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第73話 帰還と安らぎ


 異空間の盤面で、ケンは最後の一牌を卓に叩きつけた。

 田中勇、魔王、ティア。伝説の幻影たちが、ケンの放った一撃を受け、微塵となって消えていく。それは数万戦に及ぶ特訓の果てに、ケンがようやく掴み取った『新しいルール』の体現だった。


「……完成か」

 ケンは肩で荒い息をしながら、霞む視界の中でそう呟いた。自身の脳内思考盤『C6P』は、かつての予測モデルとは似て非なるものへと昇華されていた。もはや計算ではなく、盤面そのものの『因果』を書き換えるためのシステムへと変貌を遂げていたのだ。


 その時、ケンの耳元でティアの声が響いた。

「ケン、そこまでよ」

 ティアの声は、かつてないほど切迫していた。

「貴方の精神は限界を超えているわ。これ以上この空間に留まれば、世界樹の莫大な魔力と情報量に耐えきれず、貴方の魂は破片となって永遠にイグドラの根に取り込まれることになる。……戻りなさい!」


ケンは悔しさを飲み込んだ。あと一歩。あと少しだけ時間が与えられれば、自身のシステムを完全な領域まで引き上げることができたはずだった。しかし、ティアの警告は絶対だ。ケンは震える手で牌から手を離し、ティアが差し出した光の扉へと飛び込んだ。

神殿の裏手、禁足地の洞窟から、ケンはふらりと転がり出た。

 光に目が慣れるまで、激しい眩暈めまいが襲う。ケンにとっては、この修行空間で数千、数万回ものドンジャラを打ち続け、膨大な年月を過ごしたような感覚だった。

「……どれだけ、経った?」

 ケンが掠れた声でティアに問うと、彼女は呆れたような、しかしどこか誇らしげな微笑を浮かべた。

「外の世界? 貴方が中にいたのは、ほんの二日よ」

「二日……っ!?」

 ケンは己の耳を疑った。あの過酷な死闘の数々が、わずか二日。世界樹の『時間の遅延』ということわりの恐ろしさを、ケンは改めて実感した。


洞窟から出てきたケンを見て、神殿の入り口で待ち構えていたマチが目を丸くした。

「ケン……? あんた、もう終わったの? 二日もここで何してたのよ、ティア様に連れ回されて……」

 マチが駆け寄る。しかし、彼女はケンの姿を見た途端、言葉を失った。

目の前にいるケンは、以前の彼とは明らかに違っていた。

 五千年の歴史と、田中勇たちとの死闘を乗り越えた者の瞳。そこには、少年特有の迷いは消え失せ、静かなる王の風格さえ漂っている。

「……あんた、何があったのよ。別人みたいじゃない」

マチの言葉を聞いた瞬間、それまで精神力だけで張り詰めていたケンの糸が、プツリと切れた。

「……あ」

 修行の疲れと、神の領域から引き戻された反動が、一気にケンの身体を襲う。膝から力が抜け、倒れ込みそうになったケンを、マチが素早く支えた。

「ちょっ、ケン!? しっかりして!」

 マチの柔らかい腕の中に、ケンの身体が沈み込む。

 彼女の髪から漂う、緑の国の森の匂い。その懐かしさに、ケンは思わず目をつぶった。

神殿の一室。

 ベッドに横たわるケンの傍らで、マチがせっせと冷たいタオルを絞っていた。

「本当に、無茶ばっかりするんだから……。ティア様だって、そんな危険な特訓をさせるなんて」

 マチは不満そうに口を尖らせながらも、優しくケンの額の汗を拭う。

ケンは、うつらうつらとしながら、マチの手の感触に安らぎを覚えた。

「……マチ。ごめん。心配かけたな」

「分かってるならいいのよ。あんたがいない二日間、あたしがどれだけ不安だったか……」

 マチの手が止まる。彼女は頬を赤らめながら、ケンの顔を覗き込んだ。

「……あたしは、あんたの盾でしょ? ケンがいないと、盾の意味がないんだから」

 マチがそう言って、少しだけ身を乗り出す。その距離が近すぎて、ケンの心臓が大きく跳ねた。

「マチ……」

 ケンが彼女の手を取り、握り返す。その仕草に、マチはさらに頬を染め、ふいと顔を逸らした。

「……あんた、修行で少しは大人になったかと思ったら、相変わらず無防備なんだから」

「無防備なのは、マチの隣にいるからだよ」

 ケンが冗談めかして言うと、マチは「バカ……」と小さく呟き、ケンの胸にそっと額を預けた。

 神殿の静寂の中で、二人の呼吸が重なる。張り詰めた天律戦の空気とは別世界の、優しく穏やかな時間だった。

数日後、体調を完全に回復させたケンは、マチと共に緑の国を後にした。

 駅のホームには、鋼都バルガンへと続く魔道列車が静かに待機している。

「帰ろう、マチ。赤の国へ」

 ケンが切符を差し出す。

「ああ。……今度こそ、勝つわよ。あんたの新しいシステムでね」

 マチが力強く頷き、ケンの腕に自分の腕を絡ませた。

魔道列車が力強く汽笛を鳴らし、鋼鉄の大地を蹴る。

 ケンは窓の外を流れる緑の森を眺めながら、自身のC6Pの奥底で、かつての同級生たちと打った「数万戦の記憶」を反芻する。

(待っていろ、シオン。シズク。サトウ。……俺たちの新しいルールを、あの日、田中勇が辿り着けなかったその先で、証明してやる)

 魔道列車は、蒸気と魔力の混合動力で、赤の国の要塞へと向かって突き進んでいく。裁定者の戦いは、いよいよ最終局面へと加速する。

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