第87話 魔の覚醒
シズク・フォン・アルカナの琥珀色の瞳が放つ魔力は、もはや一つの国の法を超え、この空間の理そのものを支配していた。
その圧倒的な強さを目の当たりにし、盤上の空気が変質する。これまで盤面を幻惑の渦に巻き込んできたサキュバス――佐藤栞の表情から、余裕が消えた。
彼女の得意とする「対象の心理を操り、思考を幻惑へと導く魔術」が、卓を囲む三人の裁定者には一切通用しなかったのだ。シズクの法、シオンの破壊、そしてケンの確固たる救済の意志。それらはサキュバスが積み上げてきた七百年の技巧を、まるで砂上の楼閣のように易々と踏み砕いた。
「嘘……でしょう? 私の誘惑が、この少年にも、あの冷徹な白の王にも……!」
サトウの美麗な顔に、初めて焦燥の色が浮かぶ。彼女は劣勢を悟り、禁断の扉に手をかけた。
「いいわ。遊びは終わり。この身に宿る魔力すべて、ここで爆発させてあげる!」
サトウの身体から、赤黒い魔力が噴き出した。佐藤栞の可憐な姿と、本性である妖艶なサキュバスの姿が重なり合い、空間そのものをドロドロに溶かすような瘴気が広がる。
彼女はターゲットを変えた。対象を「裁定者たち」から「盤上の牌そのもの」へと。
「牌よ、私の愛に応えなさい! 欲しい牌はすべて、私の元へ集いなさい!」
彼女は幻惑の先を牌に干渉させ、山札から来るべき牌を、己の望む形へと自在に操り始めた。確率というドンジャラの聖域が、彼女の魔力によって蹂躙される。
その結果は、数字となって現れた。
凄まじい勢いで勝利を積み上げ、サトウはあっという間に69勝へと到達した。
シズクが50勝、ケンが40勝、そしてシオンが30勝。
圧倒的な差を付けられ、広間には死の香りが充満する。
だが、この変調は、思わぬ「悪しき反応」を呼び起こした。
サトウが撒き散らす幻惑の魔力に、シオンが反応したのだ。蠱毒の呪いを身に纏う皇子シオンは、自身が取り込んできた数多の国民の魂を、このサトウの幻惑へと差し向けた。
「……なるほど。幻惑も、蠱毒の一部として飲み込めばいいのか」
シオンが低く呟くと、彼の身体から黒い霧が噴出した。それはサトウの幻惑だけではない。この天律戦という極限の状況下で発生する、世界中の人々の「勝ちたい」という執着、「負けへの恐怖」、「歪んだ悪意」さえをも、シオンはその漆黒の呪いの中へと取り込み始めたのである。
シオンの白い肌が、瞬く間にインクを流し込んだかのように黒く染まっていく。
「アア……、これだ。これぞ魔王が望んだ、世界すべての悪意の調和」
シオンの打牌は、もはや人間が扱うものではなかった。彼が牌を触るたびに、周囲に転がる魔物たちの死骸が怨嗟の声を上げ、卓の上に邪悪な影を落とす。
「シオン、貴方……何を……!」
シズクが眉をひそめ、サトウが恐怖に瞳を見開く。
シオンの体から溢れ出る悪意の奔流は、会場の結界を侵食し、不死鳥フェニクスが守護する炎の審判さえも黒く染め上げようとしていた。
ケンは、震える手で自身の牌を握りしめた。
(……シオン、サトウ。二人とも、ドンジャラというルールの裏側にある『世界の業』を解き放とうとしているのか)
勝つことだけが全てではない。この戦いを通じて、世界が本来背負うべき「闇」が、彼らを通じて顕現しようとしている。
盤面は、もはやドンジャラの枠を超えた。
69勝のサトウ、覚醒した黒きシオン、支配の法を掲げるシズク。そして、すべてを呑み込んで調和へと至ろうとするケン。
天律戦は、ドンジャラの決戦から、世界そのものを賭けた「悪意の競り合い」へと姿を変えた。
シオンの黒い肌が広間を覆う影を伸ばす。いよいよ、戦いの果てにある「真実」が、その牙を剥こうとしていた。




