く声だった。


 腰をかばう男は何も言わなかった。


 ただ、倉庫へ戻る列の最後に入る前、一度だけ振り返った。


 俺を見たのか、紙を見たのか、白煙の残りを見たのかは分からない。顔はすぐに背中へ戻った。名前は呼ばれないまま、彼は荷車の影へ戻っていった。


 灯が一つ消えた。


 三つあった灯が、二つになった。白い倉庫街の奥で、布に包まれた光が小さくしぼむ。残った二つの灯は、荷を戻す道だけを照らしていた。


 消えた灯のあとに、闇がすぐ入ったわけではなかった。布に残った薄い明かりが少しだけ遅れて消え、霧がその場所を埋めた。倉庫街はまた白く冷えていく。さっきまでの熱が嘘みたいに、石畳から足裏へ冷たさが戻ってきた。


 ガイウスが俺の横へ来た。


「いい雇い主は前金で分かる。渋る奴は退き際も渋る」


 俺はルッカが消えた倉庫の奥を見た。


「あの男は、渋らなかった」


 ガイウスは低く鼻を鳴らした。


「だから性質が悪い。席を前金にしてきやがった」


 俺は右腕の痺れを握り込んだ。


「……受け取った、ってことか」


 ガイウスは答えなかった。


 答えなくても分かった。


 白煙は石畳の上で薄くなり、煤だけが残った。俺たちが立った場所と、ルッカが立った場所。その間に、紙の白と、盾の煤と、靴跡がある。


 俺は一歩進んだ。


 荷の通り道の真ん中で、足が止まった。


 白い石畳で、あの男の煤けた靴跡と俺の足跡が、同じ場所で途切れていた。

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